菊地大司教

    週刊大司教第五十九回:主の洗礼

    新しい年の初め、今年は寒い冬になっていますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。

    東京は何年ぶりかという雪に覆われました。もちろん前任の新潟や、管理者を務めた札幌での雪と比較すればたいした積雪ではありませんが、しかし積雪を想定してできていない都市で、雪を想定して生活していない人が暮らしているとき、大きな混乱を巻き起こします。例えば、新潟あたりで、この時期に冬用のタイヤをはいていない車は想像できませんし、外出するときに雪を想定した「冬靴」を履かないことも想像できませんが、そういうことを前提としない町では、さまざまに入り交じって、その混乱には大きなものがあります。車での事故など起きないことを願ってます。また生活されている状況で条件は異なるでしょうが、寒さによって体調を崩されたり、生命の危機に瀕することがありませんように。まだまだ寒い日が続くようですし、東京でも降雪がまたあるかも知れません。加えて、感染症の再拡大です。どうぞ健康に留意されますように。

    新型コロナの検査陽性者は、東京においてはこの数日、増加し始めています。すでに第6波が到来したという声も聞こえてきます。ワクチン接種がある程度進んだことで、重篤化する率は低くなっているとの指摘もありますが、今しばらく状況の推移を見守ります。東京教区では、現時点で、待降節第一主日からの対策を変更する予定はありません。

    一年ほど前、2021年1月6日には、米国大統領選挙の結果に対するさまざまな否定的反応から派生して、議会襲撃事件が発生したり、その後2月1日にはミャンマーで国軍による軍事クーデターが発生しました。民主主義が万能ではないとは言え、一人ひとりの命の尊厳を護り尊重することの重要性を主張する立場からは、それは必要な制度であると思います。昨年ギリシャを訪問された教皇様は、民主主義誕生の地で、その民主主義がヨーロッパを初め世界各地で衰退している現状にふれ、「党派心から参加へ、自分の望む意見に固執することからすべての人を生かす行動に参加するために」互いに支え合う連帯を呼びかけられました。

    さまざまに多様な人が入り交じって暮らす国家を一つにまとまることは、大変難しいことだと思います。多民族国家であれば相互理解と連帯が不可欠であり、また歴史の負の遺産が政治に重くのしかかる国も存在します。しかし暴力をもって人々の自由意思を弾圧し支配したり、自らの主張を実現しようとすることは、どの国にあっても許されることではありません。特に、たまものである人間のいのちを危機にさらす行為を国家運営の手段とすることや、排除や差別を生み出す暴力的行動で影響力を行使しようとすることを認めることはできません。

    以下、8日午後6時配信の、週刊大司教第59回、主の洗礼のメッセージ原稿です。
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    主の洗礼の主日
    週刊大司教第59回
    2022年1月9日前晩

    主の洗礼を記念するこの日、イザヤ書はバビロンで捕囚の時を過ごすイスラエルの民に対して、苦難ののちに訪れる神による解放の恵みを語ります。捕囚の苦難を耐え忍ぶことで、「彼女の咎は償われ」、「罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた」とイザヤは記します。

    パウロはテトスへの手紙で、わたしたちの救いは、「キリストが私たちのためにご自身をささげられた」ことを通じて「あらゆる不法から贖いだし」たことによって与えられた恵みであることを強調します。そして「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現した」と記します。わたしたちの救いは、私たちが正しさによって義と認められて与えられたものではなく、徹底的に神からの恵みであり、神ご自身の苦難を通じて与えられ、それが水と聖霊による洗礼によって実現したことを明確にします。

    ルカ福音は、公生活を始めるにあたって、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを記しています。ヨハネ自身が明確にするように、その水による洗礼は罪の赦しの象徴であって、主ご自身が与える聖霊と火による洗礼とは比較にならないものであります。しかし主ご自身は、人間となられ私たちとともに歩まれる意思を明確にし、またそれがわたしたちの罪を背負って歩まれることを明確にするために、公生活の始めにヨハネの洗礼を受けられました。

    その行為を完全に祝福するように聖霊が鳩のように降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」との御父の声が響き渡ります。イエスの人生が御父の御旨に完全に従うものであり、同時に私たちとともに歩まれ、自らの意思ではなくすべてを捧げ尽くす犠牲の生き方を通じて、人類の救いという恵みを与えられる道を歩まれることを明確にする出来事です。

    主の洗礼は、主イエスの人間としての歩みを方向付ける、重要な意味を持っています。その苦しみを通じてわたしたちを贖ってくださった主は、同じ道を歩むようにと、わたしたちを招かれます。他者のために捧げる苦しみを通じてもたらされる、救いの恵みに与るようにとの招きです。

    私たち「信じるものは洗礼によってキリストの死にあずかり、キリストとともに葬られ、復活します」(カテキズム1227)。キリストに従うわたしたちは、この人生をどのように生きていくのでしょうか。

    わたしたちが今ともに歩んでいるシノドスの道は、まさしく主がともに歩んでくださる道程です。この道程の中で主は、わたしたちが「不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように」招いておられます。

    準備文書にいくつかある分かち合いの手引きとしての設問の第五番目には、こう問いかけが記されています。
    「わたしたちは皆、宣教する弟子であるので、洗礼を受けた一人ひとりはいかにして宣教の主人公として呼ばれるでしょうか。社会での奉仕に取り組むメンバーを、共同体はどのように支えているでしょうか。彼らが宣教の論理でこれらの責任を生き抜くのを、皆さんはどのように支援していますか。宣教に関連する選びについての識別はどのようになされていますか、また誰がそれに参加していますか。」

    洗礼を受けたわたしたちは、自分自身のために生きているのではなく、キリストに倣って、キリストのために生きています。今一度、それぞれの生き方を振り返り、ともに歩まれる主に従う決意を新たにいたしましょう。

    東京大司教タルチシオ菊地功