大司教

年間第十五主日@東京カテドラル

2020年07月12日

この数日の豪雨によって、大きな被害を受けられたみなさまに、心からお見舞い申し上げます。被害の大きかった福岡教区では、すでに被災地支援のための募金が始まっています。(東京教区ホームページでのリンクはこちらです)。被災地では復旧のために人手が足りないことが報告されておりますが、このたびの感染症対策のため、ボランティアは県内の方だけに限られているようです。従って、全国に向けてのボランティア受付のようなことは難しいかと思います。まずは現地からの情報に耳を傾け、できることでの支援を、そして祈りをしていきたいと思います。

この数日、東京都では新型コロナ感染者が100名を超え、さらにこの三日間は200名を超えています。いまの時点では、重症者が少ないことや、亡くなられる方が6月24日から出ていないことを踏まえて、即座に教会活動を停止するようなことはしておりません。現時点での感染対策をしっかりと守りながら、慎重に教会運営を続けてまいります。

しかし今後は、仮に感染者数がこのまま増加し続け、重症者が増加した場合などには、現在の対応を一段厳しいものに戻すことも念頭に、日々刻々と変化する状況を見つめております。これからかなり長期にわたって、現在のように社会の現実として新型コロナウイルスがあるということを前提として、その中で教会活動を続けていく方策を慎重に模索して行かざるを得ないものと思われます。

あらためて申し上げますが、教区の基本方針は三つです。(詳しくは、教区ホームページに掲載しているビデオを、是非一度ごらんください)

1:教区内地域で新規感染者がいる限り、教会活動では「密接・密集・密閉」を避ける
2:感染しない、感染させない
3:秘跡にあずかる機会を提供し、霊的な一致を促す

教会活動を停止するという歴史に残るような事態に、東京教区だけではなく世界中の教会が直面しているのですが、その中で東京教区は6月21日に活動を再開して、まだまだ4回目の日曜日です。教区としての大枠はありますが、それぞれの小教区では事情が異なりますので、感染対策への対応もそれぞれ異なっています。なにぶん誰ひとり経験したことのない事態なのですから、当然どの対応も完璧ではあり得ず、当分は試行錯誤の繰り返しにならざるを得ないでしょう。これからさらに何回かの日曜日の経験を通じて、徐々に改善していくしかありません。なんと言っても、感染症の事態が即座に終息するとは思われず、わたしたちは長期戦を心しなければなりません。

現時点での対応にはまだまだ不備もあることでしょう。大変申し訳ありませんが、しばらくはこの事態を一緒になって乗り越えるため、耐え忍んでくださるようにお願いいたします。教会内での意見の交換は歓迎しますが、あたかも教会がすべて変わってしまったかのように喧伝するような行為は慎まれるよう心されることを希望します。

以下、年間第15主日、7月11日夕方6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂から配信された公開ミサの説教原稿です。
※印刷用原稿はこちら
※ふりがなつきはこちら

年間第15主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年7月12日前晩

神の言葉は、受肉の神秘によって人となられたそのときから、今に至るまで、わたしたちとともに現存しています。人となられた神の言葉である主イエスを通じて直接語られたその言葉は、日々の聖書の朗読を通じて、教会の教えを通じて、典礼を通じて、祈りを通じて、繰り返しわたしたちに伝えられてきました。

第二バチカン公会議の啓示憲章にこう記されています。
「教会は聖書を聖伝と共につねに自らの信仰の最高の基準としてきたのであり、またそうしている。なぜなら、神の霊感を受け一度限り永久に文字に記された聖書は、神ご自身のことばを変わらないものとして伝え、また預言者たちと使徒たちのことばのうちに聖霊の声を響かせているからである(啓示憲章21)」

すなわち、様々な出来事が時の流れの中で刻まれ歴史は形作られてきたのですが、その間常に神の言葉は時の流れの中に現存していました。しかし世界の現実は、神の言葉に耳を傾けてこようとはしませんでした。時には耳を傾けようとしたこともあったのでしょうが、それは例外です。少なくとも今に至るまで、神が望まれる世界は実現しておらず、神が愛を込めて創造されたいのちは危機にさらされ、人間の尊厳はないがしろにされ、神の似姿がその尊厳を暴力的に奪い取られる事例は、世界に数多く見られます。

わたしたちの国にあっても、近年、数多くのいのちが孤独と孤立のうちに危機に直面しており、とりわけ今般の感染症が拡大し経済が混乱する中で、雇用の不安定さが増大し、いのちをつなぐために十分な助けを得られることなく孤立している人も少なくありません。

もちろん社会には、教会の信徒をはじめとして多くの善意の方々が、積極的に助けの手を差し伸べており、そういったボランティア活動の団体も多く存在しています。東京教区の災害対応チームでも、そういった支援を提供する団体などの情報を集めて、インターネット上で提供していますが、数多くの善意の方々が存在しているという心強い現実を、そういった情報収集から垣間見ることができます。善意の多くの方の存在を知り、その心配りに感謝するとともに、それでもまだ取り残されているいのちがたくさんあることを思わざるを得ません。

また今般の事態にあって、特に医療関係者の皆さんには、常日頃心にかけておられることであろうと思いますが、たまものであるいのちを守るために、日夜尽力されておられることに、心から感謝申し上げたいと思います。

神の十戒の第五の掟は、「殺してはならない」と定めています。

この掟はすなわち、わたしたちに「人間の生命が神聖である」ことを教え、いのちを守ることの重要性を認識することも求めています。カトリック教会のカテキズムには、第五の掟の箇所に、「道徳律は、重大な理由もなく誰かを死の危険にさらさせること、さらに、危険な状態にある人を見捨てることさえも禁じています(2269)」と記されています。

今般の感染拡大の事態にあたって教会が取り入れている感染症対策は、「感染しない」ことだけではなく「感染させない」ことも重要視していると、常々申し上げてきた背景は、そこにあります。「殺してはならない」と神から命じられているわたしたちは、他者をいのちの危険にさらすことも、危険な状態にある人を見捨てることも、禁じられているからです。

神の言葉は、この世界の現実のなかにあって、様々な方法を通じて幾たびも幾たびも繰り返され響き渡っているにもかかわらず、世界全体には浸透していません。

ヨハネ福音の冒頭に、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった(ヨハネ一章10.11節)」と記されているとおりであります。

耳を傾けようとする人の心に蒔かれた神の言葉の種は豊かに実を結び、善意の人を駆り立てて、助けを必要としているいのちへ、危険な状態にあるいのちへと、その思いを向かわせます。残念ながら、神の言葉の種は、まだ多くの人の心のうちで、豊かな実を結んではいません。

この危機的な状況の中で、これから今以上に孤立を深めながら危機に直面するいのちは増えていくことが想定されます。ですから、わたしたちは、いただいている神のいのちのことばの種を、蒔き続けなくてはなりません。さらには、蒔かれた種が豊かに実を結ぶようにと、その土壌を良いものとしておく努力も必要です。ただただひたすらに種を蒔き続けるだけではなく、まずは最初に種が蒔かれる土壌を良いものに変えて行く努力も必要です。種を蒔く前に、しなければならない準備もあります。

その準備、すなわち土壌改良を成し遂げるのは、わたしたち一人ひとりの日々の生活における、言葉と行いによる神の愛といつくしみのあかしであります。人とのかかわりの中で、わたしたちの言葉と行いは、神の言葉の種が蒔かれる土壌を良いものとしていくための、もっとも力のある道具であります。

語られる言葉は、わたしたちの口から出る実際の言葉であると共に、わたしたちが、例えばインターネットなどに残していく言葉でもあります。時にクリスチャンを標榜しながら、他者のいのちを守ることをないがしろにするような、きわめて利己的な主張や攻撃的な主張を目にするとき、いったいどのような土壌を神の言葉の種のために備えようとされているのかと思い、悲しくなることがあります。わたしたちは口から語る言葉、書き記す言葉、どちらにあっても自分の言葉が、神の言葉の種を蒔く土壌を準備するためなのだと、常に心しておきたいと思います。

「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。
 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」

神は自らの言葉が、その使命を果たさないままに、むなしく戻ってくることはないと宣言されています。人となられた神の言葉である主イエスによって、神の言葉はわたしたちの間に現存されています。現存されているのですから、どのような困難にあっても、必ずその使命を果たされます。

この神の約束に信頼し勇気をいただきながら、小さな歩みではありますが、わたしたちの言葉と行いを通じて、多くの人の心の土壌を改良し、そこに蒔かれる神の言葉の種が豊かに実を結び、それを通じて神が愛されるすべてのいのちが大切にされ、守られ、その尊厳が尊重される世界が実現するように、努力を続けてまいりましょう。