菊地大司教

    週刊大司教第四十一回:年間第二十二主日

    8月の最後の主日、年間第二十二主日です。土曜日夕方配信の週刊大司教も第41回目です。

    ご存じのように、東京教区では9月12日(日)までの小教区でのミサを、非公開としています。大変申し訳ないと思いますが、どうかご理解ください。

    聖体拝領についてのご質問をいくつかいただいていますが、基本的に御聖体はミサの中でいただくのですが、病気の時など事情がある場合には、司祭に依頼して他の機会に拝領することが出来ます。現在は、ミサが非公開になっていますし、信徒の皆さんには主日のミサにあずかる義務を免除するという「通常ではない」状態であります。通常ではないのですから、信徒の皆様にあっては、ミサにあずかれない中で、聖体拝領を司祭に直接お願いすることができます。ミサ以外の時にも、司祭は個別に聖体を授けることが出来ますから、直接、小教区の司祭にご相談ください。

    それから聖歌に関するお問い合わせもいただいています。通常、youtubeの関口教会アカウントから配信される主日ミサは、原則として関口教会の信徒を対象としていますので、聖歌なども関口教会で通常歌われる聖歌が関口教会の聖歌隊によって歌われます。日本の教会では、典礼聖歌集とカトリック聖歌集が主に使われていますが、教会によっては他の歌集や独自の歌集を採用しているところも少なくありません。通常の日曜日の配信に関しては、関口教会の独自の配信ですので、配信ミサにあずかる方の手元に歌集がない可能性に関しては、御寛恕ください。譜面を画面上に出すことは、さまざまな制約があるため、出来ません。

    しかし、現在のようにミサの公開が中止となっている間は、関口教会のyoutubeアカウントから日曜10時のミサを配信しますが、これは大司教司式で、先唱、朗読、聖歌なども関口教会ではなくイエスのカリタス会のシスター方にお願いしています。こちらは、ミサの配信の対象をすべての方にしていますので、聖歌もできる限り、お手元に聖歌集がある歌にするよう努めます。ただ聖体拝領時には、一緒に歌うと言うよりも感謝の黙想の助けとして聞いていただきたいので、一般の歌集にない歌も使われます。できる限り譜面が手元にあるような聖歌を使うように努力いたします。なお譜面を画面上に映し出すことは、さまざまな制約があるため出来ません。

    なお、週刊大司教に関しては、始めの歌、途中の演奏、終わりの歌のすべてが、わたしの作曲ですので著作権の問題はありません。演奏者名は最後に短いですがクレジットされています。許可いただいた演奏者の皆さん、ありがとうございます。

    間もなく9月です。9月1日から10月4日までは、「すべてのいのちを守る月間」です。これについては9月一日付けで、公示文書を出しますので、後日、東京大司教区ホームページからご覧ください。

    また2023年秋の通常シノドス(世界代表司教会議)にむけた、教区での準備も始まりますが、これについても上記同様、9月1日付けで、公示文書を出しますので、後日、東京大司教区のホームページをご確認ください。

    以下、28日午後6時配信の、週刊大司教のメッセージ原稿です。
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    年間第22主日

    週刊大司教第41回
    2021年8月29日前晩

    申命記は、イスラエルの民がモーセを通じて神の掟と法を与えられ、それに忠実に生きることで命を得るようにと命じられた話を記しています。さらに、掟と法を守るというその民の忠実さを通じて、諸国民が神の偉大さを知るようになるとも記します。すなわち、神の掟と法を守ることは、自分自身の救いのためだけではなく、神の栄光を具体的に表すためであり、新約の言葉で言えば、福音宣教の業であります。

    使徒ヤコブは、わたしたちの心に植え付けられた神のことばこそが神からの賜物であり、その言葉は救いを与える真理の言葉であると記します。その上で使徒は、心に植え付けられた御言葉を「聞くだけで終わる」ような自分を欺いた者ではなく、「御言葉を行う人になりなさい」と呼びかけます。

    マルコ福音は、ファリサイ派と律法学者が、定められた清めを行わないままで食事をするイエスの弟子の姿を指摘し、掟を守らない事実を批判する様が描かれています。それに対して福音は、ファリサイ派や律法学者たちを「偽善者」と呼び、掟を守ることの本質は人間の言い伝えを表面的に守ることではなく、神が求める生き方を選択するところにあると指摘したイエスの言葉を記します。

    マタイ福音の5章17節には、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」というイエスの言葉が記されています。さまざまな掟や法が定められた背後にある理由、すなわち神の望まれる生き方に近づくための道しるべとして与えられた役割を思い起こし、人間の言い伝えではなく、神の望みに従って道を歩むことが、掟や法の「完成」であります。すなわち、使徒ヤコブが記しているように、その掟や法を定められた神のことばを、馬耳東風のごとく聞き流すのではなく、「御言葉を行う人」になることこそが、求められています。

    あらためて言うまでもなく、わたしたちキリスト者は、すべからく福音宣教者として生きるように招かれています。教皇フランシスコは、「福音の喜び」にこう記します。

    「洗礼を受けたすべての人には例外なく、福音宣教に駆り立てる聖霊の聖化する力が働いています。(119)」

    その上で教皇は、「イエス・キリストにおいて神の愛に出会ったかぎり、すべてのキリスト者は宣教者です。・・・最初の弟子たちに目を向けてください。彼らはイエスのまなざしに出会った直後、喜んでそれを告げ知らせに行きます。・・・一体、わたしたちは何を待っているのでしょうか。(120)」と記し、福音宣教者としての召命に、わたしたち一人ひとりが目覚めるように促します。

    福音を告げるためには、わたしたち自身がそれに生きていなくてはなりません。わたしたちは、単に知識としての信仰を語り伝えるのではなく、信仰を具体的に生きることによって、わたしたちが人生で出会う人をキリストとの個人的出会いへと招かなくてはなりません。

    そのためにこそ、わたしたちは、神の言葉をただ聞いて理解する者に留まらず、具体的に行う者となる必要があるのです。

    困難な状況が続く中で、不安の暗闇は、わたしたちを分断と対立へと誘います。わたしたちは神の言葉を行うものとして一致を実現するために、愛といつくしみを実践する者となりましょう。

    東京大司教タルチシオ菊地功