教区の歴史

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2015司祭集会閉会ミサ説教

2015年10月28日

東京カテドラルにて

[聖書朗読箇所]

説教

イエスは一晩中祈ってから12人を選んで使徒とされました。そのなかに二人のユダが入っています。一人は今日記念する使徒の聖ユダともう一人のユダ、後で裏切り者となったユダでした。イエスが祈りを込めて選んだ使徒の中にも裏切る者がいた、という事実にわたしたちは神秘を感じ深い感慨を憶えずにはいられません。

イエスは自分が選んで使徒にしたこのユダを最後まで深く愛したのでした。ユダに限らず、イエスの選んだ弟子たちは、ユダに限らず、欠点もあり罪をおかす人々でした。イエスはその極みまでこの弟子たちを愛されました。

いまわたしたちの教会を見るに、非常に難しい状況に置かれています。問題は教会の外にあるだけでなく、教会のなか、わたしたち自身の中にも存在します。

わたしたち司教も司祭も罪人であり、欠点のある身です。わたしたちは兄弟を傷つけ、また兄弟によって傷つけられています。実際わたしは痛感しますが、自分のすぐそばにいる兄弟のことを分かっていないのです。

わたしは、しばしば自分がわかってもらえないと嘆きますが、ではお前は隣の人の心を分かっているのか、問われると、わかっていない、としか言えません。お互いに相手のことがわからないし、相手を傷つけてしまう、という事実を謙遜に認め、お互いにゆるしあい受け入れあうのでなければならないと思います。

しかし罪人の教会の中に神の力を働いています。わたしも時には失望し、落ち込んでしまいますが、その際、自分の司教のモットーの聖句で自分を励ましています。

それは次に言葉です。

主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(イザヤ40・31)

そういえば、教皇ベネディクトは『希望による救い』(2007年11月)という回勅を出しています。この表題はローマ書8章24節からとられています。

わたしたちは、このような希望によって救われているのです。

ちなみにこの個所は昨日のミサの朗読個所でした。

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。

つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。

被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。

わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

わたしたち人間はいつか自分が完全に贖われて解放される時を待っていますが、実は被造物全体も虚無から解放され、滅びからの隷属から解放される時を待っている、とパウロは言っているのです。

大変壮大な展望です。宇宙はやがって主イエスの来臨の時に神の計画の完成を見、すべての被造物は神の栄光に輝きます。その時まで地上では悪との戦いが続きます。神は忍耐強く、創造の完成のときまでわたしたちの罪を見過ごされます。

知恵の書は言います。

全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。あなたは存在するものすべてを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われない。

憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。あなたがお望みにならないのに存続し、あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。

命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる。(知恵11・24-26)

わたしたちの教会には問題が山積しています。困難な時を迎えています。そのような状況ですからなおさらわたしたちは、人々のための希望のしるしとして、しっかりと歩んで行きたいと思います。

日々の試練の中で次の祈りは心からの真摯な祈りであります。

(主の祈りの副文)
いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、
現代に平和をお与えください。
あなたのあわれみに支えられ、罪から解放されて、
すべての困難に打ち勝つことができますように。
わたしたちの希望、救い主イエス。キリストが来られるのを
待ち望んでいます。