大司教

聖母被昇天祭@東京カテドラル

2020年08月16日

8月15日は聖母被昇天祭です。

暑い毎日が続いています。どうかみなさま、感染症対策と共に熱中症にも対策をされ、健康にはくれぐれもお気をつけください。東京都と千葉県は、感染症の終息はなかなか見通すことが出来ていません。教会でのクラスターなどの発生は、いまのことろ教区内からは報告がありませんが、まだまだ慎重に対処したいと思います。幸いなことですが、みなさまにご協力いただいている感染症対策が、功を奏しているのもと思います。十分に納得いただけないような状況の中で、不便を忍び、ご自分の思いを心に治め、感染症対策にご協力いただいている多くのみなさまに、心から感謝申し上げます。ほんとうにありがとうございます。みなさまの忍耐は、いのちを守る行動です。

みなさまの健康が守られ、またわたしたちを取り巻くこの不安な状況が一日も早く解消されるように、聖母の取り次ぎの元、父である神の守りと祝福を祈りたいと思います。

8月16日から23日までの一週間も、これまでと同様の感染症対策をとりながら、気を緩めることなく慎重に、教会活動を続けます。

以下、8月15日午後6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂でささげられた、聖母被昇天祭ミサの説教原稿です。
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聖母被昇天
東京カテドラル聖マリア大聖堂 
2020年8月15日

聖母被昇天を祝う今日8月15日は、あらためて言及するまでもなく、日本においては平和を祈念する日でもあります。

毎年、8月6日の広島原爆の日から8月9日の長崎原爆の日を経て、8月15日の終戦記念日に至るまでの10日間を、日本のカトリック教会は「平和旬間」と定めています。

1981年2月23日から26日、日本を訪問された教皇ヨハネ・パウロ二世は、自らを「平和の巡礼者」と呼ばれ、昨年11月の教皇フランシスコと同様に、東京だけではなく広島と長崎を訪れました。特に広島では、「戦争は人間の仕業です」という有名になった文言で始まる平和アピールを発表され、その中で繰り返し、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」と世界の人に向けて強調されました。

当時の司教団は、戦争を振り返り、平和を思うとき、平和は単なる願望ではなく、具体的な行動を伴わなくてはならないと考え、その翌年(1982年)から、日本にとってもっとも身近で忘れることのできない広島や長崎の事実を思い起こす8月6日から終戦の15日までの10日間を、「日本カトリック平和旬間」と定めました。日本の教会にとって聖母被昇天祭は、平和旬間を締めくくる日でもあります。神の母であり、教会の母であり、平和の女王である聖母マリアの取り次ぎによって、わたしたちが神の平和の実現に至る正しい道を見いだし、その道を勇気を持って歩み続けることが出来るように、祈り続けましょう。

広島平和アピールの終わりで、教皇ヨハネ・パウロ二世は神を信じる人々に向けて、「愛を持ち自己を与えることは、かなたの理想ではなく、永遠の平和、神の平和への道だということに目覚めようではありませんか」と呼びかけています。「神の平和への道」とは、すなわち「愛を持ち自己を与える」行動であると教皇は指摘します。

あらためて言うまでもなく、教会が語る「平和」とは、単に戦争や紛争がないことを意味してはいません。教会が語る「平和」とは、神の定めた秩序が実現している世界、すなわち神が望まれる被造物の状態が達成されている世界を意味しています。残念ながら、核兵器をはじめとして人間の抱く不信や敵対心に至るまで、神の定めた秩序の実現を妨げる要因は、数多く存在しています。

その文脈で、教皇ヨハネ・パウロ二世は、「愛を持ち自己を与える」行動が、神の平和を実現する道の一つであることに気がつくようにと促しています。

今年も梅雨の間に各地で集中豪雨が発生し、特に九州では大きな被害が発生しました。加えて新型コロナウイルス対策のため、県外からのボランティア参加が認められず、必要な助けが集まらないのではないかとの不安の声が聞かれました。しかし実際には多くの方が県内から駆けつけ、互いを支え合いながら、復興支援のボランティア活動に取り組まれたとうかがいました。

まさしく、愛を持って自己を犠牲にしながら、助けを求めている人のところへ駆けつけるボランティアの活動は、単なる優しさの象徴ではなく、平和構築の道そのものであります。

その意味では、新型コロナウイルス感染症と闘う医療関係者の方々は、まさしく危機に直面するいのちを救うために、いのちへの愛と尊敬を持って尽力されているのですから、その活動は、平和構築の道でもあるといえます。その働きに、心から感謝したいと思います。

教皇フランシスコは、教会が新たにされて福音宣教へ取り組むようにと鼓舞する使徒的勧告「福音の喜び」の最後に、「教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります(288)」と記しています。

聖母マリアの人生は、まさしく「愛を持ち自己を与える」生き方であります。聖母マリアの人生は、神の平和を構築する道として、教会に模範を示している生き方であります。

教皇フランシスコは、「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力、これこそがマリアを、福音宣教する教会の模範とするのです」と指摘します。

その上で教皇は、聖母マリアは、福音宣教の業において「私たちとともに歩み、ともに闘い、神の愛で絶え間なく私たちを包んでくださる」方だと宣言します。

教会が模範とするべき聖母マリアの根本的な生きる姿勢、とりわけ「正義と優しさの力」は、ルカ福音書に記された聖母の讃歌「マグニフィカト」にはっきりと記されています。天使のお告げを受けたマリアは、その意味を思い巡らし、その上でエリザベトのもとへと出向いていきます。「観想と他者に向けて歩む力」であります。

マリアは全身全霊を込めて神を賛美するその理由を、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」と記します。ここに、「謙虚さと優しさは、弱い者の徳ではなく、強い者のそれであること」を見いだすことが出来ると教皇は記します。なぜならば、マリアがこのときその身をもって引き受けた主の招きとは、人類の救いの歴史にとって最も重要な役割であり、救い主の母となるという、人間にとって最大の栄誉であるにもかかわらず、マリアはそれを謙虚さのうちに受け止め、おごり高ぶることもなく、かえって弱い人たちへの優しい配慮と思いやりを「マグニフィカト」で歌っています。「強い者は、自分の重要さを実感するために他者を虐げたりはしません」と教皇は指摘されます。

そして「マグニフィカト」でマリアは、御父が成し遂げられようとしている業、すなわち神の秩序の実現とは具体的になんであるのかをはっきりと宣言しています。

「主はその腕を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」

教皇フランシスコが私たちに求めている教会のあるべき姿は、「出向いていく教会」です。教会は、貧しい人、困難に直面する人、社会の主流から外された人、忘れられた人、虐げられている人のもとへ出向いていかなくてはならない。この教会の姿勢は、聖母マリアの「マグニフィカト」にしっかりと根ざしています。

わたしたちは、聖母マリアに導かれ、その生きる姿勢に学び、神の前に謙遜になりながら、自分のためではなく他者のためにそのいのちを燃やし、「愛を持ち自己を与える」ことを通じて、神の平和を確立する道を歩んでいきたいと思います。聖母のように、「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力」を具体的に生きていきたいと思います。

神の母聖マリア、あなたのご保護により頼みます。苦難のうちにあるわたしたちの願いを聞き入れてください。栄光に輝く幸いなおとめよ、あらゆる危険から、いつもわたしたちをお救いください。