お知らせ

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Tangible第19号

2024年03月04日


「心の中でささやきかける声に耳を傾けて…」 平和をもたらす者になるために

生涯養成委員会 担当司教 アンドレア・レンボ

エルサレムの平和を求めよう。
「あなたを愛する人々に平安があるように。
あなたの城壁のうちに平和があるように。
あなたの城郭のうちに平安があるように。」
わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。
「あなたのうちに平和があるように。」
(詩編122・6~8)

常に、わたしの思いはとくに愛するエルサレムに向かいます。2004年に神父になってから5年、毎年、夏にエルサレムに滞在していたからです。

エルサレムは、安定と和解に向かう途上で、暴力と争いにさらされ続けています。わたしは、今日に至るまでキリスト教共同体が体験してきた苦しみ、とくに聖地のカトリック教会に対する不当な状況を思い起こしたいと思います。

今回のイスラエルとハマスとの戦争は、多くの人の命、そして住む場所を奪いました。これらの攻撃によって、キリスト教共同体の間にも恐怖が広まり、多くの人が安心して暮らせる場所を求めて移住したいと望むようになりました。

平和は、神が与えてくださるたまものであると同時に、完成すべきものとして私たちに与えられている課題でもあります。 神と和解した社会は平和に近づきます。平和は、単に戦争がない状態でもなければ、軍事的・経済的覇権がもたらすものでもありません。むしろ平和は、「戦争が、人間の外から来るのではなく、罪によって腐敗した、人間の心の中から生じるもの(マルコ7・17~23参照)」(第56回「世界平和の日」教皇メッセージ、2023年1月1日)である以上、個人として、共同体として行われるべき罪からの清め、つまり悔い改めと、文化的・道徳的・霊的向上によってもたらされるものです。このような過程の中で、人間の尊厳が完全な仕方で尊重されるからです。

平和をもたらす者になりたい人、とくに若者の皆様にお願いします。

心の中でささやきかける声に耳を傾けてください。 そこから、真の平和に達するための揺るぎない基準を、倦むことのない力を、神のうちに見出してください。

この力こそが、世に新たな方向性と精神を与え、過去の過ちを乗り越えさせることができるのです。

受講生の声

信仰と知識と豊かな人間性を持った人になりたい

受講者 
第6期生
洗足教会 川本 裕子

◆大きな災害が続く中で感じる、カテキスタ養成講座での学びへの責任の重さ
私がこの原稿を書いているのは2024年1月中旬です。新しい年の初めに能登半島地震、羽田での航空機事故と大きな災害が立て続けに起こりました。能登半島では現時点でも行方不明者の捜索が行われ、寒さの中、避難生活を送っている方も多くいらっしゃいます。本当に心が痛み、また「これから世の中はどうなってしまうのか」と不安も感じます。

報道の中に「命だけは取らないで」「神さま、助けてください」という声がありました。「神さまはいるのか」「神さまは何をしているのか」と疑問を持つ方もいるでしょう。そんな中でも私たちは「神さまはいつも私たちと共にいてくださる親のような存在」と伝えていくのです。カテキスタ養成講座での学びに改めて責任の重さを感じています。

◆初めての模擬授業での多くの気づき、支えてくださる方々のありがたさ
先日、初めて「模擬授業」(50分)を担当しました。タイトルは「神の恵み」、聖書箇所はマタイによる福音書20章1節から16節です。準備にあたり自分の信仰体験を振り返ると、「ああ、あの時のあの出来事もそうだったのか」と神さまとの出会いがいくつも思い出されました。神さまは何度もさまざまな方法、さまざまな人を通じて私に呼びかけてくださっていたことを感じました。ぶどう園の主人も(マタイ20・1~16)1日に何度も人を雇うために自ら出かけて行きます。そして朝から働いた人にも、夕方から来て1時間しか働かなかった人にも「支払ってやりたい」と言ってふさわしい金額を支払います。このように神さまは私たちと共に喜び共に苦しみ、恵みを与えようと心を配ってくださいます。

模擬授業ではそんな神さまの思いを伝えたいとレジュメを準備し、何度も練習を重ねました。本番ではあふれる思いはありましたが、全てが伝わるようにお話しするのはなかなか難しかったです。講評では猪熊神父様をはじめ、カテキスタの方々やスタッフの方々から適切なご指摘を頂き、自らの思い込みや読み取り違いなど多くの気づきがありました。いつも親身になって支えてくださる皆さまのありがたさが心に沁みました。準備期間では必然的に人生の振り返りや黙想の時間が増え、いつも以上に神さまを意識することができました。忙しい中でも心が洗われ、とても良い経験でした。

◆知識の重要性を再認識し、一言も聞き漏らすまいと集中
また自らの成長や思いに加え、知識の重要性を再認識しました。私は全くの知識不足であったことに、猪熊神父様による最初の3回の講座「神と人々との関わり―三つの時代とその特徴を知る―」で気づかされました。一言も聞き漏らすまいと自分でも驚くような集中力で受講し、今までぼんやりとしていたものが、急に姿をはっきりとさせ目の前に現れたかのようでした。

神さまの思いや神の国を実現するための長い歴史を理解でき、また講座を重ね今に至るにつれ、私自身が新たにされていくようです。主日のミサでの朗読箇所や詩編のことば、主の祈りなども言葉の意味を理解し味わうことができるようになりました。学び直しの機会と新たな知識を授けていただき感謝しています。

◆誰の人生にも神さまからの呼びかけが 起こることを伝えていきたい
私は50代のどこにでもいる主婦です。週の大半は水泳に励み、週1日は事務の仕事をしています。洗礼を受けたのは43歳です。若い頃は競争社会の波にもまれ、バブル経済狂乱の中で富と名声を追い求めて働くことが生きがいでした。行いや言葉で人を傷つけたこともあったと思います。そんな自分の力だけを信じて生きてきたような私も、神さまの呼びかけに気づいた出来事で、生き方が大きく変わりました。それは幼い娘の言葉です。

子育て、日常のささいな出来事、家族、友人との関係、そんな身近なところにも神さまの存在は感じられます。この世の全てを創り全てを支配し、歴史を動かしておられる壮大な業を行う方が、私たち一人一人の人生や日々の生活の小さな出来事、願いにまでにも心を配られ、手を入れられるのです。神さまの呼びかけに気づかされた経験、そして誰の人生にもその呼びかけは起こるということを伝えていきたいです。

「そのように、あなた方の光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5・16)

このみことばを体現できるよう、信仰と知識と豊かな人間性を持った人となりたいです。

「派遣前講習」参加者の声

手で触ることのできるカテキスタの活動を行ってまいります

カテキスタ第5期生
チーム関町
碑文谷教会 山田 方子

◆土曜日はカテキスタ
「やっと1年の養成講座が終わったー!」と思ったのもつかの間、すぐ「派遣前講習」が開始されました。土曜日は「カテキスタの日」決定です。場所は養成講座が行われていたお部屋だし、講師は猪熊神父様なので、養成講座の「続き」のお勉強をするのかと思いましたが、名前を変えている通り、少し違いました。

養成講座が基礎編なら、派遣前講習は実技編。実際に派遣されたときに発生する具体的な問題について、検討分析し、対応策を練ってゆきます。検討事案の種類が多く、難易度も易しいものから難しいものまでバリエーションに富んでいます。「養成講座ですでにおなかいっぱいなのになあ」と思ったのですが、この変化の多さに気を取られて、早くもログラムの半ばまで来てしまいました。

2023年9月から2024年3月までに、全体会議が3回、派遣先の小教区での会議3回、黙想会(1泊2日)の構成です。

全体会議は、猪熊神父様やスタッフの方々のサポートもあり、同窓会のような様相です。ベテランの1期生からピヨピヨ5期生まで40人近くが大集合で、お部屋はぎゅうぎゅう。たった3人の同期に会えると、養成講座に戻ったような気にもなります。

小教区ごとの会議では、派遣先の主任神父様や教会委員長にご挨拶したり、2024年のプログラムについて検討しました。派遣先の教会と出身教会、カテキスタメンバーの出身教会、それぞれの特徴や良い点・悪い点を話し、良い点をまねることで簡単に解決できることと、それではなかなか解決しない問題に切り分けたりなどしました。担当回の割り振り、構成やコロナ後の活動の仕方について、受講者の様子などなど、検討事項は尽きません。それぞれの受講生・小教区の状況に合った伝え方をするためにも、こちらのバリエーションの幅が広く多いほど伝わりやすいでしょう。所属教会以外の教会の事案や工夫、ご苦労を知ることで、我々の幅を広げられると感じました。

豊玉南宣教協力体の会議にもお邪魔し、2024年度のプログラムが始まることを徳田教会・下井草教会の方々に宣伝しました。小教区でのプログラムではスケジュールが合わない方や、住まいの近くにある教会とは別の場所で受洗希望者の受け入れができる、「教区カテキスタならでは」の特徴が各教会の出席者に伝わり、チーム関町で作成した入門講座募集のポスターとチラシをお渡ししました。

◆多彩な才能のメンバー
所属することになった「チーム関町」は、第1・第3・第5土曜日の朝10時半から入門講座を行っています。5人の先輩カテキスタの講座を見学してみると、講師の個性がさまざまでとても面白く、つい自分が受講生のような気分になりました。熱く、ややしつこく、繰り返しお伝えする方、画像を使って言葉での説明の補助に視覚的な訴えをする方、受講者の理解度を確認しながら進める方。繊細な感受性で受講生のわずかな心の動きを察知する方も、大づかみに要点をパッパと提示する方もいます。多様なメンバーであればこそ、受講生の多様さにも対応可能であることが講義の様子からも見て取れます。

この多様で、意見の一致をみるのに、とても、そのままでは到達できそうにないチームを、(メッセージを送り合うため)LINEと、長い経験と忍耐力をお持ちで、かつ、温厚な性格のチーム長がまとめてくれています。

このチームにいるならば、私でもテモテへの手紙二4章2節の、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」が実践できる気がし始めました。

◆恐るべしTangible
教区カテキスタに認定・任命され、「Tangible見ましたよ。カテキスタになるなんて、素晴らしいですね。さぞお勉強なさったんでしょう」なんて声をかけられることが何度もありました。今までの人生でこのようなことがあまりなかったので、上ずった声で「はい、指導神父様が怖くて怖くて」などと反応してしまっていますが、本当はさらりと「課された務めを果たすまでです」とか言ってみたいものです。

高校時代の国語の先生や、友達の夫のお兄さん、大学院での同級生からも連絡をいただきました。インターネット時代ではありますが、紙媒体のTangibleの影響は広く、名前の通り「手触り感」があるようです。フェイクなインチキ動画・記事の蔓延している中、手で触ることのできるカテキスタの活動を行ってまいります。

スタッフの声

神の恵みをあまねく世に広めることができるよう、導いてください

スタッフ
徳田教会 井上 大嗣

◆神さまは、どんな小さきものにも恵みを注いでくださるお方
なぜ、日々、過ちを犯し続ける罪深い私が人々に福音を告げ知らせるなどということができるのでしょうか。誇るべきものが何もなく、何の取り柄もない私がどうして「自分は、特別な恵みを受けて生きています」などと誰かに言うことができるのでしょうか。それは、罪深く、何の取りえもない私の心にも愛と呼ばれるものが湧き出てくるからです。

神さまは、どんな小さきものにも恵みを注いでくださるお方です(マタイ5・45参照、以下の聖書箇所も同様)。愛の恵みは、また、自らの不完全さもあらわにし(ガラテヤ5・16~25、ローマ8・7~10)、高ぶりを抑え(ルカ18・9~14、一コリント13・4、ヤコブ4・5~6)、主イエスに倣って人々に仕えることができるようにしてくださいます(マタイ20・26~28〔マルコ10・43~45、ルカ22・26~27〕、ヨハネ13・4~14、ガラテヤ5・13)。

◆教皇フランシスコの自発教令「アンティクウム・ミニステリウム」(2021年)
教皇フランシスコは、2021年、自発教令「アンティクウム・ミニステリウム(Antiquum ministerium)」を公布し、「信徒カテキスタの務め(The ministry of catechist)」を制定なさいました。

その中で教皇フランシスコは、「カテキスタの職務に召される者は、深い信仰と人間的成熟を備え、キリスト教共同体の生活に積極的に参加し、他者を歓迎し、寛大で、友愛の交わりの生活を送ることのできる男女であることがふさわしい」と述べておられます。まことに、愛と信仰がなければ、どんなに有能な人が「聖書的、神学的、司牧的、教育学的に適切な養成」を受けたとしても、私たちが真に伝えたい神の恵みを人に伝えることはできないでしょう(ヨハネ13・34~35、一コリント1・19~21、13、ローマ13・8~10、一ヨハネ3・23、4・8、4・20)。

それどころか、私たちの典礼、祈祷、伝統といったものさえ、神の愛の恵みなしでは、全て虚しいものとなってしまいます(ローマ12・1~2、コロサイ2・17、ヨハネ4・24、マタイ6・33、15・8~9、マルコ7・6~9)。収穫と実りのために制度が整えられても、私たちの心の中の恵みの種が義の実を結ばねば何も始まらないのです(マタイ13・18~23〔マルコ4・15~20、ルカ8・4~15〕、ヤコブ3・17~18、二ペテロ1・7~8)。

◆カテキスタ、受講生の愛と信仰が強められますように
主イエス・キリストに従うカテキスタ、受講生の方々は、もちろん、心に愛と慈しみのある方ばかりです。賜物にふさわしい役割を与えられた彼らが、その働きを通して出会った人々と共に、彼ら自身の愛と信仰もまた、ますます強められますように(一テサロニケ3・12、マタイ13・12〔マルコ4・25、ルカ8・18〕)。

主なる神よ、司祭、カテキスタ、受講生、スタッフ、愛があなたの恵みであることに気づいた全ての人が、その恵みをあまねく世に広めることができるよう、導いてください(一ヨハネ4・7~8、4・16、マタイ5・14~16、フィリピ2・15、一コリント6・19~20、二コリント4・15、ローマ2・10、8・39、ヨハネ7・38、8・12、13・35)。アーメン。

スタートから5年を経て

スタッフ
田園調布教会 岡野 孝

教区生涯養成委員会による信徒カテキスタの養成は、数年に及ぶ準備期間を経て2018年にスタートし、はや5年が経過しました。初年度は、受講者がどれだけ集まるか、といった心配をよそに29名の方が受講され、カテキスタとして奉仕することを望まれる方がいかに多かったかが分かり、勇気づけられました。その後も毎年6~10名の方が応募され、現在、第6期生8名が9月の認定・任命を目指しています。

◆巡航速度に達するとともに、新たな課題も
この5年間、猪熊神父様を中心に、立ち上げ後のさまざまな課題に取り組み、プログラムの運営自体はようやくここに来て、「巡航速度に達したかな?」という印象です。しかし、時の経過とともに新たな課題も生じています。現在、38名のカテキスタが7チームに分かれ、派遣先の教会で入門講座を開講していますが、受講者数が、私が考えていたよりかなり少ないのです。関口教会に派遣されているチームには、常に10名ほどの受講者がいますが、他の4チームは1~3名、残りの2チームでは受講者がいない状況が続いています。

月に1度、カテキスタ全員が一堂に会して各チームの動向や取り組みなどを分かち合っており、スタッフとしてその光景を眺め思うことは、「有能なカテキスタがこれだけ大勢いて、熱気にあふれているのに、受講者が少ないのはもったいない」ということです。

◆フランシスコ会の養成を受けたカテキスタによる、田園調布教会での入門講座の場合
私が所属している田園調布教会では、フランシスコ会の養成を受けたカテキスタが14年前からチームを組み、日曜日の9時のミサと11時のミサの合間の1時間を使って入門講座を行っています。毎年15~20名の方が受講し、ほとんどの方が受洗に至ります。

ある時「どのようにしてこの講座のことをお知りになりましたか?」と質問してみたところ、急な不幸や悩み事など、切羽詰まって教会を訪ねて来た方を除くと、以前は「ネットで検索してあちこち訪ねてみて、結局ここに来ました」という方が多かったのですが、最近では「信者の〇〇さんから伺って」というケースが多くなってきました。中には、「近所にお住まいのご夫婦がとても感じが良い方で、私もあのようになりたいな、と思っていたところ、日曜日には教会に行っていることが分かり、それで私もここに来ました」という方もいました。

私たちは積極的にPR活動を行っていませんが、いつのまにか教会内で認知度が上がり、信徒の方たちが日常生活の中、例えば職場の会話で、「教会という所に一度行ってみようかな」、といったことを耳にした場合、すかさずご案内下さっているようです。

◆開講先教会の神父様、信徒の方々のご協力が有ってこそ
このような経験から、現在教区カテキスタの講座は、カテキスタ自身がそれぞれの所属教会で様々な役割を担っているため土曜日に開講しているケースが多く、それ故に、開講先の教会の信徒の方々が講座のことをあまりご存じないのではないかと思います。各チームともに、教区のホームページやX(旧Twitter)を駆使してPRに努めてはいますが、何と言っても神父様や信徒の方々のご協力が有ってこそ成り立つものではないかと思うのです。

今後、認知度の向上のために何をしたら良いのかを含め、カテキスタの方々と一緒に考え、実行できるよう後押しをしていければと思っています。

◆日常生活での出会いを通じた教会の仲間づくりに励んでいきたい
使徒言行録の2章42節以降に、初代教会の様子が記されています。当時の信徒たちはひたすら使徒たちの教えを守り、皆心を一つにし、家では喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美していて、彼らは「民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」とあります。周囲の人々から見て「私も」と思われるような生き方をしていたのでしょう。

私たちカテキスタも、先人に倣い、教会共同体の信者の方々と共に、日常生活で出会う方々が一人でも多く教会の仲間に加わっていただけるよう、励んでいきたいものです。

典礼あれこれ

第11回
「ミサの開祭」

今回からは、私たちがミサを共に捧げるために、注意して心に留めておく必要があるいくつかのポイントについて、述べていきたいと思います。ミサの構造や式文を意識して共に祈ることはとても大切です。もし、そうしなければ、知らず知らずのうちにミサが進んでしまいかねないからです。一人一人の行動的な典礼参加が求められているのです。

今回は、ミサの開祭について、述べていきます。ミサを捧げる時に用いる『ローマ・ミサ典礼書』の冒頭には、赤い小さな文字で(ルブリカ、典礼注記を指します)、「会衆が集まると」と書かれています。一人一人は、急ぎ足でやってきたり、十分な時間の余裕をもってやってきたりとさまざまだと思いますが、集まった一人一人が「父と子と聖霊のみ名によって」集められた「キリストのからだ」である大切な教会共同体メンバーであり、その中に、キリストご自身が共にいてくださること(マタイ18・20参照)を意識することは、まず大切なことだと思います。そして、心を一つにして入祭の歌を歌います。

この開祭の目的は、「一つに集まった信者が一致するため」です。加えて、「神の言葉を正しく聞き、『感謝の祭儀』をふさわしく行うよう自らをととのえるため」なのです。

続いて司祭による挨拶とミサについての簡単な導入によって、礼拝の雰囲気が形作られて、私たちは回心へと招かれます。1世紀の終わりか2世紀の初めころに成立したとされる『ディダケー』(十二使徒の教訓)には、「主の日には集まって、あなたがたの捧げものが清いものであるよう、まず罪を告白してからパンを裂き、感謝を捧げなさい」と記されています。神の言葉を正しく聞くために、感謝の祭儀をふさわしく行うために、神さまと隣人への関わりを振り返るひと時としたいものです。

「いつくしみの賛歌」「栄光の賛歌」が捧げられた後、「集会祈願」が捧げられます。

この「集会祈願」は、ラテン語で「コレクタ」(「集められたもの」の意)と呼ばれますが、一人一人が持ち寄った日常生活から沸き起こってきたさまざまな祈りと共に、その日のミサを特徴づけるテーマに合わせて、神さまに捧げる共同体の公式な祈願です。「祈りましょう」という招きの後の沈黙のひとときを大切にすることや、司祭の司式奉仕によって唱えられた式文に対して、心から「アーメン」(その通りです。そうなりますように。)と唱えていきたいものです。