教区の歴史

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灰の水曜日の説教

2017年03月01日

2017年3月1日 カテドラル

[聖書朗読箇所]

説教

今日から四旬節が始まります。
この後、灰の祝福が行われ、頭の上に灰を受けていただくことになります。

そこで、思い出すひとつの和歌がございます。
「塵(ちり)に出で 塵にかへれる人なるを いまし頭上に灰をいただく」。

わたしたち人間は、塵から出て、また、塵に返るものです。土から出て、土に返っていく。
昨日、落合の斎場で、内山賢次郎神父様の火葬がありました。神父様が亡くなると、わたしたちは、いつも同じ火葬場、落合にある斎場に行って、荼毘(だび)に付(ふ)してもらいます。1時間くらいすると、火葬が終わって、声が掛かって、わたしたちは、遺骨、遺灰を骨壺にお納めする。みなさんもしていらっしゃることですが、骨上げ(こつあげ)と言うのでしょうか。
司教は、通常、司祭の葬儀を主宰する。神父様たちは、葬儀をいつもなさっていますが、わたくしの場合は、神父様のご葬儀をする。最近までご一緒だった方が、このように、遺骨、遺灰になってしまった。そのような、痛切な思いを持ちます。

そして、折しも、その翌日、今日が、「灰の水曜日」です。今年は、そのような巡り合わせになっています。人間は、誰でも、いつかは、地上の生涯を終えて、土に返る。
しかし、わたしたちにとっては、それだけではありません。わたしたちは、「死は滅びではなく、神様のもとに帰ることである。死は新しいいのちへの門であり、地上の住み家を出て、天上の住み家へと旅立つことである」と信じています。今日は、この教えを深く思う日であると思います。

これから行う、灰の式の中で、わたくしが唱えるお祈りは、次のようになっています。
「土から出て、土に返っていくわたしたちが、四旬節の務めに励み、罪の赦しを受けて、新しいいのちを得(え)、復活された御子の姿にあやかることができますように」。この祈りに、今日の典礼の主旨が込められております。

3つの朗読を思い起こし、ご一緒に味わいましょう。
第一朗読、ヨエルの預言。
「今こそ、心からわたしに立ち帰れ
断食し、泣き悲しんで。
衣を裂くのではなく
お前たちの心を引き裂け。」
神に立ち帰る。自分の人生を、神様に向かうように、向きを変える。変え直す。
心を引き裂きなさい。心を引き裂くという表現は、非常に印象的ではないでしょうか。

第二朗読は、コリント書・二。
「神と和解させていただきなさい」という言葉が、わたくしの心に留まりました。
神との和解。それは、神様に、わたしたちの罪を赦していただくということ。神様とわたしたちとのつながりを回復し、つながりを新たにし、よりしっかりとしたものとなるように、わたしたちの心を改める。心を清くしていただくことではないかと思います。

マタイによる福音。
偽善の戒めです。偽善と言われると、たじろいでしまう気持ちがあります。心にあることと、表現していることとの間に、ずれがある。言葉、表情、行動では、素知らぬ顔をして、自分が善いことをしていると装いながら、実は、心の中では、自分を満足させる、人から認めてもらう、自分の欲望を満足させることを、心の中で強く意識しているという場合、表と裏、外と内がかけ離れている。そのような場合、偽善というのではないでしょうか。自分の中に、偽善が全くないとは言い切れない。そのような思いを、いつも申し訳ないと感じています。

地上の生涯は、いつかは終わりになる。土から出て土に返る。しかし、わたしたちの存在は、ただ、状態が変わるだけで、新しいいのちへと進んでいくと、わたしたちは信じている。死という門を通って、新しいいのちに移るまでの、地上の生涯。限られた時間が、ますます縮まっていきますが、大切にしたい。心を込め、ただ、神様に向けて、ささやかであっても、自分にできる真心のある献げ物を、そのような犠牲をお献げして、四旬節を過ごしたいと考えております。