教区の歴史

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平和旬間2016-平和を願うミサ

2016年08月06日

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤの預言(イザヤ11・1-10)
第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙(ロマ書8・18-25)
福音朗読 マタイによる福音(マタイ5・1-10)

(福音本文)

第一朗読  イザヤの預言(イザヤ11・1-10)  
エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。  
彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。  
その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる。  
狼は小羊と共に宿り、豹(ひょう)は子(こ)山羊(やぎ)と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇(どくじゃ)の穴に戯(たわむ)れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。  
わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。  
その日が来れば、エッサイの根は、すべての民の旗印(はたじるし)として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。

第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙(ロマ書8・18-25)  
現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。  
つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。  
わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

福音朗読 マタイによる福音(マタイ5・1-10)  
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。  
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。  
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。  
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。  
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。  
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。  
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。  
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」

 

 

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