大司教

週刊大司教第三十一回:年間第十二主日

2021年06月21日

6月20日は年間第12主日です。週刊大司教も31回目となりました。昨年、2020年11月8日の年間第32主日から、「週刊大司教」を始めました。ミサの公開が再開され、教会活動も徐々に再開されていた昨年秋、11月1日の諸聖人の祭日前晩のミサを持って、関口教会からのわたし司式の主日ミサ配信を一度終わりとしました。毎週土曜日の夕方6時に、イエスのカリタス会のシスター方に来ていただいて、聖歌もお願いしていましたが、関口教会の青年を始め多くの方から積極的なかかわりをいただき、心から感謝しております。

その配信ミサをひとまず休止としましたが、まだ感染症は終息せず、教会活動もさまざまな制約がありましたので、その次の日曜から、主日福音などに基づいたメッセージを、霊的聖体拝領の助けとして配信することにしました。これが「週刊大司教」です。その後も緊急事態宣言が再度発令されたりと、事態は流動的でしたので、「週刊大司教」を継続してきました。

今後を見通すことは難しいのですが、今の段階では、少なくとも五十回までは続けるつもりです。毎回のメッセージ原稿作成もそれなりに時間がかかります。しかしそれ以上に、事前の撮影と字幕入れなどを伴う映像編集には、教区本部の広報担当職員があたっていますが、その職員の通常業務に増し加わる負担も無視することは出来ません。したがって、状況を見極めるものの、今年の待降節の始まる前ころまでは、「週刊大司教」を継続の予定です。

三度目となる緊急事態宣言は、明日6月20日を限度として解除となりますが、翌日からはあらためて「まん延防止等重点措置」の対象地域として、東京都と千葉県が指定されます。7月11日までの予定です。

これにともなう東京教区の対応については、基本的に三度目の緊急事態宣言が発令される前に戻るのですが、公示文書を作成してありますので、各小教区には今日明日中にお伝えします。まだしばらくは、感染対策を緩めることは賢明ではないと思われますので、しばらくは、慎重に行動したいと思います。

オリンピック・パラリンピックが、すでに既定の事実として開催の方向に向かっているようですが、世界中からあれだけたくさんの人が、今の日本の、しかも首都圏で一時に集中することに、一抹の不安を抱かざるを得ません。実施するからには、不安を払拭できるように、できる限りの対策を打たれることを期待します。ワクチン接種については、わたしのところにも、本日土曜日、文京区から接種券が届きましたが、まだまだ全国的に広い範囲で二度の接種が終了するには時間がかかるでしょう。ですから、教会の活動はこれまで通り、当分は慎重な対応を続けていきたいと思います。

そのオリンピックですが、これまでどこの国でも(北京オリンピックでも)、選手村には宗教センターが設けられ、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンドゥー教、仏教という5つのグループが、開催期間中にチャプレンを派遣して、選手の精神的支えとなってきたと聞いています。この選手村に宗教センターを設けることは、必須の条件だという話も耳にしました。

今回の東京オリンピック・パラリンピックでも、当初は同様の計画があり、さまざまな宗教団体が協力して、宗教センターを運営したり、都内で宗教的行事を開催したりする予定で、数年前から話が進んでいました。東京教区でも、キリスト教諸団体のかたがたと協力して対応するために、オリンピック対応チームを任命して計画に参加してきました。残念ながら今回はこのような状況ですので、計画したとおりには進みません。これまでさまざまに話し合ってきた事は、行われません。一応、現時点では、リモートで、数カ国語のミサや聖書の話や、祈りなどを提供する予定で、そのためのビデオ作成に教区本部の広報担当が取り組んでいます。とはいえ、この時点になっても、本当にあるのか、あるならどのようにして行うのかなど、全く情報が伝わらないため、そもそも現実味が出てこないのですが、それでも、対応するためのそのような準備を進めています。当初企画していた、オリンピック・パラリンピック期間中の、カテドラルでの国際ミサなどは、やはり行わない方向です。

以下、19日午後6時配信の、週刊大司教第31回目のメッセージ原稿です。

(なおメッセージ最後で触れている「人間の安全保障」については、こちらの2015年10月5日の司教の日記や、拙著「開発・発展・MDGsと日本」(サンパウロ、2012年)の冒頭の記事などもご覧いただければと思います)
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年間第12主日
週刊大司教第31回
2021年6月20日前晩

「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」

マルコ福音に記されているこの弟子たちの叫びは、現在のわたしたちの叫びでもあります。世界中の人が、新型コロナ感染症と、それに伴う社会経済活動の停滞の中で、いのちと生活の危機にさらされている現在、まさしくわたしたちは、荒波に翻弄される船の中に取り残されたような思いであります。

荒れ狂う波風を鎮められた主は、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と語りかけます。すなわち、この自然界をコントロールしているのは、人間ではなくて、創造主である神であることをイエスは明確にします。ヨブ記にも、世界を創造したのは神であって、それを支配しているのも神の権威であることが記されていました。

わたしたちは、科学や技術が発達しても、人間の知恵と知識には限界があることを、自然災害などを通じてたびたび思い知らされてきました。歴史に必ず刻まれるであろう今回の事態も、やはりわたしたちの知恵と知識には限界があることを明確にし、この世界を支配する神に祈り求め、叫び続けることの重要さを肌で感じさせています。

人間の限界を超えた出来事がなぜ起こるのかは、わかりません。しかしながら、わたしたちにはその理不尽さの中にあっても、神に祈り求めると同時に、出来ることを懸命に果たしていく務めがあります。弟子たちも、イエスを起こして声をかけるまで、ただあきらめて荒波に翻弄されていたわけではなく、なんとか船をコントロールしようと力を尽くしていたことでしょう。

パウロは、そういうわたしたちに対して、「キリストの愛がわたしたちを駆り立てています」と、コリントの教会への手紙に記し、キリストのために生きるようにと促します。キリストのために生きるわたしたちは、その愛に駆り立てられて、キリストのように行動する事を求められます。

キリストの愛に駆り立てられ、キリストのように生きようとするとき、神の似姿である人間の尊厳が、ないがしろにされるような事態が、この困難な状況の中で頻繁に起こることを見逃すことは出来ません。疑心暗鬼の中で不安に駆られる人の心は、どうしても安心を求めて利己的になってしまいます。自分のいのちの危機を感じ取るほど、他者への寛容さはたやすく忘れられてしまいます。そんな中で社会にあって異質な存在は、排除の対象となってしまいます。教皇フランシスコは、2018年の難民移住者の日のためのメッセージに、「あらゆる旅人がわたしたちの扉を叩くたびに、それはイエス・キリストとの出会いの機会になる」と記し、その上で、「受け入れ、保護、支援、統合」という四つの行動が重要だと呼びかけました。

わたしたちは、この困難のなかにあっても、助けを必要とする人たちに心を向け、「受け入れ」、「保護」し、「支援」しながら、社会全体へと「統合」しようとしているでしょうか。

かつて20世紀の終わりころ、国連が提唱する「人間の安全保障」の重要性を説いて、国際社会で高く評価されていたのは日本政府でした。武力による安全保障ではなく、一人ひとりの人間の尊厳を守ることで、世界の安全を確立しようと、政府は国際社会に呼びかけていました。残念ながら人間の尊厳が等しく守られる社会の実現への道は、まだまだ遠い道程だと感じさせられます。

不安な事態の中で恐れ悩んでいるわたしたちは、神のはからいに信頼して祈り求めながらも、同時にキリストの愛に駆られて、賜物であるいのちが守り抜かれるように、行動していきましょう。