大司教

週刊大司教第二十九回:キリストの聖体

2021年06月07日

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三位一体の主日の週の木曜日は、キリストの聖体の祝日です。ラテン語の呼び名で、しばしば「コルプス・クリスティ」と言われます。もっとも、多くの国では週日に集まることが難しいので、その次の日曜日にこの祝日を移動させることになっており、日本でもこの日曜日が、キリストの聖体の主日となります。

わたしが30年も前に働いていたアフリカのガーナの小教区でも、この祝日は日曜日に移動して祝われていましたが、ほかのキリスト教国と同様、ミサ後には聖体行列を行っていました。わたしが働いていたオソンソンと言う村は、カトリックを含めクリスチャンが多数でしたので、山間部にあり谷底に細長く広がる村を、主な部分だけでも、かなり歩いたことを記憶しています。村の中に4カ所ほど、椰子の木の葉などを組んだ仮の祭壇を設けて、行列の途中で祈りをささげ、御聖体で祝福をして回りました。

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この写真は、しばしば掲載していますが、その聖体行列に出かけるところです。左の後ろ上に見えているのが、オソンソン教会の聖堂入り口。聖堂正面を下っていくと小学校があり、左右へ分かれて村へつながる道です。御聖体は、聖体顕示台を、わたしの右横のおじいちゃんが担いでいる船のような台の中に安置してあります。この船のようなものは、この地域で部族のチーフが担がれて乗る台をイメージした縮小版です。カラフルな傘は、チーフに尊敬を込めてそうするように、御聖体を覆うものです。そのチーフを担いでいるのは、例えば下の写真です。

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そして、上述した、村の中に設けた仮の祭壇で聖体顕示台を一時安置し、祈りをささげ、祝福をして回りました。

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もちろん日本でも聖体行列が出来ればそれに越したことはありませんが、御聖体が見世物のように見なされる事態は避けなければなりません。御聖体はキリストの実存であり、ふさわしい敬意のうちに礼拝され、共にいてくださる主に感謝と祈りがささげられるのですから、持って回れば良いというものではありません。そういったふさわしい宗教的環境を整えていく必要も、常々感じています。

キリストの聖体の主日にあたり、こういった信仰の表現や行動が制限され、信教の自由が侵害されている国で、こころといのちの危機を肌で感じながら信仰を守っている多くの兄弟姉妹に、聖体のうちに現存される主が、常に共にいてくださることを、そして護り導いてくださることを、心から信じ、また祈ります。

さて以下、6月5日午後6時配信の、週刊大司教第29回目の、メッセージ原稿です。
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キリストの聖体の主日
週刊大司教第29回
2021年6月6日前晩

主イエスは、最後の晩餐において聖体の秘跡を制定されました。それは、今も日々のミサにおいて繰り返され、わたしたちはミサに与り、聖体を拝領するごとに、あの晩、愛する弟子たちを交わりの宴へと招かれた主イエスの御心に、思いを馳せます。

主は、すべての思いを込めて、残していく弟子たちに、パンと葡萄酒のうちに自らが現存し続けること、すなわち、世の終わりまで共にいることを宣言なさいました。

「聖体は、信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧です」と、教皇ヨハネ・パウロ二世は「教会にいのちを与える聖体」に記しています。(9 )

主イエス・キリストは、世の終わりまで、御聖体のうちに現存し、わたしたちとともに歩み続けておられます。

教皇ヨハネ・パウロ二世は、2004年の聖体の年にあたり発表された書簡「主よ、一緒にお泊まりください」に、こう記しています。

「信仰は、わたしたちがキリストご自身に近づくのだということを十分に意識して、聖体に近づくことを求めます。聖体の他の側面、つまり食事であること、過越の神秘であること、終末の先取りであることに、しるしに過ぎないものをはるかに凌駕した重要性を与えるのは、まさにキリストの現存なのです。聖体は、現存の神秘、世の終わりまでわたしたちとともにおられるというイエスの約束の完全な成就なのです。(16)」

御聖体のうちに主ご自身が現存されるからこそ、聖体のいけにえは「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点」だと、教会憲章は指摘します。その上で、感謝の祭儀にあずかることで、キリスト者は「いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる」と指摘します(11)。

すなわち、御聖体をいただくことは、神からお恵みをいただくという受動的な側面だけではなく、わたしたち自身が自分をいけにえとしてささげるという、能動的側面も伴っています。では、自らをいけにえとしてささげるとはどういう意味でしょうか。御聖体をいただくわたしたちには、どのような行動が求められるのでしょうか。

そもそも御聖体をいただくわたしたちには、主の死と復活を、世々に至るまで告げしらせる務めがあります。その上で、わたしたちには、その福音に生き、言葉と行いで、現存される主イエスそのものである神の愛をあかしする務めがあります。さらにわたしたちには、御聖体によってキリストの体と一致することで、一つの体としての教会共同体の一致を推し進める務めがあります。

教皇ヨハネ・パウロ二世は、「主よ、一緒にお泊まりください」で、こう指摘しています。

「たとえば、何億人もの人類を苦しめている飢餓の惨状や発展途上国を苦しめている病気、老人の孤独、失業者たちが直面している困難、移住者たちの苦労などをわたしは思い巡らしています。・・・わたしたちが真にキリストに従う者であると認められるのは、互いの愛と、とりわけ困窮している人たちへの配慮によるのです。これが、わたしたちのささげる感謝の祭儀が真正なものであるかどうかを判断するための基準となります。(28)」

御聖体の秘跡のうちに現存される主は、歴史の流れをわたしたちとともに歩みながら、自らの愛をわたしたちがあかしするように招いておられます。出向いていく教会であることを求めています。神のその愛に基づいた招きに、応える者でありましょう。