大司教

復活節第四主日@東京カテドラル

2020年05月03日

復活節第四主日は、善き牧者の主日などとも呼ばれ、世界召命祈願日ともされています。

説教でも触れましたが、例年ですと、この日曜の午後から、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、東京大司教区の一粒会(司祭・修道者の召命のために祈り支える会で、教区の全員が自動的にそのメンバーです。「いちりゅうかい」とよみます)が主催して、召命祈願ミサが捧げられてきました。今年は緊急事態宣言下で公開ミサが中止となっていますから、残念ながら召命祈願ミサがありませんが、是非とも司祭や修道者の召命のためにお祈りください。

神学生の養成については、現在は新しく1年間の「予科」が加わり、全部で7年の課程となっています。つまり、今日、司祭志願者が現れても、その人が司祭になるのはどんなに早くても7年から8年後のことなのです。上石神井にある東京カトリック神学院で行われる司祭養成の費用も、(神学院は伝統的に全寮制ですから)かなりかかっており、一粒会の献金がその養成費用を支えてくださっています。感謝申し上げますとともに、これからも司祭養成のための支援とお祈りをお願い申し上げます。

現時点で東京カトリック神学院には、東京教会管区(札幌・仙台・さいたま・新潟・横浜・東京)と大阪教会管区(名古屋・京都・高松・広島・大阪)の神学生が27名在籍しており、それ以外にも宣教会や修道会などから数名が通学や共住の形で、司祭養成を受けています。その中で、東京教区の神学生は、現時点では6名です。

以下、本日の映像配信ミサの説教の原稿です。
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復活節第四主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年5月3日

羊が羊飼いの声を聞き分けるためには、羊飼いの声が届かなければなりません。

教会は、教会という建物に、定期的に信徒が集まることで、共同体を維持してきました。牧者であるキリストの声は、教会の司祭を通じてまず届けられ、わたしたちはそこからさらにすべての人へと牧者の声を届けようとしてきました。

今般の事態が発生し、教会は牧者であるキリストの声を届ける手段を失いました。一番確実だった、教会に集まってくるみなさんを通じて、牧者の声を届けるという方法をとることができなくなりました。感染を避けるために、社会的距離をとることや、できる限り自宅にとどまることが求められ、社会での人との関わりや、奉仕活動を通じて、牧者の声を届けることに困難が生じています。

教会は混乱する社会に、牧者のいのちの言葉を届けたい。日夜奮闘する医療関係者に、牧者の励ましの言葉を届けたい。病床にある人たちに、牧者の癒やしと慰めの言葉を届けたい。

そこで牧者の声が少しでも届くようにと、カテドラルから主日のミサをインターネットで配信しています。例えば先週の日曜日のミサは、配信された時点の中継で七千人ほどのかたが見てくださり、その後に再生された回数は二万回を超えています。

その数字は確かに、多くの方が見てくださっている証左ではありますが、同時に、教区全体の信徒数と比較すれば、ごく一部の方々に過ぎません。すなわち、インターネットを通じて、牧者の声は、一定数の方々には確かに届いているのですが、それ以上に、例えば教会共同体にはインターネットにアクセスすることのできない方も多い。この事態にあって、牧者の声から除外されている人たちが、多くおられることに、心を痛めています。なんとかひとりでも多くの人に、牧者の声を届け、さらにはすべての人に希望と励ましの主キリストの声を届けたい。そう思います。

教会は復活節第四主日を、世界召命祈願日と定めており、司祭や修道者への召命のために特に祈りを捧げる日となっています。例年であれば、教区の一粒会が主催して、この日の午後にカテドラルでは、神学生や志願者を招いて召命祈願ミサが捧げられてきました。残念ながら、今年のミサは中止となりましたが、あらためてみなさまには、司祭・修道者への召命のために、またその道を歩んでいる多くの方のために、お祈りくださるようにお願いいたします。

教皇様は、今年の祈願日にあたって発表されたメッセージに、こう記されています。
「主がわたしたちをお呼びになるのは、わたしたちを『水の上を歩く』ことができるペトロのようにしたいと願っておられるからです。水の上を歩くとは、主が示される具体的で日常的な方法で、とりわけ、信徒、司祭職、奉献生活のさまざまな形態の召命を通して、福音のためにささげるものとして自分の人生を手にすることです。」

すなわち、召命を語ることは、ひとり司祭・修道者の召命を語ることにとどまるのではなく、すべてのキリスト者に対する召命を語ることでもあります。司祭・修道者の召命があるように、信徒の召命もあることは、幾たびも繰り返されてきたところです。

第二バチカン公会議の教会憲章に、こう記されています。
「信徒に固有の召命は、現世的なことがらに従事し、それらを神に従って秩序づけながら神の国を探し求めることである。自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、あたかもパン種のように内部から働きかけるためである」(31)

いまほど、司祭・修道者の召命に加えて、信徒の召命を深める必要があるときはありません。牧者であるキリストの声を、すべての人に届けるためには、キリスト者の働きが必要です。

「自分自身の務めを」社会の中で果たしながら、「パン種のように内部から働きかける」召命を生きる人が必要です。

「福音の精神に導かれて、世の聖化」のために召命を生きる人が必要です。

教皇フランシスコは、使徒的勧告「喜びに喜べ」で、キリスト者が聖性に生きることの必要性を説きながら、次のように記しておられます。
「聖なる者となるのに、司教や、司祭、修道者になる必要はありません。わたしたちは聖性が、日常のもろもろから離れて、祈りに多くの時間を割くことのできる人だけのものだと思ってしまいがちです。そうではありません。それぞれが置かれている場で、日常の雑務を通して、愛を持って生き、自分に固有のあかしを示すことで聖なる者となるよう、わたしたち皆が呼ばれているのです」(14)。

聖なる者となる。考えてみれば、品行方正で立派な生き方をせよと求められても、そんなに社会の現実は簡単ではないと、おもわずひるんでしまう呼びかけであります。しかし教皇フランシスコは、聖性とは単に掟をよく守った上で品行方正となることではなくて、「聖性とは、完全に愛を生きることにほかならない」と指摘しています(21)。

不安が増し、危機感を募らせ、身を守ることに心を砕くあまり、他者への思いやりが消え、殺伐とした雰囲気が感じられるいまの社会だからこそ、わたしたちは愛に生き、愛を伝えたい。

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ」(1コリント13:5-6)と記されたコリント書の言葉を思い出します。その愛が、今の時代に必要です。

困難な状況の中で翻弄されながら、わたしたちは毎日、先へ進もうと努力を続けています。誰ひとりとして将来を見通すことができない中で、わたしたちは闇雲に彷徨っているわけではありません。牧者である主キリストは、羊であるわたしたちの名を呼んで、後についてくるようにと招かれています。羊の門である主キリストは、緑の牧場へ至る道を示してくださいます。

いまわたしたちは、大きな困難の中でいのちの危機に直面しているからこそ、牧者である主キリストの声を、ひとりでも多くの人に伝えることが不可欠です。

だからこそ、できる限り多くの人に、牧者の声を届ける使命に生きる人が必要です。司祭・修道者の召命が必要であると同時に、まさしく今すぐ、社会のただ中で、忘れ去られる人がいないようにと、忍耐強く、情け深く、ねたまず、自慢せず、高ぶらず、礼節を守り、利益を求めず、いらだたず、恨みをいだかずに、愛に生きる人が必要です。

そして、先行き不安の中で疑心暗鬼が深まる社会にあって、パン種のように、「神に従って秩序づけながら神の国を探し求める」召命に生きる人の存在が、これまで以上に必要です。

神からの呼びかけは、特別な人にだけ向けられているのではなく、皆さん一人ひとりに向けられています。

牧者であるキリストの声が、社会に大きく響き渡るように、すべての人に届くように、努めましょう。神の愛に生きることによって、聖なる者となりましょう。

世の終わりまでともにいてくださる主に信頼しながら、その声がすべての人の心に響き渡るように、わたしたち一人ひとりに与えられている召命を見つめ直してみましょう。