大司教

聖霊降臨の主日@東京カテドラル

2020年05月31日

復活節の締めくくりでもある聖霊降臨の主日となりました。結局、2020年は、四旬節も復活節も、教会のミサを公開で行うことができませんでした。受洗を予定されていた多くの方や、また今日の聖霊降臨にカテドラルで合同堅信式を予定されていた多くの方。大変申し訳ない。大きな喜びの時を、大きな試練の時としてしまい、大変残念です。

今後、ミサが公開となっていった段階で、小教区教会共同体全体とは行かないかも知れませんが、共同体の中で、洗礼や堅信を受けるようにしてください。個人的に個別に行うと言うアイディアもありましたが、やはり洗礼も堅信も、緊急の場合を除いて、共同体のお祝いであり、共同体の一員として秘跡にあずかっていただくのが本来の姿です。今後、主任司祭が様々な工夫をして洗礼や堅信を行っていくことになりますので、よくご相談ください。

なお、現時点では、東京教区の小教区公開ミサを再開することはできません。もうしばらくお待ちください。緊急事態解除後に、感染者がゼロになったわけでもなく、亡くなられるかたもおられます。状況を見極め、また特に東京都のロードマップを参考にしながら、時期を定めてまいります。互いのいのちを守るために、慎重に行動したいと思います。

具体的な指針についての問い合わせが、いくつか教区本部にありました。お知らせしたように、4月末に、具体的な対応のガイドラインを小教区の司祭に配布しました。それぞれに必要な対応を準備していただくためです。公開していない理由は、東京教区の中でも地域によって状況が異なりますので、すべての小教区で統一した全く同じ対応をすることは難しいと思われるからです。ガイドラインの一人歩きは避けた方が賢明だと思います。各小教区では、教区のガイドラインに沿って、地域の状況に合わせたアレンジをしていただかなくてはなりません。その作業を、主任司祭と、この数週間は教会の役員の方々などと一緒に、進めていただいております。

ミサを公開する日時を定めましたら、その10日くらい前にはお知らせします。その際には、教区がすでに定めた具体的なガイドラインも公開します。それに基づいたそれぞれの小教区の対応も、お知らせすることになると思いますので、主任司祭の指示に従ってくださるように、お願いいたします。

以下、本日の説教の原稿です。
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聖霊降臨の主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年5月31日

緊急事態宣言が解除され、わたしたちは、閉じこもっていた部屋から解放されたように感じています。あの日の、恐れのなかにあった弟子たちのように、部屋の鍵をかけて隠れているような心持ちで、わたしたちも毎日を過ごしてまいりました。

感染にはこれからも繰り返し波があると指摘されていますから、緊急事態宣言の解除が安全宣言ではないことを心にとめて、慎重な行動をとらなければなりません。教会も、社会の中における責任を自覚し、また大切ないのちを守ることを優先して行動していきたいと思います。

あらためて、今回の事態にあたり、日夜努力を続けておられる医療関係者の方々に感謝し、また病床にある方々へいつくしみ深い御父の癒やしの手が差し伸べられるように祈ります。

恐れはわたしたちの心を束縛します。弟子たちは恐れに束縛されて、部屋に閉じこもりました。イエスはその部屋に入り、聖霊を与え、弟子たちを恐れの束縛から解放します。

「あなた方に平和があるように」と、「死」という最大の束縛から解放された復活の主は、弟子たちに言葉をかけます。それは、いつものあいさつの言葉に留まらす、恐れに束縛される心には、神の平和が欠如しているという事実を指摘しています。

神の平和とは、すなわち、神の秩序の実現です。神の平和の欠如とは、すなわち、神が求めておられる世界のあり方とは、正反対にある状態です。恐れる心は自分を守ろうとする思いに満たされ、他者への配慮に欠ける心となりかねません。互いに助けるものとして共に生きるようにといのちを与えられたわたしたちが、他者への心配りを忘れては、神の秩序の実現はあり得ません。

「聖霊を受けなさい」と恐れる弟子たちに、イエスは語りかけます。聖霊は、「いのちの霊、すなわち永遠のいのちの水がわき出る泉」であります(教会憲章4)。聖霊は、心の恐れを打ち砕く、いのちの源です。聖霊に生かされたとき、はじめて、神の平和が実現します。

使徒言行録は、聖霊によって生かされた弟子たちが、様々な言葉で福音を語る姿を記しています。もちろん聖霊をいただくことによって、様々な言葉が話せるようになれば、それはそれで素晴らしいことですが、この出来事が記されている本質はそこにはありません。大切なのは、言葉や文化の壁を乗り越えて福音が理解されたときに、はじめて、神の平和が実現する一歩が踏み出されると言うことです。

「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とイエスは、弟子たちに勇気を持って一歩前に踏み出すように促します。聖霊を受けた教会は、言葉や文化の壁を乗り越えて福音が理解され、神の平和が実現するようにと、遣わされています。神の望まれる世界の実現のために、遣わされています。

あらためて言うまでもなく、わたしたち一人ひとりはキリストの体の一部として、「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらった」のですから、主によって派遣されている教会の一部として、おなじように、一人ひとりがイエスによって派遣されています。

わたしたちの派遣の使命は、聖霊の導きに従いながら、復活された主イエスの福音をありとあらゆる方法で、なおかつ理解される方法で多くの人に伝え、神の平和を実現することにあります。

1998年に開催されたアジアシノドスを受けて発表された教皇ヨハネパウロ二世の使徒的勧告「アジアにおける教会」に、教会の派遣の使命について、次のような指摘があります。

「教会は、聖霊の促しに従うときだけ自らの使命を果たすことができることをよく知っています。教会は、アジアの複雑な現実において、聖霊の働きの純粋なしるしと道具となって、アジアのあらゆる異なった環境の中で、新しく効果的な方法を用いて救い主イエスをあかしするよう招く聖霊の促しを識別しなければなりません(18)」

その上で教皇ヨハネパウロ二世は、アジアにおける福音宣教の道を次のように示唆します。
「アジアにおいては非常に異なった状況が複雑に絡み合っていることを深く意識し、『愛に根ざして真理を語り』つつ、教会は、聞き手への尊敬と敬愛を持って福音を告げしらせます。(20)」

同じアジアにおける教会の一員であるわたしたちは、日本社会の現実の中へと派遣されて、「愛に根ざして真理を語」らなくてはなりません。わたしたちは、「尊敬と敬愛を持って」対話のうちに福音を告げなくてはなりません。聖霊の促しを受けて、その働きの純粋なしるしと道具となって、神の平和が実現するようにと、福音を告げなくてはなりません。

教皇フランシスコは、「福音の喜び」の終わりに、「聖霊と共にある福音宣教者」というひと項目を設けています。そこに「聖霊は、福音を宣教する教会の魂」だと言う言葉があります。

そして教皇は、こう呼びかけます。
「宣教活動の中心にイエスの現存を見いだすことがなければ、すぐに熱意を喪失して、伝えていることに確信が持てず、力と情熱を失うことでしょう。信念も、熱意も、自信も、愛情もない者は、誰も納得させえません。イエスと結ばれ、イエスが求めるものを求め、イエスが愛するものを愛してください(266)」

わたしたち自身が、イエスの現存を肌で、心で感じていなければ、何も伝えることはできない。わたしたちがそれを生きていなければ、何も伝えることはできない。

恐れは不信を生み、不信は利己主義へとつながり、連帯のきずなは崩壊します。恐れの内に閉じこもろうとする社会に、わたしたちはいのちの泉である聖霊の息吹を吹き込みたい。

だからこそ、聖霊に導かれる教会は、常に新たにされ、恐れて閉じこもることなく、勇気を持って福音を告げる努力を続けなくてはなりません。教会は常に、聖霊の呼びかけに応えているかを見つめ直さなくてはなりません。感染症の拡大という困難は、三ヶ月にわたって、これまでの教会活動を止めてしまいました。しかしそのことが同時に、この現実の中で教会のあるべき姿をあらためて探求しようとする、いわば黙想の時間を、わたしたちに与えてくれました。教会は、困難な状況をくぐり抜けた後で、新たに立ち上がることを求められています。一人ひとりがキリストの体の一部として、現実の中で福音をあかしするよう派遣されている使命を、あらためて自覚するときは、今です。

社会に定着しようとする新しい生活様式とは、単にマスクをいつも着けることだとか、充分な社会的距離を保つといった、外面的な規則を守ることに留まるのではありません。それは生き方の転換や価値観の転換を促す、社会構造の変革の機会でもあります。

発表されてちょうど五年となる回勅「ラウダート・シ」において、総合的エコロジーの視点を強調される教皇フランシスコは、「後続する世代の人々に、今成長しつつある子どもたちに、どのような世界を残そうとするのでしょうか」と問いかけ、さらに「この世界でわたしたちは何のために生きるのか。わたしたちはなぜここにいるのか」と言う根本的な問いに対して、真摯に向き合うようにと呼びかけます(160)。

聖霊に導かれて、恐れに打ち勝ち、日々新たにされながら、神の望まれる世界、すなわち神の正義が具体化する新たな世界の実現を目指して、一歩前に踏み出しましょう。