菊地大司教

    主の降誕、おめでとうございます

    2018年12月27日

    christmas1801主イエスの降誕、おめでとうございます。

    みなさま、お一人お一人にとって、またみなさまのご家族にとって、心の暖まるひとときが与えられる、素晴らしいクリスマスとなりますように。

    またこのクリスマスの時期に、インドネシアでは大きな津波がありました。2004年にもインドネシアでは、クリスマスに大きな地震があり津波の大きな被害が出ています。被害を受けられた方々のため、特に亡くなられた方々のためにお祈りいたしましょう。

    関口の東京カテドラルでは、12月24日は、午後5時、午後7時、午後10時、そして深夜零時にミサが行われました。わたしは、午後7時のミサを担当いたしました。晴れていたものの、とても寒い晩でしたが、パイプいすがすべて埋まり、立ち見も出るほどで、千人を超える方がミサに与ってくださったのではないでしょうか。聖体拝領のときにも、だいたい6割以上が祝福を求める方でした。

    christmas1805ミサは、幼子の像を抱いて、聖堂後ろからロウソクに導かれて入堂するキャンドルサービスに始まり、幼子を祭壇前の飼い葉桶に安置して、少女たち(献金少女と呼ばれているようです)が、カップローソクを100近く並べていきました。

    以下、昨晩7時のミサの説教の原稿です。

    主の降誕(夜半のミサ)
    東京カテドラル聖マリア大聖堂
    2018年12月24日

    お集まりの皆さん、主イエスの誕生、おめでとうございます。

    誕生したばかりの幼子は、旅の途上にありました。両親が普通の生活を営んでいた故郷の街での誕生ではなく、旅の途上でありました。加えてその日、この家族には、安心して泊る場所さえ与えられなかった。心の安まらない状況で不安を抱え、そしていのちの誕生という人生における重大な出来事に直面したとき、この家族が抱える不安は、どれほどだったでしょう。助けてくれる知り合いとて見つからない土地で、どれほどの不安を抱えていたことでしょう。

    それに追い打ちをかけるようにこの家族は、今宵の不安な出来事の直後に、次には迫害を避けていのちを守るために、エジプトへ避難する旅に出かけなくてはならなかったのです。どれほど心細く、不安であったことか。

    クリスマスのお祝いは、明るいイルミネーションに照らされることで、なにやら明るく楽しいイベントになっていますが、その根底には暗闇の中にある不安が存在します。

    いま、21世紀の現代社会にあって、同じように不安を抱え、心細さのなかで旅を続ける家族が、世界にはどれほどいることでしょう。

    いったい、明日の自分はどうなるのだろう。家族に希望を見いだすことができるだろうか。果たして明るい将来はあるのだろうか。不安の中に、家族とともに、またはただひとりで、旅を続ける人が多くおられます。

    紛争の地にあって、毎日のいのちの危険から逃れるために、旅に出ざるを得なかった人。政治の対立に翻弄されて、生きる場を失った人。国際関係の波間で、人間の尊厳を奪われ、自らの意思に反して旅に出ざるを得なかった人。厳しい経済環境の中で、生きるために旅に出る選択をせざるを得なかった人。愛する家族と一緒になるため、愛する人と一緒に生きていくために、法律の枠を超えて旅に出る人。

    不安の中にも旅立つ理由には、他人が推し量ることのできないそれぞれの事情があることでしょう。それは一人一人の旅人にとって、いのちをかけた決断をするだけの事情であったことだと思います。それはわたしたちも想像してみればわかることですが、単に観光のために海外へ出かけるだけでも簡単ではありません。母国を離れ、未知の国へと旅に出ることが、どれほど大きな不安を伴うものであることか。暗闇の中に足を踏み出すことほど、不安なことはありません。

    christmas1802キリスト教にとって、人間のいのちは神からの贈り物、賜物です。神はそれを条件をつけずに、わたしたちに与えられました。キリスト教の信仰は、完全である神が、自らの似姿としていのちを創造されたところに、人間の尊厳の源泉を見ています。そして神は、すべてのいのちを、大切なもの、かけがえのないものとして愛され、すべてのいのちがどんな条件にあったとしても、より良く生きられることを願われています。ですからキリスト教の信仰は、人間のいのちの価値は、人間が判断して決めるものではなく、神のみ手にゆだねられているのだと考えます。

    ともすると今の時代、社会の役に立たないいのちには、存在する価値がないと決めつけようとすることがある。そう感じさせる事件や言動が見られるようになりました。まるで自分が生み出したものであるかのように、人間のいのちの値踏みをすることが、果たして正しいことだといえるでしょうか。

    神は、大切でいとおしく思っている人間のいのちの尊厳を、明確に示すために、自ら進んで人間となられました。完全な神が、自ら不完全な人間となることで、人間のいのちが神にとってどれほど大切な存在であるのかを示されました。

    神は、そうするために、どのような方法でも選ぶことができたことでしょう。

    しかし神は、人間の尊厳がいのちにあることを示すために、幼子として誕生されました。親からの保護がなければ自分では生き抜くことが難しい頼りない存在の中に、人間の尊厳があることを示されました。だからすべてのいのちは、どのような状態にあっても、どのような条件の下にあっても尊厳があり、その尊厳は守られなくてはならないと、キリスト教は考えます。

    さらに神は、旅路にあって暗闇の不安におののく家族に誕生されました。それによって、神は、すべての不安におののく家族に対して、自らが暗闇に輝く希望の光であることを示されました。ともに歩まれる希望の光であることを示されました。

    神は希望の光。いのちの道しるべ。暗闇に輝く光。すべての不安をぬぐい去る力です。

    教会は、クリスマスにあたって、あらためていのちを守り抜くことを呼びかけます。危機にさらされているすべていのちを守り抜くことを呼びかけます。その尊厳がそこなわれることのないよう、社会の状況が改善されるように呼びかけます。そして、旅にある人たちが、その安全を守られ、いのちの尊厳を奪われることのないように、歩みをともにすることを呼びかけます。

    christmas1804クリスマスを祝うこの時期、世界の各地には、美しく飾り付けられたクリスマスツリーが数多く見受けられます。普段はキリスト教とそれほど縁のない日本においても、全国各地に美しく飾り付けられたクリスマスツリーがあります。

    ツリーには様々なデコレーションがあることでしょうが、やはり一番伝統的なのはイルミネーションなどの明かりによる飾りであり、そしれ当然ですが、明かりは暗闇の中でこそ、美しく輝きます。

    クリスマスツリーこそは、わたしたちがクリスマスに何を祝っているのかを、はっきりと教えてくれる存在です。暗闇の中に輝く光、すなわち人生の様々な不安を打ち破る希望の光は、イエス・キリストにあるのだと言うことを、その存在で教えているのです。

    この時期、街角で、暗闇の中で様々に輝くクリスマスツリーを目にするとき、それがいのちの希望を示していること、それを通じていのちの大切さを説いていること、さらにはそのいのちが、すべて例外なく大切にされ、互いに助け合うように求められていること。それをどうぞ思い出してください。クリスマスに確認するべき愛は、助けを必要としている人への愛です。いのちの危機にさらされている人たちへの愛です。孤独と言う暗闇のうちにいる人への愛です。

    すべてのいのちは、神の似姿として、よいものとして、例外なく神から愛され、神から使命を与えられてこの世界に誕生しました。誰一人として、その存在を無視されたり、排除されてもよい人はありません。神から与えられた使命を十全に生きることのできないような社会の現実も、そのままで容認されてよいはずがありません。夢物語の理想に聞こえるかもしれません。でも神はその夢物語のようなクリスマスの誕生物語の中で、今宵、ここに集まった皆さんに、語りかけておられます。

    (「司教の日記」2018年12月25日の投稿より)