教区の歴史

教区の歴史

ベタニア修道会創立80周年記念・ミサ説教

2017年06月23日

2017年6月23日、イエスのみ心の祭日、徳田教会

[聖書朗読箇所]

本日、イエスのみ心の祭日は、ベタニア修道女会の創立80周年の日であります。
イエスのみ心は神の愛、イエスにおいて現われた神の愛を表しています。イエスはまことの人間として、人間の心を持って人を愛しました。イエスのみ心は、イエスの人間としての愛を示しています。
1675年、フランスのマリア訪問会の修道女マルグリッド・マリー・アラコックにイエスが出現し、ご自分の心臓を示しながら、人々の忘恩を嘆いていわれました。
「聖体の秘跡において受けたすべての辱めを償うために、聖体の祭日の次の金曜日に祝日を設け、償いのために聖体拝領をしてほしい。」
イエスのみ心への信心は聖人たちの働きによって多くの人々へ広がり、「聖心」の名を用いた修道会や信心会が多数創立されたのでした。

今日の第一朗読、申命記でモーセは言っています。
「(神は)ご自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。」(申命記7・9-10)
そうは言っても、イスラエルの民は、なかなか神の戒めと定めを守ることができませんでした。そこで、神は、同時に自らを、この弱く脆く間違いを犯す人間を赦し受け入れる神として自らを表します。この神の愛は、いわば傷つき迷うわが子を受け入れ癒す母の愛であると、言えましょう。
旧約聖書から新約聖書の流れの中で次第に、神の愛は同時に「赦す愛」であることが明らかにされます。「赦す愛」はイエス・キリストの十字架において最高潮に達しました。槍で貫かれたイエスのみ心は人々の罪を担い、罪を赦す神の愛を示しています。

イエスは言われました。「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11・28)
イエスの愛はわたしたちを招く愛です。イエスは「わたしのもとに来なさい」といい、さらに「わたしの軛(くびき)を、負い、わたしに学びなさい。」(マタイ11・29) 
実はわたくしには、このイエスの言葉は、聖マルグリッド・マリー・アラコックに告げられたイエスの嘆きの言葉を想起させるのです。
イエスの愛は罪人を受け入れ包む愛、いわば母の愛ですが、イエスの与える軛(くびき)を負うことを、そしてイエスに学ぶことを求める愛です。
キリスト教の教えを一言で言えば、「神は愛」ですが、神の愛は人の歩む道である戒めを教え導く愛であり、また同時に弱さと過ちの中で迷い苦しむ人間を包み癒し救う、母のような愛でもあります。
今日の第二朗読、ヨハネの手紙で、使徒ヨハネは繰り返し「神は愛である」と宣べ、互いに愛し合うよう求め、語っています。キリスト教が人々へ伝えたい命題は結局「神は愛である」という短い信仰告白にまとめられます。聖書はすべて神の愛を語ります。

さて、キリスト教が日本に伝えられたとき、キリシタンの時代福音宣教者は現在「愛」と訳されているギリシャ語の「アガペー」という言葉をどのような言葉に言い換えるか、を問題にしました。
仏教では、「愛」は、「執着、妄執、欲望」などに結び付く、否定的な意味をもつ言葉であったからです。そこで福音宣教者は「ご大切」という言葉を採用した、と聞いています。
明治時代になって宣教が再開された時、そのような過去は忘れ去られて、「アガペー」は「愛」と訳されて今日に至っています。
現在でも「愛」は不適当である、という意見があります。その理由は、仏教の「愛」とは別な理由によるようです。それは、「愛」とは上から下への愛情、親から子へ、主君から家来へ、男性から女性への愛情・行為・施しを上から目線の愛を意味するとされているからです。
確かに以前はそういう面がありましたが、それは昔のこと、現在では、対等な人間関係の愛情を表す場合に使われています。
「個人の立場や利害にとらわれず、広く身のまわりのものすべての存在価値を認め、最大限に尊重していきたいと願う、人間本来の豊かな心情」という説明があります。(『新明解国語辞典』)この説明は優れてキリスト教的であると言えましょう。

「愛する」を「大切にする」とする方が適切かもしれませんが、もう定着している「愛」の意味を相応しく理解し使用できれば、「愛」でよい、と考えます。
「神は愛です」を「神は大切です」とは言い難いのでどう表現するのか。強いて言えば、「神は、人をはじめ存在するものをすべて大切に思っている」となるのでしょうか。