大司教

キリストの聖体@東京カテドラル

2020年06月14日

梅雨入りして最初の日曜日がキリストの聖体の主日となりました。元来は木曜日とされていますが、多くの国で現在は、その次の主日に移動して祝われています。

今日の配信ミサは、公開ミサの自粛を2月27日以降継続してきた中で、今のところは最後の「非公開ミサ」となります。四旬節から復活節と続いた「非公開」ミサにあって、配信ミサの作成のために協力してくださった、師イエズス修道女会、宣教ドミニコ会、女子パウロ会、ノートルダム・ド・ヴィのそれぞれの会員、毎回のミサで聖歌を選び歌ってくださったイエスのカリタス会の志願者と会員のみなさまに心から感謝申し上げます。また、映像を作成し配信してくださる田村さんを初め、関口教会の信徒のボランティアの方々に、感謝申し上げます。

次の日曜日以降は、それぞれの小教区でも、限定的とはいえ公開ミサを徐々に始めますので、関口教会でも同様に公開ミサが始まります。そのため、日曜日午前10時のミサの映像配信はいたしません。その代わり、当分の間は、前晩、土曜日の午後6時から、東京カテドラルの主日ミサを配信します。司式はわたしです。土曜の午後6時が中継です。それ以降はこれまで同様、同じ関口教会のチャンネルから、録画された映像を見ていただくことができます。(少なくとも、現時点では、7月中は配信ミサを土曜日晩に続ける予定ですが、8月以降は未定です。)

公開ミサが再開されるといっても、感染が終息したわけではなく、新規の感染者の報告は続いています。経済活動を優先させるために、社会の中の様々な制約が緩和され続けていますので、すでにすべては解決したような気分にされますが、まだまだ慎重であるべきかと思います。

緊急時代のただ中にいまでもまだいると判断していますから、ミサの再開には様々な制約を設けました。いのちを守るための責任ある選択はどれであるかを、最優先でお考えいただきますように、あらためてお願いいたします。

もちろん、現在は緊急事態であり、様々な緊急避難的な判断をしていますが、それを固定化することのないように、できる限る早く、感染の状況に応じて通常に戻す努力をしたいと思います。緊急事態に対応した制限が固定化されることを懸念する声もありますが、そのような不信を払拭できないわたしの力不足を自覚させられております。

本日のミサの説教の原稿です。
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キリストの聖体
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年6月14日

東京教区では、緊急事態宣言の解除後、状況を見守ってきましたが、次の日曜日から、小教区における活動を段階的に再開することにしました。もちろん感染が終息したわけではありませんから、慎重に行動しなければなりませんので、当初の間は、感染対策をしたり、距離を保ったり、重篤化のリスクが高い高齢の方にはしばらくは我慢をお願いしたり、いろいろな制約の中での再開となります。

四旬節第一主日に始まって三ヶ月半に及ぶ長い期間、小教区でのミサや活動を中止してきました。霊的な渇きのうちにあっても、お互いのいのちを守るために耐え忍び、協力してくださった皆さんには、心から感謝申し上げます。

今日もまたこのミサの中で、治療のために全力を尽くしておられる医療関係者と、病床にある皆さんのために、心からお祈りいたします。

この長い自粛の期間を、キリストの聖体の主日で終わりとすることは、意義深いことです。なんといってもこの自粛は、共に教会に集い、祈りの時を一緒にできなかったと言うだけではなく、聖体祭儀にあってご聖体のうちに現存されている主イエスと一致するという、信仰にとって一番大切な秘跡から、わたしたちを遠ざけてしまいました。

教会憲章において、聖体のいけにえは「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点」であって、感謝の祭儀にあずかることで、キリスト者は「神的いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる」と指摘されています(11)。

また教皇ヨハネ・パウロ二世は、「教会にいのちを与える聖体」において、ご聖体の重要性をこう述べています。
「教会は過越の神秘から生まれました。まさにそれゆえに、過越の神秘を目に見えるかたちで表す秘跡としての聖体は、教会生活の中心に位置づけられます。(3)」

実際にミサにあずかることができず、教会共同体にとって一番大切なこの聖体の秘跡に共にあずかることができなかったことは、教会にとって大きな苦しみであり、悲しみでありました。

お一人お一人の霊的な渇きを癒やすという、個人の信仰の充足という側面ももちろん大事ですが、それ以上に、ご聖体は共同体の秘跡です。そもそもミサそれ自体が、共同体の祭儀です。聖体は一人で受けたとしても、霊的聖体拝領を一人でしたとしても、共同体の交わりのうちにわたしたちはご聖体をいただきます。

それは司祭がひとりでミサを捧げても、個人の信心のためではなく、共同体の交わりのうちにミサを捧げるのと同じであります。

「教会にいのちを与える聖体」には、次のように記されています。

「(司祭が祭儀を行うこと)それは司祭の霊的生活のためだけでなく、教会と世界の善のためにもなります。なぜなら『たとえ信者が列席できなくても、感謝の祭儀はキリストの行為であり、教会の行為だからです』」(31)

パウロはコリントの教会への手紙で、「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でもひとつの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」と述べて、聖体祭儀が共同体の秘跡であることを強調されます。

「聖体は交わりを造り出し、交わりを育みます」と指摘する教皇ヨハネ・パウロ二世は、聖アウグスチヌスの言葉を引いて、「主なるキリストは・・・ご自分の食卓にわたしたちの平和と一致の神秘をささげます。一致のきずなを保つことなしにこの一致の神秘を受ける者は、神秘を自分の救いのために受けることができません」(40)とまで指摘しています。

わたしたちの信仰は、共同体の信仰です。わたしたちの信仰は、「交わり」のうちにある信仰です。「交わり」とは、「共有する」ことだったり、「分かち合う」ことだったり、「あずかる」ことを意味しています。パウロのコリントの教会への手紙に、「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」と記されていました。その「あずかる」が、すなわち「交わり」のことです。わたしたちの信仰は、キリストの体である共同体を通じて、キリストの体にあずかり、いのちを分かち合い、愛を共有する交わりのなかで、生きている信仰です。

これから段階的に公開ミサが再開されて、制約があるとはいえ、ご聖体をいただく機会があることでしょう。三ヶ月間、あずかれない状態が強制されていたのですから、そのときの喜びには大きいものがあることだと思います。でもその霊的渇きの期間を過ごしたわたしたちは、ご聖体を受ける意味をあらためて理解してから、拝領したいと思います。自分がキリストと信仰において一致するという個人的な喜びと同時に、拝領は共同体の交わりのうちに、兄弟姉妹と共に一つの体にあずかるのであり、だからこそ、一緒にあずかることのできない方々へ思いを馳せ、様々な思いを心に抱いている兄弟姉妹に思いを馳せ、配慮と心配りの時としていただきたいのです。

同時に、わたしたちはご聖体をいただくことで、「世の終わりまで、あなた方と共にいる」といわれた主イエスの約束を思い起こします。共にいてくださる主イエスは、その福音を世の終わりまで、世界の果てまで告げ知らせよと命じられた主です。ですから、ご聖体の秘跡にあずかるわたしたちは、福音を告げしらせないわけには行きません。

「教会にいのちを与える聖体」で、教皇ヨハネ・パウロ二世はこう記します。
「キリストとのこの一致によって、新しい契約の民は、自分たちだけで固まるのではなくて、人類一致のための「秘跡」となります。すなわち、すべての人のあがないのために、キリストによってもたらされる救いのしるしと道具、世の光、地の塩となるのです。教会の使命とキリストの使命は連続しています。・・・感謝の祭儀はあらゆる福音宣教の源泉であると同時に頂点でもあるのです。」(22)

申命記に、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と記されていました。

ご聖体を受けるわたしたちは、人となられた神のみ言葉をわたしたちのうちにいただくのですから、聖書に記された神の言葉に耳を傾け、それを通じて、イエスと日々出会うことも欠かせません。

公開ミサがなかったことで、ご聖体を実際にいただくことに思いが集中しますが、ミサを形作っている言葉の祭儀において、まず神のみ言葉に耳を傾けることも、忘れてはなりません。

共同体の交わりと一致のなかで、ご聖体と御言葉のうちに現存される主イエスと出会い、心のうちに一致し、愛の分かち合いから力をいただき、宣教への熱意を受け、聖霊に導かれながら、社会のただ中にあって、福音をあかしし、告げてまいりましょう。