教区の歴史
2017年こどものミサ説教
2017年10月08日
2017年10月8日、東京カテドラル聖マリア大聖堂
2017年の『こどものミサ』は、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という、ルカによる福音書の言葉から採られ、副題は「今日 愛と優しさをもって」となっております。今日、ご一緒に、この福音書の言葉を学び、分かち合いをしたいと思います。
イエスの一行は、町や村を巡り歩きながら、エルサレムに向かって進んでいました。
すると、誰かが、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(ルカ13・23)と聞いたとあります。
「救われる者が、多いか、少ないか」という問題に、主イエスは、直接お答えにならなかったような印象があります。そして、次のように言われました。
「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。(ルカ13・24-25)
もし、わたしたちが、「お前たちがどこの者か知らない」と言われたら、困ってしまいます。どのような場面なのでしょうか。
もしかしたら、もう、神様に向かう旅路が終わるとき、つまり、わたしたちが、この地上の生涯を終えて、神様の前に立つというときのことなのかもしれません。
わたしたち人間は、神様のみ心に従って、この世に送られてきました。そして、また、神様のところに戻る旅、長い旅、人によっては短い旅、途中、いろいろなことがある、危ないことがある、難しいことがある、よく分からないことがある、その旅を歩んで、神様のところへ向かう。そして、わたしたち人間は、いつか、死ななければならない。死ななければならないというよりは、死ぬことができると言った方が良いのかもしれない。
でも、もし、その最後の時に、神様から、「お前のことなど知らない」と言われたら、これは、非常に困ります。「よく来たね。よく頑張ったね。さあ、いらっしゃい。大歓迎だよ」と言ってもらいたいわけです。
どうでしょう。わたしたちは、そのように言ってもらえるでしょうか。
わたしたちが、毎日、神様がお喜びになるようなことをし、何も悪いことはせず、問題になることがなければ、胸を張って、「さあ、到着しました。わたしは立派に生きてきました」と言うことができるのですが、なかなか、そのような人はいません。もし、そのように言うとしたら、正直ではないと思います。
旧約聖書は、神様がお教えになった色々な掟、とくに大切な10のおきてである十戒を教えています。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われました。そこで、わたしたちは、そのようにしようと頑張っている。しかし、そうであるとは言っても、みなさんがどうであるかは、わたくしには分かりませんが、わたくしなどは、とても、胸を張って、「わたくしは問題ありません。真っ白です」と言うことができない。いつも、「申し訳ありません。もう少し頑張ってみます」という気持ちでいます。
人間は、自分の力で、神様のお望みになることを、完全に果たすことはできないと思います。
では、どうすれば良いのか。わたしたちの救い主、イエス・キリストがおられます。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14・6)
逆に言うと、「わたしが一緒だから、あなたがたを、天の御父のところを連れて行ってあげるよ。わたしと一緒に来なさい。わたしに信頼しなさい。あなたが弱い者であり、罪を犯す者であるということを、わたしは知っている。それでも、わたしに信頼する限り、わたしに打ち明けて、一生懸命やりますと言う限り、あなたは、毎日、新しく生まれることができる」と言っていただく。
ですから、やっと、神の国を完成する日、あるいは、天の御父がお住みになっている家に来て、門をたたいて、「開けてください」と言うときに、御子イエス・キリストが、いつも一緒にいてくださること、御子がとりなしてくださることを信じる人、何か問題があっても、「ごめんなさい。わたしにはこのような問題があります。でも、そのようなわたしを、神様は、赦し、大切にしてくださっています。それを信じます。神の愛を信じます。どうか、宜しくお願いします」という気持ちでいる人、そのような人が、「よく来たね。どうぞ、どうぞ」と言って、中に入れてもらえるのだと思います。
この、『狭い戸口』は、狭いからなかなか入ることができないと、よく言います。これは、イエズス様を知らない人にとっては、難しい。それは、狭いとか、広いとかという問題ではありません。
人間は、どんなに努力しても、神様のお望みになることを、全部果たすことはできません。できないということを分かっている人は、イエズス様の導き、イエズス様からいただく赦しを信じます。
わたしたちの教皇フランシスコは、『いつくしみの特別聖年』を行いました。
「『神様はいつくしみ深いかたである』ということを、もっと深く、信じることができるように、毎日を過ごしましょう」という話がありました。そのことを、思い起こしましょう。
人生には、危険なこと、困難なことがあります。失望したり、絶望したりすることがあるかもしれない。そのようなときにでも、復活したイエスが、いつも一緒にいてくださるように、イエスの霊、聖霊は、わたしたちと、いつも一緒にいてくださると、そして、いろいろな聖人の模範があり、聖人もいろいろな困難の中で、信仰を守り、主イエスとともに神さまのもとにたどり着きました。
いま、もしかしたら、大変困難な時代であるかもしれない。この日本において、イエス・キリストを信じ、神様を信じ、そして、生涯を信者として生きるということは、易しいことではありません。それを、みなさんはしている。大変立派なことだと思います。
お互いに助け合わないといけません。信仰というのは、その人と神様の関係ですが、神様を信じる者同士が、励まし合うことによって、わたしたちの信仰は、より確かな、より強いものになっていきます。
年に1回の『こどものミサ』は、そのために、非常に大切な、素晴らしい機会であると、わたくしは思います。今日、カテドラルに集まってくださったことを、本当に嬉しく、感謝しております。