菊地大司教

    聖金曜日・主の受難の典礼@東京カテドラル

    聖なる三日間の典礼が続いています。

    聖金曜日の典礼。主イエスが十字架上で亡くなられ、墓に葬られたことを思い起こしながら、沈黙の内に祈ります。

    本日の典礼での説教の原稿です。
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    聖金曜日・主の受難
    東京カテドラル聖マリア大聖堂
    2020年4月10日

    世界のすべての人たちと共に、わたしたちは今、いのちの危機に直面しています。そこから逃れる術をまだ知らず、ただただ神に助けを求めて苦しんでいます。わたしたちと同じ人となられ、人間として苦しみを耐えしのばれた主の十字架を仰ぎ見ながら、苦しみに直面しているわたしたちが、そこから何を学ぶことができるのか。日々、黙想しています。

    生活の中で当たり前であったことを、順番に失いつつある今、わたしたちは生き方を変えるように促されていると感じます。

    主イエスが耐え忍ばれた苦しみ、十字架上の受難と死をあらためて心に刻む今日の典礼は、主の苦しみが自分とは無関係な苦しみではなく、まさしくわたしたちのための苦しみであったことを思い起こすようにと、招いています。

    第一朗読のイザヤの預言には、「彼が担ったのはわたしたちの病。彼が負ったのはわたしたちの痛みであった・・・彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった」と記されていました。

    人類の救い主である主イエスが、わたしたちの犯した罪と苦しみをすべて背負われて、贖いのいけにえとして、十字架の上で命をささげたのだと思い起こさせる、預言者の言葉です。

    この主の苦しみは、わたしたちにどう生きるようにと促しているのでしょう。

    十字架上で激しい苦しみの中にある主イエスの傍らには、母マリアと愛する弟子が立っていたと、受難の朗読に記されていました。

    苦しみの中でいのちの危機に直面していた主は、その中にあっても、他の人々へ配慮することを忘れません。自分の苦しみを耐えしのぶことで精一杯であったことでしょう。しかし、それでも主イエスは、他者への心配りを見せるのです。神の愛そのものである主の心は、いつくしみと思いやりにあふれています。

    「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と母マリアに語りかけ、愛する弟子ヨハネが代表する教会共同体を、聖母にゆだねられました。またそのヨハネに「見なさい。あなたの母です」と語りかけられて、聖母マリアを教会の母と定められました。まさしくこのときから、教会は聖母マリアとともに主の十字架の傍らに立ち続けているのです。

    その全生涯を通じて、イエスの耐え忍ばれた苦しみに寄り添い、イエスとともにその苦しみを耐え忍ばれたことによって、「完全な者」として神に認められた聖母マリアの生涯を象徴するのは、十字架の傍らに立つ姿です。十字架上のイエスは私たちの救いの源であり、傍らに立つ聖母マリアはその希望のしるしです。

    私たちも、同じように、「完全な者」となることを求めて、聖母マリアとともに十字架の傍らに立ち続けたいと思います。神の民である教会は、聖母マリアと同じようにイエスの苦しみに心をあわせ、自分のためではなくすべての人のために、神の望まれる道を、「お言葉通りにこの身になりますように」と、歩み続ける勇気を持たなくてはなりません。

    十字架は、復活の栄光へとつながる希望です。十字架は敗北ではありません。その苦しみと死ですべてが終わってしまう敗北の象徴ではありません。主イエスは、十字架の苦しみを通じてすべてを無にして神にささげたが故に、復活の栄光に到達しました。ですからわたしたちにとって、十字架は希望です。

    教会は、聖母マリアと共に、十字架の傍らに立ち続けながら、苦しみを耐え忍びつつ、十字架がもたらす新しいいのちへの希望を高く掲げようとしています。

    苦しみの中にあっても他者への配慮を忘れない主ご自身に倣うように、聖母マリアも、苦しみの人生を歩みながら他者への配慮を忘れない存在です。神にすべてを捧げ、心が剣に刺し貫かれる苦しみの生涯であったにもかかわらず、常に他者への心遣いを忘れない生き方です。

    教会は主イエスの十字架の傍らに立ち続けながら、主ご自身に倣って、また母である聖母マリアに倣って、苦しみの中にあっても、助けを求めている人、弱い立場にある人、忘れ去られた人、排除された人、苦しみにある人への心配りを忘れない教会であり続けようとしています。

    人となられた神の言葉を宿され、そのいのちを育んだ聖母マリアを教会の母とすることで、主イエスは、いのちの尊厳をまもる責務を教会に与えられました。

    教会は主イエスの十字架の傍らに立ち続けながら、どのような困難な中にあっても、神の賜物であるいのちをまもることが最優先なのだと、困難の直中にあって自覚を新たにしています。

    いま、感染症の拡大という困難の中にあって、多くの医療関係者が、いのちを守るために、日夜働いておられます。自分自身もいのちの危機と隣り合わせの中で、いのちを失うことのないように、挑戦を続けておられます。その働きに感謝すると共に、彼ら自身の健康を、いのちの与え主である神がまもってくださるように、心から祈りたいと思います。

    医療関係者の献身的な働きに、わたしたち教会も学びたいと思います。

    十字架上の主の苦しみは、わたしたちにどう生きるようにと促しているのか。教皇フランシスコはたびたび、無関心のグローバル化と、むなしいシャボン玉に閉じこもった利己主義が、多くのいのちを奪っているのだと指摘され、「新しい普遍的な連帯」の必要性を説いていました。

    今世界は、連帯しなければ生き残れないのだと、実感しています。互いに助け合うことの大切さを、体験しています。苦しみの直中にあっても、他者のために心を配ることの重要さを、学んでいます。実際に集まっていなくても、心のきずなで結びあわされて、共同体を創ることができるということを、目の当たりにしています。

    苦しみの中にあるときにこそ、より「完全な者」となる道を求め、十字架の苦しみに心を合わせ、その十字架が指し示す復活の栄光と希望を目指しながら、神の愛といつくしみが満ちあふれる世界の実現のために、今歩みを始めましょう。

    東京大司教タルチシオ菊地功