大司教

週刊大司教第十九回:四旬節第四主日

2021年03月15日

四旬節第四主日となりました。

本来の行事予定では、3月14日には教区一粒会(いちりゅうかい)の総会が予定されていました。残念ながら、現在の状況の中で、大勢の方を集めての総会は難しいと判断しましたので、今年の総会は行われません。

一粒会は、召命のために祈り、献金する、神学生養成を援助する会です。教区の信者(信徒、修道者、司祭)すべてが会員です。一粒会について、教区のホームページから転載します。

「1938年に東京大司教に任命された土井辰雄師の司教叙階式に参列した信徒たちの数人が、司祭召命と養成のために「何かをしなくては」と思い立ったのが一粒会発足のきっかけとなりました。その頃、軍国主義の高まりによって外国人宣教師たちに対する迫害や追放など、教会にもさまざまな圧迫があり司祭召命に危機感を抱く信徒が少なからずいたのでした。

当時の一粒会の規則は、司祭召命のために毎日「主祷文(主の祈り)」を一回唱え、祈りのあとに1銭(1円の百分の一)を献金するというものでした。一粒会という名称は「小さな粒を毎日一粒ずつ貯えていく実行、しかも行いを長続きさせるということを考慮に入れての命名」だったそうです。

戦中・戦後、途絶えていた一粒会の活動は1955年頃に復活し、現在に至っています。東京教区の「一粒会」の会員は教区民全員です。会長は菊地功大司教です。神学生養成のために皆さまの心のこもったお祈りと献金のご協力をお願いします」

と言うわけで、献金については個人の献金も受け付けています。送金先については、教区のホームページのこちらのリンクをご覧ください。振込先口座だけではなく、毎日唱えていただける召命のための祈りも記載されています。

召命は神からの呼びかけですが、呼びかけに応えるためにきっかけと勇気が必要です。多くの方に、主は声をかけておられます。呼ばれた者が勇気を持ってそれに応え、一歩を踏み出すことが出来るように、皆様のお祈りと、声がけをお願いいたします。司祭・修道者としてふさわしいと思われる青年男女に、是非声をかけ励ましてください。

教皇様は3月11日に、駐日教皇庁大使を任命されました。前任のチェノットゥ大司教が昨年9月に帰天されてから、空位となっていました。新しい大使は、イタリア出身のレオ・ボッカルディ大司教(His Excellency Monsignor Leo Boccardi) で、現在は駐イラン大使を務めておられます。これまでの経歴の中には、イランの大使、スーダンとエリトリアの大使もありますが、3月11日という日に日本の大使に任命された方が、以前には「教皇庁国務省外務局で働き、国連の国際原子力機関(IAEA)や欧州安保協力機構(OSCE)、包括的核実験禁止条約準備委員会(CTBTO)への聖座代表」を務めていたというのは、少なからず、広島や長崎を訪れた教皇フランシスコのご意向があるように感じます。来日が待たれるところです。

教皇様は、3月13日で、教皇に選出されて8年となります。先代のベネディクト16世の退位を受け、2013年3月13日の枢機卿会にて教皇に選出されました。現在84歳の教皇フランシスコのために、お祈りください。

以下、本日公開の週刊大司教第十九回目のメッセージ原稿です。
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四旬節第四主日
週刊大司教第19回
2021年3月14日前晩

「独り子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」

ファリサイ派の議員であり、指導者でもあったニコデモとイエスとの対話を、ヨハネ福音は描いています。そこでは永遠の命を得るために必要なことはイエスを信じることであって、救いは神からの恵みとして与えられることが強調されています。

パウロはエフェソの教会への手紙で、「あなた方が救われたのは恵みによる」と記して、わたしたちの救いは、自ら創造されたいのちを愛してやまない神からの、一方的な恵みによっていることを明確にします。

ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と記し、その独り子が、信じる者皆の救いのために「上げられねばならない」と語るイエスの言葉を記して、十字架上でのイエスの受難と死が、神の愛に基づく徹底的な自己譲与の業であることを明確にします。同時にそれは、十字架が神のあふれんばかりの愛の、目に見える証しであること、しかも具体的な行いによる愛のあかしであることを明らかにしています。さらに、神の愛は、裁きではなく救いをもたらすことも明示されています。

神は愛する民を闇の中の苦しみに放置することなく、光へと導こうとされます。それは神が自ら創造されたいのちを愛してやまないからであり、神はなんとしてでもすべてのいのちを救いへと招き入れようと、手を尽くされています。

神の豊かな愛に包まれて救いへと導かれているのですから、神を信じるわたしたちは、その愛を、ひとりでも多くの人へと伝え、ひとりでも多くの人がその愛に包まれて、光を見いだして生きることが出来るように、愛の実践を通じたあかしの業に務めなくてはなりません。

そもそもわたしたちは、自分の性格が優しいからとか、そういった個人的な理由で愛の業に励むのではありません。わたしたちは、神の愛に包まれて生かされているからこそ、その恵みとして与えられている愛を実践することで、ひとりでも多くの人にあかしをしたいのです。愛に包まれていることを感じるとき、わたしたちは理念としてではなく実感として人類愛を語ることが出来ます。教皇フランシスコは、今年の四旬節メッセージに、多様な社会の中で共通して愛を語るために、人類愛から始めることの重要性に触れ、次のように記しています。

「人類愛から始めるなら、だれもがそこに招かれていると感じられる、愛の文明に向けて進むことができます。愛は、そのすべてに及ぶダイナミズムをもって、新しい世界を築くことができます。愛とは、何も生み出さない感情ではなく、すべての人にとって有効な発展の道を得る最高の方法だからです」(『Fratelli tutti』183)。

3月11日で、東日本大震災が発生して10年となりました。あらためて亡くなられた多くの方々の永遠の安息を祈ります。日本の教会はこの10年、まさしくわたしたちを包み込む神の愛のあかしとして、東北の被災地で復興支援活動に携わってきました。10年の節目に、教会全体としての活動は終わりを迎えますが、当然、東北各地には教会共同体があり、この10年の活動の実りも残されています。これからも、仙台教区の教会共同体と共に、東北各地の皆様と歩みを共にしながら、ひとりでも多くの人が、神の愛に包まれていることを実感できるよう、努めていきたいと思います。

多くの人が、希望と愛を必要としています。闇に輝く光を必要としています。