菊地大司教

    週刊大司教第二十六回:主の昇天

    復活節第七主日は、主の昇天です。

    この一週間は、月曜の東京教区の司祭評議会に始まって、水曜日の司教協議会のHIV/AIDSデスク事務局会議、そして社会司教委員会、木曜日には司教協議会の常任司教委員会と東京カトリック神学院の常任司教委員会などと、すべてオンラインでの会議が続きました。どの会議でも、今後の年間予定をどうするのかが重要な議題のひとつとなり、秋以降に予定されているさまざまな行事は、状況が見通せないことや準備の時間も考えて、軒並み、中止やオンライン化が決まっていきました。オンラインでの行事は、全国どこにいても参加できるメリットがある反面、やはり実際に出会って交わるという部分に、まだ欠けているように感じます。慣れるのかもしれません。またオンラインの会議は、移動する時間と経費が節約できますが、移動時間がないぶん、立て続けに会議が続くことがあり、モニター画面の前に座りっぱなしになったり、海外との会議ですと時差を考慮に入れて、とんでもない時間に始まったりと、それはそれで大変です。

    中止になった行事といえば、5月21日から26日まで、有楽町で、カトリック美術協会の毎年の美術展が開催される予定でした。これも、昨年同様、中止となってしまいました。わたし自身はカトリック美術協会の顧問司教を務めていますが、わたしの父親も絵描きですので出品されることがあります。信徒の美術家の方々の渾身の作品が展示され、広く一般の方にも鑑賞いただく機会でしたので、残念です。来年は、安心して開催されますように。

    ワクチン接種が少しずつ進んでいるようです。司祭や修道者の方でも、高齢者が多いですから、順番に接種の予約が取れたかたが出ているようです。わたしはまだ65歳前ですので、ワクチン接種はかなり先のことになるのではないかと思われます。まだまだ気を抜くことは出来ません。

    以下、8日土曜日午後6時に配信された、週刊大司教第二十六回、主の昇天の主日のメッセージ原稿です。

    復活節第七主日・主の昇天
    週刊大司教第26回
    2021年5月16日前晩

    「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」

    復活された主イエスは、40日にわたって弟子たちとともにおられ、神の国について教え、ご自分が新しい命に生きていることを数多くの証拠を持って示されたと、使徒言行録の冒頭に記されています。

    十字架上での死によって主を失った弟子たちには、大きな絶望があったことでしょう。神の国の実現という、将来に向けての具体的な目的が潰えてしまったからです。復活された主に出会った弟子たちの、「イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」という問いかけに、弟子たちの心に再び芽生えた希望が表現されています。

    残念ながら、弟子たちの心に再燃したその希望は、主が示す新たないのちへの道とは異なりました。マルコ福音には、天に上げられ、神の右の座につかれたイエスが、弟子たちに残した言葉が記されています。

    「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

    これこそが、主イエスが示される新たな命への希望の道であります。

    福音を伝えることによって、多くの人が神の救いにあずかること。多くの人が神の愛に包まれて生きること。そこに本当の命の希望があるのだと、主は進むべき道を示されます。

    わたしたちには、福音を告げしらせ、命の希望の灯火をともしていく務めがあります。教会に与えられた、福音宣教の命令です。わたしたちの使命です。

    昨年から一年以上、わたしたちは困難な状況の中にあります。希望の光であるワクチン接種も徐々に始まってはいますが、しかし、緊急事態宣言やそのほかの措置が繰り返され、まだまだ油断することはできません。気を緩めることはまだ出来ませんが、かすかながら光が見えつつあり、希望を感じ取ることができます。希望は人を生かします。希望は不安を打ち砕き、行動へと駆り立てる勇気を与えます。希望は、守りに入って自分のことだけを心配する目を、助けを必要とする他者へと開きます。希望は、わたしたちが一歩前へと足を踏み出す力を生み出します。

    この希望への道を切り開いてくださっている医療関係者の努力に、あらためて感謝すると共に、病床にある方々の一日も早い回復を心から祈ります。

    「教会の使命は、キリストの命令に従い、聖霊の恵みと愛に動かされて、すべての人と民族の前に完全に現存するものとなるとき、初めて遂行される」と記している第二バチカン公会議の『教会の宣教活動に関する教令』は、愛のあかしによる福音宣教についてこう記します。

    「キリストが神の国の到来のしるしとして、あらゆる病気や患いをいやしながら町や村を残らず巡ったように、教会もまた、その子らを通して、どのような状況にあるとしても、人々とくに貧しい人や苦しんでいる人と結ばれ、彼らのために喜んで自分を差し出す」(12)

    イエスは苦しみの意味を問うわたしたちに、抽象的に意味を説明するのではなく、ただ、「わたしに従って来なさい」と招き、ご自分の愛の業に参加するように呼ばれるのだと記したのは、ヨハネ・パウロ二世でありました。(「サルヴフィチ・ドローリス」26)

    いまこの状況の中で、わたしたちには、福音を、愛の業によるあかしを持って告げしらせる務めがあります。希望の光を届け、主が示される新しい命への真の希望の道を歩みましょう。

    東京大司教タルチシオ菊地功