菊地大司教

    週刊大司教第五十一回:年間第三十二主日

    11月の最初の日曜日です。11月は死者の月でもあるので、この日曜に追悼ミサを行う小教区も多いのではないでしょうか。わたしも、現在の状況で合同追悼ミサを行うのが難しいこともあり、11月7日の主日は五日市霊園が隣接するあきる野教会で、主日ミサを捧げさせていただいて、亡くなられた方々の永遠の安息をお祈りさせていただくことにしています。

    11月3日には、午前10時から午後4時まで、zoomを利用して、カリタスジャパンの主催によるオンラインセミナーが行われ、わたしも責任者ですので参加して、最初のあいさつをさせていただきました。カリタスジャパンの活動は、国内外の援助活動と、援助を必要とする状況に関する啓発活動の二本柱がありますが、今回のセミナーは「コロナ禍と私たち」というテーマで、啓発活動を行う部会が中心となって開催されました。画面でざっと見た限り、全国から70名近い方が参加してくださったのではないでしょうか。

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    教会におけるカリタスの活動は、カリタスジャパンに限定されるわけではなく、ベネディクト16世が指摘する教会の本三つの本質(福音を告げる、礼拝する、愛の奉仕)の一つとして、小教区から始まって教区、そして全国から世界へと、全てのレベルで行われる教会の愛の活動を指しています。その意味では、小教区を構成する一人ひとりの活動がベースとなっているとも言えます。

    今回のセミナーでは、まず午前中を使い、各教区でのコロナの状況での主な取り組みをそれぞれの教区担当者が発表し、午後には、担当司教である成井司教、ノンフィクションライターである飯島裕子さん、大学院生の小林未希さん、大阪教区シナピスのビスカルド篤子さん、麹町教会の吉羽弘明さんが参加してのパネルディスカッションとなりました。それぞれの現場から、貴重なお話を聞くことが出来ました。ありがとうございます。

    教会にはいろいろなレベルでのさまざまな活動があります。それらが連携して行くことが出来れば、さらに大きな力となるでしょうし、何を最優先するべきなのかを明確にする中で、教会内に留まらず、さまざまな団体と連携していくことも、さらに必要となっていくと思われます。神から与えられた賜物である命を最優先に守っていき、その尊厳を保つために、努力を続けたいと思います。今日のメッセージで教皇様の言葉にも触れていますが、教皇様は常に挑戦するようにと教会を鼓舞しておられますが、そのときに避けるべきリスクを、シノドスに関連して三つあげられています。その三つのリスクに触れていますので、以下のメッセージをご一読ください。

    以下、11月6日午後6時配信の週刊大司教第五十一回めのメッセージ原稿です。
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    年間第32主日
    週刊大司教第51回
    2021年11月7日前晩

    列王記は、貧しい一人のやもめと預言者エリヤとの出会いを描きます。貧しさと飢えの中でいのちの危機に直面する女性に、エリヤはそれでも施しをするようにと迫ります。しかし、いのちを賭けたその施しの業、すなわち犠牲の業に、豊かな報いがあったことが記されています。 

    マルコ福音は、有り余る中で見せかけばかりに気を取られる律法学者の姿との対比の中で、イエスが、貧しいやもめが「乏しい中から自分の持っているものをすべて」神にささげた行為を評価した話を記しています。「生活費を全部入れたからである」と述べることで、イエスはこの女性の信仰が、まさしく自己犠牲の上に成り立ったいのちがけの信仰であることを明白にします。

    ヘブライ人への手紙は、わたしたちの大祭司であるキリストは、この世の聖所に鎮座する存在ではなく、あがないを成し遂げて、御父のもとで執り成してくださっていると強調します。その上で、人類に対する神の愛は、まさしくいのちがけの自己犠牲によって具体的に表されたと指摘します。

    わたしたちの信仰は、あたかも趣味のように、余裕があるから身につけるようなものではなくて、いのちがけで全てを神にゆだねる自己犠牲によって成り立っています。それは主ご自身が、わたしたちのために、まさしくそのいのちを投げ打って自らを神にゆだねたからに他なりません。わたしたちは、どのような覚悟で、何を犠牲にしてこの信仰を生きているのでしょうか。

    「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と、マタイ福音に記されていました。信仰が、余裕があるから身につけるたしなみではないように、わたしたちの愛の行動も、余裕があるから行うものではありません。助けを必要としている人たちに、力を尽くして愛を実践する教会共同体でありたいと思います。

    教会は今、シノドスの歩みをともに歩んでいます。聖霊に導かれて、これまでの教会の歩みを振り返り、現代社会にあって教会がどのようにあることを神が望まれているのかを、一緒になって見出していこうとしています。

    シノドス開会ミサを翌日に控えた10月9日に、バチカンで行われたシノドスに向けた集いにおいて、教皇様は、シノドスは司牧的回心のための大きな機会である一方で、いくつかの「リスク」も抱えている、と指摘されました。それは、このシノドスの歩みを中身のない表面上のものにしてしまう「形式主義」、高尚だが概念的で世界の教会の現実から離れた「主知主義」、今までどおりでよいと考え何も変える意志がない「現状維持主義」の三つのリスクであります。

    その上で教皇様は、今回のともに歩む旅路が、無計画にではなく「構造的に」歩む可能性を、また皆が教会を自分の家のように感じ、誰もが参加できる場所となるために「耳を傾ける教会」となる可能性を、さらには兄弟姉妹の希望や困難に耳を傾けることで司牧生活を刷新し、「寄り添う教会」となる可能性を与えていると指摘されます。わたしたちの教会はどうでしょう。

    教会のこういった呼びかけに積極的に応えることは、思いの外面倒ですし、さまざまな犠牲を伴います。出来れば誰か余裕のある人に取り組んでほしいものだと思われるのかも知れません。しかし第二バチカン公会議に始まった教会の回心の道は、まだまだ途上であることを感じさせられる出来事が相次いでいる昨今、教会は自らのあり方を振り返り、神の導きに従う存在とならなくてはなりません。余裕があるからではなくて、すべてをかけて神に身をゆだね、自己犠牲の心を持って互いの命を守り抜き支え合う、奉仕する共同体となる道を歩みましょう。

    東京大司教タルチシオ菊地功