大司教
聖香油ミサ@東京カテドラル
2020年06月30日
本来ならば聖週間中に行われるはずの聖香油ミサですが、今年は新型コロナウイルスの影響で、聖木曜日に行うことができず、延期となっていました。例年6月29日に近い月曜日には、司祭団が集まり、その年の金祝や銀祝のお祝いをしております。今年はその6月29日月曜日の午前11時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、聖香油ミサを行いました。
残念ながら、司祭が大勢参加するミサですから、大聖堂内のそれぞれの距離を保つため、共同司式の司祭にも会衆席にひろがって座っていただきましたので、基本的に一般の方々には非公開といたしました。
またミサのはじめには、大聖堂入り口に新しく設置された、教皇フランシスコ訪問の記念プレートを祝福いたしました。1981年の教皇ヨハネパウロ二世訪問記念プレートの反対側の壁面にあります。
以下、聖香油ミサの説教原稿です。
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聖香油ミサ
2020年6月29日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
わたしたちは、必ずや後世の歴史に残るであろう出来事のただ中におります。今年は、わたしたちの信仰生活にとって重要な意味を持つ復活祭を共に祝うことができなかったばかりでなく、教会共同体の皆さんと、四旬節も復活節も、共に過ごすことができませんでした。
あらためて言うまでもなく、新型コロナウイルス感染症は、わたしたちの生活から多くの出来事を奪い去りましたが、信仰生活も大きな打撃を受けてしまいました。
同時に、わたしたちは奪い去られたことで、これまで当然だと思っていたことが、それほど重要ではなかったことにも気がつく機会を与えられたように思います。社会の中で優先するべき価値観は何であるのかを、もう一度考える機会を与えられました。
教会にあっても、日曜日に集まることができなくなって、教会共同体とはいったい何であるのかをあらためて考える機会を与えられたと思っています。日曜日にミサのために信徒が集まってくることで、教会は教会であると実感することができていたのですが、今回の出来事は、教会であるということの意味をあらためて考える時を、わたしたちに与えてくれたように思います。
また、わたしたちは福音を告げしらせる教会ですが、今回の事態が、積極的にメッセージを届けるための方法を考える機会をも提供してくれたと思います。大げさに言えば、待ちの姿勢の教会から、積極的に打って出る教会へと変わっていく機会が、このたびの出来事を通じて、わたしたちには与えられていると感じております。
さて、人類のいのちの危機は、ほんの小さな、弱々しい、ウイルスによってもたらされました。まだまだ予防法や治療法が確立されたわけではありませんし、東京では連日感染者の報告があります。ですから、長い自粛期間からの解放感の中で、すべてが解決したようなムードが漂っていますが、当分の間は慎重に行動しなければなりません。
感染が発覚した当初は、まるでちょっとした風邪のようだという楽観論が主流でした。しかし、それほど時間を必要としないうちに、そういった楽観論は打ち砕かれてしまいました。今や、歴史に残る人類のいのちの危機に直面していることは明白です。
感染がある程度落ち着いた現在は、今度は「新しい生活様式」などと政府も音頭をとって、これまでとは異なる社会のあり方が模索されています。
わたしたちは今、価値観の転換を求められています。感染拡大以前の世界に戻ろうとする力は、強く存在するでしょう。しかし今回の事態は、いのちを守るために、わたしたちは何を大切に生きるのかを問いかけ、今までのような社会のあり方を、そのままで続けていくことを許さないでしょう。「新しい生活様式」とは、単に物理的な行動の変革で感染を防止すると言う視点に留まらず、いのちを守るために人類が何を優先するべきなのかを今一度考え直し、新たな生きるスタイルを確立するように求めているように、私は感じています。
いのちを守ることは、わたしたちの信仰にとって重要な視点です。あらためて、昨年の教皇訪日のテーマを持ち出すまでもなく、わたしたちは、神が賜物として与えられたいのちを、徹底的に守り抜くことを主張してきました。いのちは、例外なく、その始まりから終わりまで、その尊厳が守られなくてはならないと主張してきました。
教会は、これまでの歴史の中で、しばしばいのちを守る立場から離れてしまったことを反省しなくてはなりません。特に、わたしたちの人間関係の中で、一人ひとりの尊厳を大切にすることなく、例えばハラスメントのような形で人間の尊厳を傷つけてきたことを、世界中の教会、そして日本の教会は反省し、それを正していく強い決意がいま必要だと思います。
また、すべてのいのちを守ろうとすることは、教皇フランシスコがしばしば繰り返されるように、誰ひとりとして排除されない世界を実現しようとすることでもあります。常にいつくしみの手を差し伸べる教会でありたいと思います。
そしてすべてのいのちを守ることは、同時に神が与えられた被造物を大切に護っていくことにも繋がります。教皇フランシスコは、2020年5月24日からの一年間を、「ラウダート・シ」に基づいて考察を深める年とされました。
感染症の拡大で自粛が続く中、言葉のやりとりでも、人間関係でも、社会の雰囲気でも、殺伐とした雰囲気が世界に広がっているように感じます。いわば心の荒れ野が広がったように思います。同時に、心の荒れ野は、これまで理性が覆い隠していた、排除の思いや差別の思い、暴力的な思いをあからさまにしてしまいました。教会は、人間の尊厳を傷つけるそのような言動を、容認することはできません。いま回心が必要です。
「ラウダート・シ」には、こういう記述がありました。
「『内的な意味での荒れ野があまりにも広大であるがゆえに、外的な意味での世の荒れ野が広がっています。』こうした理由で、生態学的危機は、心からの回心への召喚状でもあります。」(217)
その上で、教皇フランシスコは、「必要なものは『エコロジカルな回心』であり、それは、イエス・キリストとの出会いがもたらすものを周りの世界とのかかわりの中であかしさせます。(217)・・・永続的な変化をもたらすために必要とされるエコロジカルな回心はまた、共同体の回心でもあるのです」(219)と指摘されています。
いのちの危機が叫ばれる今こそ、わたしたちは視点を変え、優先事項を見つめ直し、いのちを守ることを前面に出し、共同体としてイエスとのかかわりをあらためて見つめ直す回心が求められています。
さて聖香油ミサは、日頃は目に見える形で共に働いているわけではない東京教区の司祭団が、司教と共に祭壇を囲み、信徒を代表する皆さんと一緒になってミサを捧げることによって、教会の共同体性と一致を再確認する機会です。
そして、司祭の役務を果たす中で秘跡の執行には深い意義がありますが、それに必要な聖なる油を、司祭団は司教と共にこのミサの中で祝福いたします。
加えて、この説教のあとで司祭団は、それぞれが司祭に叙階された日の決意を思い起こし、初心に立ち返ってその決意を新たにいたします。一年に一度、司祭はこのようにして共に集い、自らの叙階の日、すなわち司祭としての第一日目を思い起こしながら、主イエスから与えられた使命の根本を再確認し、あらためてその使命に熱く生きることを誓います。
お集まりの皆さん、そしてインターネットを通じてご覧の皆さん、どうか、私たち司祭が、主キリストから与えられた使命に忠実に生き、日々の生活の中でそれを見失うことなく、生涯を通じて使命に生き抜くことが出来るように、お祈りくださるよう、お願いいたします。