菊地大司教

    週刊大司教第二十五回:復活節第六主日

    復活節もすでに第六主日となりました。

    残念なことに、緊急事態宣言は当初の5月11は解除とならず、東京都に関しては月末まで延長されることが発表されています。千葉県のまん延防止等重点措置も、月末まで継続です。従って、東京大司教区では、現時点で行っている感染対策などを、そのまま継続します。現時点での教区の対策は、東京大司教区のホームページの一番トップに、常に掲示されていますので、ご参照ください。『現在の東京教区における感染症への対応」と記されたバナーがありますので、クリックされてください。

    5月8日土曜日の午前11時から、ごく一部の方々に参加者を限定して、昨年12月に帰天されたペトロ岡田武夫大司教と、昨年9月に帰天されたフランシスコ・ザベリオ岸忠雄神父の納骨式を、府中カトリック墓地で行いました。晴天に恵まれ、暑いほどの陽気でしたが、両師のご親族代表ほか10名ほどで、教区司祭団の共同納骨墓にお二人の御遺骨を納めさせていただきました。府中墓地の聖堂の目の前にあるのが教区司祭団の共同墓です。府中墓地にお出での節には、是非お祈りをお願いいたします。

    以下、5月9日午後6時配信の、週刊大司教第二十五回目の、メッセージ原稿です。
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    復活節第六主日
    週刊大司教第25回
    2021年5月9日前晩

    「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」と呼びかける使徒ヨハネは、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしに」なったことにこそ、神の愛が示されていると強調します。すなわち、神からわたしたちへ向けられた愛は、御子が十字架の上でその身をささげられたほどの愛であり、まさしく命がけの愛であります。その愛によって生かされているのだから、わたしたちも、口先ではなく、「命がけ」で愛に生きるようにという、実のところきわめて激しい呼びかけの言葉であります。

    使徒ヨハネの言葉は、イエスご自身のさらに激しい呼びかけ、すなわち、「友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない」という言葉に根ざしています。

    「隣人を愛する。友を愛する」と口にするのはたやすいことです。もしかしたら「互いに愛し合いなさい」と言う呼びかけも、簡単なことだと思ってしまうこともあるやも知れません。でもそれは思い違いです。それは、単に優しくあることを意味しているからではありません。

    イエスが語る「愛」は、ご自身がそうされたように、命がけの愛であります。神の愛を具体化するために、イエスは受難の道を歩まれ、十字架の苦しみの中に、ご自身を贖いのいけにえとしてささげられました。それが神の愛です。

    この言葉を耳にするとき、わたしはどうしても、ルワンダ難民キャンプでの体験を思い起こしてしまいます。25年ほど前、当時の旧ザイールにあったルワンダ難民キャンプで、襲撃事件に遭遇しました。キャンプに二時間にわたって銃弾が撃ち込まれる中で、隣に一緒にいたはずのルワンダ人の神父が、外国人のわたしたちが襲撃されないようにと、建物の外に立ち、襲撃してきた一団の注意を引こうとしていたのでした。幸い彼が襲撃してきた一団に遭遇することがなかったのですが、その直後、「君たちを守るために、注意を引こうとしていたのだ」と口にした彼の言葉を耳にしたとき、自分がそれまで「友のためにいのちを捨てる」という言葉を、いかに軽々しく口にしてきたことかと思い知りました。

    そしてイエスの言葉がどれほど命がけの行動を促しているのかを、思い知りました。愛は簡単に口に出来ますが、神の愛に生きることは、命がけであります。

    5月は聖母月ですが、聖母マリアは命がけの愛に生きる模範を示されています。教皇フランシスコはそのことを「福音の喜び」で、「教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります。というのは、マリアへと目を向けるたびに、優しさと愛情の革命的な力をあらためて信じるようになるからです」(288)と記して、聖母の愛が、単なる優しさにあるのではなく、「革命的な力」という表現で、命をかけた生き方によってあかしされていること示唆します。

    さて教会は、復活節第六主日を、世界広報の日と定めています。新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、映画、インターネットなどの広報媒体を用いて行う宣教について、教会全体で考え、振り返り、祈り、献金をささげる日です。この日にあたり教皇フランシスコは、『「来て、見なさい」(ヨハネ1・46)人々と、彼らのいる場で、そのままの彼らと会って、伝えなさい』というメッセージを発表されています。教皇は、「ことばは、それが「見てもらえる」ときにのみ、あなたを経験の中に、対話の中に、巻き込むときにのみ力を得ます」と記して、イエスと出会った者がその体験を、実際の出会いの中で具体的に言葉と行いを持ってあかしするように招かれます。

    わたしたちは主イエスに倣い、命がけの愛に生きている姿を、具体的にあかしするように、努めていきたいと思います。

    東京大司教タルチシオ菊地功