教区の歴史
大司教着座15周年記念ミサ説教
2015年09月06日
2015年9月6日 年間第23主日 関口教会にて
説教
いま読まれた福音は、イエスが、耳が聞こえず口も聞けない人を癒された話です。このときイエスは「エッファタ」というアラマイ語の言葉を使っています。「これは『開け』という意味である」(マルコ7・34)とギリシャ語で説明しています。実際にイエスが話したアラマイ語でした。
しかし現代に伝わるマルコ福音はギリシャ語で書かれています。ただし「エッファタ」の例のように、何箇所かで、イエスが実際に口に上らせたアラマイ語が表記されています。
イエスがこの言葉を発するとすぐに、この言葉が意味する結果が実現し、その人は癒されたのでした。このイエスの癒しの場面を目撃した人々の心にイエスのこの言葉の音声が深く印象付けられたに違いありません。(このような例は他にも「タリタ、クム(少女よ、起きなさい)(マルコ5・41)や十字架上のイエスの言葉「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(マルコ15・34)という言葉が、アラマイ語だと思います。福音書はギリシャ語で書かれていますが、これらの部分にはアラマイ語の表記のまま残されたのでした。
イエスの言葉には力がありました。その言葉は必ずその指し示す意味を実現します。
本日の第一朗読のイザヤ書はあらかじめこのイエスの癒しのみ業を、メシアの到来のしるしとして告げている、と福音書作者は理解したと考えられます。
主日の福音はイエスの生涯、イエスの言葉、イエスの生き方を伝えています。
人の話を聞き、人に話すということは人間が人間らしく生きるために欠かせない、基本的な、他の人との交わりの手段です。イエスはこの働きを奪われていた人に深く同情し、その働きを回復させ、人間らしく生きる道を整えたのでした。
わたしたちキリストの弟子たちは、病気・障がいのために他者とのコミュニケーションの手段を奪われている人が存在しています。また言語の違い、差別、排斥、除外の状態に置かれて、通常の交わりの手段を否定されている人々が存在しています。人々の間に心の交わりの手段を回復し、人々の間のコミュニケーションを発展させるということは、キリストの弟子たちの大切な務めです。
きょうはさらに、言葉の大切さ、ということにあらためて思いを深めたいと思います。とくに次の二点に留意したいと思います。
1.自分の言葉に責任を持つ。言葉は、人を励まし、慰め、導くために言葉を使う。誠実の誠とは、言葉が成る、実現する、という意味ではないでしょうか。
2.言葉で人を傷つけたり欺いたりしないよう、厳に気を付ける。
どんな宗教も言葉の大切さを教えていると思います。 *
エフェソ書の教えを肝に銘じましょう。
「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。・・・
無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。」
* 仏教の教え十善戒の中の4つは言葉についてのお教えです。(不妄語、不綺語、不悪口、不両舌。)