大司教

神田教会献堂90年

2018年12月26日

IMG_0090ケルンから戻りローマへ出かける間に、一つ重要な出来事がありました。

12月9日の日曜日に、神田教会の聖堂の献堂90年をお祝いいたしました。教会自体は140年ほど前に、再宣教の象徴として創立され、幾たびかカテドラルとしても指定された、東京教区にとって、重要な聖堂です。以下、当日の説教の原稿です。

神田カトリック教会献堂90周年感謝ミサ
2018年12月9日

神田教会の聖堂が献堂されて90年という節目の年に、神田教会の皆様と一緒に、この90年の神様の導きと護りに感謝して祈りを捧げたいと思います。 

IMG_0027現在の聖堂は1928年(昭和3年)に建築され、戦争中の東京大空襲からの難をなんとか逃れ、戦後には大司教座がおかれてプロカテドラルとされていたと伺いました。東京教区にとって、重要な聖堂であると共に、神田教会自体が禁教令が解かれた直後の1874年(明治7年)にその歴史を刻み始めたという、日本の教会の歴史にとっても重要な位置を占める教会です。

140年以上前の時代、この地にあってキリスト教の宣教に取り組んだ宣教師たちの苦労は、この自由な時代に生きている私たちには想像することもできません。数々の困難に直面しながらも、キリストの福音を宣べ伝えた宣教師たちの献身的働きに心から感謝すると共に、宣教師たちを助け共に福音を生きた私たちの信仰の先達たちの勇気に倣っていきたいと思います。

信徒数の伸び悩み、召命の減少、司祭・修道者・信徒の高齢化。後継者の不在。現代の教会が直面する課題を挙げ始めたらきりがありません。かつての時代のような肉体的な迫害は終わり、信教の自由が保障されています。しかし残念ながら、社会全体はその自由の中で、神に近づくどころか、少しずつ離れ去る道を選び、宗教に対しての関心も失っています。

関心を失うだけならまだしも、私たちの信仰の立場から見れば、神への挑戦としか見られない出来事も頻発しています。それはすなわち、神が愛すべき賜物としていつくしみのうちに創造され私たちに与えられたいのちへの挑戦であります。

IMG_0046私たちのいのちは、神がご自分の似姿として創造されたことで、限りない尊厳を与えられました。すべてのいのちが、どのような状態にあってもすべからく大切にされなくてはならないのは、私たちキリスト者が優しい人間だからではなく、イザヤ書にあるとおり、神がその一人一人を決して忘れることなく、その名を手のひらに刻んだといわれるほどに大切にされているからです。限りない愛を持って、すべての人を見守っておられるからです。

それにもかかわらず、私たちは、あたかも人間の知恵や知識がいのちを生み出し方のように錯覚し、その価値を自分たちで決めようとします。役に立たないいのちは生きる価値がないなどといてとしまいます。いのちを守ろうとしない時代に平和はありません。今の時代は、神に背を向けるだけではなく、挑戦しようとしています。

この時代にあって、私たちが福音に生きること、その福音をできる限り多くの人に伝えようとすることは、必ずしも歓迎されることではありません。いのちを守ることを最優先にしようとする姿勢は、時として夢を見るものとして揶揄される対象です。

そんな時代だからこそ、私たちは、臆することなく、積極的に勇気を持って、神の平和を告げたいのです。神が与えられた賜物であるいのちを守ることが、最優先だと主張したいのです。

わたしたちは、教会というのは単に聖堂という建物のことだけを指しているのではないことを良く知っています。第二バチカン公会議は教会憲章において、教会は神の民であると指摘したうえで、つぎのように述べています。

教会は、「神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具」です(教会憲章一)。
ですからわたしたちは、この地域社会にあって「神との親密な交わりと全人類の一致のしるしであり道具」として存在する「神の民」であって、その共同体の存在こそが教会そのものであります。

しかしながらこの共同体には、やはり集い祈る具体的な場が不可欠です。その意味で、聖堂の存在は、わたしたちが神の民としての互いの絆を具体的に確認し、「神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具」となるための目に見える場として、なくてはならないものであります。

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献堂90年を迎えたこの聖堂は、この地域にあってどのような存在となっているでしょうか。福音を告げしらせ、神の思いを伝えるための道具となっているでしょうか。神と人との親密な交わりを証しする場となっているでしょうか。人々の一致のしるしとなっているでしょうか。

またこの小教区の皆様は、この聖堂に入るときにどのような思いをいつも抱かれるのでしょうか。入るたびに、あまり快くない体験ばかりを思い出すのでは悲しい。そうではなくて、聖堂が、入るたびに心の安らぎと喜びを生み出してくれるような、そういう存在であって欲しいと思います。この聖堂に満ちている雰囲気は、すなわち教会共同体に満ちている雰囲気の反映です。現代社会に生きる神の民の心を映し出す鏡であります。

教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」において、教会のあるべき姿を明示されています。教会は、「出向いていく教会」でなければならないと教皇は言います。出向いていく教会は、「自分にとって快適な場所から出ていって、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう招かれている」教会です。

もちろん教皇は、まず第一にわたしたちに具体的な行動を促して、そのように呼びかけられています。神から与えられた賜物である生命を頂いているすべての人が、大切にされ神のいつくしみのうちに生きることができるような社会。それを築きあげることが、現代社会にあって福音を告げ知らせるキリスト者の使命であると教皇は主張されます。

同時に教皇は、わたしたちが教会の歴史の中に安住することにも警告を発しておられると思います。変化に対して臆病になりがちです。新しいことに挑戦していくことに、気後れしてしまいがちです。

日本の教会はいま、とりわけ地方の教会において、少子高齢化の影響を大きく受けて、どちらかと言えば規模の縮小期に入っています。そういうときに私たちはどうしても、いまあるものを守ることを優先して考えてしまいます。守ろうとするとき、わたしたちは外に対して固い殻をまとってしまうことさえあります。聖堂の雰囲気はそのわたしたちの心を即座に反映してしまいます。なぜならこの聖堂に満ちている雰囲気は、教会共同体に満ちている雰囲気の反映だからです。

献堂90周年にあたり、神田教会が、守りの姿勢に籠もってしまうことなく、あらためて社会の隅々にまで呼びかける教会として開かれるように、わたしたちと道をともに歩んでくださる主イエスの導きを願いましょう。

(「司教の日記」2018年12月24日の投稿より)