菊地大司教

    週間大司教第六十四回:年間第六主日

    東京でも寒い毎日が続いています。年間第六主日となりました。今年は復活祭が四月後半の4月17日となるため、四旬節の始まりも3月にずれ込み、灰の水曜日は3月2日となります。そのため二月中の日曜日は、年間の主日が続きます。

    日本の司教協議会は、毎年2月と7月と12月に、総会を開催しています。12月は主に翌年度(1月から)の予算を承認するためですから一日だけの総会ですが、2月と7月は月曜日から金曜日までを予定しています。2月を定例司教総会、7月を臨時司教総会、12月を特別臨時司教総会と呼んでいます。全国に十六ある教区の司教が全員集まるのは、この司教総会の機会だけとなっています。もちろん通常の業務対応のため、原則として毎月第一木曜日には常任司教委員会が開催され7名ほどの司教が集まりますが、全員が集まる機会は限られています。

    今年の定例司教総会は、2月14日の午後から18日までの予定で開催されることになっています。昨年の臨時総会ですでに選挙が行われましたので、この2月の司教総会の初日から、私は司教協議会の会長に就任します。副会長は横浜教区の梅村司教様です。なお感染症の状況のため、今年の総会は、オンラインを組み入れたハイブリッド形式で行います。また総会中に麹町教会で開催を予定していた、回勅「兄弟の皆さん」の公開勉強会も、オンラインでの配信とすることになりました。これについてはこちらの中央協のリンクをご覧ください

    どうかこの一週間は、司教総会のためにお祈りください。聖霊に導かれて、十  分な意見の交換の上で、ふさわしい識別を行い、道を見いだすことができるように、お祈りくださいますようにお願いいたします。

    以下、12日午後6時配信の週間大司教第六十四回、年間第六主日のメッセージの原稿です。
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    年間第六主日
    週刊大司教第64回
    2022年2月13日前晩

    エレミヤの預言は、「荒れ地の裸の木」と「水のほとりに植えられた木」の対照的な二つの異なる状態にある木を記します。その上で、前者を「人間に信頼し、肉なるものを頼みとし、その心が主を離れ去っている人」、後者を主をよりどころとする「主に信頼する人」であると記し、わたしたちが何により頼んで生きているのかを振り返るように促しています。

    パウロはコリントの教会への手紙で、キリストの復活を信じることがなければ、わたしたちの信仰は単なる現世的な生きる術であって、私たち信仰者の復活すらも夢物語に終わると指摘します。この世に生きる者でありながら、この世に身を寄せて生きているのではなく、永遠の命へと招かれているものであることを心に刻んで、わたしたちは信仰生活を営んでいます。現世的な欲望を満足させるための信仰ではなく、神の計画のうちにある永遠の時の流れを見据えた信仰です。

    カテキズムには「わたしたちが固く信じ希望しているのは、キリストが死者の中から真に復活して永遠に生きておられるように、正しい人々もまた、死後、復活されたキリストとともに永遠に生き、世の終わりにキリストによって復活させられると言うことです」と記されています(カテキズム989)。

    わたしたちはこの信仰における希望に与るために、「主に信頼する人」であり「正しい人」であり続ける努力をしなければなりません。しかしそれは一体どういう意味なのでしょうか。

    「主に信頼する人」であり、また「正しい人」であろうと自らの生き方を模索するわたしたちに、主ご自身は今日、ルカ福音を通じてその道を示されます。

    「貧しい人々は幸いである、神の国はあなた方のものである」

    マタイ福音のこの箇所には八つの「幸い」が記されていることから、このイエスの教えを「真福八端」と呼んでいます。ルカ福音には四つの幸せと四つの不幸が記されています。

    「真福八端はイエス・キリストの姿を描き、その愛を映し出しています。受難と復活というキリストの栄光に与る信者たちの召命を表し、キリスト者の生活を特徴づける行動と態度とを明らかにする」とカテキズムは記します(カテキズム1717)

    逆説的な生き方の中にこそ、神の祝福があることを明確にするこのイエスの説教は、わたしたちが「水のほとりに植えられた木」であり続けるために、この世界で当たり前と思われる幸せの中に生きるのではなく、キリストとともに苦難の道を歩み続けること、また苦難のうちにある人たちとともに歩み続けることを求めます。主にとって、「富んでいる」事や「満腹している」事など、この世界では幸せと判断されることは、実際には「荒れ地」なのだと、イエスの説教は指摘します。

    あらためて、今ともに歩んでいるシノドスの道を振り返りましょう。

    「聞くことは最初の一歩ですが、それには偏見のない、開かれた精神と心が必要です。わたしたちの部分教会は、誰に対し『耳を傾ける必要がある』でしょうか。・・・マイノリティの人、見捨てられた人、排除された人の声に耳を傾ける場はありますか。耳を傾けることを妨げている偏見や固定観念を認識していますか」と準備文書の設問の二番目に記されていました。

    イエスの苦難の道はご自分のためではなくわたしたちのためであったように、それに倣うわたしたちの苦難の道程も、自分のためではなくすべての人のための苦難の道です。そのためにこそ、互いの状況に耳を傾け、特に「マイノリティの人、見捨てられた人、排除された人」に耳を傾け、ともに歩まれる主を見出し、その傍らに常にあるものとして歩み続けましょう。

    東京大司教タルチシオ菊地功