港品川宣教協力体合同堅信式説教

2017年10月15日、年間第28主日、麻布教会

[聖書朗読箇所]

主イエスは、神の国の福音を、いろいろなたとえ話によって、説明されました。
最近の主日の福音は、3回ほど続けて、『ぶどう園』に関するたとえ話です。
『ぶどう園の主人と農夫のたとえ話』が先週(年間第27主日)、その前は、『ぶどう園に招かれたふたりの息子のたとえ話』(年間第26主日)、さらに、3週間前は、『ぶどう園で働く労働者のたとえ話』(年間第25主日)でした。

ぶどう園というのは、神様が、わたしたちを派遣して、働く場所、人々を招いて、神様のみ心を行わせるための世界を表していると思われます。
わたしたちは、この世界、ぶどう園に遣わされ、そちらで、神様のみ旨に従って、良い実を結ぶようにと、期待されています。

今日は、「王が王子のために催す婚宴のたとえ話」です。
今日の話に出てくる王は、父である神様、御子イエス・キリストのために、婚宴を催すということを伝えている話であると思われます。
『婚宴』、あるいは、『宴会』という主題は、聖書を通して、たびたび登場します。
今日の第一朗読、イザヤ書では、万軍の主が、すべての民を招く祝宴が述べられています。
「万軍の主はこの山で祝宴を開き
すべての民に良い肉と古い酒を供される。
それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
主はこの山で・・・(省略)・・・
死を永久に滅ぼしてくださる。
主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい
御自分の民の恥を 地上からぬぐい去ってくださる」(イザヤ25・6-8)。

神様が、わたしたちを、その喜びの宴会に、招いてくださるという、喜ばしい福音が、すでにイザヤ書で、述べられています。

さらに、黙示録の中では、次のように言われています。
「子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」(黙示19・9)。

神の国が完成したときのイメージを持って、神様は、すべての人を、ご自分の宴会に招いてくださるという、喜びの便りを告げています。この言葉をわたしたちは、聖体拝領の前に唱える祈り、「神の子羊の食卓に招かれた者は幸い」として唱えています。

さて、今日のたとえ話の後半です。
礼服を着ていない者は、外の闇に放り出されてしまう、と言うのです。
王は、家来を遣わして、いろいろな人を王子の婚宴に招きましたが、人々はいろいろな理由をつけて、招きを断ります。
そこで、王は、良い人であっても、悪い人であっても、誰でも良いから、呼んできなさいと命じます。そして、部屋がいっぱいになるほどの人が、婚宴の席に連なることになった。急に呼ばれて、身なりを整える余裕もないままに連れてこられた人に対して、礼服を着けていないことをとがめられるということであるならば、それは、よく分からない話であるということになりはしないでしょうか。

この、「礼服」は、何を意味しているのでしょうか。
人生には、いろいろと重要な場面、例えば「死」という場面がありますが、いつ、どのようにして、その場面が自分に訪れるのかということを、わたしたちは、よく知ることはできない。
たぶん、そのことを教えているのかもしれない。いつでも準備していなければならない。いつでも、そのときが来たら、そのときを、よく迎えることができるように、心を整え、生活を整えていなければならない。わたしたちは、そのようにしなければならないのだと思います。

恐らく、この礼服というのは、文字通りの、立派な、婚宴のときに着ていく服というよりも、王の招きに、いつでも応えることができるような、準備のことを指しているのではないかと思います。準備とは、心の準備、生活の準備のことではないかと思います。
ふさわしい心、それは、神の招きに、いつでも応えようとする信仰、そして、自分が至らないものであるということを、よくわきまえる、謙遜さ、神の恵みへの感謝、そして、神の国の完成へと、自分が連なることができるという希望を表しており、そして、そのような心構えで、日々誠実に生きる、日々の愛の実行ではないかと思います。

今日、ご一緒に献げている、このミサ聖祭は、神の国の完成の宴会の前触れ、かたどりであると言われます。
ミサというのは、主として、『ことば』の食卓と、父である神との親しい交わりを示す『感謝』の食卓から成り立っていますが、ご聖体をいただくときに、ふさわしい準備をして、主の御からだをいただきます。
それは、ちょうど、神の国に最終的に入るときのことを、あらかじめ、表していると考えることができます。

さて、今日、堅信を受けられるみなさんは、『福音を宣教する』という使命を授かります。福音宣教とは、すべての人を、神の国の宴会へ招くということであると、言い換えることができます。

「神様は、すべての人を、ご自分の幸せ、ご自分の喜びの集いに招いてくださっています。ですから、いつもふさわしい心で準備していなさい。生活も整えなさい。」
そのようなことを、人々に教え、伝えることが、福音宣教ではないかと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読  イザヤ書25・6-10a
万軍の主はこの山で祝宴を開き
すべての民に良い肉と古い酒を供される。
それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた布と
すべての国を覆っていた布を滅ぼし
死を永久に滅ぼしてくださる。
主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい
御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる。
これは主が語られたことである。
その日には、人は言う。
見よ、この方こそわたしたちの神。
わたしたちは待ち望んでいた。
この方がわたしたちを救ってくださる。
この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。
その救いを祝って喜び躍ろう。
主の御手はこの山の上にとどまる。

第二朗読  フィリピの信徒への手紙4・12-14, 19-20
〔皆さん、わたしは、〕貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。
それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

福音朗読  マタイによる福音書22・1-14
〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに〕たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』
しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』
そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」

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子どもの家エラン開所式説教

2017年10月11日

[聖書朗読箇所]

今日の開所式、そして、祝別式にあたり、みなさまに、ひと言申し上げます。

こちら家は、カトリックの女子修道院の家でしたが、わたくしどもが譲り受けまして、このたび、『子どもの家エラン』として、再出発することになりました。今日、こちらに集まって、わたくしたちは喜びを分かち合いながら、希望を新たにし、励まし合って、歩んでゆきたいと思います。

わたくしどもの団体、公益財団法人東京カリタスの家は、財団法人ですが、もともとはカトリック教会の活動として、出発いたしました。われわれの歩みの中で、多くの方のご指導、ご理解をいただき、今日、改めて、公益財団法人の活動として、みなさまに、より一層のご理解、ご指導を願うことになりました。

いま、わたくしが読みました聖書の箇所は、イエス・キリストの復活に関わる箇所です。わたしたちの宗教は、ナザレのイエスといわれるひとりの人の生涯、特に、その《死と復活》という出来事に基づいて成立し、発展してきました。
それは、ナザレのイエスという人の物語です。エルサレムで、惨めな最後を遂げた、ひとりの男、イエスは、ナザレというところの出身なので、ナザレのイエスと呼ばれる男の物語です。

そのイエスは、たしかに、十字架の上で処刑されて、地上の生活を終えたけれども、そのイエスが、いまも生きている、三日目に復活されたという信仰が生まれました。
その信仰を分かち合った人々が、ひとつの団体となり、そして、世界中に広がって、今日、キリスト教の団体がたくさんあります。

いま読まれました箇所は、悲惨な出来事の直後、その出来事を目の当たりにした二人の弟子が、どのような理由でしょうか、エルサレムから、ずっと西の方にあったと言われている、エマオというところを歩いていたときのことです。
一人の旅人が近づいてきて、一緒に歩きはじめた。そして、道々、いろいろな話をした。その話の中心は、エルサレムで起こった、大変大きな、悲しい、ひどい出来事のことです。その旅人は、その出来事に関して、聖書の説明をしながら、弟子たちに、その出来事の意味を話してくれた。そのような物語です。
行き先は、エマオという場所であったそうです。エルサレムの西の方角にある村のようでして、およそ、10キロメートルから12キロメートルくらいでしょうか、歩くのには、少し遠い場所でしたが、当時の人々にとっては、そんなに難しくない歩行距離でした。
そこで、彼らは、日が暮れたので、夕食をともにした。そのときに、その旅人が、実はイエスであったということに、ふたりの弟子は、最初は気が付かなかった。
イエスがパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、お渡しになったときに、二人の目が開け、イエスだと分かったのですが、その瞬間、イエスの姿は見えなくなりました。
弟子たちは、何時間か、イエスとともに過ごし、「イエスが死と罪を乗り越えて、その姿を弟子たちに現された」という体験をしました。
不思議なことですが、それ以外の箇所でも、復活のイエスと出会ったという話があります。そして、その体験は、イエスが、いつもそばにいて、それだと分かるというような現れかたではなくて、現れては消えてしまうという、そのような出現の出来事であったと、聖書が伝えています。
「東京カリタスの家」はキリスト教の活動として出発しました。キリスト教徒はイエス・キリストの《復活》という出来事にも続いて成立した信者の集まりである、ということを今日お集りの皆様にご理解いただければ幸いです。わたしたちは、《キリストの復活の証人》となることができますよう、努めております。

さて、今日、子どもの家エランの開所式にあたり、こちら家に集まり、ともに過ごす人々、職員、利用してくださる子どもたち、その保護者、ご家族の方、そのような方々にとって、こちらで過ごす時間が、本当に力となり、励ましとなり、心を明るくするような、いわば「復活のキリストとの出会い」のような体験をする家となって欲しいし、またそのようにできると信じます。
それは、誰が見ても、それだと分かるような、そのような明白な体験ではないかもしれません。「しるし」のような体験かもしれません。
この家で、お互いに心を開き、信頼して、そちらに働いてくださる、何かの力、信仰している者にとっては、神の力を認め、そして、感謝しながら、誰にとっても、日々体験する、様々な問題、困難があるという現実の中で、喜んで、希望を持って、日々の生活を送ることができますように、今日は、そのための恵みを、神様に願い、求めたいと思います。

子どもの家エランを利用する人々に、恵みと平和がありますように。
こちらの祈りを心からお献げしたいと思います。

聖書朗読箇所

福音朗読  ルカによる福音書24・28-32
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

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武蔵野北宣教協力体合同堅信式説教

2017年10月9日、清瀬教会

[聖書朗読箇所]

武蔵野北宣教協力体の合同堅信式を、清瀬教会で行う今日、わたくしは、大変嬉しく感じております。

いま、読まれました、ヨハネの福音ですが、復活した、主イエスが、弟子たちにお現れになった様子を告げています。
弟子たちは、イエスの十字架の死という、出来事に出会い、非常な驚き、おそれ、不安、悲しみをおぼえていたと思います。
どうして良いか、分からない。どちらかの家に引きこもって、固く戸を閉め、鍵を掛けて、誰も入ってこないようにしていたと思われます。そちらに、イエスが入ってこられた。
「あなたがたに平和があるように」と言われた。そのとき、弟子たちは、非常に喜びました。毎回、この箇所を読むときに、「喜んだ」ということが、非常に大切なのではないかと思います。イエスがよみがえられたことを喜びましたが、同時に、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださったことを、喜んだのではないでしょうか。

ペトロをはじめとする弟子たちは、どのようなことがあっても、あなたに従いますと、大見得を切ったにも関わらず、みな、イエスを見捨て、逃げてしまった。先生を裏切ってしまったという悔恨、申し訳ないという気持ちがあったと思います。そして、ユダヤ人のことも恐ろしかった。
その弟子たちに、イエスが、「あなたがたに平和があるように」と言われた。弟子たちは、自分たちがしたこと、過ちを、イエスが赦してくださったのだということを、実感することができました。この喜びの体験が、教会の誕生となったのだと思います。
イエスは弟子たちに、聖霊を授ける。そして、聖霊によって、罪の赦しをすることができる力をお授けになりました。

第一朗読は、使徒言行録の2章、弟子たちの上に、聖霊が降りてきたという出来事を告げている聖霊降臨の場面です。
多くの国から集まってきた人々は、聖霊の恵みによって、お互いに、言葉の違い、文化の違いを越えて、言葉を理解する、特別な恵みを受けたと、聖書は伝えています。
わたしたちの教会は、このようにして誕生しました。教会というのは、言葉、民族、国家、文化、習慣、いろいろな違いがあるが、その違いを大切にしながら、同じ神様を信じ、同じイエス・キリストを救い主と信じ、聖霊を受け、神様の福音を宣べ伝え、証する共同体、同じ神の民です。
そして、教会は、このときから、イエス・キリストを宣べ伝える、宣教する共同体になりました。
堅信を受けるみなさんは、聖霊降臨のときの恵みと同じ恵みをお受けになります。聖霊降臨のときに降った聖霊と同じ聖霊が、みなさんに与えられて、聖霊の7つの賜物が授けられます。
福音を宣べ伝えるという使命は、教会が授かったもの、全員が受けた使命です。司祭、司教にとっては、当然の仕事ですが、全員が洗礼を受け、特に、堅信を受けるみなさんは、全員、自分の信仰を人々に表し、伝えなければなりません。
自分が信者になったのはなぜか。自分にとって、イエス・キリストは誰であるか。どのようにして、自分は信仰を生きているのか。なぜ、信仰が自分にとって必要であるか。
そのようなことを、自分の言葉で話してください。自分の体験を話してください。

日曜日、司祭は忙しいので、教会に来る人、ひとりひとりの話を丁寧に聞いたり、聖書のお話をしたりする余裕が、なかなかありません。そのようなときに、教会では、司祭を助けて、自分の信仰を、あるいは、カトリック教会の教えを、自分の言葉で伝える人が必要です。
そのような人を、東京教区は、しっかりと準備したい。そのような計画を、いま、作っています。

また、はっきりと勉強したいという気持ちはないようだが、教会に来たという人に、「こちらに来て良かった。自分の場所がある。自分の問題を話すことができそうだ」と思っていただけるような、そのような教会でありたい。
既にそのようにしていると思いますが、もっと、苦しんでいる人、悩んでいる人、迷っている人が近づきやすい、安らぎを見出すことができるような共同体になるように、お互いに努力したいと思います。

いまから30年程前、1987年11月でしたが、日本のカトリック教会は、福音宣教のための、非常に大がかりな会議を開きました。
福音宣教推進全国会議、『NICE(ナイス)』と言っておりますが、開かれた教会作りをスローガンに掲げました。人々が近づきやすい、入りやすい、自分の場所を見つけやすい、そのような教会になろうという目標を掲げました。

キリスト教はなじみにくい、敷居が高いと思われている。どうしてなのでしょうか。
わたしたちが、あまり人を歓迎するような態度を持っていないからでしょうか。あるいは、信仰は自分の心の問題であるから、他の人には関係ないと思っているからでしょうか。あるいは、わたしたちの日々の生活を見て、躓くとは言わないまでも、この人たちがしていることは、あまり自分には響かない、言っていることとしていることが合っていないと思っているからでしょうか。あるいは、キリスト教の教え自体が難しいのでしょうか。

教えを、みなが分かりやすい教えに変えるということはできません。イエズス様がおっしゃったことを、こちらの都合の良いように捻じ曲げるということはできませんが、説明の仕方が難しいのかもしれません。
よく、プレゼンテーションという言葉を聞きますが、相手が分かるように、受け入れやすいように、提出しないといけない。相手が、どのような必要を持っているのか、どのような人であるのかをよく見ながら、接触しないといけません。
その点、カトリック教会は落第であったと思います。東京教区は、全員、イエス・キリストの福音を宣べ伝え、教えを実行する教会として、成長していきたいと思います。

今日、堅信を受けられるみなさん、みなさんにできることをしてください。できるようになるためには、お祈りが大切です。神様の恵みがないと、できません。ひとりのときも、朝起きたとき、夜寝るとき、昼間も、「どうか、神様、わたしを助けてください」と祈りましょう。
聖母マリアの助けを願い、聖人の模範を、もっとよく学ぶようにしたいと思います。
どうぞ、堅信を受けられるみなさん、2017年の、この良い日、いつまでも大切に思い起こしていただきたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読  使徒言行録2・1-11
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

福音朗読  ヨハネによる福音書20・19-23
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

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2017年こどものミサ説教

2017年10月8日、東京カテドラル聖マリア大聖堂

[聖書朗読箇所]

2017年の『こどものミサ』は、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という、ルカによる福音書の言葉から採られ、副題は「今日 愛と優しさをもって」となっております。今日、ご一緒に、この福音書の言葉を学び、分かち合いをしたいと思います。

イエスの一行は、町や村を巡り歩きながら、エルサレムに向かって進んでいました。
すると、誰かが、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(ルカ13・23)と聞いたとあります。
「救われる者が、多いか、少ないか」という問題に、主イエスは、直接お答えにならなかったような印象があります。そして、次のように言われました。
「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。(ルカ13・24-25)

もし、わたしたちが、「お前たちがどこの者か知らない」と言われたら、困ってしまいます。どのような場面なのでしょうか。
もしかしたら、もう、神様に向かう旅路が終わるとき、つまり、わたしたちが、この地上の生涯を終えて、神様の前に立つというときのことなのかもしれません。

わたしたち人間は、神様のみ心に従って、この世に送られてきました。そして、また、神様のところに戻る旅、長い旅、人によっては短い旅、途中、いろいろなことがある、危ないことがある、難しいことがある、よく分からないことがある、その旅を歩んで、神様のところへ向かう。そして、わたしたち人間は、いつか、死ななければならない。死ななければならないというよりは、死ぬことができると言った方が良いのかもしれない。
でも、もし、その最後の時に、神様から、「お前のことなど知らない」と言われたら、これは、非常に困ります。「よく来たね。よく頑張ったね。さあ、いらっしゃい。大歓迎だよ」と言ってもらいたいわけです。

どうでしょう。わたしたちは、そのように言ってもらえるでしょうか。
わたしたちが、毎日、神様がお喜びになるようなことをし、何も悪いことはせず、問題になることがなければ、胸を張って、「さあ、到着しました。わたしは立派に生きてきました」と言うことができるのですが、なかなか、そのような人はいません。もし、そのように言うとしたら、正直ではないと思います。

旧約聖書は、神様がお教えになった色々な掟、とくに大切な10のおきてである十戒を教えています。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われました。そこで、わたしたちは、そのようにしようと頑張っている。しかし、そうであるとは言っても、みなさんがどうであるかは、わたくしには分かりませんが、わたくしなどは、とても、胸を張って、「わたくしは問題ありません。真っ白です」と言うことができない。いつも、「申し訳ありません。もう少し頑張ってみます」という気持ちでいます。

人間は、自分の力で、神様のお望みになることを、完全に果たすことはできないと思います。
では、どうすれば良いのか。わたしたちの救い主、イエス・キリストがおられます。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14・6)
逆に言うと、「わたしが一緒だから、あなたがたを、天の御父のところを連れて行ってあげるよ。わたしと一緒に来なさい。わたしに信頼しなさい。あなたが弱い者であり、罪を犯す者であるということを、わたしは知っている。それでも、わたしに信頼する限り、わたしに打ち明けて、一生懸命やりますと言う限り、あなたは、毎日、新しく生まれることができる」と言っていただく。
ですから、やっと、神の国を完成する日、あるいは、天の御父がお住みになっている家に来て、門をたたいて、「開けてください」と言うときに、御子イエス・キリストが、いつも一緒にいてくださること、御子がとりなしてくださることを信じる人、何か問題があっても、「ごめんなさい。わたしにはこのような問題があります。でも、そのようなわたしを、神様は、赦し、大切にしてくださっています。それを信じます。神の愛を信じます。どうか、宜しくお願いします」という気持ちでいる人、そのような人が、「よく来たね。どうぞ、どうぞ」と言って、中に入れてもらえるのだと思います。

この、『狭い戸口』は、狭いからなかなか入ることができないと、よく言います。これは、イエズス様を知らない人にとっては、難しい。それは、狭いとか、広いとかという問題ではありません。
人間は、どんなに努力しても、神様のお望みになることを、全部果たすことはできません。できないということを分かっている人は、イエズス様の導き、イエズス様からいただく赦しを信じます。

わたしたちの教皇フランシスコは、『いつくしみの特別聖年』を行いました。
「『神様はいつくしみ深いかたである』ということを、もっと深く、信じることができるように、毎日を過ごしましょう」という話がありました。そのことを、思い起こしましょう。
人生には、危険なこと、困難なことがあります。失望したり、絶望したりすることがあるかもしれない。そのようなときにでも、復活したイエスが、いつも一緒にいてくださるように、イエスの霊、聖霊は、わたしたちと、いつも一緒にいてくださると、そして、いろいろな聖人の模範があり、聖人もいろいろな困難の中で、信仰を守り、主イエスとともに神さまのもとにたどり着きました。

いま、もしかしたら、大変困難な時代であるかもしれない。この日本において、イエス・キリストを信じ、神様を信じ、そして、生涯を信者として生きるということは、易しいことではありません。それを、みなさんはしている。大変立派なことだと思います。
お互いに助け合わないといけません。信仰というのは、その人と神様の関係ですが、神様を信じる者同士が、励まし合うことによって、わたしたちの信仰は、より確かな、より強いものになっていきます。

年に1回の『こどものミサ』は、そのために、非常に大切な、素晴らしい機会であると、わたくしは思います。今日、カテドラルに集まってくださったことを、本当に嬉しく、感謝しております。

聖書朗読箇所

第一朗読  テモテの信徒への手紙Ⅱ1・6-14
〔愛するテモテへ〕 わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。
キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。
というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。
キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。

福音朗読  ルカによる福音書13・22-30
イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。
あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

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2017年こどものミサ挨拶

2017年10月8日、カテドラル

ごあいさつ

「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(ルカ13・23)  

-今日 愛と優しさをもって-

ことしのこどもミサのテーマは
「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(ルカ13・23)
-今日 愛と優しさをもって- です。
昨年のテーマは「いつくしみの特別聖年」を祝って、
「何回赦すべきでしょうか。七回までですか」(マタイ18・21)
-神さまのいつくしみは永遠-
でした。この二つのテーマの間にはどんなつながりがあるでしょうか、一緒に考えてみたいものです。
そこでこのテーマを頂いていま心に浮んでくる「想い」を自分の予習のための覚書として書いてみます。
イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」(ルカ13・24)
このお言葉はどういう意味だろう。マタイ福音書では「門」となっています。
(マタイ7・13-14)・・・どこに行くための戸口だろうか。・・・またイエスは言われました。「わたしは羊の門である。」(ヨハネ10・7)さらにまた言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14・6)
このように考えてみると、この「戸口」「門」とはイエスご自身のことではないかと思われます。
「いつくしみの特別聖年」でわたしたちは、主イエスのいつくしみについて学びました。イエスという「戸口」を通るとは、イエスのいつくしみを受けること、知ること、そして実行することではないか、と思います。そしてそれはまさに「今日、愛と優しさをもって」人々に仕えることでありましょう。
その際、次の聖書の言葉が大きな慰めになります。
「(主よ)あなたは存在するものすべてを愛し、造られたものは何一つ忌み嫌われない」(知恵の書11・24)のです。
そしてイエスはこの言葉〈主よ、救われる者は少ないのでしょうか〉を、イエスはエルサレムに上る道の途中で述べられまた。エルサレムでイエスを待っているのは、受難、十字架、そして復活という出来事です。イエスは弟子たちに「自分の十字架を背負ってついて来るものでなければ、誰であれ、わたしの弟子ではありえない」(ルカ14・25)ともいわれました。「狭い戸口」から入るということは自分の十字架を背負うということでもあると考えます。




調布教会創立50周年ミサ説教

2017年10月1日、年間第26主日

[聖書朗読箇所]

調布教会創立50周年を祝う、今日、年間第26主日のミサで、ただいま、読まれました福音、そして、朗読をご一緒に味わってまいりたいと思います。
今日の福音は、お聞きになられたように、2人の息子についての、たとえ話です。
先週の日曜日の話もたとえ話で、ぶどう園で働く労働者のことでした。今日も、ぶどう園で働きなさいという話です。
この話は、わたしたちに、何を告げてくださっているのでしょうか。わたくしの心に強く残る、イエズス様のお言葉は、次の箇所です。
「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」。
(マタイ21・31)

徴税人、あるいは、娼婦と呼ばれる人たちは、代表的な罪人とされていました。罪人というのは、神様のおきてを守らない、あるいは、守ることができない人々です。蔑(さげす)まれ、嫌われ、見たくもないとされるような、汚れた人々とされていました。

この、徴税人や娼婦に対して、立派に神様のおきてを守り、そして、教えている人々、聖書では、しばしば、ファリサイ人、あるいは、律法の専門家と呼ばれている人々を指しているようですが、今日は、祭司長、民の長老という人たちに向かって、イエスは言われております。

いずれにせよ、この人たちは、洗礼者ヨハネの言葉を受け入れなかった。受け入れる必要を認めなかった。自分たちは、きちんと、神様の言葉を守り、人々に教え、そして、立派に民の指導をしていると、指導を受け入れない、哀れな困った人たちが、徴税人や娼婦と呼ばれる人たちでした。

祭司長、民の長老、あるいは、たぶん、律法学士、ファリサイ派の人々は、自分たちは、立派に神様のおきてを守っているし、神様のみ心に適う者であるという自覚を持っていた。自負していたと思います。
それに対して、徴税人、娼婦の方は、日頃から、自分たちのしていることは良くないことだと思い、さらに、自分たちが、人々からどのように思われているかということも分かっていました。

ここに、対照的な2つのグループがある。「自分は神様のみ心を行っている者である」という人たちと、「神様の定めから大きく外れている者である」というように自覚する人たち。
わたしたちは、どちらでしょうか。あるいは、両方でしょうか。

さて、このイエスの言葉、「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」というお言葉は、どのような意味でしょうか。
『徴税人、娼婦たちは、自分たちが罪人であり、そして、罪の赦しを受けなければならない者であるという自覚を持っていた』ということに注目したいと思います。

また、この2人の息子の話ですが、「ぶどう園に行って働きなさい」という呼びかけは、どのような意味でしょうか。
わたくしは、次のように考えています。『ぶどう園に行って働く』ということは、イエス・キリストによって示された、神の愛、神のいつくしみ、罪深い人間を受け入れ、赦してくださる、神の愛を信じ、その神の愛に応えて生きる決意を新たにすることだろうと思います。

わたしたちは、洗礼を受けたとき、「信じます。悪霊とそのわざを捨てます」というような約束をしました。まして、修道誓願を立て、あるいは、司祭の叙階を受けた者は、もっと、何重にも、そのような決意を新たにしました。

では、その通りにしているか、100パーセント大丈夫かと言いますと、他のかたは存じませんが、わたくしは、本当に恥ずかしい。内面、「忸怩(じくじ)たる思いがする」のであります。きちんと、約束したことを守り切ってはいない。
でも、そうしなければならないと思い、いつも祈ります。「あなたは、わたしのことをすべてご存知です。わたしが、どのような状態にあるか、わたしの心がどのようなものであるかをご存知です。どうか、それを承知の上でも、このわたしを赦し、務めを果たすことができるよう、励まし、導いてください」。そのように祈ります。

この祭司長、あるいは、民の長老、律法学士、ファイサイ派の人の心の中に、そのような思いがあったかどうかは、知ることができませんが、イエスが、別の箇所で、彼らに向かって、
「あなたがたは、白く塗った墓のようなものである。外側は綺麗だけれども、中は醜い。人間の死骸で一杯だ」
というような、大変な強い非難の声をぶつけているところからしますと、自分たちは、外側だけではなく、内側も問題なく綺麗だと思っていたのかもしれない。
しかし、いかに立派な人間であっても、わたしたちは、100パーセント、すべて神様に満足いただけるような人間にはなり切れないと思います。

さて、そのように思いながら、今日の朗読で、大変心に響く、あるいは、気になる言葉を、お伝えしたいと思います。
それは、第二朗読にある言葉です。
「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」。

わたしたちは、毎日、いろいろな人と一緒に生活し、いろいろな人のおかげで生きています。考えてみれば、ひとりで何もすることはできない。本当に、いろいろな人に、教えられ、助けられ、そして、許されて、自分の生活をし、自分の務めを果たしている。
そうなのですが、相手を自分より優れた者と考えなさいと言われても、優れている点はあるけれども、この点については、この人は自分よりできると思っても、この言葉が、『その人を自分よりも優れた者と、心の底からそのように考えて、尊敬するということ』を意味しているとすれば、できていない。これは、どのような意味なのだろうか。どうして、今日の第二朗読に、今日の箇所が取り上げられているのだろうか。こじつけかもしれませんが、立派に神様のおきてを守っていると思っている人にとって、罪人である、徴税人、取税人は、とんでもない人たちです。

わたしたちは、そこまでは思わないとしても、自分はこうしているのに、相手はこうではないか、という思いを持つことがないだろうか。そのことについても、わたくしの個人の心の問題ですが、極端なことを言いますと、毎日、これはこうではないかと思うが、こうしてくれない、という思いが湧いてきます。
まして、こちらで言われている通り、「利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、ひとりひとりの人を、自分を助けてくれる、大切な人と考えなさい」というパウロの言葉を、もっと、しっかりと心に留めて、実行していきたいと思います。

今日は、調布教会創立50周年、これからの新しい歩み、100周年、200周年に向かって、さらに、ずっと先まで歩みますが、みなさんに送りたい言葉は、次の通りです。
これは難しいことかもしれませんが、「互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」という十分意味のある大切な言葉です。
毎日、この言葉をどれだけ実行できたかを反省するだけで、素晴らしい進歩ができるのではないでしょうか。わたくしも、人に言うからには、もっと自分で、実行するようにしたいと思います。

遅ればせながら、今日、50周年、心からお祝い申し上げます。

聖書朗読箇所

第一朗読  エゼキエル書 18:25-28
〔主は言われる。〕「お前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。」

第二朗読  フィリピの信徒への手紙 2:1-11
〔皆さん、〕あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
《キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。》

福音朗読  マタイによる福音書 21:28-32
〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。〕「あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」
彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

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年間第25主日徳田教会堅信式説教

2017年9月24日

[聖書朗読箇所]

今日、年間第25主日の福音は、ぶどう園で働く労働者の話です。
このミサの中で、堅信式が行われますが、今日の主イエスのみことばが、堅信を受けるかたがたのために、どのような意味を持っているのかということを、ここに集うわたしたち一同で、分かち合いたいと思います。

主イエスの教えは、しばしば、わたしたちにとっても、分かりにくいと感じることが、あるのではないでしょうか。
今日の、天の国のたとえ話も、そのようなもののひとつであると思います。
天の国、あるいは、神の国は、わたしたち人間の思いを、はるかに超えた世界であり、神様の定められる道は、わたしたち人間が、こうではないかと思う、いわば、常識とは、大変かけ離れたものであるということを、今日のミサの第一朗読、イザヤ書が言っております。

朝早く、世が明けるときから働き始めた人と、夕方5時ごろ、やっと仕事に有り付いて、1時間だけ働いた人がいた。朝9時、12時、3時、それぞれの時刻に雇われた人がいましたが、全員同じ報酬、1デナリオンを受け取った。当然、報酬を受け取った人の間には、分からないとか、変だとかという思いが生じたことでしょう。
わたしたちも、この話を読んで、これは何を言っているのだろうかと思います。
もし、わたしたちが、朝早くから働き始めた人の立場にあるとすると、1時間しか働かなかった人と、同じ報酬しかもらえなかったということに対して、大変不満を感じる。しかし、夕方5時になって、働き始めた人の立場になると、これはありがたい、嬉しいことだと思うのではないでしょうか。

考えてみれば、この社会とわたしたちの人生は、このぶどう園のようではないかと思います。
格差のある社会ということが言われて久しい。わたしたちは、自分の努力で変えることのできない、格差、あるいは、あえて言えば、差別のある社会の中に生まれ、生きなければならない。
かつては、人間、努力をすれば、それなりの成果を得られるという、希望のある時代もあったと思います。
いまの日本の社会では、人々はどのように感じているのでしょうか。
努力しても、努力しても、その実りを味わうことが難しいと感じる人が、多いのではないかと思います。

さらに、わたしたちは、すでに、この世に生を受けたときから、格差のある状態にあると言っても、良いのではないでしょうか。
自分の力ではどうにもならないこと、もちろん、自分の意志、自分の決断、努力で変えることができることはたくさんあるし、人生というものは、ひとりひとりが自分で判断し、自分で決断し、努力して築いていくものです。
しかしながら、どうしても、どんなに頑張っても、どうにもならないという現実を、否定することはできません。

それでは、そのようなわたしたちの状態を見て、神様は、どのように思っていらっしゃるのか。そして、あえて言うならば、どのようにしてくださるのか。
ナザレのイエスという人は、そのような問題に対して、鋭い切込みをした人ではないかとも思われます。

こちらに集う、わたしたち、ひとりひとりは、社会の中で、いろいろな関わりを持って生きています。
その関わりというものは、非常に大切であって、それぞれ、その社会、その環境の中で守るべき、あるいは、期待されるべき、習慣、規則、法律などがあります。
利益を追求する会社は、当然、利益を優先しますが、公益を求める、いろいろな団体、公益財団法人、あるいは、社会福祉法人、そのような法人があります。
このような法人が、自分の法人のありかたや、運営について、それぞれ、自分たちの守るべき、基本的な心構えを定めていると思います。

そして、さまざまな必要と、事情の中で、弱い立場に置かれている人々、困っている人々、あるいは、差別されている人々、病気、障がいに悩む人々のために、よかれと思って、わたしたちは努力しています。
このイエスの教えを、どのように受け止め、それぞれの場所で実行したら良いのでしょうか。わたくし自身も、しばしば、いわば、管理的な立場にありますので、悩むところです。

このようなときに、しばしば、思い出す、聖書の言葉を、今日、改めて、紹介したいと思います。
「あなたは存在するものすべてを愛し、
お造りになったものを何一つ嫌われない。
憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。
あなたがお望みにならないのに存続し、
あなたが呼び出されないのに存在するものが
果たしてあるだろうか。
命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、
あなたはすべてをいとおしまれる」。
知恵の書からとられた言葉です。(知恵11・24-26)
すべてのもの、特に、わたしたち人間の存在をお望みになり、そして、すべての人を、かけがえのない、大切な存在とされ、いとおしく思ってくださる、主なる神様がいらっしゃる。
そして、神様は、そのように思うだけではなく、その思いを実現するために、わたしたちの人生を導いてくださっている。そのように、わたしたちは信じます。
そして、お互いに、そのような神様の思いを信じる者同士、互いにゆるし合い、受け入れ合い、助け合って、わたしたちが置かれている、ぶどう園の中で、一緒に働き、神様の愛を、より深く味わい、実行することができるよう、今日、特に、お祈りを献げたい。

堅信を受けられるみなさん、みなさんは、聖霊の賜物、7つの賜物を受け、そして、このような神のいつくしみを、より深く知り、伝え、そして、行うことができるように、励まされます。

どうか、この堅信の恵みを、いつも思い起こし、困難な中にも、神様の、このいつくしみ、そして、ぶどう園で働く労働者の話の中で示されている、神のいつくしみを、忘れずに思い起こし、祈るようにしていただきたいとお願いいたします。

聖書朗読箇所

第一朗読  イザヤ書 55:6-9
主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。
呼び求めよ、近くにいますうちに。
神に逆らう者はその道を離れ
悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。
主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。
わたしたちの神に立ち帰るならば豊かに赦してくださる。

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。
天が地を高く超えているように
わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。

第二朗読  フィリピの信徒への手紙 1:20c-24、27a
(皆さん、)生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。
ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。

福音朗読  マタイによる福音書 20:1-16
(そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。)「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

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イエズス会司祭叙階式説教

2017年9月23日

[聖書朗読箇所]

受階者
アロイジオ  大西 崇生(たかお)
ヨセフ    グエン・タン・ニャー
洗礼者ヨハネ ファン・デュック・ディン

説教

今日は、大変嬉しい、喜ばしい日です。
3人にとっては、その人生の中で、もっとも晴れがましい、もっとも喜びに満ちた、もっとも多くの人から祝福を受ける日になっているのではないかと思います。

さて、いま読まれました、叙階式のための福音は、主イエスのご変容の場面です。
ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子は、高い山の上で、主イエスが光り輝く、栄光の姿に変わる場面を目撃し、非常に感動いたしました。
この出来事は、イエスが受難に向かう、すぐ前のことであったと、福音書は伝えております。

主のご変容にあずかったのは、3人の弟子、今日叙階される人も3人。
なぜ、この場面が、今日の叙階式の福音朗読に選ばれたのか、3人に聞いたのですが、思い出せませんが、いわば、主の変容の栄光にあずかる日であると言っても良いのではないでしょうか。

さて、このご変容というのは、弟子たちに向けて、イエスが、これから、自分が受けるべき受難、十字架上の死、そして、復活という、神秘に満ちた出来事に、弟子たちが備えるように、あらかじめ、お示しになった出来事であり、変容の栄光は、主イエスの復活の出来事の前触れであると思われます。

3人は、今日、いわば、主の復活の栄光にあずかりますが、これは、ほんのしばらくの間のことで、しばらくは、お祝いの日々が続くのでしょうけれども、やがて、司祭としての任務を、忠実に遂行する日々、それは、日々祈り、日々黙想し、そして、日々、人々の声に耳を傾ける。毎日献げる、ミサのいけにえに、人々の献げ物と一緒に、自分自身の日々の犠牲、苦しみを献げるという日々が、毎日待っています。

司祭は、日々、人々と苦しみをともにし、悲しみを分かち合いながら、自分自身の問題と向き合い、そして、ときには、悩み、苦しみながら、自分の司祭の生涯を全うできるよう、多くの人に祈りを求め、そして、何よりもともにいてくださる、主イエス・キリストへの信仰を深める、そのような日々を過ごします。

「あなたがたは、キリストにおいて、人々を聖なる者とする務めを果たす者となります。
キリストの奉献はあなたがたの手を通して信者と共に祭壇の上で秘跡として祭儀のうちに献げられるのです。ですから自分の行うことをよくわきまえ、それを生活の中で生かし、主の死と復活の神秘を祝う者として、自分自身があらゆる悪に対して死んだ者となり、新しいいのちのうちに歩むように努めてください」。(叙階式儀式書より)

今日の第一朗読で、使徒パウロが、次のように教えています。
「キリストはすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分のために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。あなたがたは、日々肉において死に、霊において新たに生まれる、という生き方を、日々生き、そして、その生き方を、人々の前にあらわしていかなければなりません」。

「仕えられるためではなく、仕えるために来られ、失われていたものを探し求めて救いに導くために来られた、よい牧者キリストにならって、日々の生活を献げてください。人々に、謙遜に仕え、しかし、牧者としての務めである、教えるべき時に教え、糺(ただ)すべき時には糺すという務めを、どうか、立派に果たしてください。決して、「自分自身を養う牧者」のようであってはなりません。あなたがたは「弱い者を強め、病める者・傷ついた者を癒し、失われた者を尋ね求め、追われた者を連れ戻す牧者(エゼキエル34章参照)、主イエスにならって羊のためにすべてを献げるよい牧者となってください」。

みなさん、そのように、今日叙階される3人が歩むことができますようご一緒にお祈りいたしましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読  コリントの信徒への手紙 二 5・14-20
なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。

 

福音朗読  マルコによる福音書 9・2-10
六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。

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小川拓郎神父葬儀説教

2017年9月6日13時、東京カテドラル聖マリア大聖堂

[聖書朗読箇所]

ペトロ 小川拓郎(おがわひろお)神父様は、9月2日午前0時9分、天の御父のもとへと旅立たれました。
6月頃から、のどに異常を感じておられたようですが、病院で検査した結果、かなり進行している食道がんであるということが分かりました。
わたくしは、7月13日にお見舞いし、病者の塗油をお授けしました。
そのとき、小川神父様は、わたくしに、「司教さん、わたしはこれから神様のもとに行きますが、どのような準備をすれば良いでしょうか」と言われました。

豊四季教会主任司祭の立花昌和神父様をはじめ、豊四季教会のみなさまが、小川神父様のお世話を、本当によくしてくださり、そして、小川神父様ご本人も、天の御父のもとに旅立つための、非常に良い準備をされて、最後のときを迎えられたと、わたくしは思いました。
昨日は、豊四季教会でお通夜がありましたが、本当に多くの人から慕われ、惜しまれて、地上の生涯を終えたことを、しみじみと感じました。

神父様は、豊四季教会の現役の協力司祭として司祭の生涯を全うされました。
豊四季教会には14年おられましたが、着任した2003年から主任司祭、その7年後に協力司祭となられました。

神父様の、信者としての、そして、司祭としての生涯を振り返ってみますと、1947年に洗礼を受けておられます。神父さんは1931年生まれですから、16歳で洗礼を受けたことになります。日本が戦争に負けて、やっと復興に向かうというときであったでしょうか、日本全体が貧しいとき、16歳の少年であった、小川神父さんは、昼間は働きながら、夜は定時制高校に通って、家計を助けておられたそうです。
大森教会で洗礼を受けられ、そして、司祭になる決心をし、神学校に入り、司祭に叙階されたのは、1962年、31歳の時です。それ以来、助任司祭として、JOC全国指導司祭、主任司祭として、奉仕されました。
このように神父様は、若いときに、イエス・キリストに出会い、召命をいただいて、司祭となられました。

今日の福音朗読では、弟子のフィリポが、主イエスに向かって、
「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」(ヨハネ14・8)と言ったと伝えておりますが、そのフィリポに対して、イエスは言われました。
「わたしを見た者は、父を見たのだ。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。」(ヨハネ14・14・9-10参照)
イエスが地上の生涯を終えて、天の父のもとに戻られたときに、わたしたち、教会をつくられました。そして、聖霊を派遣し、聖霊の働きを通して、ご自身の働きを継続し、発展させ、進展させてこられました。

不肖わたしたちは罪人であり、不完全な人間ですが、そのわたしたちを通して、聖霊が働いておられることを信じ、わたしたちを通して、多くの人が、復活した主イエス・キリストに出会うことができると信じております。
特に司祭は、自分の存在、自分の働きを通し、多くの人を、キリストの復活へと招き、そして、キリストへの信仰を促すという、大切な使命を受けております。

小川神父様の、長い司祭の生涯の中で、JOC全国指導司祭というお仕事がありました。1970年から76年、この6年間に、全国の青年労働者のために働かれているのですが、その間、非常に深く、強い体験をされたとのことで、神父さから話を聞いた際、司祭としての、牧者としての豊かさを、ますます備えられた時期ではないかと感じました。

わたしたちは、主イエスのように、「わたしを見る者は、父を見るのである」と、胸を張って言うことができるわけではありませんが、このわたしを通して、復活した主イエス・キリストが働いてくださるということを深く信じ、そして、この弱い、罪を犯す自分であっても、復活のキリストが、わたしたちを通して、人々を救い、導いてくださるということを、人々にあらわし、伝えていく役割を担っています。
わたしたち、キリスト者にとって、「死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活が終わった後も、天に永遠の住み家が備えられている」と信じ、この信仰を、これからも人々に宣べ伝えていきたいと思います。

今日、みなさまのお手元に配られました、記念のカードの裏をご覧いただくと、神父様の略歴が出ておりますが、その一番上のところに、詩編33章5節の言葉が記されております。
「地は父の慈しみに満ちている」。

主イエス・キリストが、十字架の上で、その血をもって、あがなわれたわたしたちに、神のいつくしみが注がれている。それだけではなく、神の造られた、この世界は、本来、神のいつくしみで満ちている場所です。

どうか、わたしたちが、毎日の生活の中で、神への感謝を新たにし、そして、神のいつくしみが、人々の前にあらわれているということを、わたしたち自身が、更によく悟り、示すことができますよう、お祈りをしたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 ローマ 5・5-11
福音朗読 ヨハネ 14・1-11

(本文)
〔そのときイエスは言われた。〕「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」

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2017年大司教着座記念ミサ

2017年9月3日10時、カテドラル聖マリア大聖堂

[聖書朗読箇所]

「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マタイ16・23)
イエスはペトロに、このように強く叱責をいたしました。これは、どのような意味でしょうか。
その直前の場面で、ちょうど一週間前の福音ですが、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタイ16・18)とイエスは言われたばかりです。
同じイエスの口から、このような、一見、矛盾するような言葉が発せられたのは、いかなる理由によるものでしょうか。
「あなたが考えているのは人間のことで、神様のことではない。」(マタイ16・23参照)
そのように、イエスは言われました。
折しも、イエスはエルサレムに上り、受難のときを迎えようとしていました。

さて、この問題を、わたしたちは自分に向けられた問いとして深く考え、これからの日々、黙想していきたいと思います。

紀元2千年という年は、ちょうど17年前にあたりますが、カトリック教会では大聖年の年でした。
列聖された教皇、ヨハネ・パウロ2世が、紀元2千年を大聖年であると宣言し、教会を挙げて、この聖年を祝うようにと命じられました。
その準備のために必要なことは、反省、悔い改めということです。第三の千年期を迎える、ということは、千年単位で人類の歴史を見るという大きな視野の中でのことです。
そのときに、第三の千年期を迎えるにあたり、教皇様は、『紀元2千年の到来』という特別書簡を発せられましたが、わたしたち、教会のメンバーは、心から反省しなければ、第三の千年期に入る敷居をまたぐことはできないのだと言われました。
そして、第三の千年期をお迎えになったときに、何度もわたしたちの教会が行った、強く反省すべき事柄に触れておられます。
その中には、「基本的人権の侵害ということ」、「真理に名を借りて、暴力を行使したこと」、「女性の尊厳を犯したこと」などが含まれておりました。
それぞれのことは、具体的にどのようなことが入っていたのでしょうか。

ある、カトリック教会でない教会の聖職者が、あるとき、わたしのところに来られて、「わたしはカトリックに変りたい」と言われました。
「自分の教会は、間違いや腐敗が多くて、とても留まっていられない」と言われたので、「そのようにおっしゃっていただくと嬉しいのですが、われわれのところも、いろいろな問題がございまして、がっかりなさいませんでしょうか」と言ったら、「いや、まだましです。あなたがたには自浄能力がある」。「自浄」とは自ら浄めるという意味です。

そうかもしれません。
「陰府の力も、これに対抗できない」(マタイ16・18)と言われた、イエスのお言葉に信頼し、教会はよろめきながら、間違いながら、自らを正す努力を繰り返してきました。

1962年から1965年で第二ヴァチカン公会議、そして、日本の教会は、その精神を充分に咀嚼した後、福音宣教推進全国会議(NICE-1)を開きました。1987年のことです。

そして、わたしたちは、心から反省して、「主イエス・キリストの教えに従う教会に変わりたい。開かれた教会になります。わたしたちの教会は、苦しんでいる人、病んでいる人、困っている人に、優しく、開かれているだろうか。その人たちが、そこに安らぎ、喜び、支えを見出す、そのような共同体であろうか。深く反省し、誰でもが、自分の場所を見出すことができるような、そのような共同体に変わります」という宣言をしました。(参加者一同の宣言より)

東京教区をはじめ、日本の教会は、この決意に基づき、努力を重ねてきました。
この決意が、どのように実行されたでしょうか。
ちょうど、紀元2千年の9月3日、わたくしは、こちらで、東京大司教に就任いたしまして、この決意、NICE-1の決意を自分自身の決意として、実行したいと申し上げました。

今日の第二朗読ですが、パウロは言っています。
「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12・2)
神様が、わたしたちに望んでいることは何でしょうか。何が神様のみ心に適うことでしょうか。わたしたちは、これが正しい、これが良いと思っても、果たして、神様がそれを望んでいるでしょうか。

深い反省のもとに、本当に自分の日々を振り返り、そして、教会のあり方を見ながら、苦しんでいる人、悩んでいる人、自分の場所が見つからない、いろいろと困難な状況にある人に対して、わたしたちは、どのような態度を取っているかということを、深く反省しなければならないと思います。

聖霊の導きを祈りましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読 エレミヤ20:7-9
第二朗読 ローマ12:1-2
福音朗読 マタイ16:21-27

(福音本文)
〔そのとき、〕イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。

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年間第21主日・本郷教会説教

2017年8月27日、本郷教会

[聖書朗読箇所]

今日、8月27日の日曜日を迎え、子どもたちの夏休みの終わりも近づいてきました。9月1日から2学期に入るのでしょうか。わたしも夏休みをいただいて、自分のふるさと、千葉県市原市鶴舞という房総半島の山の奥、そこでしばらくゆっくり過ごしまして、24日(木)の夕方、帰宅しました。

自分で車を運転して帰る途中、ラジオを聴いていますと、2学期の始まる9月1日という日は、子どもたちにとっては問題のある日だそうです。なぜ問題のある日かというと、やっと学校に行って皆と会える日、待ち遠しい日ではなく、むしろ逆で、9月は亡くなる(自殺する)子どもたちの数が多く、特に2学期の始まる日が一番多いという内容の話でありました。教育の専門家、自殺未遂の経験を持つ当事者などが出演して、話をしていました。その番組を聴きながら運転してきましたが、大司教館に到着しても番組が続いていたので、自室で最後まで聴いたわけです。いじめ、不登校に陥る子どもたちが少なくないということでありました。何も死ななくても良いと思うのですが、自分の場所がない、学校にも場所がないという子どもたちの思い。では家庭には?といっても、家庭でもそういう話はできない、聞いてくれる人もいないなど、深刻な状況があるということであります。

平和旬間が終わったので、休みをいただいて、自分の個人的なことを集中的にしたわけですが、今年の平和旬間は何を主題にしようかと相談いたしまして、「子どもと貧困」ということになったのであります。「子どもの貧困」という表現の方が、内容的に直接触れているのかもしれませんが、わたしの中で「子どもの貧困」というのはしっくりこなかったので、「子どもと貧困」というテーマに無理やり、ねじまげたのであります。日本の子どもは貧困の状態にある、経済的に貧困である子どもも少なくないが、精神的に、人間として貧しい状態、苦しい状態にある、そういうことをしっかり学びましょうという趣旨で主題設定したということです。
子どもの貧困の中に、子ども・青少年の自殺ということがあるのですね。16歳から34歳の青少年の死因の第1位が自殺であるということを知りまして、大変衝撃を受けました。先進7か国の中で日本が第1位であるという自慢にならない第1位で、しかも死因の中の第1位が自殺であるということです。
日本の司教協議会は『いのちへのまなざし 増補新版』という教書を発行し、「いのち」という問題を多方面から考察しながら、大切にすることを学びましょうと呼びかけています。平和旬間でも「『いのちへのまなざし 増補新版』を学びましょう」と繰り返し呼びかけました。

さて今日、年間第21主日を迎えております。ペトロはイエス・キリストへの信仰告白をいたしました。はっきりとイエスに向かって「イエスが誰であるか」ということを告白した最初の人として福音書の中にペトロは描かれています。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタイ16:15)というイエスの問いかけに対して「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と答えたのであります。
わたちたちもイエス・キリストを信じる者であります。この信仰をどのように人々に表し、伝えたら良いのかというが、わたしたちにとっての大きな課題であります。わたしたちのなすべきこと、それはもちろん自分の信仰を自分の言葉で言い表すことでありますが、現代の日本において何を一番伝えなければならないのか、先のラジオ番組を聴いて考えさせられました。深刻な体験の末に死を選んだということではなく、生きていることに意味がない、生きていることに疲れたという青少年、本来一番輝いているはずの時期に「疲れた」と感じていることに皮肉な面があります。生きていくための張り合いがない、何気なくこのまま死んだ方が楽だと思って、駅のプラットホームから線路に降りそうになったとか、睡眠薬を服用するなどということが特別なことではないということです。

わたしたち宗教を信じる者は、そのような人たちに何をなすべきか、どうしたら良いのでしょうか。今年2017年は、日本の教会が「福音宣教推進全国会議(NICE)」を行って、ちょうど30年になります。ナイスNICEは「開かれた教会づくり」を目標に掲げました。教会が、苦しんでいる人、迷っている人、困っている人、孤独な状態にある人にとって、近づきやすい、慰め、安らぎ、励ましになるような、そのような共同体になろう、という目標です。わたくしも、東京教区もこの目標に向かってこの30年、歩んできました。2000年9月に大司教に就任した時には、着座式のミサ説教でその決意を申し上げました。その成果はどうだったでしょうか。依然として教会はこの目標実現のためには種々の困難に遭遇しています。
困難とは、わたしたちの弱さということであり、また「悪の存在」ということでもあります。わたしたちは主の祈りで「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください」と祈っています。ミサの交わりの儀、聖体拝領の前、司祭は「いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、現代に平和をお与えください。あなたのあわれみに支えら、すべての罪から解放されて、すべての困難に打ち勝つことができますように」という言葉で祈ります。
今日の福音ではイエスはペトロに言われました。
「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイ16・18)
「陰府」(よみ)の力とは悪の力を指していると思います。ペトロは「岩」と呼ばれましたが、普通の人間、いや主イエスを三度「知らない」と否んでしまった弱い人間にすぎませんでした。そのペトロを最初の礎として建てられた教会共同体は、果たして大丈夫か、と思わないわけではありませんが、イエスの約束「陰府の力もこれに対抗できない」を信じ、それを支えてして、聖霊の導きに信頼して歩んで行かなければなりません。
世の終わりまでわたしたちと共にいてくださる主イエスの支え、導き、励ましを受けて、今日も、明日も共に歩んで参りましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ22・19-23
第二朗読 ローマ11・33-36
福音朗読 マタイ16・13-20

(福音本文)
イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

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2017年年間第20主日茂原教会説教

2017年8月20日、茂原教会

[聖書朗読箇所]

茂原教会のみなさん、今日は、年間第20主日です。
今日は、今日の3つの朗読を分かち合いながら、ミサにおける聖書の朗読について、ご一緒に学んで行きたいと思いました。

ご承知のように、わたしたちは、1年かけて、主イエスのご生涯の神秘を、分かち合っております。
聖書の朗読配分は、福音書につきましては、主イエスのご降誕にかかわる季節、即ち待降節、降誕節、そしてご復活にかかわる季節である四旬節、復活節と呼ばれる季節を、わたしたちは守っております。それ以外の、非常に長い部分は、年間と呼ばれています。
年間というのは、主イエスが公生活、宣教活動をしたときの、言葉、行動を、わたしたちに告げる箇所です。

今日の福音は、イエスの公生活の一端を告げており、カナンの女性にイエスが出会ったときの話です。
イエスは、カナンの女性がしきりに懇願し一生懸命頼むけれども、冷たい反応しかしなかったのでした。この女性の娘は、悪霊にひどく苦しめられていると、述べられています。
どのような状態だったのでしょうか。本当に、母親として、見るに見かねる、何とかしてあげたい、とても自分にはできない。ナザレのイエスという先生にすがれば、何とかしていただけるのではないかという強い思いが、この母親にはあったのだと思います。
イエスは、この女性に対して、一見、不適当、あえて言うならば、差別的と思われるような返事をしました。
「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」。
「子どもたち」というのは、イスラエルの民のことでしょう。「小犬」というのは、外にいる人たち、イスラエルから見たら、異邦人を指しているようです。
そのようなことを言われて、むっとして、もう頼まないと言うかというと、この女性はたいしたものでして、めげずに、それでもお願いした。
「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
これは、見事な応答です。そこで、イエスは言われた。
「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」。
イエスに、このような言葉を言わせた女性は、本当に、大した深い信仰の持ち主であったと思われます。

福音書には、何回か、イエスが、信仰を称賛する場面があります。
「あなたの信仰があなたを救った」という言葉が、他の箇所にも出てきます。このように立派な信仰の持ち主は、イスラエルの民の中でも見たことがないというお言葉もあったと思います。
わたしたちは、このカナンの女性のような信仰を持っているだろうかと、この機会に、自らを振り返ってみたいと思います。

さて、年間という、わたしたちのカトリック教会の典礼暦の期間は、主イエスが、人々にどのようなことをしたか、何をおっしゃったかということを、わたしたちに伝える期間です。そして、イエスの言葉と行いは、他の聖書の箇所とつながっています。

多くの場合は、第一朗読は、旧約聖書です。旧約聖書のメッセージが発展し、完成して、新約聖書となり、イエス・キリストの登場となったと初代教会のキリスト者は理解しました。
イザヤの預言、イザヤ書56章、イザヤ書の結びの部分に近い箇所ですが、聖書と典礼の脚注では、イスラエルの民は、バビロン捕囚という、非常に深刻な体験をした後、イザヤの預言を受け取りました。
「彼らには、新しい希望が与えられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」。
それまでは、イスラエルの人たちは、自分たちのことだけを、もっぱら考えていました。「神は、イスラエルの民の神」、そのような信仰の理解をしていましたが、次第に信仰の枠、あるいは、深さが変わってきました。より広い、より深い、信仰理解に変わってきたのです。
「全ての民の祈りの家となる」とイザヤが預言しています。

次に、第二朗読はローマ書、使徒パウロのローマの教会へ宛てた手紙ですが、ご存知のように、パウロはサウロと呼ばれていたときに、熱心なユダヤ教徒でした。ファリサイ派の熱心な信徒であって、キリスト教徒を迫害していましたが、復活したイエスに出会い、電撃的な回心を遂げたと伝えられています。
そして、ローマの信徒への手紙というのは、神の救いの歴史を述べる、非常に壮大な、また、非常に深淵な教えです。
使徒パウロの説明によれば、最初にイスラエルの民が選ばれたが、イスラエルの民は、最後に来た預言者である、ナザレのイエスを受け入れなかったので、神の救いの福音は、異邦人に宣べ伝えられることになりました。
しかし、それで終わりかと言うと、そうではありません。最後には、また、イスラエルの民に、救いが宣べ伝えられて、そして、イスラエルの民は、最終的には救われるのであるということを、パウロは説明しています。

さて、日本の国で、東京教区で、この千葉県で、わたしたちは、福音を受け取り、そして、更に、その福音を、自分の日々の生活の中で、福音に従って生き、周りの人々に、イエス・キリストの福音を宣べ伝える者とされています。
そのために、主日のミサは、非常に大切であって、神は、今日、何を言われるか、主イエス・キリストは、何を語られるかということを、本当に、一生懸命聞かなければなりません。

ミサのときに読まれる聖書、聖書の趣旨内容は、ずいぶん昔、いろいろな言葉で書かれたもので、しかも、新約聖書はギリシャ語、旧約聖書は主にヘブライ語という言葉です。そればかりか、わたしたちのいまの日本の現実からは、遠い背景を持っていますが、この聖書が言っていることを、いまのわたくしたちの生活に合わせて、どのような意味を持っているのかということを、一緒に分かち合う、それが、わたしたちの務めであり、そして、特に、主日のミサの説教は、みなさんが、生活の中で、神の言葉、主の言葉を生きるための、助け、ヒントになるようにと願って行われる解説です。

ですから、わたしの説教が今日のミサをより深く味わえるための助けとなり、今日のミサが、少しでもみなさんの、生活の光となることを願っております。

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ書56:1、6-7
主はこう言われる。
「正義を守り、恵みの業を行え。
わたしの救いが実現し
わたしの恵みの業が現れるのは間近い。
主のもとに集って来た異邦人が
主に仕え、主の名を愛し、その僕となり
安息日を守り、それを汚すことなく
わたしの契約を固く守るなら
わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き
わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。
彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら
わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。
わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。

第二朗読 ローマの信徒への手紙11:13-15、29-32
(皆さん、)では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。
神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。
神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。

福音朗読 マタイによる福音書15:21-28
〔そのとき〕イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。
しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」
イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。
イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

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2017年関口教会聖母の被昇天ミサ、洗礼・堅信式の説教

2017年8月15日、カテドラル大聖堂

[聖書朗読箇所]

聖母の被昇天の祭日を迎えました。
聖母の被昇天という教えは、わたしたちの教会が、初代教会以来、今日まで大切にしてきた聖母についての大切な信仰理解の一つであり、1950年、教皇ピオ12世によって教義であると宣言されました。
神は、主イエス・キリストの母、汚れのない、おとめマリア、体も魂も、ともに天の栄光にあげられました。このことを記念する祭日が、聖母の被昇天の日です。
わたしたちは、聖母にならい、聖母とともに、永遠の喜び、そして、復活の栄光に入ることができるという信仰を、今日、改めて、新たにし、そして、希望を強く持ちたいと思います。

今日の福音は、ルカの1章、何度もわたしたちは、この福音を聞いて、読んできました。今日、わたくしは、このルカの福音から、2つのことを、みなさまと一緒に味わいたいと思います。

「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。」(ルカ1・39)
「そのころ」というのが、いつなのかと言いますと、ルカの福音によると、マリアは天使のお告げを受けて、救い主の母になるということになりました。
少女マリアは、「お言葉のとおり、この身に成りますように」(ルカ1・38)とお答えになりました。そのときに、彼女は神の母になったと、わたしたちは信じています。
そして、「そのころ」とは、そのすぐ後に起こった出来事のように、読むことができます。
「出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」。
5月31日が、毎年、聖母の訪問の日となっていて、この箇所が読まれていますが、何か、唐突な感じがします。

エリサベトの家は、どちらにあるのか。ナザレからエルサレムの方向というと、ずっと南に下って、エルサレムから、さらに先になる。何というところなのかが、よく分かりませんが、フランシスコ会の聖書を見ると、アイン・カレムという地名が出ていて、クエスチョンマーク?が付いています。いずれにせよ、その辺まで行ったということになります。
大変な距離でして、100キロメートル、150キロメートルかもしれません。いまでも大変な距離ですが、当時、交通の不便な時代に、ひとりの少女、うら若い女性が、どうやって、そちらまで行ったのでしょうか。
「歩いて行ったのか、あるいは、馬車のようなものがあったのか」という疑問を、わたくしが漏らしたところ、「少女マリアが、馬に乗って、ナザレからアイン・カレムに行く場面を描いた絵が、ある修道院付の聖堂の壁に描いてある」と、ある人が教えてくれました。
その絵を送っていただいたので見ましたが、そこにはおとめマリアの勇ましい騎馬の姿が出ています。従者がひとりいるみたいです。
当時はそのようにして遠い距離を移動したのでしょうか。それとも、やはり歩いて行ったのでしょうか。あるいは、既に、交通が、ある程度発展していて、駅から駅へと人を乗せてくれる場所のような制度があったのかどうか、よく分かりません。
どのように行ったのかを、全く考えたことがありませんでしたが、あるときから、気になるようになりました。

そのような重大な出来事、ガブリエルからのお告げに、「はい」と承諾し、すぐに、ひとりで、そのように遠いところへ行くだろうか。家族と相談したのだろうか。何よりも、ヨセフ自身とそのような話をしたのだろうか。
何も書いておらず、分かりませんが、非常に身軽に、果断にと言うか、すぐに決心して、ぱっと実行したことだけは確かでしょう。
わたしたちが、何となく抱いている、聖母マリアのイメージというものは、そのようなものではないように思いますが、決断力、実行力のある果断で活動的な女性の姿をうかがうことができます。

それから、エリサベトと会ったときの、有名なマリアの賛歌は、教会が、毎日、晩の祈りで唱えている、大切な祈りで、マグニフィカートと呼ばれる祈りですが、この祈りも、旧約聖書の伝統の中で、おのずから生まれてきた、少女マリアの口を衝いて出てきた祈りなのかもしれません。

この内容を、改めて読んでみると、かなり、驚くべきことが言われています。
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。

どの時代も権力者がいて、金持ちがいて、貧しい人、弱い人を圧迫し、苦しめている。そのような状況があります。
今年の東京教区の平和旬間は、『こどもと貧困』というテーマを取り上げましたが、貧困という問題が、日本の社会にも、厳然として存在しているのです。
まして、2千年前の、パレスチナの社会、神様はそのような状況を、決して「よし」とはされないはずです。
「良くないという状況を、変えなければならない。ひっくり返さなければならない」という理解は、秩序の転倒という、恐るべき、革命的な考えかもしれませんが、そのようなことを、神様は望んでおられるという意味に取ることができないこともないです。

マリア様について、無原罪の聖母、被昇天の聖母という、信仰理解は大切な伝統ですが、その背景となる、一人のおとめマリアの姿に注目することも大切だと思います。天使のお告げを受けた直後のナザレの少女マリアの姿、その心のうちを、わたしたちは、今日、新たな思いを抱き、これからの教会のあるべき姿を学ぶことができるのではないかと思います。
「わたしたちの社会は、力による支配の社会、その力、権力、財力、その他のいろいろな力によって、支配されている。しかし、それではいけないのだ」という思いが、わたしたちのうちにあり、少女マリアの思いを、わたしたちも自分の思いとし、日々の生活の中で、平和の実現のために、力を尽くしたいと思います。

なお、今日は、この後、洗礼式と堅信式が行われます。みなさんと一緒に、洗礼の恵み、堅信の恵みをお受けになり、洗礼を受けたわたしたちも、その恵みを思い起こし、決心を新たにし、そして、洗礼のときの決心、堅信のときの決心を、もう一度思い起こして、信仰者の生涯、わたしたちの生涯が、平和を実現する者の生涯となるよう、神の恵みを祈り求めたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 ヨハネの黙示録 11:19a、12:1-6、10ab
第二朗読 コリントの信徒への手紙 Ⅰ 15:20-27a
福音朗読 ルカによる福音書 1:39-56
(本文)
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。
エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
そこで、マリアは言った。
「わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、
その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、
憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

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2017年平和旬間カテドラル「平和を願うミサ」説教

2017年8月12日、カテドラル

[聖書朗読箇所]

2017年の平和旬間、カテドラルで献げる、平和を願うミサの福音は、いま、お聞きになられたように、主イエスの、山上の説教です。
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と、主イエスは言われました。わたしたちは、それぞれ、平和のために働き、平和が実現するよう、努力するようにと、呼びかけられています。
すべての人の、望ましいあり方を、平和という言葉で言い換えることができると思います。
日本カトリック司教協議会が発行した、『いのちへのまなざし』という教えを、今日、改めて、みなさんに紹介しながら、平和について学びたいと思います。
『いのちへのまなざし』が言っておりますように、平和というのは、4つの次元から考えることが適切ではないかと思います。「神との和解、調和」、「人間相互の和解、調和」、「自然との和解、調和」、「自分自身との和解、調和」、この4つの和解、調和が、必要であり、大切であると思います。

今日の第一朗読は、イザヤの預言、この中で、わたくしの心に響く、大切な言葉は、「大地は主を知る知識で満たされる」(イザヤ11・9)という言葉です。創造主である神、被造物である大地、さらに、大地と、われわれ人間との関係が、不調に陥っているのが、いまの状態ではないでしょうか。

創世記の3章では、「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」(創世記3・17)という言葉が出てきます。神と、最初の人間、アダムとエバが、神との親しさを失ったために、その影響は、人間と人間との関係だけでなく、人間と自然との関係にも及びました。
「土は呪われるものとなった」。そのように言われております。

しかし、イザヤの預言によると、その呪いから解放されるという希望があります。
「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。
その日が来れば、エッサイの根は、すべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。(イザヤ11・6-10)

教皇フランシスコは、『ラウダート・シ』という回勅を出されました。そして、少し難しい言葉ですが、「総合的なエコロジー」を提唱しています。
わたしたちは、特に、人類の歴史の中で、最近のことですが、自然を大切にするという、基本的な精神を忘れ、あるいは、粗末にしてしまいました。
自然との調和を踏まえた生き方、それは、すべてのいのち、すべての存在の間には、深いつながりがあるのだという理解であり、それは、すべてのものをお造りになった、主なる神様への信仰に基づくものです。

この観点から、一足飛びに結論に行きますが、日本の司教協議会は、たびたび、原子力発電の問題を訴えてきました。
「原発即時停止」、あるいは、「原発の撤廃」を求めるメッセージを送っております。
この環境問題、環境は、すべてのものがつながりを持っているという、わたしたちの信仰、神の創造の働きに、もう一度、わたしたちの心を戻し、そして、日々の生活の中で、神様からいただいている自然の恵みを大切にしたいと思います。

さて、先ほど申し上げた、『いのちへのまなざし』は、いのちを大切にすることについての、わたしたちの数々の課題を述べております。
その中で、今日は、特にひとつのことを取り上げたいと思います。それは、最近、日本で行われた、まだ行われているかもしれない、「ヘイトクライム」、あるいは、「ヘイトスピーチ」という問題です。4つの和解の中で、「人間相互の和解、調和」を損なう、非常に重要な、由々しい問題です。

イエス・キリストは、隣人を愛するように教え、しかも、その隣人には境界を設けませんでした。
わたしたちは、自分が、よく理解できない、自分にとって都合が良くない人たちのことを、嫌ったり、避けたり、あるいは、極端な場合、排斥するという傾向をもっております。
主イエスは、人間と人間との間の、あらゆる境界を超え、敵と言われる人たちも、同じ人間として受け入れ、ゆるすようにと教え、そして、その教えを自ら実行されました。

この、『いのちへのまなざし』をお読みいただきたいのですが、この本では、次のように述べられています。

「ヘイトクライム(憎悪犯罪)」とは、差別や偏見を動機とした犯罪を指すことばで、「ヘイトスピーチ(差別煽動表現)」とともに、1980年以降、米国で使われ始めました。
「ヘイトスピーチとは、人種、民族、性的指向、宗教などの属性を理由として、その属性を有する少数派の集団や個人を侮辱し、差別、憎悪、排除、暴力を煽動する言動のことです」。(150ページ)

差別することは、その集団を憎悪し排斥し攻撃し、さらに抹殺するという実行行為に発展します。この、差別という、人間の心に宿っている、根深い問題、それは、わたしたち自身の問題でもあると思います。
わたしたちは、差別はいけない、自分は差別をしていない、差別をしている人がいけないのだと、言うことができるでしょうか。

先日の、ご変容の日の福音は、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」でした。
わたしたちも、差別、そして、人権侵害という問題を、自分自身の問題としてとらえ、そして、この悪と戦うために、日々、主イエスにならい、主イエスに聞き従うように、努めたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ11・1-10
第二朗読 エフェソ2・17-22
福音朗読 マタイ5・1-15
(福音本文)
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。」

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2017年千葉地区平和旬間ミサ説教

2017年8月11日、五井教会

[聖書朗読箇所]

2017年の千葉地区の平和旬間行事は、五井の教会で行うことになり、このように多くのかたがお集まりくださいまして、大変うれしく、また、心強く思っております。
先ほどは、ティエン神父様をはじめ、パキスタンからの友人、そしてシスターのお話も伺いまして、それぞれのところで平和を求める戦いが行われていることを、わたしたちは、ひしひしと感じます。
主イエスは、ご存知のように、隣人を愛するということと、わたしたちも互いに愛し合うようにとお命じになり、そして、敵を愛するように、と教え、ご自分の生涯を通し、ご自分の言葉と行いを一致させて、わたしたちに模範を示してくださいました。

平和とは、正義と愛の実りです。毎年、わたしたちは平和旬間を行い、特にこの期間、平和について考え、学び、平和のために祈り、平和についての何らかの行動を起こすようにと心掛けております。

今日、いろいろな課題の中で、ひとつ、みなさんと一緒に考えてみたいことは、『いのちへのまなざし』(増補新版)、日本の司教団による教書に出て来る諸課題です。これを、ぜひ、分かち合っていただきたいです。
いのちを守り、いのちを大切にし、お互いにすべてのいのちを守り、大切にするということがそのまま、平和を実現することになると思います。
わたしたちは、人間のいのちはもちろんのこと、いのちあるものすべてを大切にする、そしてさらに、この世界に存在するあらゆるものも、大切にすることを学ばなければなりません。

本来、聖書の教え、あるいは、イエス・キリストの教えは、人間は大切にするが、人間でないものは、それほどにしなくても良いという教えではなく、あらゆるものが、尊重されなければならないということである、と思います。

いま、全世界で大事な課題は、「環境問題」です。人間は、自分に都合の良いように、この世界を利用しようとして、結果的に、自分で自分の首を絞めているというようなことになっています。
教皇フランシスコの、『ラウダート・シ』という回勅で、このことを訴えておられます。

さて、今日の福音をみましょう。
「『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5・43)とイエスは言われました。
「敵を憎め」という言葉は、旧約聖書のどちらにも見当たらないようです。旧約聖書では、隣人を大切にしなさいと教えています。困っている人を守り、助けなさいと教えています。
困っている人の代表、孤児、やもめ、寄留者(きりゅうしゃ)、いまでは難民と呼ばれているような人でしょう。旧約聖書の世界では、特に、弱い立場にある人を大切にするようにということが、繰り返し述べられています。

ただ、「敵を憎め」ということについて、「敵を憎め」という言葉は見当たらないようですが、モーセ、あるいは、サムエル、預言者が神様の言葉としてイスラエルの民に告げた言葉は、必ずしも、現代のわれわれにとって、納得のいくことではありません。
特に、わたしたちを悩ませる言葉というのは、イスラエルがカナンに侵入し、カナンの先住民を征服したときに、そちらの先住民を「皆殺しにしなさい」と言ったという聖書の言葉です。
いくら戦争とはいえ、戦うことのできない、女性も、子どもも、家畜も、「情けをかけてはいけない。皆殺しにせよ」と神が言ったというふうに書いてあります。
これを、どのように解釈するか。難しい問題ですが、「聖戦」という言葉、聖なる戦いという考えがありまして、ずっと続きました。他の宗教でも、もちろんあります。
しかし教皇フランシスコは、「聖なる戦いはあり得ない」と何度もおっしゃっています。

さて、『いのちへのまなざし』は、いろいろな問題について解説しておりますので、ぜひ、読んでください。最近、英訳も完成しましたので、まだ本にはなっていませんが、英訳も、中央協議会から入手することはできます。中央協議会のウェブサイトで公開されています。
この本の終わりの方に、「ヘイトクライム」、「ヘイトスピーチ」というカタカナが出ていますが、これは、みなさま、お聞きになったことがあるかと思います。「ヘイト」という言葉は「憎しみ」という意味です。犯罪になると、「ヘイトクライム」。スピーチに関する法律が最近できまして、軽犯罪になるとされています。
どうして、人間の心に、特定の人、あるいは集団を排斥し、憎悪し、できることならば、抹殺したいというような心が起こるのでしょうか。
「ヘイトスピーチ」が何であるかについて、この本は、非常に適切な説明をしております。
「ヘイトスピーチ」とは、人種、民族、性的指向、宗教などの属性を理由として、その属性を有する少数派の集団や個人を侮辱し、差別、憎悪、排除、暴力を煽動(せんどう)する言動のことです。(150ページ参照)
これは、日本でたびたび起こった、差別を通り越した、犯罪行為です。最近は、少し収まっているようですが、なくなっているわけではありません。
人を差別し、憎悪し、排斥するという、人間の心の問題が、特定の人にはあるが、われわれにはない、と言えるかというと、そうでもないです。わたしたちの中にあるが、わたしたちは、そのような心の動きに負けないで、頑張っているわけでして、でも、何かの拍子に、そのような心の動きが表に出てきて、言葉と行いになって出てくるかもしれないと思います。
そうすると、平和を実現するということは、実に大変なことで、わたしは良い、問題はないが、他の人は良くないから、平和ではないと、なかなか言えなくなってきます。
平和というのは、この社会の現実に原因がありますが、その現実を作り出しているのは、わたしたち人間の心の在り方です。

今日の第一朗読は、そのことを、わたしたちに教えているような気がいたします。
「この世から出る、悪い思い、それは、悪魔から出るものであって、ねたみや利己心があるところには、混乱やあらゆる悪い行いがある」(ヤコブ3・15-16参照)。

わたくしは、仏教の教えを聞く機会がありましたが、仏教でも同じようなことを言っています。
人間の心には、悪い思いがあり、その中で、特に3つの毒、「三毒」ということを言っていまして、貪(とん)瞋(じん)癡(ち)という難しい言葉ですが、貪る心、ねたみ、憎む心、恨む心、相手のことを知ろうとしない、自分勝手な心というものが、人間を間違いに陥れているということです。
カトリックで言う、「原罪」という教えと同じか、よく似ていると思います。

平和旬間、それは、特に、平和について学び、平和のために祈り、そして、平和のための小さな努力を積み重ねることを学ぶための10日間です。
わたしたちが、自分の心を見つめながら、人々が被っている、苦しみ、悲しみ、辛さを、少しでも理解し、その人たちのために、何かをすることができますように。
何をしたら良いかということは、なかなか難しいことですが、よく祈り、よく考え、なすべきことをし、してはいけないことはしない、そのようなことから始めなければならないのではないかと思っております。

今日のこの機会に感謝しております。

聖書朗読箇所

第一朗読 ヤコブの手紙3・13-18
(本文)
あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。
そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。
上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。

福音朗読 マタイ5・38-48
(本文)
〔イエスは言われた。〕「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。
だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

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2017年多摩地区平和旬間ミサ説教

2017年8月5日、主の変容の祝日前晩、町田教会

[聖書朗読箇所]

平和旬間を迎えます。この期間、わたしたちは特に、平和について学び、平和を実現するものとなることができるよう努め、そのための恵みを祈り求めます。

どうしたら平和を実現するものになれるのか。

それは主イエス・キリストに聞き従うことであります。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と主なる神様が言われました。イエス・キリストは旧約聖書の教えの延長として現れ、そして律法を完成するものとして登場しました。

今日の福音では、旧約聖書の代表的な指導者であるモーセとエリヤが登場しています。モーセ、そしてエリヤたちによって伝えられた神の教え、神のみ心はイスラエルの人々にとって、どういうように理解されたのか。
わたしたち人間は神様のおっしゃることを充分に、まして完全に理解することはできないのであります。神様はその時、その人々が理解できる限りにおいてお話になったのかもしれない。
今日のわたしたちから見ると理解に苦しむ、あるいは、躓きになるような教えが旧約聖書に出てきます。その代表的なものは、カナンの征服に際しての、神の言葉ではないでしょうか。「聖絶」とされているのですけれども、聖というのは聖書の聖に、絶滅の、絶対の絶です。

申命記では、神は次のように言ったと述べられています。
「ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。」(申命記20・17)

サムエル記上では、もっとはっきりと恐ろしいことが言われている。
「アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも、打ち殺せ。容赦してはならない。」(サムエル記上15・3)

解釈が難しい箇所です。

イエス・キリストは、わたしたちが平和のために働くようにと命じられ、そういう人は神の子と言われると言われました。そして、わたしたちを理解しない、わたしたちを排斥する、わたしたちを憎む人々、いわば敵である人々を赦し、受け入れるようにと言われ、自分の言葉を実行しました。なかなかできないことではあります。
新約聖書の教えは使徒パウロも言っているように、「悪に対して悪をもってせず、悪に対して善をもって打ち勝ちなさ」(ローマの信徒への手紙2・17-21参照)ということであります。

先ほどの講話の中で触れましたが、最近日本で問題になっている差別の問題の中に、「ヘイトクライム」、「ヘイトスピーチ」という事件があり、「いのちへのまなざし」で取り上げられています。
「ヘイトクライム(憎悪犯罪)」とは、差別や偏見を動機とした犯罪を指すことばで、「ヘイトスピーチ(差別煽動表現)」とともに、1980年以降、米国で使われ始めました。
「ヘイトスピーチとは、人種、民族、性的指向、宗教などの属性を理由として、その属性を有する少数派の集団や個人を侮辱し、差別、憎悪、排除、暴力を煽動する言動のことです。」(150ページ)
差別することは、その集団を憎悪し排斥し攻撃し、さらに抹殺するという実行行為に発展します。

差別とは実に根深い問題です。差別の心はわたしたちの心の中にあります。
今日のご変容を告げる福音で、天の父は言われました。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」
わたしたちは差別という問題を自分自身の心にある悪の問題としてとらえ、悪と戦うためには主イエスに倣い、主イエスに聞き従わなければならないのです。
明日からの平和旬間を迎えるにあたり、まずわたしたちは、わたしたちの間で平和を確立しなければならないのであります。わたしたちの間で、互いに赦し合い、受け入れあうという神の愛が実現していなければならないと思うのであります。

主イエス・キリストが罪深いわたしたちを癒し、導き、そして助けてくださるように祈りましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読 ダニエル7・9-10,13-14
第二朗読 二ペトロ1・16-19
福音朗読 マタイ17・1-9

(福音本文)
〔そのとき、〕イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。
ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。
イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

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千葉中央宣教協力体 聖体奉仕者・集会司式者研修会講話

2017年7月23日、西千葉教会

 

(挨拶省略)

2006年版幸田司教編集の「テキスト}(案)聖体奉仕者の仕事について、ご聖体を病人の方にお届けするときの、心構えや注意が述べられておりまして、大変心に響きました。

今日はまず教会の奉仕者に共通となる基本的な心構えについてお話します。
わたしたちの教会は、ナザレのイエスという人の、死と復活の出来事を体験した人々によって成立しました。復活したイエスに出会った人々が、その信仰を、次の世代に伝えまして、わたしたちの教会が成立し、発展してきました。
わたしたちは、1年かけて、典礼歴によって、イエス・キリストの生涯を学び、ミサの中で、イエスの生涯を記念しています。特に、灰の水曜日から始まる四旬節、復活祭、その前の聖週間、復活節は、キリストの復活を記念する、大切な典礼を執り行っています。
使徒パウロも、生前のイエスの弟子ではなかったが、復活したイエスに会って、電撃的な体験をして、イエスの弟子、イエスから遣わされた使徒となりました。それを、何度も、パウロは強調しています。
ですから、教会は、イエス・キリストの復活を証言し、そして、復活のイエスが今も教会におられるということを、証する団体なのです。イエスは、地上を去るときに、「弟子たちに宣教命令を与え、世界中に行って、わたしの教えを宣べ伝え、守らせなさい。そして、わたしの弟子を作りなさい」と言われ、そして、そのときに、付け加えて言われました。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
去ることは去るが、世の終わりまで、あなたがたと一緒にいると言われた、この不思議を生きているのが、わたしたち教会なのです。
復活したキリストが本当にわたしたちと共にいると、本当に人々に思っていただけるような、わたしたちでなければなりません。事実、「なるほど、そうだ」と思ってくれた人たちがいたので、教会が続いているし、わたしたちも信者になった訳です。
復活したイエス・キリストがいつもわたしたちと共におられるということを、あらわし、伝える「しるし」が、わたしたちの教会です。
その、「しるし性」というものが、あるときは、非常に明らかであり、輝かしい。あるときは、非常に弱くて薄い、よく見、よくよく聞いてみると、なるほど、そこにイエスがおられると思ってもらえるかもしれないが、表面的に見ると、とてもそのようには思われないというような在り様が、わたしたちの状態ではないでしょうか。

今日の、年間16主日の福音は、良い麦と、毒麦(雑草)が一緒に伸び、育っている状態のことを言っていますが、わたしたちの教会が、正にそのような状態です。悪い点だけを選んで、そこだけ抜き取ると、良いところも一緒に取れてしまいます。いまは、同じ人間が両方に関わっています。両者は、いずれ分離するということかもしれません。
そのような教会が、復活したイエス・キリストを宣べ伝えていのであり、そして、それは、わたしたちひとり一人が行っていることなのです。

わたしたちは神の民です。神の民の中に、いろいろな役割、いろいろな立場があって、それぞれが、自分の役割、立場を大切にし、お互いに尊重しながら、全体として、イエス・キリストの仕事を継続させ、発展させ、また、教会全体が、復活したイエス・キリストがわたしたちと共におられることをあらわし、且つ、イエス・キリストが行うことを行うということが、わたしたちの教会の姿であると思います。

そこで、第2ヴァチカン公会議は、教会観というものを一新し、位階制を中心とした、教会の理解、縦構造の教会、教皇様がいて、司教がいて、司祭がいて、信徒がいて、別格に奉献生活者がいるというような理解をやめまして、キリスト信者全体が神の民であって、全員がイエス・キリストから呼ばれ、イエス・キリストの務めをそれぞれ行うという教会理解を前面に出しています。

イエス・キリストの3つの役割は、旧約聖書から引き継がれた3つの役割であって、旧約聖書には、祭司、預言者、王という人がいて、それぞれが役割を担っていました。
祭司は、神殿で「いけにえ」ささげる人、預言者は、神のことばを取り次ぎ、人々に伝える人、王は、地上において、神の御心を行い、弱い立場に置かれた人を守り、神の正義を地上に実現するべき人でした。
しかし、大体の王は失格でして、ほとんど合格した人がいないというのが、旧約聖書の歴史ですが、この3つの役割を、ひとりの人、即ちイエスが、自分の中に受け取り、そして、具現させ、弟子たちに伝えたのが、わたしたちの教会です。

さて、そのような教会の役割を2006年に作成された聖体奉仕者・集会司式者養成講座のテキストでは、「福音を宣べ伝える」、「賛美と感謝をささげる」、「愛の掟を実行する」という言葉を使い、非常に分かりやすく述べています。
お互いに助け合い、且つ、教会の外に向かって、一人ひとりの人が大切にされるような社会の実現のために力を尽くすという、この3つが、わたしたちの役割であるということです。
これが、旧約聖書の3つの役割を言い換えたものであり、福音を宣べ伝える預言職、賛美と感謝をささげる祭司職、愛の実践を行う王職、この3つはお互いに深く関わり合い、結びついていて、1つのことを忠実に行うならば、他の2つのことも必然的に、一緒に実行されることになると思います。

今回は、千葉中央宣教協力体での聖体奉仕者・集会司式者の養成講座ということで、みなさんは、研修を行っています。既に学ばれたこと、今日お聞きになったこと、また、今日わたしの後で、福島神父様がお話になることは、重なることになるとは思いますが、聖体奉仕者・集会司式者は、教会の中での祭司職の実践に該当する役割です。
しかし、それは同時に、イエスの福音を宣べ伝え、イエスの教えを実践することにもならないといけない。3つのことが、お互いに関わり合っているのでなければならないと思います。

東京教区では、日曜日のミサが挙げられないという場合はあまりありません。ほとんどありませんが、千葉県ですと、安房上総宣教協力体では、既に、主日に、ミサに代わる主日のことばの祭儀を行っていると思います。

こちらに、改訂新版の儀式書があります。まだミサ以外のときの、聖体拝領と聖体礼拝、主日に行われる集会祭儀のことは、あまり取り上げられていませんが、この儀式書で述べられていることがそのための基本になります。

さいたま教区、仙台教区、札幌教区では、主日にミサを行うことができない、司祭に来てもらうことができない教会が、非常に増えていまして、主日を聖とするという教会の大切な掟を、どのように実行するかということが、重要な課題になっています。

しかし、司祭を中心に考えると、司祭がいないと大変だとパニックになるかもしれませんが、教会全体が、イエスの死と復活を記念する時間を持つ、そして、復活したイエス・キリストがわたしたちと共におられることを一緒に分かち合うことが大切なのです。
わたしたちは地上のことに捉われて、日々、忙しく過ごしますので、特定の場所で、特定の時間、神様だけにささげる時間を持つということが、非常に大切です。それが、われわれの場合はミサですが、ミサが行われない場合も、それに代わって、みなさんで集まって、一緒に神を賛美し、聖書のことばを聞き、キリストの体を受け、そして、復活したイエス・キリストがわたしたちと共におられることを一緒に分かち合う、ということは、非常に大切だと思います。
もちろん、ミサに参加できれば良いのですが、いろいろな事情で行うことができない場合は、一緒に集まって、お祈りする。それは、立派に主日を聖化することになる。
具体的に、どのようにするかということは、2006年のテキストでも、非常にきめ細かく書いてあります。

その日にミサで読まれる聖書朗読、通常、第一朗読、第二朗読、福音朗読を中心に、主の日を聖化するということが、よろしいのではないでしょうか。その場合、福音の分かち合い、その福音と福音朗読の前に読まれる、第一朗読、第二朗読との関係が、どのようなものであるかなどを、一緒に考え、感想を分かち合うということも、大変良いことであると思います。

以下、少し具体的なことをお話しします。

集会司式者は、いま申し上げたように、ミサが行われないときの、主日の礼拝を担当する方です。そのような場合に、どのように実行するかということは、入念に準備し、且つ、練習もした方が良いと思います。

聖体奉仕者ですが、通常のミサ中、聖体を授ける奉仕をするということが、一番行われていることですが、かつて、用語が混乱しました。たしか、特別聖体奉仕者と言っていたと思います。
通常、聖体を授ける役割は、司教、司祭、助祭、その他、特別に任命された人、祭壇奉仕者もできるはずですが、そちらは、通常の奉仕者であって、それでは、聖体の奉仕者が足りない場合にお願いされた人が聖体奉仕者としたものの、『extraordinary』ということばを特別と訳したので混乱しました。
しかし、その共同体で、お互いに必要を認め合って、教区でいえば、教区の司教、裁治権者が依頼という形になっています。
ちなみに、聖体奉仕者は、申請があったら、裁治権者が承認するなり、委嘱するということになっています。

司祭が、直接ご聖体をお持ちして、拝領して頂ければ良いのですが、だんだん環境的に難しくなってきましたので、司祭以外の方が、司祭から依頼されて、ご聖体をお持ちして、そして、短いお祈りをする。できれば、聖書の朗読をして、聖書のことばを味わいながら、ご聖体拝領をしてもらうということが、非常に大切だと、こちらのテキストには、そのことがよく出ておりますが、そのようにして、主イエス・キリストの復活を分かち合うということが、非常に大切だと思います。
いま、具体的に、そのような役割を担っている方が増えていると思います。それは、大変良いことだと思います。

昔、わたしが主任司祭をしているときに、ある男性が洗礼を受けまして、聖体拝領をしますが、どうも様子がおかしいので、調べてみたら、その場ですぐに拝領しないで、持ち帰って、家族を集めて、聖体奉仕職を自分で実行していたということがありました。
とにかく、その場で聖体拝領をしていただかないといけない。どうして、いけないのかとも思いますが、もしかしたら、教会がいろいろな経験をして、『その場でご聖体が拝領されるか見届けなさい』という教えになってきたのかもしれません。
いまでも、ときどき、持ったまま行ってしまう人がいますので、万が一、間違えて与えてしまった場合でも、別の場所へ持って行かれると困るので、とにかく拝領してもらうことに、最近はしています。

さて、その聖体拝領について、ときどき苦情が来ます。
なかなか難しいのですが、日本の教会は、確か、1970年ごろ、公会議が終わって間もなく、教皇庁に申請して、日本には、尊いものをいただくときには、手で押しいただくという文化であるので、口ではなくて、手で拝領できるようにしてもらいました。

また、日本の司教協議会は、立った姿勢で受けてくださいとお願いしています。
中には、ひざまずかないといただきたくないという方がいます。こちらは、まだトラブルが終わっていません。
日本の司教協議会が、2014年に教皇庁典礼秘跡省に申請して、認証を受けた、『日本におけるミサ中の聖体拝領の方法に関する指針』は、みなさんのところに渡っていると思います。こちらで、はっきりと述べているのですが、ミサ中の拝領のときの姿勢は、日本では、原則として、立って拝領することとします。一同が同じ姿勢で拝領することによって、会衆の一致をしるしとしてあらわすことができるからです。また、拝領の行列が円滑に流れることにもなります。ただし、ミサを行う場所によって、立って拝領することが不自然である、また、健康状態が良くない、その他、理由があれば、立った姿勢ではない姿勢、場合によっては、ひざまずいた姿勢でも、拝領することができます。
この日本に向けた指針には「拝領の姿勢は司教協議会で決めなさい。しかし、ひざまずいて聖体を受けることを希望する信者に対して、そのことだけを理由に聖体授与を拒むことはできない」、「ひざまずいては拝領させない、ということはしてはいけない」ということが、教皇庁の通達に書いてあります。

カテドラルで、わたしのところに行列ができて、聖体を受けるときに、こちらが言う前に、ひざまずいて、口を開ける方がいますが、そのような場合に、わたしは立たないとあげないということはしません。そこで、行列が止まってしまいますが、カテドラルは広いですから、それほど支障はありません。
しかし、狭い教会などで、その人がひざまずいて、みなが静まり返り、みなが見守っているという状態では、典礼の中ではふさわしくないように思われます。
ひざまずいて、聖体拝領をしてはいけないというわけではありません。自分は、ひざまずかないと聖体拝領したくないという人に対しては、間違っているから聖体をあげないと言ってはいけない。

もう一つ、聖体奉仕者と集会司式者で、せっかくみなさんが、こうして研修を受け、任命されても、役立てる機会がないということを聞きます。もっと、いろいろなことをしていただけるようにしていかなければならないと思います。
少し飛躍しますが、勇気を出して言いますと、司祭でなければできないこと以外のことは、できるだけ、していただけるようにしたら良いと思います。
たとえば、葬儀です。葬儀の中で、ミサは司祭でなければできない。しかし、それ以外のこと、ほとんどできます。もちろん、助祭がいれば、助祭がします。
お通夜は、たしか、長崎教区では、信者が多いので、お通夜に司祭は行かないと聞いています。ましてや、カトリックの国では、お通夜というものは、はっきりとした習慣として確立されたものではありません。みなが集まって故人をしのんで、お祈りします。

司祭は、お通夜と葬儀で2日間使わなくてはなりません。黙想会などの最中でも、途中で帰って行って、それっきり戻ってこないということになります。亡くなった後、棺にお納めし、お祈りし、葬儀までの間の数日間をどうするか。それに、全て司祭が毎日直接関わっていたら、他のことができなくなります。
司祭でないといけないという思い込みは、やめなければなりません。葬儀で、司祭以外の方ができることは、どんどんしていただきたいと思います。

ご聖体拝領については、先ほど言いましたように、できれば、ミサ中は、行列の中で、立った姿勢で、手で受けていただきたいのですが、どうしても、行列の中にあって、途中で、自分だけがひざまずいて受けたいという場合は、その神父様の判断で、狭いところ、込み合っている場合は、できるだけ立っていただいていただきたい。しかし、言うことを聞かないとあげないというような、高圧的な扱いをしていただいては困ります。

ヨハネ・パウロ二世になってから、聖体拝領を同じ日に2回しても良いということが、はっきりと言われるようになりました。いままでは、聖体拝領を1回しているから、ミサには出ても、2回目はしないということでしたが、いまは、結婚式のミサや他の趣旨のミサのときに、既に聖体をいただいているから、今回は受けないという必要はありません。受けていただいて結構です。

聖体奉仕者・集会司式者の奉仕を行う人は、日々の生活の中で、イエス・キリストの教えを実行するように努めていただきたい。
特に、人間のいのちを大切にするということと、平和を実現するために働くという、キリスト者にとって、非常に大切な務めを行うようにしていただきたいと思います。

今年の平和旬間は、《こどもと貧困》というテーマになりました。『こどもの貧困』ということにしようかと思いましたが、子どもの貧困だけではなくて、子どもの貧困ということも入れながら、日本において、貧困というものが、どのような問題になっているか。そこから発して、世界中に存在する、貧困という問題を見ながら、わたしたちに、この問題をどのようにしたら良いのか、どのようにしたら、この貧困の解消のために、働くことができるかということを、分かち合う機会にしていただきたいと思います。

 

では、わたしの話は以上にいたしまして、後は、日頃から言いたいと思っていること、聞きたいと思っていることがおありでしたら、どうぞ。

会 衆:
聖体拝領の姿勢についてですが、できるだけ、このようにしてくださいというように、アドバイスをしておいた方がよろしいでしょうか。

大司教:
ほとんどの教会では、分かってくれていると思いますが、中に、ことばの通じない、外国から来られた信者で、自分の国ではそのようにしていたので、こちらでもそうしたいという方がいるかもしれません。
日本の司教協議会は、聖体拝領のときは、原則として、立った姿勢で受けてくださいとお願いしています。また、日本には、尊いものをいただくときには、手で押しいただくという文化があります。でも、もし、ひざまずいて聖体拝領をしたいのであれば、司祭は、頭からはね付けることはせず、その人の希望にどのように応えられるかを考えてくれるだろうと思います。けれども、他の人も聖体拝領をするのだから、できればそのようにしていただきたい。
しかし、日本は、非常に多国籍化していて、他のことばによるミサのときに、どのようにしているのか、わたしはあまり経験がありませんが、六本木のチャペルセンターのミサでも、ひざまずいて、口で受けるという人はほとんどいません。外国ではどのようにしているのかと聞いてみると、正確ではありませんが、ミサ中、ひとりひとりひざまずいて、口で受けるとなると、授ける方も大変なので、だんだん行列の中で、手で受ける人が増えているとのことです。
わたしが、何年か前にパリ外国宣教会の創立のお祝いでフランスに行ったとき、ミサ中、聖体拝領をする人を見ていましたが、大体が手で受けていました。
どうしても受けたいという方を、拒んではいけない。どのようにして聖体を受けるかということよりも、教会の中で、イエス・キリストの交わりをともにするということが大事なのであって、ご聖体拝領の仕方が理由で、兄弟の交わりが壊れてしまうことのないようにしましょうと思っています。

わたしたちは、自分とは違う考え方の人に、どのような反応を示すか。それは、反射的にそのようになっているので、自分では気付きません。相手がどのように感じているかということには気付きませんが、カトリック教会、普遍の教会、いろいろな文化、習慣、言語、民族を包含することによって、教会が発展してきたわけであって、日本のような小さな共同体の中で、いま、いろいろな国から来ている信者の方がいますので、具体的なことについて、なお話し合って、大体このようにしようではないかという合意を、更に作っていく必要があるのではないかと思います。

自分だけが本物で、他の人が間違っているということはありません。自分の中にも雑草が茂っています。雑草を取ろうとすると、自分自身が壊れてしまいます。しばらく、お互いに我慢しましょう。

会 衆:
趣旨の違うミサの場合、1日のうちに複数回聖体拝領をしても良いということでしたが、同じ趣旨であれば、やはり、だめということでしょうか。

答 え:
主日のミサの場合、同じミサに何度も出たいということがあるかもしれませんが、その場合、いままでは、最初からだめだったのですが、同じ主日のミサでもできると思います。
日曜日に、他のごミサがある場合、ご聖体拝領ができるかという問題がありましたが、それは、問題ありません。
しかし、主日のミサの場合、なぜ、同じ日に2回出るのか、その動機が分かりません。

会 衆:
こちらは、7時半と9時、更に英語のミサがあります。わたしの場合には、少なくとも2回出る可能性が、大いにあります。

大司教:
それは、自分のためですか。

会 衆:
英語のミサは自分の担当になっています。

大司教:
担当であるとか、当番であるという場合には、聖体拝領をすることができます。ただ、いわゆる自分の信心で、1回よりも2回出た方が良いというような場合は、聖体の意味を間違えて理解していると思います。1回で十分です。

会 衆:
病者にご聖体を持っていく場合に、ひとりの人のところに、ふたりが訪問した場合、みなで分かち合った方がよろしいということで、みなでいただくのですが、既にミサに与っていた場合、2回目の聖体拝領になりますが、そのような場合はいかがでしょうか。

大司教:
ミサに与った後に、ご聖体をお持ちした場合、持って行った人は、既にミサで聖体拝領をしていて、今度は病人の方にご聖体を授けるときに、自分たちも一緒にもらって良いかということですか。

会 衆:
はい。最初はいただいていませんでしたが、神父様がみなで分かち合った方が良いとおっしゃいましたので、いただくようになりました。

大司教:
いままでは一緒にいただきませんでしたが、一緒にいただくという考え方もあるのでしょうね。そうかもしれないという気もしますが、その件については、回答を保留いたします。だめというわけではありませんが、問題ないとも言い切ることができません。

会 衆:
教会法など、いろいろなことがありますが、1日に2回ご聖体をいただくことができるのは、ミサの形であればということであったと思いますが。

大司教:
そうですね。ミサというのは、ご聖体をいただくことが基本なので、従来は、既にいただいているから、遠慮しますというようになったと思います。
更に昔は、ご聖体への畏敬の念により、ご聖体から遠ざかっていましたので、年に1回は聖体拝領をしなさいとおふれを出さなくてはならないほどになってしまいました。
最近は、簡単にご聖体を受けすぎることが問題となっていますので、ご聖体を受けるということが、どのような意味なのか、もう一度、確認する必要があるかと思います。
ところで、ミサというものは、ひとりで挙げるものではないと思います。
ひとりでミサを挙げることが、イエスの定めた最後の晩餐の記念の趣旨に合っているのであろうかと思いますが、ミサというのは、共同体の行為ですので、ミサ以外の聖体拝領ということは後から行われるようになりました。最初は、ミサに与らない人のために、ご聖体を運ぶというところから始まりましたので、ミサに出た人は、一緒にいただかなくてもよいのではないかと思いますが、すこし考えさせてください。




茂原教会国際ミサ説教

2017年7月23日、年間第16主日

[聖書朗読箇所]

今日は、年間第16主日でして、福音は、先週に引き続き、天の国(神の国)のたとえ話であり、今日はいわゆる『毒麦のたとえ話』です。
わたしたちの住んでいる、この世界は、神がお造りになった世界であり、創世記で言われていますように、極めて良い世界で在る筈です。
しかし、わたしたちが毎日体験しておりますように、さまざまな問題が存在し、《悪》というものが存在していることを、わたしたちは否定することができない。この世界には《悪》がある。
わたしたちの教会にもいろいろな問題があり、時としてわたしたちは大いに悩み、苦しんでいることも否めません。どうして、この世界に、《悪》という、あってはならないものが存在するのだろうか。多くの人が、この問題に、頭を悩ませてきました。

今日の福音を読んでいきますと、主人に向かってしもべが言います。
「毒麦を引き抜いて集めましょうか」。
《毒麦》と訳されていますが、調べてみましたら、麦の成長を妨げる「雑草」のことであるそうです。「雑草」だけを引き抜いて、問題のない、理想的な社会にしたいと思った人がいて、これまで長い歴史の中で、いろいろな試みがなされてきました。しかし、結果は、われわれが知っているとおりであり、完全に理想的な、平和で平等な社会というものは、なかなか実現しないように思います。

このしもべの提案に対して、主人がどのように言ったかというと、
「いまはそのようにしない。毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」
悪い麦だけを引き抜くということができれば良いのですが、悪い麦を抜こうとすると、良い麦も一緒に抜くことになってしまう。
本当に、この言葉は、わたくしどもには、実感をもって迫ってきます。何か良くないことを見て、そのことだけを取り除こうとすると、一緒に他のものもだめになってしまうからです。
教会でいろいろなことがありますが、そのようなことを根絶するためには、何も人間がしないようにすれば良いのかもしれません。しかし、何もしないということは、良いこともしないことになる訳です。

悪いことが一切起こらないようにするためには、人間が何もできないようにするということが、一番簡単な解決方法ですが、そうすると、その人はそれで終わりです。世界についても、教会についても、同じことが言えます。

それよりも、われわれは自分自身のことを振り返ってみると、自分の中には、良いものも、悪いものもあることが分かります。もちろん、悪いものは取り除かなければならないが、悪いところだけ取り除こうとすると、自分自身が、そこで、大きな傷を受けることになりはしないでしょうか。
そこで、欠点の除去に努力を集中するより、既に与えられている良い点を育てるよう努力して、その結果として悪い点を克服するようにした方が良いのではないか、というように考えることができます。

教会の中に、いつも存在するさまざまな問題を、わたしたちは知っています。そして、それがなくなることを望んでいす。しかし、そのことだけを見て、それだけを取り除こうとすると、もっと大きな悪い結果が生ずることになるのではないかと、今日の福音は言っているのではないでしょうか。
忍耐し、希望をもって、神様が、この世界を完成してくださる日を待ち望みましょう。そのように、わたしたちは思います。

(以下に英語の説教が続く。Homily for 16th Sunday in ordinary time)
Dear brothers and sisters in the Lord Jesus Christ,

Today we celebrate the 16th Sunday of the Year.
The Gospel of today speaks of the parable of wheat and weeds.
The kingdom of heaven is compared to a man who sowed seed in his field. What he sowed was good wheat seed, but someone sowed seeds of weeds called darnel, among the wheat. When the wheat sprouted and ripened, the weeds appeared. The servant thought that they should eliminate the darnel, but the man said: No, because when you weed out the darnel, you might pull up the wheat with it.

Dear friends, the field where wheat and darnel are growing at the same time represents our church and also our world where good and evil are co-existing. Our humanity is like the field and there co-exists various good and evil among us which we cannot separate. Our minds are exactly like this field. In our mind there appear good thoughts and evil thoughts. In the mind of the some person there exists good and evil.
Our God is very merciful, patient and tolerant. He waits and waits until we know our own evil mind and repent our sins. Merciful God waits until we want to be real children of God, accepting the grace and love of God which has already been given us through the redemption of our Lord Jesus Christ and the sending of the Holy Spirit.

聖書朗読箇所

第一朗読 知恵12・13,16-19
第二朗読 ローマ8・26-27
福音朗読 マタイ13・23-43

(福音本文)
〔そのとき、〕イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
《イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「わたしは口を開いてたとえを用い、
天地創造の時から隠されていたことを告げる。」
それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」》

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高円寺教会堅信式説教

2017年7月16日、年間第15主日、高円寺教会

[聖書朗読箇所]

今日はこれから堅信式が行われます。堅信の秘跡は、洗礼を受けて神の子となった人々に、生涯にわたってイエス・キリストの弟子として歩み続けるための恵みを授ける秘跡であります。

さて、今日の聖書朗読、福音朗読から、わたくしが感じておりますことを申し上げて、堅信を受けられる皆さん、そして、ミサに参加しておられます皆様の参考に、励ましにしたいと考えております。
わたくしは、ミサのときに読まれる聖書の教えと日々のわたくしどもの生活、そして社会の状況とのつながりというか、関わりはなんであるかということをいつも考えております。
先日目にした非常に興味深い新聞の記事がありました。それは、指導者、リーダーというものはどういう人であるべきか、ということについて、江戸時代の専門家の田中優子さんが述べている記事であります。
田中さんは江戸幕府を創設したのは徳川家康という人について述べています。この人についての評価は、最近高まりつつあるのでしょうか、印象としては、従来はあまり人気がなかったですが最近再評価されているのかもしれません。
この人が心がけたことは、「急がない」ということと「待つ」ということだそうです。「待つ」と「急がない」と同じことでしょうが、指導者というのは、理想、目標を掲げて、その目標に向かって人々と共に歩む人だそうです。目標がないといけない。そして、強制したり脅したり、力づくで人を動かすのではなくて、人々が理解してくれるように、納得してくれるように、忍耐強く待つ人だそうです。

さて、人間の指導者がそうであれば、全知全能の神様はまして、忍耐強くあわれみ深い方であるに違いない。わたしたちの神は忍耐強く、あわれみ深く、怒るに遅い、いつくしみの神であります。

今日の福音のたとえ話は、イエスご自身がこのたとえの意味を解き明かしております。神の言葉、御言葉は全ての人に届けられます。神の言葉を聞く人の心の状態は様々です。ある人は道端のような状態、ある人は石地のような状態、ある人は茨に覆われた状態、ある人は良い土地になっている。わたしたちはそれぞれどの状態でしょうか。茨に覆われた土地というのは、様々な思い煩いあるいは誘惑で心が囚われている人であります。そういう人のところに神の言葉が蒔かれても、それを受け取り、そして実らせる準備がまだできていない。良い土地に蒔かれますと、実りがあります。30倍、60倍、100倍の実りがもたらされる、とイエスは述べております。

今日の第一朗読はイザヤの預言。このイザヤの御言葉はわたしたちに希望を与えてくれます。
わたしの口から出るわたしの言葉も
むなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ
わたしが与えた使命を必ず果たす。

この御言葉、神はお望みになることを成し遂げ、そして、人々に与えた使命を必ず実現させる、と力強く宣言しております。

堅信を受けられる皆さんは、この神の呼びかけを受けて、そして、神様の計画の実現の一端を担うものとなるのであります。皆さんの状態、神の呼びかけを受ける状態は、豊かな実りをもたらすのにふさわしい状態になっているでしょうか。
大体、100%オーケーという人はいないですね。100%まるで準備ができていないという人もいない。何パーセントかというのは分からないのですけれども、全ての人に、神の呼びかけを聞き、悟り、そしてそれを行う可能性があります。神様は、ご自分の呼びかけを聞き取りそして実行する日が来ることを信じ、そのために恵みを与え、そして、いつまでもいつまでも待っていてくださる、そういう方ではないかと思います。

教会の使命、それは、福音宣教、福音化ということでございます。わたしたちは精一杯この使命に取り組んでおりますが、なかなか実を結ばないような気がしている。
いや、人々には見えないけれども、もう実を結んでいるのかもしれません。その時が来れば誰にでもはっきり分かるような神の国の到来のしるしが現れるのではないかと思います。

わたしたちの神は忍耐強く、いつくしみ深い。その神様のみ心を完全に実現し実行された方が、わたしたちの主イエス・キリストであります。

今日皆さんの心に蒔かれる福音の御言葉は必ず力を発揮し、そしてこの日本の社会において豊かな実を結ぶことになる。この信仰と希望をもって、堅信式を行い、堅信式を受けていただき、堅信を受けた皆さんは、堅信のときの決意を新たにしていただきたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ55・10-11
第二朗読 ローマ8・18-23
福音朗読 マタイ13・1-23

(福音本文)
その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。
「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」
弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。
『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、

見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、
心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』
しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。
だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

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茂原教会ミサ説教

2017年7月9日、年間第14主日

[聖書朗読箇所]

イエスは言われました。
「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11・28)
イエスの弟子である、わたしたちも、同じように、疲れている者、悩んでいる者、困っている者に向かって、「どうぞいらしてください。わたしたちが助けになりましょう」と言いたいところですが、これが、なかなか難しい。

わたくしは、カテドラルから本郷の教会まで小一時間、歩いて行くことがあります。途中、カトリックでない教会があります。その教会の看板に、この言葉が書いてある。
「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。」
本郷のカトリック教会にたどり着いてみると、看板に同じことが書いてある。

いろいろな方がおられて、相談に見えますが、何とかして差し上げたいけれども、できないこともある。できないことの方が、多いかもしれない。
安請け合いをして、「何でもしてあげるよ」というわけにはいきません。
わたしたちは、イエスではない。イエスの弟子です。弟子というのは、先生のようになる修行をしている者です。
でも、先生にはたどり着けない。たどり着けないが、ほんの少しでも、見習いましょうというのが、弟子だと思います。

イエスは更に言われました。
「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。」(マタイ11・29)
これは、イエスがおっしゃったので、わたしたちは「なるほど」と思うかもしれませんが、わたしには、とても、自分がそうだ、柔和、謙遜な者だ、とは言うことができない。
でも、イエスはそのように言ったと、聖書が伝えています。

「柔和、謙遜」というのは、どのような人なのだろうか。山上の垂訓でも、イエスは「柔和な人は幸い」(マタイ5・5)とおっしゃいました。

「柔和」というのは、穏やかで優しいことでしょう。
他方、柔和すぎて、いろいろなことを責任持って引き受けたり、決めたりできないという人がいる。誰かが何を言っても、「はい、そうですね」と答える。これは駄目です。
駄目なことは駄目と、言わなければならない。決めるべきことは、決めなければならない。いけないことは、いけないと言わなければならない。
ですから、「柔和」ということは、優柔不断、責任逃れ、誰にでも適当なことを言うということではない。「柔和」ということは、自分の欲望や自分の気持ちを、いつでも正しく制御することができる人でしょう。思い通りにならなくとも怒ったり、いらついたりしない人だと思います。

それでは、イエスは怒ったことがないかというと、福音書を読むと、そうでもない。
ファリサイ派の人や律法学者には、激しい言葉で非難している。ですから、イエスという人は、ただ優しいだけの人ではなかった。はっきりと、いけないことはいけないと言ったために、十字架につけられるようになりました。

わたしたちは普通、自分のことで、自分の思い通りにならないから、文句を言う。自分が正当に評価されないから、不快に思ったり、怒りを感じたりする。自分が辱められたとか、認められなかったからといって、怒ってしまう。このような人は、柔和な人ではない。
他方、弱い人が苦しめられているとか、社会に不正があるというときに、それではいけないのだと、そのようなことは許されないのだと叫ぶことがあります。この場合の怒りは、当然の怒りであり、「柔和」とは矛盾しないと思います。

気が弱い人はあまり大きな声で怒ることはしていないと思いますが、心中、不快に思うことはしょっちゅうあります。不快と怒りは、あまり違いありません。口に出しては言わないが、心の中では思っています。なかには、心で思ったことを、すぐに言動で示してしまう人がいます。

自分の言うとおりにしないから、怒って大きな声を出すというのは良くないが、その人のために、「こうしなさい。これはいけない」と丁寧に親切に諭すことは、そうしないといけないのだと思います。

誰にとってもつらいことの中に、「相手に注意を与えると」いう仕事があります。相手がしていることに「問題ない」ということは簡単ですが、「あなたがこのようにしているけれども、それはやめなさい」とか、「こうした方が良い」と言わなくてはならない場合がある。それは、あまり楽しいことではない。
相手が不快に思うことでも、言わなければなりません。言わないと、どんどんその人は悪くなる。
特に、そのような立場にある人、親は子どもに対して、そのようにしなければならない。子どものときにしつけないと、大きくなってからは手遅れということになる。
教師、医師、司祭、司教などは、もっとそうしなければならない。

一番つらい仕事は、人に注意することです。注意するのなら、早めに、きちんとすれば良いのですが、一日延ばしにして、最後にまとめてするというのは、あまり良くないのかもしれません。

イエスは、柔和で謙遜な者で、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負いなさい」と言われました。軛は、御者が牛や馬の首に着けて、仕事をさせるために使う道具です。
大工であったイエスは軛作りの名人だった、という伝説あります。イエスの作った軛はその馬や牛の体にぴったりと合ったそうです。合わなければ痛いのですが、合えば喜んで仕事ができるようになる、ということです。

わたしたちが人に軛を与えるときは、その人が嫌がって苦しむようなものを与えてしまうかもしれないが、イエスがわたしたちに与えてくださる軛は、その人にぴったりと合っている。その人に合った軛が、どのようなものなのか、その人のことを愛し、その人のことをよく分かった上で、「こうした方が良い。こうしなさい」ということになるのだろうと思います。

さて、わたしたちの教会は、罪人の集まりであり、物が、まだよく分かっていない者の集まりで、お互いに不完全ですが、イエスが、わたしたちに聖霊を送り、そして、聖霊の助けをもって、わたしたちが軛を負って、歩むことができるように、助けてくださっていると思います。
今日の第一朗読は、ゼカリヤの預言で、ロバに乗ってくる王の話です。柔和、謙遜な僕を伝えています。
わたしたちも、難しいですが、柔和で謙遜な者として、お互いに助け合い、仕え合うことができますように、お祈りいたしましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読 ゼカリヤ9:9-10
第二朗読 ローマ8:9、11-13
福音朗読 マタイによる福音書 11:25-30

(福音本文)
〔そのとき、イエスはこう言われた。〕「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。
そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

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赤羽教会堅信式説教

2017年7月2日、年間13主日、赤羽教会

[聖書朗読箇所]

赤羽教会のみなさん、今日、年間第13主日を迎え、この説教の後で、堅信式が行われますが、いま読まれました、マタイによる福音の言葉を聞いて、ご一緒に味わいたいと思います。

さて、イエズス様のお言葉は、非常に厳しいものであり、受け取りにくい、分かりにくいと感じるかもしれません。
また、わたくしが申し上げることが正解だから、そのように思いなさいと言うつもりはありません。
ただ、わたくしが、どのように感じているかということを申し上げて、みなさんの参考にしていただきたいと思います。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10・37)。
「父や母を敬いなさい。大切にしなさい」という掟は、聖書の大切な教えであり、わたしたち、キリスト教徒ばかりでなく、どのような宗教でも、あるいは、どのような国においても、大切なこととされています。
しかし、父母を敬うということと、イエス・キリストに従うということと、一緒に考えると、どのようなことになるでしょうか。

イエス・キリストに従うために、父や母への、昔の言葉で言えば、『親孝行』をやめなければならないのか。お父さんやお母さんに従うと、イエス・キリストに従うことにならないのか。両方は一致するのか、しないのか。そのようなことを、ふと考えます。

わたくしも、若いときに、この問題を持ちました。親の言うとおりにすることと、司祭の道に入ることは、一致しません。おそらく、ほとんどすべての司祭、あるいは、修道者は、召命を受けたと思ったときに、このような悩みを持ったかもしれない。
わたくしは、たとえ、父母の賛成や理解が得られなくとも、イエズス様が呼んでいるのだから、そちらに行くと決めまして、そのようにしましたが、後に振り返ってみますと、わたしが、司祭への道を歩んだために、両親、家族が、どのような思いを持ったか。あるいは、どのような苦労をすることになったのかということが、だんだん分かってきました。

そのときは、あまり考えなかった。そして、イエズス様が呼んでいるのだから、イエズス様に従う。そのように思ったわけです。
しかし、そのときの自分の心を振り返ってみると、そちらのほうが、自分にとっては魅力のある人生でした。いろいろと勉強もできるし、地上のいろいろと面倒なことはしないでも済むからです。
しかし、本当に、神様のみ心に従って、歩もうと思ったかどうか、もう遅いのですが、自分の隠れていた思い、自分がこのようにしたい、あのようにしたいという思いが心の中にあって、でも、それはあまり表には出さないで、イエズス様が呼んでいるからということにした部分がなかったのか。それは、神様にしか分かりません。

いまになってみると、いろいろな人生の苦労を背負って、生きていくということは、大変なことです。みなさま、日々それを体験していらっしゃると思います。
好きな勉強ができるとか、お祈りができるということだけが、大きな動機であったとしたら、それは、自分勝手な決断であったことになります。
「わたしに従う人は、自分の十字架を担ってついて来なさい」とおっしゃいました。
楽しいから、好きだから、そちらの方へ行くということだけでは、不十分な動機になります。

わたしたちは、神様のみ心に従って生きる。そのためには、苦しみというものをお献げしないといけない。神のみ心を求めて誠実に生きる人は、必ず自分の十字架を担うことになります。その十字架を、喜んでお献げしなければならない。いつも、文句不平を言っているようでは、イエスの弟子となったことにはならない。そのように、最近、強く思っております。

洗礼を受けるときに、洗礼は何であるかということを、学ばれたと思います。洗礼を受けるということは、本来は、水の中に沈められるという式でした。全身が、水の中に浸されて、それから引き上げられるという式でした。だんだん象徴的な式、額に水を掛ける式に変わってきた。「父と子と聖霊の名によって、あなたに洗礼を授けます」という言葉と、水を掛けるという行為で成り立つようになりましたが、もともとは、全身を水の中に浸してもらうということでした。
それは、『死ぬ』ということを意味していました。『わたしは死にます。罪に死にます。この世の欲望に対して死にます。古い人にさよならを言って、新しい人になります』という意味です。
しかし、新しい人になるということは大変なことで、日々苦しみを担うことになります。

さて、堅信を受けられるみなさんは、更に、イエス・キリストを宣べ伝えるという使命を受けることになるので、まず、自分の信仰を自分の言葉で言い表してください。
「それは神父様に聞いてください」というのでは、だめです。自分で言わなければならない。『誰を信じていますか。その人は、どのような人ですか。自分にとって、その人は誰ですか。』ということを、言わなければならない。もちろん、そのような場面が来たときに、ということです。

それから、わたしたちの信じている救い主、イエス・キリストの教えを守って、実行しなければなりません。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも愛し合いなさい」。
自分に挨拶をしてくれる人に挨拶をしたところで、それが何になりましょう。それは、誰でもしています。自分に挨拶をしない人に挨拶をしなさい。自分を憎む人を、自分の敵を大切にしなさい。そのような教えを、わたしたちは聞いています。それを実行することは易しくない。
ですから、神様は、イエス・キリストを通して、聖霊を注ぎ、そして、神様の愛を人々に表し、伝えることができるようにしてくださいます。
堅信式、それは、聖霊の賜物を授かる秘跡です。どうか、今日のこの喜びを生涯思い起こし、大切にしていただきたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 列王記 下 4:8-11、14-16a
第二朗読 ローマの信徒への手紙 6:3-4、8-11
福音朗読 マタイによる福音書 10:37-42

(福音本文)
〔そのとき、イエスは使徒たちに言われた。〕「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。
あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。
はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

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聖職者の集い・聖ペトロ聖パウロのミサ説教

2017年6月26日、東京カテドラル

[聖書朗読箇所]

6月の最後の月曜日、東京教区は聖職者の日とし、そして、司祭の叙階25年、50年、更に60年のお祝いをし、聖ペトロ・聖パウロのごミサをお献げいたします。

「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」。
有名な言葉です。わたしたちの教会は、ペトロという岩の上に建てられました。
このペトロ、ひとりの人間としての弱さを担い、ご承知のように、主イエスを三度も否んだ人でした。しかし最後は、立派な殉教の死を遂げました。

もうひとりの人、パウロは、ご承知のように、キリスト者を迫害しておりましたが、復活したイエスに出会い、熱烈な異邦人の人となり、殉教いたしました。
今日の第二朗読は、パウロが殉教を前にして、自分の心境を語っている箇所であるとされています。
「わたしのうちに生きているのは、もはや、自分ではなく、キリストである」と、パウロは断言するまでに至ったのでした。

このふたりの人の信仰を、わたしたちは受け継ぎ、同じ信仰をすべての人に宣べ伝え、証しするという使命を受けております。

さて、わたくしども、東京教区は、数々の課題を持ちながら、主イエス・キリストから使徒たちに授けられた教会の建設という務めを、困難のうちにも、一生懸命務めているところです。
東京教区において、わたしたち司祭は、何度も相談し、「信仰を宣べ伝え、証しするという使命は、司祭、奉献生活者だけでなく、信徒も含めたすべての信者の務めである」という共通理解を得た上で、今度は、「すべての人が、福音宣教という使命を実行することができるように、司祭は環境を整え、教え、励ますようにしよう」と話し合おうとしているところです。

10月の下旬には、司祭集会を予定しておりますが、その中で、更に話を煮詰めていき、そして、来春復活祭の後すぐに、『入門講座・信仰講座担当者養成講座』(仮称)を開始したいと考えております。
その際、難しい言葉を使わなくとも、自分の言葉で、自分が信じたことを、その時、その場所で、人々に現し、伝えることができるよう、お互いに励まし合い、そうできるよう、「実習の機会を設けようではないか」ということも話し合っています。

ところで、福音宣教ということは、言葉で福音を宣べ伝えるということだけではなく、わたしたちの生活、わたしたちの仕事、わたしたちの存在を通して、イエス・キリストの生き方を人々に表し、伝えることでもあります。

いま、日本の社会で、どのようなことが、一番問題であり、どのような問題を、わたしたちは緊急で重要な問題として、取り組まなければならないのでしょうか。
わたくしは、そのひとつが〈いのち〉という課題であり、もうひとつは、〈平和〉という課題ではないかと思います。
どのような宗教を信じる人にとっても、あるいは、宗教を信じない人にとっても、〈いのち〉の尊さ、そして、〈平和〉の大切さは同じではないかと思うからです。

〈いのち〉ということについて考えてみますと、日本では自殺をする人(自死者)が非常に多く、かつて、14年間にわたって、自死者が3万人を超えていました。
たしか、1998年から14年間、その後、政府をはじめ、色々なかたの努力もあり、自死者の数は減ってまいりました。
しかし、若者については、あまり改善されていないとのことです。15歳から34歳までの人たちの、自殺する人の人数が、非常に多いと言われております。この年齢の人たちの死因の第一位は、病気ではなく、自殺であるということです。この背景には、「いまの社会の生きづらさ」ということがあるでしょう。
更に、自分の存在を評価できない、自己肯定感の低さということがあると指摘されています。
「頑張りなさい」と言われて頑張っても、上手くいかない。頑張った末に、疲れ切ってしまう。その人たちに、更に「頑張りなさい」と言うことは、何の効果もないと言われています。
それよりも、「あなたは非常に大切な人なのだ」ということを実感できるような、そのような状況、環境が、必要ではないでしょうか。

わたしたちの宗教は、「神様が、わたしたちひとりひとりを造り、ひとりひとりを掛け替えのない存在として、大切に思っていてくださる」ということを信じる宗教です。
「あなたの髪の毛1本も、神様は知っているよ。あなたは他に替えることのできない、掛け替えのない大切な存在なのだよ」というメッセージを、わたしたちは受け取っているのです。
苦しんでいる人、落ち込んでいる人に、「がんばれ」、「このようにした方が良い、あのようにした方が良い」ということは、むしろ言わない方が良いようでして、まず先に、あなたの存在は、わたしたちにとって大切であるということを表し、伝えることが大切であると思います。

まして、わたしたちは、神を信じる者でありますので、「わたしたちの神は、あなたのことをよく知っているよ。大切に思っているよ」、そのようなメッセージを表し、伝えなければならないのではないかと思います。

それは、もちろん、まず司祭、奉献生活者の務めですが、信徒も含めた信者全員で、「毎日出会う、いろいろなかたがたに、そのようなメッセージを現し、伝える。決して、押し付けたり、指示したり、非難したりしないで、その人の存在を大切に思う」というわたしたちの働きを行うべきであり、そのことを行うことが、最も大切な、教会の福音宣教ではないかと思うのです。

使徒ペトロ、使徒パウロの殉教を記念する今日、ふたりの信仰の証しを引き継ぎながら、いまの日本で、わたしたちが行うべきことは何であるかということを、今日、深く心に刻み、分かち合いたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 使徒言行録12・1-11
第二朗読 二テモテ4・6-8、17-18
福音朗読 マタイ16・13-19

(福音本文)
イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

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麹町教会堅信式説教

2017年6月25日、年間第12主日

[聖書朗読箇所]

今日は、160名以上のかたが、堅信の秘跡をお受けになります。

堅信の秘跡は、洗礼を受けて、キリストの弟子となった人々に、聖霊の力が注がれて、信仰を証しし、イエス・キリストを宣べ伝えることができるようにする秘跡です。
すべての信者は、イエス・キリストを宣べ伝え、証しするという尊い使命を授かっております。
もちろん、司祭、奉献生活者は、特別な養成を受け、特にイエス・キリストを証しするという務めを受けておりますが、すべての信者、すべての信徒は、福音宣教者になるという使命を受けています。
イエス・キリストを信じる者は、自分の言葉で、自分の信仰を人々に表し、伝えなければなりません。難しい、特別な言葉でなくとも、自分がイエス・キリストを信じている、その信仰を、自分の言葉で、自分の置かれている場所で、宣言するようにいたしましょう。
それには、勇気がいります。

今日のイエス様のお言葉は、何度も繰り返し、「恐れてはならない」と言っております。有名な預言者エレミヤも、神様から授かった使命の遂行には、大変苦しみを受けましたが、神はエレミヤを、いつも励ましました。

いま、日本の社会で、イエス・キリストを宣べ伝え、証しするということは、どのようにすることでしょうか。不安、恐れがないとは言えないと思います。
しかし、主イエスは言われました。「聖霊を送ります。聖霊の力によって、あなたがたはわたしを宣べ伝え、証しすることができるようになります」。

さて、いまの日本の社会で、どのようなことが大きな問題となっているでしょうか。
いろいろなことがあると思いますが、わたくしが1つ、特に心を痛めていることをお伝えしたいと思います。
それは、日本において、青少年のみなさん、15歳くらいから34歳くらいという数字が出ていますが、このかたがたの自殺が非常に多い。かつて、1998年からでしょうか、14年間に渡って、日本では自殺者、わたしたちは自死者と呼びたいのですが、3万人という数字を伝えていました。

わたくしが、ケルン教区にまいりましたときに、日本の社会のことをお話しなければならなくて、日本は、いま、毎年3万人の人が自殺しているということを言いましたら、数字が1桁違うのではないかという質問がありました。
確認された数が3万人ですから、はっきり分からない人や、未遂者を入れれば、大変な数になります。

政府を初めとする多くの方の努力で、自殺者は減少しました。しかし、若い人の自殺は、それほど減っていない。そして、7ヶ国でしたでしょうか、先進諸国の中で、日本が一番若い人の自殺率が多いです。それには、いろいろな原因、理由がありましょう。病気ということもあるかもしれません。
その中で、1つ、わたくしが大変気にしますことは、自己評価、あるいは、自己肯定感が非常に低い。自分が存在していることの意味が、よく分からない。自分がここにいることに、どのような意味があるのだろうか、明日何か良いことがあるのだろうか、何のために生きなければならないのかが、分からない。他の人とのつながりも、よく見えない。
孤独、自己存在肯定感の欠如、弱さ、そのようなことが、日本の青少年を襲っているという報告がございます。

「あなたがそこにいることは素晴らしいことなのだ、神様は、あなたのことをよく知っていますよ。あなたはすずめなどよりも、余程価値がある存在ですよ。髪の毛1本1本、みな神様ご存知ですよ。あなたのことを神様は毎日見守り、励ましているのですよ。」
そのような信仰を、わたしたちは是非、人々に伝えたい。

堅信を受けられるみなさん、恐らく皆さんの周りには、自分の存在を喜べない、そのようなかたがおられるのではないでしょうか。
そのようなかたがたに寄り添い、そのようなかたがたの心の声に耳を傾け、そして、慰めと励ましを伝え、与えることができますように、聖霊の導きを願いましょう。

わたしたちは、自分の存在が大切であるということは、両親をはじめ、家族から受け継ぎますが、それだけでは足りないように思います。

人間を超えた、偉大な存在、素晴らしい存在、自分がどのようになっても、あなたは大切だと言ってくれる存在、どのような欠点があっても、どんなに失敗しても、あなたがそこにいることは素晴らしいことだ、あなたの生涯には意味があるのだということを言ってくれる存在も必要なのです。
それは、わたしたちが信じる神様であり、その神様をわたしたちに示してくださったかた、それは、主イエス・キリストです。

神は、わたしたちの罪や欠点を、すべて承知の上で、わたしたちを愛し、そして、わたしたちのために、イエス・キリストを遣わしてくださったのです。

今日、その信仰を改めて強くしていただき、そして、みなさんも、ひとりひとり、福音宣教する者となり、そして、この日本の社会で、力強く、イエス・キリストを表し、証しするようにいたしましょう。

そのための聖霊の力を信じ、そして、ご一緒に祈り求めるようにいたしましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読 エレミヤの預言 (エレミヤ20・10-13)
第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙(5・12-15)
福音朗読 マタイによる福音(マタイ10・26-33)

(福音本文)
〔そのとき、イエスは使徒たちに言われた。〕「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。
わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。
むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。
だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

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ペトロの家賛助会感謝のミサ説教

2017年6月24日、洗礼者聖ヨハネの誕生、ケルンホール

[聖書朗読箇所]

みなさん、今日は、洗礼者聖ヨハネの誕生の祭日です。
「祭日」という典礼歴の日は、わたしたちカトリック教会では、非常に重要な日とされています。6月は祭日が多い月です。昨日も祭日で、「イエスのみ心」の祭日でした。
今日は洗礼者ヨハネの誕生から、イエスのみ心までのつながりというものは、何だろうかと考えてみたいと思います。

イエスの誕生は、12月24日とされていますので、その6ヶ月前が今日。そして、更にその3ヶ月前が、おとめマリアが、天使ガブリエルのお告げを受けて、救い主の母になることを承諾し、「お言葉どおり、この身に成りますように」と返事なさった日となっています。
イエスの誕生とヨハネの誕生は、6ヶ月の間があるということになりますが、その誕生の次第を、ルカ福音書はわたしたちに告げている。どうしてこのことを、かなり詳しく述べているのだろうか。
ルカは、マタイとマルコが伝えていない、独自の話をわたしたちに伝えてくださっておりまして、ルカは、イエスの誕生の次第、ヨハネの誕生について述べています。
ヨハネの父親はザカリヤという祭司でして、神殿で神に奉仕する仕事をしていました。ザカリヤに天使ガブリエルが現れたのですが、ザカリヤは天使の言うことを信じなかったので、「事が成就するまで、あなたは口が利けなくなる」と言われて、その通りになった、と出ています。
ルカの福音を読んで、ザカリヤがはっきりと「そのようなことは信じません」と答えたようには読むことができませんが、「わたしは年寄ですし、妻も年をとっていますし、それをどのようにして知ることができるのでしょうか」と答えました。ルカの福音を読んで、ザカリヤがはっきりと「そのようなことは信じません」と答えたようには読むことができませんが、それでも、「わたしは年寄ですし、妻も年をとっていますし、それをどのようにして知ることができるのでしょうか」と神の業に対して前向きではない姿が浮かび上がる答えであったことは事実でしょう。
《信じないから、すぐに口が利けなくなる》と、天使に言われたその辺りの展開が、よく分かりませんが、「口が利けなくなった」ということです。
そして、ザカリヤに子どもが生まれ、ヨハネという名前を付けた。ヨハネという名前は、『主は恵み深い』という意味で、《恵み深い神の賜物》という意味でしょうか。
子どもが誕生し、名前を付けたところで、口がほどけて、神を賛美する賛歌を献げた。それが、『ザカリヤの賛歌』でして、わたくしどもカトリック教会が、毎日朝の務めである祈りの中で、必ず唱える福音の歌、『ザカリヤの賛歌』となっています。「神をほめたたえよ、イスラエルの神を」という言葉で始まります。

おとめマリアのほうは、天使のお告げを受けた後、すぐに旅立ちました。わたしたちは、5月31日に、聖母の訪問の祝日を祝いましたが、その時のルカに福音によれば、マリアはすぐに旅立ちました。エリサベトとザカリヤの家に行った。100キロメートル以上ある、大変な距離ですが、どのようにして移動したのかと思いますが、とにかく行きました。
そして、ヨハネが生まれてから帰ったのでしょうか、エリサベトの家に3ヶ月滞在したのでした。
マリアがエリサベトに会ったときに、やはり神を賛美する賛歌を献げました。教会の祈りの晩の祈りでわたしたちが唱える『マリアの歌』、昔から《マグニフィカート》と言われる賛歌です。「わたしは神をあがめ わたしの心は神の救いに喜びおどる」。このような言葉で始まる、有名な賛歌です。

そこで、今更、気付くことですが、わたしたちが毎日献げる教会の祈り、その中で朝の祈り、晩の祈り、大変重要なお祈りで、朝の祈りのときは、ヨハネの誕生に関係のある『ザカリヤの賛歌』、晩の祈りは、マリアが天使のお告げを受けたときの賛歌、『マグニフィカート』、これを唱えているということです。

洗礼者ヨハネとイエスの関係は、待降節になると、改めて考える機会がありますが、洗礼者ヨハネは、イエスの到来を準備する、先駆者という役割です。
イエスはヨルダン川で、ヨハネから洗礼を受けてから荒れ野に引きこもり、その後「神の国の福音」を宣べ始められた、という展開になります。

ところでその後のイエスの言動ですが、非常に興味深い記述が、マタイの福音などに出ています。
ヨハネのほうは、生涯、絶対に酒を飲まない「ナジル人」であったようです。旧約聖書では、「ナジル人」という、神に特別に献げられた人のことが出てきますが、ぶどうで作った液体は絶対に飲まない人とされている。そして、非常に禁欲的な生活をした。そのスタイルが凄いです。『らくだの毛皮、革の帯』。どのような恰好なのでしょうか。まさに、旧約聖書のエリヤの風貌、食べ物は『いなごと野蜜』と出ています。
それに対して、イエスのほうは悪口を言われた。「大食漢で大酒飲み。徴税人や罪人の仲間だ」。イエスは、ときには、たっぷりごちそうも食べ、ぶどう酒も召し上がっていたらしい。
そして、そのイエスが、ヨハネについて言いました。「女性から生まれた者の中で、ヨハネより偉大な者はいない」。
物凄く褒めたわけですが、それに付け加えて、しかし、不思議な言葉が告げられた。「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」。この言葉の意味がよく分かりません。
一番偉いと言いながら、しかし、『天の国では一番小さい者も、ヨハネよりは偉い』という意味のようです。
イエスが登場し、ヨハネから洗礼を受けた後、「神の国は来た」という福音を宣べ伝えました。
この時を期して、イエスは、洗礼者ヨハネの厳しい悔い改めのメッセージの段階を超えて、わたしたちの教会の誕生につながる、新しい恵みのときの到来を、わたしたちにもたらしたのだろうか、と思います。

今日は、洗礼者ヨハネの誕生、そして、昨日はイエスのみ心の日を祝いました。荒れ野で叫ぶ声であるヨハネ、あのような生き方は、わたしたちにはとてもできないと思いますが、わたしたち、弱い者、そして、罪人であるわたしたちを、温かく包み、受け入れる神のいつくしみを、主イエス・キリストは、わたしたちに示してくださったのではないかと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ49・1-6
第二朗読 使徒言行録13・22-26
福音朗読 ルカ1・57-66,80

(福音本文)
さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。
ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。
すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。
幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

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ベタニア修道会創立80周年記念・ミサ説教

2017年6月23日、イエスのみ心の祭日、徳田教会

[聖書朗読箇所]

本日、イエスのみ心の祭日は、ベタニア修道女会の創立80周年の日であります。
イエスのみ心は神の愛、イエスにおいて現われた神の愛を表しています。イエスはまことの人間として、人間の心を持って人を愛しました。イエスのみ心は、イエスの人間としての愛を示しています。
1675年、フランスのマリア訪問会の修道女マルグリッド・マリー・アラコックにイエスが出現し、ご自分の心臓を示しながら、人々の忘恩を嘆いていわれました。
「聖体の秘跡において受けたすべての辱めを償うために、聖体の祭日の次の金曜日に祝日を設け、償いのために聖体拝領をしてほしい。」
イエスのみ心への信心は聖人たちの働きによって多くの人々へ広がり、「聖心」の名を用いた修道会や信心会が多数創立されたのでした。

今日の第一朗読、申命記でモーセは言っています。
「(神は)ご自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。」(申命記7・9-10)
そうは言っても、イスラエルの民は、なかなか神の戒めと定めを守ることができませんでした。そこで、神は、同時に自らを、この弱く脆く間違いを犯す人間を赦し受け入れる神として自らを表します。この神の愛は、いわば傷つき迷うわが子を受け入れ癒す母の愛であると、言えましょう。
旧約聖書から新約聖書の流れの中で次第に、神の愛は同時に「赦す愛」であることが明らかにされます。「赦す愛」はイエス・キリストの十字架において最高潮に達しました。槍で貫かれたイエスのみ心は人々の罪を担い、罪を赦す神の愛を示しています。

イエスは言われました。「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11・28)
イエスの愛はわたしたちを招く愛です。イエスは「わたしのもとに来なさい」といい、さらに「わたしの軛(くびき)を、負い、わたしに学びなさい。」(マタイ11・29) 
実はわたくしには、このイエスの言葉は、聖マルグリッド・マリー・アラコックに告げられたイエスの嘆きの言葉を想起させるのです。
イエスの愛は罪人を受け入れ包む愛、いわば母の愛ですが、イエスの与える軛(くびき)を負うことを、そしてイエスに学ぶことを求める愛です。
キリスト教の教えを一言で言えば、「神は愛」ですが、神の愛は人の歩む道である戒めを教え導く愛であり、また同時に弱さと過ちの中で迷い苦しむ人間を包み癒し救う、母のような愛でもあります。
今日の第二朗読、ヨハネの手紙で、使徒ヨハネは繰り返し「神は愛である」と宣べ、互いに愛し合うよう求め、語っています。キリスト教が人々へ伝えたい命題は結局「神は愛である」という短い信仰告白にまとめられます。聖書はすべて神の愛を語ります。

さて、キリスト教が日本に伝えられたとき、キリシタンの時代福音宣教者は現在「愛」と訳されているギリシャ語の「アガペー」という言葉をどのような言葉に言い換えるか、を問題にしました。
仏教では、「愛」は、「執着、妄執、欲望」などに結び付く、否定的な意味をもつ言葉であったからです。そこで福音宣教者は「ご大切」という言葉を採用した、と聞いています。
明治時代になって宣教が再開された時、そのような過去は忘れ去られて、「アガペー」は「愛」と訳されて今日に至っています。
現在でも「愛」は不適当である、という意見があります。その理由は、仏教の「愛」とは別な理由によるようです。それは、「愛」とは上から下への愛情、親から子へ、主君から家来へ、男性から女性への愛情・行為・施しを上から目線の愛を意味するとされているからです。
確かに以前はそういう面がありましたが、それは昔のこと、現在では、対等な人間関係の愛情を表す場合に使われています。
「個人の立場や利害にとらわれず、広く身のまわりのものすべての存在価値を認め、最大限に尊重していきたいと願う、人間本来の豊かな心情」という説明があります。(『新明解国語辞典』)この説明は優れてキリスト教的であると言えましょう。

「愛する」を「大切にする」とする方が適切かもしれませんが、もう定着している「愛」の意味を相応しく理解し使用できれば、「愛」でよい、と考えます。
「神は愛です」を「神は大切です」とは言い難いのでどう表現するのか。強いて言えば、「神は、人をはじめ存在するものをすべて大切に思っている」となるのでしょうか。

聖書朗読箇所

第一朗読 申命記7・6-11
第二朗読 一ヨハネ4・7-16
福音朗読 マタイ11・25-30

(福音本文)
〔そのとき、イエスはこう言われた。〕
「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

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