教区の歴史
世界病者の日・ミサ説教
2014年02月11日
2014年2月11日 東京カテドラル
説教
わたしたちが救い主と信じるイエス・キリストはどんな人でしょうか。何をした人なのでしょうか。
これはわたしにとって非常に重要な問いかけです。
福音書はこの問いへの答えです。福音書はイエスの生涯をわたしたちに語ります。
今日のマタイ福音書は、イエスが、熱を出して寝ていたペトロの姑に手を触れて癒したこと、また多くの人々から悪霊を追い出し、多くの病人を癒したことを告げています。
実際、福音書全体を通してみれば、イエスが病人を癒し、悪霊を追い出した、という話が非常に目立ちます。イエスは実に癒す人でした。
癒す人イエスを、マタイ福音書は旧約聖書のイザヤの預言に登場する「主の僕」に当てはめています。主の僕は人々の病い、痛みを担い、人々の背き、咎の故に懲らしめを受ける人でした。そしてイザヤの告げる主の僕は、惨めで無残な風貌の人です。
使徒たちはこのイエスの使命を引き継ぎました。
使徒の中に、異邦人の使徒とよばれるパウロがいます。
パウロは心も体も頑強な人であった、と思われますが、人間として辛い問題を抱えていました。それが「とげ」という言葉で表現されています。それが何であったのか、わかりません。彼は「とげ」を担ったまま、人々へ救いを告げ知らせ、ローマ郊外で斬首の刑により殉教しました。パウロも「痛みを担う」であったのです。
きょうわたしたちはルルドの聖母の日、東京カテドラルに集い、一緒にミサをささげ祈っています。
わたしたち自身、病気の人であり、また病人の世話をし、また助ける人でもあります。同じ人が同時に癒す者であり癒される者でもあります。これがわたしたち教会の現実の姿です。
イエスは多くの人を癒しました。しかし病気そのものを絶滅させたわけでもありません。今でも多くの人が病気で苦しんでいます。
病気・障害の存在は神秘です。「癒し」は神の国の到来のしるしであるといわれます。神の国が完成するときに始めて一切の病気・障害はなくなることでしょう。
イエスご自身も自分を主の僕として人々に現しました。(マタイ12・15-21、ルカ4・16-21参照)
わたしたちはイエスのように「癒し」を行うことは出来ませんが、主の僕に倣って人々の病をともに担うことは出来ます。
病人は不安と孤独に苦しみます。もっとも求めていることは、病苦を一緒に担ってくれること、病苦を理解してくれることです。
病気そのものがなかなか理解してもらえない場合もあります。病名そのものがなかなか付けられない難病にかかる人もいます。
また「心因性」と診断されて、そのことで苦しむ場合もあります。病気そのもの苦しみだけでなく、人々の無理解のために苦しむこともあるのです。
人の不安と苦悩を共に背負うには大きなエネルギーが必要です。わたしたちはそのために準備し教育されなければならないと思います。
医療従事者には「説明責任」が問われます。病者は一般の人にとってみればつまらないように思えることでも不安になります。しかしその人にとってみれば不安であることにかわりはないのですから、その不安を理解し丁寧に説明する必要があると思います。
人間のつながりは病苦を共に担うことにより連帯と友愛の絆になります。互いに相手の病苦を担い合うことにより人類の連帯と一致が深まっていくのだと思います。
ルルドの聖母の取次ぎにより、自分のことを後にして人の病苦に思いを寄せる恵みを願いましょう。