お知らせ

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Tangible第20号

2024年04月05日

いつの間にやら、桜の花咲く春となりました。
御復活おめでとうございます!! 皆様、如何お過ごしでしょうか?
さて、今日は、生涯養成委員会からお知らせを、再び、お伝えしたいと思います。

生涯養成委員会 担当司祭 猪熊 太郎

教区カテキスタ養成講座「第7期応募要項」の配布について

1月中旬に、教区カテキスタ養成講座「第7期応募要項」が、各小教区の主任司祭宛に配布されています。 カテキスタに関心のある方は、是非、各小教区主任司祭宛に送付されている応募要項、 または、教区HPにアップされている情報をご確認のうえ、書類を整え、 以下のように、期日までにお申し込みください。お待ちしています。

◆申込方法:「申込書」に必要事項をご記入のうえ、他の必要書類とあわせ、 締切日に間に合うように、下記の住所まで、直接、郵送してください。 後日、講座についての通知をさせていただきます。
〈申込先〉〒112-0014文京区関口3-16-15
     東京大司教区 生涯養成委員会
     教区カテキスタ養成講座」係

◆講座申込締切日2024年6月28日(金)17:00必着

2024年度開講情報について

生涯養成委員会では、2024年度、受洗を希望する方々のための「入門講座」と、既に信仰生活を送っている方々の学び直しの機会としての「フォローアップ講座」の2本立てで講座を開講します。

いずれの講座も、単に、キリスト教に関する知識を増やすための「講座」ではありません。また、授業でもありません。

一人ひとりが御言葉に触れ、共に祈り、分かち合うことなどを通して、共に信仰の旅を歩むことの意味を振り返っていく。そんな講座です。私たちは、そのようなひと時にしたいと思っています。

如何でしょうか?

興味がある方は、教会に掲示されているポスターや、チラシなどにありますQRコードから、開催場所・日時などをご確認のうえ、どうぞ、時間までに集合してください。

開講の時期が迫っています。皆様のお越しをお待ちしています!

※教会別講座情報はこちらのページをご覧ください。

受講生の声

共に学び、共に信仰生活を豊かなものにできるカテキスタを目指して

受講者
第6期生
洗足教会 菊地 実紀子

私がこの講座を初めて知ったのは去年の春ごろだったでしょうか。所属教会に「教区カテキスタ養成講座6期生募集」のチラシが置かれているのに気が付きました。初めはそのようなことは私とは無関係、できるわけがないと気にも留めませんでした。しかし、心のどこかで「より深く、正しくキリスト教についての知識を身に付けたい」という思いがありました。

それまで所属教会ではカテキスタとしてのお役をいただいておりました。まず所属教会のカテキスタに立候補した理由をお話ししたいと思います。

◆所属教会でのカテキスタ
経験からの自問と思い 私は20代後半から結婚、出産を通し、ずっと日本語教師の仕事をしています。なぜこのように長く、一つの仕事に就いているかというと、一つ目は「教えること」が好きだということ、二つ目は日本語を教えることを通してさまざまな人と関わり、少し大げさな言い方をすればその人の人生にも関わることができる仕事だと思っているからです。そんな私だから、カテキスタのお役もできるかもしれないと思ったのです。

所属教会で私が出会った方々は「洗礼ありき」の方だけではありません。ほんの少しキリスト教に興味があって教会を訪れた方、以前キリスト教に触れたことがある(例えばミッションスクールなどで)方など、受洗するかどうかはその時点で考えていない方もいらっしゃいました。これまで所属教会でカテキスタという立場でさまざまな方と巡り合うことができましたが、そのたびに、本当にこの私でよいのだろうか、という疑問がありました。もっと適任者がいるはず、では適任とは何か、カテキスタの資格があるのだろうか。常に頭のどこかでそのような自問を繰り返していました。

私自身所属教会の神父様から直接ご指導をいただき受洗した身ですので、なおさらカテキスタとしての責任を感じておりました。それでも必ずたどり着く思いは「このお役は神様が私に与えてくださったお役なのだ。神様のお恵みにこたえたい」という思いでした。

◆神父様からのお声がけに 「やりたい。やる。必ずやり通す!」
ところで、去年は私が還暦を迎える年でした。新年を迎え、これから還暦という人生の節目を迎えるにあたり何か新しいこと、今までと違うことにチャレンジしてみたいという思いが沸き起こりました。「長年続けてきた日本語教師の仕事はとてもやりがいがある仕事、でも本当にこのままでよいのか、これからの人生、キリスト教信者として何かできることはないのか」―そのような思いがどんどん膨らんでいました。

そのような時に、チラシを目にしたのです。最初は本当に私が志願する資格などないと思っていましたが、神父様からお声をかけていただき、即「やりたいです」とお答えしたのを覚えています。実は当初から気になっていたのは講座の長さでした。9月から1年間隔週土曜日の講座です。日本語教師の仕事も隔週が出社日となっているので、講座に必ず毎回出席できるかどうかも不安でした。しかし、お声がけをいただいた瞬間、全てのことを忘れてしまいました。「やりたい。やる。必ずやり通す!」

◆講座を見学し、おじけづいた私
その後、当時5期生の方の講座を見学させていただき、その内容のハードルの高さにおじけづきました。皆様の前でのたった一人での模擬授業、その後カテキスタの方々よりのご講評、神父様からのご講評と解説が続きました。大変魅力的ではあるけれども、果たして私ができることなのだろうか。とても不安になり、断るなら今だ、とまで考えました。

しかし、一方で、このような講座を受講させていただくことで私自身の成長と、私が望んでいた「深く、正しくキリスト教の知識を身につける」ことができるに違いないと確信いたしました。そして今、6期生として講座に参加させていただいております。

◆講座に参加し、毎回涙が出るほど感謝の気持ちでいっぱいに
現在2度の模擬授業を担当させていただきました。人の前に立って話すことには慣れているという自負は消え去りました。

まずレジュメ作りに悪戦苦闘しました。伝えたいことは理解していると思っているのに、何を文字化し、どのようにまとめれば良いか、今も答えが出ていません。模擬授業当日、ちゃんと話したつもりだったのに皆様には伝わっていなかったと思い知らされました。

そして何よりも、それぞれの聖書箇所の内容を的確に理解し、その上で人に伝えていくことの難しさも痛感いたしました。担当箇所だけではなく、毎回の聖書箇所の内容について、私がそれまで理解していた内容とは違う点、またはより深い真の教えを知ることができました。本当に受講させていただいて良かったと、毎回涙が出るほど感謝の気持ちでいっぱいになります。

◆「イエス様は人生の同伴者」と理解いただけるよう、お手伝いできる存在になりたい
一方、私が今まで思っていたことと同じ点もありました。「神様=イエス様はいつもそばに寄り添っていてくださる」「神様=イエス様は人間に無償の愛を与えてくださる」。

実はそれが、私が入信しようと思ったきっかけです。神様はそういう方だと信じたいと思って受洗しました。そのことをまず娘にも伝えたくて洗礼を受けたのです。まだ幼かった娘に神様がいつもいてくださると信じられる日々を送ってほしいと願いました。

そのことをこれから洗礼を受ける方にも伝えられたらと思います。受洗当時はまだ不確かだった「神様の存在」は日々確信に変わっていきました。これから洗礼を受ける方に寄り添って、「イエス様は人生の同伴者」であることをご自身が身をもって理解いただけるようにお手伝いできる存在になりたいです。私自身も共に学び、共に信仰生活を豊かなものにできるようなカテキスタを目指したいと思っています。

現場の声

実践を通じて学んだことを少しずつ形にして残す時期に

カテキスタ 第1期生
チーム関町
高幡教会 鈴木 英彦

◆温かく迎え入れてくださった関町教会の方々と共に、7名の方の洗礼準備のお手伝い
私たちチーム関町は、関町教会の集会室をお借りして、3回の洗礼準備講座を経験しました。この4年間を少し振り返りたいと思います。

まず、私は2019年9月に認定・任命式で関町教会の担当を仰せつかりました。早速10月から、関町教会の主任司祭と教会委員長はじめ教会の方々と「そもそも私たちは何者か」を説明することから始めました。しかしながら、私たち自身が「私たちは何者か」を体験的には全く分かっていませんでした。指導を受けたことを他人の言葉で説明していました。

関町教会の主任司祭や教会委員長も半信半疑ながら「ともかくやってみようか」との温かい気持ちで迎え入れてくださったと思います。

最初のスケジュールを見ると、講座は2020年4月18日がスタート日です。しかしながら、ご存じの通り新型コロナウイルス感染症が大流行し、全てが休止状態になりました。このような中、コロナが少し落ち着いたと思える頃、2020年10月3日から再開することで、関町教会のご了解をいただきました。そして、何回かコロナの流行が繰り返されましたが、関町教会のご配慮で、大きな集会室に変更して、風通しを良くするなど、三密を避ける工夫をしていただきました。

「せっかく始めたことだから、続けましょう」と言っていただき、2021年12月4日に1回目の洗礼準備講座を無事に終えました。3名の受講生の洗礼準備のお手伝いをすることができました。

私たちカテキスタは全くの手探りでしたので、温かく迎え入れてくださった関町教会の方々がいればこそ、3名の洗礼準備のお手伝いができたと感謝しています。

その後、2022年5月7日から2023年2月4日までが2回目です。そして、2023年4月5日から2024年1月20日が3回目です。通算7名の洗礼準備のお手伝いができました。

◆実践経験が積み上がり、現場での悩みの時にも仲間がいる
私たちカテキスタも少しずつ実践経験を積んできています。講座のためのテキストも前年度、前々年度のものがあり、参考になる資料はそろってきています。

このような私たちが作成したテキストが昨年末にライブラリーとして整備され、Q/A集や参考図書と併せて利用ができるようになったことは、素晴らしいことだと思います。

一方、毎年受講する方々は変わります。また、カテキスタのメンバーも変わります。従って「私たちは現場で応用問題を解きながら講座を進める必要がある」と思います。

例えば病気の家族がいる方には、本人がお話しすれば別ですが、こちらからは聞かない。

あまりプライベートなことには踏み込まない、と心がけてはいますが、講座が3カ月、6カ月と続きますと人情が湧いてきます。これは自然なことです。受講者が休んだりすると心配になります。このような事象があることは講義で習いますが、なかなか型通りにはいきません。現場で起こっていることに対して「どうにかしてあげられないか」と思い悩むことはよくあります。それは素晴らしい感性だと思います。

このような悩みの時には特に、チームメンバーが5名いること、また、カテキスタの指導司祭、仲間がいることが、とてもありがたいと感じます。「1人ではない」ということです。

◆経験したことや  知識を共有していく「場」が必要
私は最近、私たちが現場で経験した悩みや喜びなど、実践を通じて経験したことや知識を何らかの方法で、「カテキスタ同士で共有できたら良いのにな」と感じています。

テキストやQ/A集などのライブラリーを活用することは大事なことです。

さらに今後必要になることは、現場で起こっているいろいろな実践を通じて得た経験を「それぞれのカテキスタの頭の中に」しまったままにしておかないで「実践で得た知識」として共有していくことだと思います。

頭の中にしまったままの知識を共有する仕組みとして、「場」が必要だと思います。

「タブーの無い場」です。「教わるのではなく、気付く場」です。「激論を避けない場」です。今まで常識だと考えていたことを見直すこともあると思います。そうすることで、カテキスタのステージ・アップにもつながります。

例えば、チーム関町も最初は、講座をする教会は「場所を借りるだけ」との前提がありました。しかしながら、最初に記した通り、講座を開設する教会、あるいは宣教協力体と二人三脚でないと、受講者の募集も困難だし、受洗へのスムーズなバトンタッチも難しくなると思います。受け入れてくれた教会と宣教協力体には、カテキスタが行う入門講座を「私の」、あるいは「私たちの」講座だと思っていただくことが大事だと思います。このことは、実践して経験した事実です。多分、このようなこと、つまり今まで考えていたことと、実践を通じて考えを変えた方が良いことが、他のカテキスタやチームにもあると思います。

◆カテキスタの在りようのステージ・アップに向け、仲間と共に試行していきたい
現場での創意工夫、悩み、受け入れてくれた教会の方々の思い、受講生が講座を通じて感じてくれたこと等々を、もっと私たちも興味をもって聴き、感じ、カテキスタ同士で共有して、少しずつ文章などにして残せたら、カテキスタの在りようのステージ・アップにつながると思います。一カテキスタとして、仲間と共に試行していきたいと思います。 祈りのうちに

キリストと共に生きる喜び

カテキスタ 第1期生
チーム関町
赤羽教会 小手川 裕子

四旬節に入り、洗礼志願式や黙想会など復活祭へ向けて穏やかに過ごしていたいものですが、実際は年度替わりのこの時期は慌ただしく日々が過ぎていきます。

カテキスタ1期生の私にとって、3年目の今年度は2名の受講者と共に歩んできました。今年度の受講者はほとんど休むことなく、全講座を受講してくれました。

◆日常生活の中で感じるさまざまな側面、さまざまな悩み
私たちカテキスタは専門家ではありませんが、「日常生活の中で福音を生きること、神と共に生きることとはどういうことなのか?」に関しては多いに語ることができます。私たちはキリスト者でありますが、日常生活・社会生活の中においては、私であれば、女性であり、妻であり、母であり、会社員でありと、さまざまな側面を持っています。

私たちカテキスタの講座を受講され洗礼を望む求道者たちもほとんどの方々が私のようにさまざまな側面を持ち日常生活を生きています。その日常生活の中でキリストと出会い、キリストによって新しいいのちに生まれ変わり、生きていこうと思われている方々です。さまざまな側面があるということは、悩みもさまざまです。

◆福音を日常生活の中にどのように落とし込んで生きていくのかを共感しながら伝える
福音を生きたいと思いながらも現実はなかなか難しいものです。相手がいることですから、お互いが理解し合いたいと思い歩み寄れるならよいですが、そのような相手ばかりではありません。そのような時、自分の弱さや心の貧しさが現れてきます。

受講者からはそのような場面にあった時、「どのように考えたらよいのか?」「どのように自分の心を持っていったらよいのか?」との質問を受けることがあります。「そう思うよね。私もありますよ。だからそういう時には~~と考えるようにしています」とお答えすると「カテキスタの方でもそう思うのですね」と安心されます。

いつでもキリストの心で相手と向き合い過ごすことができればよいのですが、生身の人間である私たちには難しいことです。でも、キリストの新しいいのちに生まれ変わった私たちは、その方法をキリストから学んでいます。そのキリストが教えてくださった福音を、日常生活の中でどのように落とし込んで生きていくのかを、共感しながら伝えていくことがカテキスタとして共に歩むことだと思っています。

◆キリストと共に生きる喜びに 目を輝かす受講生をうれしく思う
チーム関町では、開講して3年、7名の受講者が洗礼の恵みを受け、それぞれの場所で信仰生活を送っています。7名いれば事情もさまざまです。ですが、受洗後、関町教会でばったりお会いすると皆さん「大変なんですよ」と日常生活を語りながらも目はキラキラとしています。

キリストと共に生きておられ、キリストと共に生きる喜びをしっかりと感じていらっしゃるのだなと、とてもうれしく思っています。

私たちチーム関町の今年度の受講者2名は、3月30日(土)の復活徹夜祭に洗礼の恵みを受けることになっています。1名はカトリック新聞から取材を受け、洗礼に至るまでのことや、教会共同体の中で過ごされていること、キリストと共に生きる喜びを語ってくださっています(2024年2月18日号)。機会がありましたらぜひご覧いただければと思います。

最後になりますが、私たちカテキスタ活動を理解し支えてくださっている稲川保明神父様をはじめ関町教会の皆様に心より感謝申し上げます。

典礼あれこれ 第12回

「ことばの典礼1」朗読の聞き方

ミサで聖書が朗読されている時、皆さんはどのように聖書朗読を聞いておられるでしょうか?

目を閉じて心の中でみことばを繰り返しながら聞いておられるでしょうか?

それとも『聖書と典礼』の朗読箇所を目で追いながら聞いておられるでしょうか?

また、今日の朗読者は誰だろうかと朗読者を見つめながら、うわの空で聞いているでしょうか?

第二バチカン公会議文書『典礼憲章』によれば、「聖書が教会で読まれるとき、キリストご自身が語られる」(同憲章7)と記されています。朗読者が誰であれ、朗読される言葉は、神のみことば、キリストのみことばとして受け入れることがまず大切です。神ご自身が、朗読者の奉仕を通して、私たち一人一人に今日も語りかけておられるのです。そして、告げられるみことばには聖霊の働きによって力があり、実際に効果をもたらすものとして受け入れる姿勢が大切です。

『ローマ・ミサ典礼書の総則』によれば、「ことばの典礼は、黙想を助けるように行わなければならない」(同総則56)と指示されています。落ち着きのない行動を避けて、神のみことばを心の耳で聞き、黙想できるように、ことばの典礼の前、第1朗読、第2朗読それぞれの後、また説教の後に短い沈黙のひとときを取ることが勧められています。

これらのことを踏まえて、ミサで聖書が朗読されるときに勧められる聞く姿勢とは、たとえば、次のようなものでしょう。神のみことばに対する信仰の心を持ちながら、事前に『聖書と典礼』に目を通しておき、聖書が朗読される時には、できれば『聖書と典礼』に目を通しながらではなく、手元に置いて、朗読者の方を向いて、しっかりと耳を傾けてみことばを聞くことでしょう。朗読者の奉仕を通して、自分自身の耳に入ってくるみことばをしっかりと受け止めていく必要があるのです。告げられるみことばは、この日、この私に向けられた神さまからのラブレターだ、という説明がありますが、そのような気持ちで聖書朗読を聞いたうえで、答唱詩編や信仰宣言、共同祈願を心から捧げることによって、呼びかけてくださる神さまに応えていきたいものです。

お詫びと訂正

本紙2024年3月号2面、「受講生の声」第6期生 川本裕子さんの文中に間違いがありました。「神と人々との関わり大―三つの時代とその特徴を知る―」は、正しくは「神と人々との関わり―三つの時代とその特徴を知る―」でした。川本裕子さんには大変ご迷惑をおかけいたしました。ここに深くお詫びして訂正いたします。