大司教

週刊大司教第六十三回:年間第五主日

2022年02月07日

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年間第五主日となりました。

2月の初め、日本の教会の暦では、殉教者たちに思いを馳せる機会となっています。2月3日は福者ユスト高山右近の記念日でした。(上の写真は、2019年5月にカテドラルに安置された福者ユスト高山右近像を運ぶ、フィリピン出身の信徒の皆さん)

福者ユスト高山右近は、大名として織田信長や豊臣秀吉に仕えていましたが、秀吉のバテレン追放令以降も信仰を守り抜くために、領地や財産そして地位などをすべて放棄し、金沢で前田家の庇護の元に暮らしていました。しかし1614年、家康によって国外追放となりマニラへ。大変な旅であったのでしょう。到着後に病を得て、ほんの40日ほどのマニラ滞在でしたが、1615年2月3日に帰天されました。その当時からすでにマニラにおいて列福運動が起こっていたのだそうですが、その後紆余曲折を経て日本での列福運動が実を結び、2017年2月7日に、大阪で列福式が行われました(そのときの司教の日記へのリンク)。人生のすべてを失って、最後には祖国までも失った高山右近の人生そのものが、殉教の人生だと認められました。(下の写真は大阪での列福式)

その場しのぎの価値判断、今さえ良ければ後はどうでも良いとでもいわんばかりの生きる姿勢が普通になり、絶対的な価値判断はあまり顧みられなくなる相対的で流動的な現代社会に対して、あくまでも守りぬくべき真理はどんな代償を払っても捨て去ることは出来ないという姿勢を貫いた福者ユスト高山右近は、単に信仰者としてだけではなく、一人の人間の尊厳ある生き方を示す模範として、その存在には重要な意味があると思います。

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現在、日本においてキリスト教を取り巻く環境は大きく変わり、当時のような迫害は存在していません。大きく変化した社会状況の中で、今、人間は一体何のために生きているのかという根本的な課題に、わたしたちはふさわしい回答をもっているでしょうか。高山右近の生涯は、常に自分の側からの判断ではなく、自分が常に向かい合って生きる神の立ち位置からの判断を優先させていった生涯であったと思います。そこには今良ければなどという刹那的な判断はあり得ず、神が望まれる人の有り様を常に模索するへりくだった生き方があったように思います。

そして、本日2月5日は日本二六聖人殉教者(聖パウロ三木と同志殉教者)の記念日です。今年は感染状況を見極めながらですが、例年通り2月5日の記念日に近い主日、2月6日に、本所教会で殉教祭のミサを捧げることができそうです。感染対策で参加者は限定されていますが、殉教者の人生に思いを馳せ、信仰における苦しみと忍耐の意味を考え、その血を持って教会の礎を確立した信仰の先達に倣い生きることを誓う記念日にしたいと思います。

以下、2月5日午後6時配信、週刊大司教第63回、年間第五主日のメッセージ原稿です。
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年間第五主日
週刊大司教第63回
2022年2月6日前晩

「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」

ルカ福音は主イエスがシモン・ペトロにそう呼びかけて弟子とした、召命の物語を書き記します。「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と、プロの漁師としての経験知からイエスの求めに渋々応じたシモン・ペトロは、その後、生涯にわたって「お言葉ですから」と、弟子たちのリーダーとしてまた教会の頭としての務めを果たし続けることになります。神の呼びかけ、召命は、まさしく人知をはるかに超えた神秘の領域にあります。

パウロはコリントの教会への手紙で、自らが福音として伝えていることの核心部分をあらためて示します。それは、主イエスの受難と死と復活が、夢物語ではなく、現実の出来事であることを、改めて強調し、だからこそ神の恵みも絵空事ではなく現実であることを強調しています。

イザヤ書は、「誰を遣わすべきか」という神の問いかけに、イザヤが「わたしがここにおります」と応えた事を記しますが、その前段で、神による直接の罪の赦しが預言者を力づけたことを記しています。

わたしたちは、絵空事ではない事実に基づいて、わたしの力ではなく、呼んでくださった方の力によって、しかもその方による罪の赦しによって力づけられて、福音をあかしし、告げしらせるものであります。わたしたちは、主イエスの死と復活の証人です。

教会は2月5日に、日本26聖人殉教者を記念します。聖パウロ三木をはじめ26人のキリスト者は、1597年2月5日、長崎の西坂で主イエスの死と復活を証ししながら殉教して行かれました。

2019年11月に西坂を訪れた教皇フランシスコは、激しい雨の中、祈りを捧げた後に、次のように述べられました。

「しかしながら、この聖地は死についてよりも、いのちの勝利について語りかけます。ここで、迫害と剣に打ち勝った愛のうちに、福音の光が輝いたからです」

聖人たちの殉教は、死の勝利ではなく、いのちの勝利なのだ。聖人たちの殉教によって、福音の光が輝いた。そこから「福音の光」という希望が生み出されたと教皇様は指摘されました。

「殉教者の血は教会の種である」と、二世紀の教父テルトゥリアヌスは言葉を残しました。

教会は殉教者たちが流した血を礎として成り立っていますが、それは悲惨な死を嘆き悲しむためではなく、むしろ聖霊の勝利、すなわち神の計らいの現実の勝利を、世にある教会が証しし続けていくという意味においてであります。

わたしたちは、信仰の先達である殉教者たちに崇敬の祈りを捧げるとき、単に歴史に残る勇敢な者たちの偉業を振り返るだけではなく、その出来事から現代に生きるわたしたちへの希望の光を見いだそうとします。

わたしたちは信仰の先達である殉教者を顕彰するとき、殉教者の信仰における勇気に倣って、福音をあかしし、告げしらせるものになる決意を新たにしなければなりません。なぜならば、殉教者たちは単に勇気を示しただけではなく、福音のあかしとして、いのちを暴力的に奪われるときまで、信仰に生きて生き抜いたのです。つまりその生き抜いた姿を通じて、最後の最後まで、福音をあかしし、告げしらせたのです。

わたしたちは殉教者に倣い生き抜くようにと、今日、主から呼ばれています。