大司教

世界召命祈願日と福者髙山右近

2019年05月21日

5月12日の主日は、世界召命祈願日でありました。東京教区では、毎年この日にはカテドラルで午後2時半から大司教司式のミサが捧げられ、その後教区の一粒会主催で、ケルンホールで神学生などを交えた交流会が開催されています。

今年も同じように、教区の一粒会主催でミサと交流会が行われましたが、今年はそれに加えて、福者ユスト髙山右近の像が、カテドラルに奉納されました。

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この像は、髙山右近終焉の地であるフィリピンのマニラで、髙山右近の列福列聖運動に取り組んでおられるグループから贈呈されたもので、東京まで運ぶにあたって必要経費を、東京教区に在住するフィリピン人信徒の共同体の方々が負担してくださいました。

なおミサ後には、ケルンホールに場所を移し、それぞれの修道会が司祭や神学生の紹介をし、東京カトリック神学院からも院長の松浦神父とともに予科生が参加。そのうちの一人は東京教区の田町神学生です。また女子修道会からも、新しく入会した方や、今年の誓願宣立者などの紹介もあり、集まった方々との楽しい交流の時間を過ごしました。

教区の召命のためにこれからもお祈りいただきたいですし、修道会にも豊かな召命の恵みがあるように、どうぞ、どうぞ、お祈りください。

以下、説教の原稿です。なお世界召命の日の教皇様のメッセージは、中央協議会のホームページに掲載されています。

◆    ◆

本日の世界召命祈願日のミサに先立って、福者ユスト高山右近の像がフィリピン出身の兄弟姉妹によって祭壇まで運ばれ、祝福をいたしました。今後は、この聖堂の後方に場所を設けて、福者殉教者の像を安置することにしております。

ご存じのように、戦国時代の武将であった髙山右近は、キリスト教への弾圧が厳しさを増す中で、信仰を捨てることを拒み、そのために多くを失いました。豊臣秀吉によるバテレン追放令の後には、右近は信仰をまもることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選びました。そして、1614年、徳川家康の時代にフィリピンのマニラへ追放され、翌年、1615年2月3日に、マニラで人生を終えました。すべてを投げ捨てて信仰をまもり、そのために母国からも追放された右近を、教会は殉教者と認め、2017年に列福されています。

この髙山右近の像をフィリピン出身の方々が運んでくださったのには、理由があります。マニラで亡くなられた福者高山右近は、フィリピンの地にあっても尊崇の対象となっており、マニラ市内には高山右近の像も建立されています。そして高山右近の列福列聖運動においても大きな力となっているフィリピンのグループが、高山右近について研究し、その列福列聖を祈るとともに、髙山右近の像を日本のいろいろな教会に寄付してくださっています。今回この髙山右近像は寄付して頂きましたが、これを日本に運ぶための費用については、今回聖堂内で像を運んでくださった東京教区内で活躍するフィリピン共同体の方々が、負担してくださいました。感謝申し上げます。

召命について祈るこのミサの中で、福者高山右近がこのようなかたちで顕彰されることは、ふさわしいことだと思います。とりわけ日本の福者が、国境を越え、文化を越えて、フィリピンにおいても尊敬の対象となっていると知ることは、教会の普遍性を肌で感じる事として、大きな意味があると感じます。高山右近の信仰者としての生涯の最後を、同じキリスト者の兄弟として受け入れ、そしてその生涯を尊敬の対象としてたたえてくださるフィリピンの教会の存在は、日本の教会とフィリピンの教会の絆を一層強め、同時に互いに支え合って信仰生きていることを実感させてくれます。またわたしたちの信仰が、文化や国籍を超えた普遍的な価値を持っていることを、はっきりと教えてくれています。

今年の世界召命祈願日に当たり、教皇フランシスコは、「神との約束のために危険を顧みない勇気」と題するメッセージを発表されています。
その中で、イエスの呼びかけに応えることは、人生にとっての大きなチャレンジであることを教皇は指摘され、その上で次のよう述べられます。

「要するに召命とは、網をもって岸辺にとどまるのではなく、イエスがわたしたちのため、わたしたちの幸せのため、わたしたちのそばにいる人の善のために考えてくださった道を、イエスに従って歩むようにとの招きなのです」

イエスの呼びかけに応えることは、安全な場所にとどまって何もしないことを許すのではなく、人生に大きな変化をもたらし、その変化を継続していく挑戦を求めるというのです。そして、往々にしてその挑戦は、安楽なものではなく、継続するために大きな勇気が必要だとして、教皇様はこう続けられます。

「もちろん、この約束を抱き続けるには、危険を顧みずに選択する勇気が必要です。・・・主の呼びかけにこたえるためには、全身全霊でかかわり、危険を顧みずに新たな課題に立ち向かう必要がある」

まさしく高山右近の生涯は、「危険を顧みずに新たな課題に立ち向かう」人生であったと思います。当時の社会の中で、自らの地位と名声を失ってでも、信仰をまもりぬこうとしたその態度は、今の常識から考えると、あまりにも度を超した頑固さであります。どこかで妥協すれば、そんなに苦労しなくてもそれなりの人生を歩めたことでしょう。しかし高山右近はその選択はしなかった。

髙山右近の人生は、呼びかけられた主の招きに応え、その決断を継続するための挑戦を勇気を持って続けた人生であったと思います。
教皇様ご自身がメッセージで触れられるように、今日心にとめる召命は、司祭や修道者への召命だけではありません。すべてのキリスト者には、それぞれの召命が与えられています。ですから勇気を持った挑戦は、特別な人の役割ではなく、キリスト者すべてに必要な事柄です。教皇様はこう記されています。

「わたしは、キリストのもとに結婚して家庭を築くという選択について考えると同時に、労働や専門職の領域、慈善活動や連帯の分野における取り組み、社会的、政治的責任などと結びついた、他の召命についても考えます。これらの召命は、わたしたちを善と愛と正義の約束の担い手にします。」

今日はよき牧者の主日であり、福音には「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」と記されていました。
わたしたちが決断した道を歩み続ける勇気を持つために、力強く、またいつくしみにあふれた羊飼いが、導いてくださいます。その善き羊飼いにしたがっていくためには、わたしたちはその声を知らなくてはならないのです。果たしてわたしたちは、牧者の声を知っているのでしょうか。その声を聞き分ける術を知っているのでしょうか。

ここに、わたしたちが、信仰の先達である聖人たちに倣って生きる意味があります。勇気を持って信仰に生きた聖人たちは、まさしく善き羊飼いの声を正しく聞き分けて付き従っていった方々です。ですから彼らの生き方に学び、その模範に倣って生きようとするときに、わたしたちは彼らがそうであったように、善き羊飼いの声を聞き分ける道を歩み始めることができます。

本日は、ちょうど福者ユスト高山右近の像が寄贈された機会と重なりましたが、召命を考え祈る日にふさわしいことだったと思います。善き羊飼いの声を聞き分けてしたがったユスト高山右近に学び、その生涯に倣って、わたしたちも善き羊飼いの声を聞き分けることができるように、その取り次ぎを祈りましょう。

「司教の日記」2019年5月16日より)