教区の歴史

教区の歴史

豊四季教会司牧訪問ミサ説教

2014年08月31日

2014年8月31日 年間第22主日 豊四季教会にて

[聖書朗読箇所]

説教

「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をするもの。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マタイ16・23)

今日の福音の中でペトロはイエスから、このように、激しく叱責されています。ペトロにとってイエスがこれから苦しみを受けて殺されてしまうなんて、とんでもないこと、理解のできないことでした。このペトロに気持ちをわたしたちは理解することができます。しかもこれは、ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と立派に信仰告白した直後に起こった出来事なのです。(先週の福音の箇所参照)

実は、イエスとペトロの間にはイエスの使命についての理解に大きな隔たり、相違があったのです。このときペトロの信仰はまだ、はなはだ未熟でした。ペトロは受難と復活についても何も理解していないようです。

主なる神は、預言者イザヤを通して言われました。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり

わたしの道はあなたたちの道と異なると

主は言われる。」(イザヤ55・8)

神の思いと人の思いの間には天地の差ほどの違いがあります。

第一朗読で預言者エレミヤは述べています。

「主の言葉のゆえに、わたしは一日中

恥とそしりを受けなければなりません。」(エレミヤ20・8)

エレミヤは、人々が到底受け入れない、厳しい言葉を、主の名によって語らなければなりませんでした。その主の言葉は人々の思いとはかけ離れていました。そのためにエレミヤは大いに苦しみました。

人間は自分で判断し決断する能力を与えられています。しかし同時にわたしたちは自分の判断を神の判断に従わせなければなりません。神のなさること、言われることには、理解できないこと、受け入れがたいことがあります。

しかし、自分の判断を神にゆだねて生きること、それが信仰ではないでしょうか。

イエスは言われました。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ16・24)

本日の第二朗読でパウロは言っています。

「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがなすべき礼拝です。・・・心を新たにして自分を変えていただきなさい・・」(ローマ12・1-2)

わたしたちは、他人と社会に対し、自分が望むように変わって欲しい、と願います。それは必ずしも悪いことはないのですが、自分のことを棚にあげてしまう、という問題が生じます。人に変わってもらうためにはまず自分を変えなければなりません。

とはいえ、長い年月、自分と言う者と付き合ってきたわたしとしては、自分はどうしようもない人間、とても主イエスの弟子とはいえない、という思いが致します。しかし、イエスは、自分について来たい者は自分を捨てて、自分の十字架を背負って自分に従いなさい、と言われたのです。イエスはすべてを捨てて父である神に従われました。

自分を顧みるに、些細なことでも、自分の思いに拘り、不満、怒り、不快を覚えている自分に気がつきます。

しかし、他方、神はこのような自分を受け入れ赦してくださる神である、と信じます。ペトロは三度も主を否みました。しかし主はそのペトロを赦し受入れたのです。神の愛、それは罪人を赦す愛であることを心に刻みたいと思います。

自分の十字架、と言うことで一言思うことを申し上げて結びとしたいと思います。

昨日、足立区にある、マザー・テレサの会の修道院でミサをささげ、マザー・テレサの祈りについて話しました。

マザー・テレサは主イエスに、「望み」desireと「恐れ」fearから解放してほしい、と願い求めたそうです。どんな望み(欲求といったほうがいいかもしれませんが)か、といえば、それは、他の人から評価されたい、重んじられたい、という思いです。人から認められたい、尊敬されたいという思いから解放してください、と祈ったのでした。

さらに「恐れ」から解放してほしいと願っています。どんな恐れかといえば、馬鹿にされること、蔑まれること、見下される、ということへの恐れなのです。

日々自分の十字架を背負ってイエスに従う、と言うことはこの祈りのように生きることではないか、と思います。わたしたちもこの祈りを、心をこめてささげたいと思います。*

 

*祈りの全文(試訳)と英語の原文は以下のとおりです。

イエスよ、わたしを解放してください。

愛されたいという思いから、評価されたいという思いから、

重んじられたいという思いから、ほめられたいという思いから、

好まれたいという思いから、相談されたいという思いから、

認められたいという思いから、有名になりたいという思いから、

侮辱されることへの恐れから、見下されることへの恐れから、

非難される苦しみへの恐れから、中傷されることへの恐れから、

忘れられることへの恐れから、誤解されることへの恐れから、

からかわれることへの恐れから、疑われることへの恐れから。

 

MOTHER TERESA’S PRAYER

Deliver me O Jesus from the desire of being esteemed.

Deliver me O Jesus from the desire of being loved.

Deliver me O Jesus from the desire of being honored, and being praised, and being preferred to others.

Deliver me O Jesus from the desire of being consulted.

Deliver me O Jesus from the desire of being approved and popular.

Deliver me O Jesus from the fear of being humiliated, from the fear of being despised, from the fear of being rebuked.

Deliver me O Jesus from the fear of being slandered, from the fear of being forgotten, and the fear of being wronged.

Deliver me O Jesus from the fear of being ridiculed and suspected.

Amen.