2017年関口教会聖母の被昇天ミサ、洗礼・堅信式の説教

2017年8月15日、カテドラル大聖堂

[聖書朗読箇所]

聖母の被昇天の祭日を迎えました。
聖母の被昇天という教えは、わたしたちの教会が、初代教会以来、今日まで大切にしてきた聖母についての大切な信仰理解の一つであり、1950年、教皇ピオ12世によって教義であると宣言されました。
神は、主イエス・キリストの母、汚れのない、おとめマリア、体も魂も、ともに天の栄光にあげられました。このことを記念する祭日が、聖母の被昇天の日です。
わたしたちは、聖母にならい、聖母とともに、永遠の喜び、そして、復活の栄光に入ることができるという信仰を、今日、改めて、新たにし、そして、希望を強く持ちたいと思います。

今日の福音は、ルカの1章、何度もわたしたちは、この福音を聞いて、読んできました。今日、わたくしは、このルカの福音から、2つのことを、みなさまと一緒に味わいたいと思います。

「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。」(ルカ1・39)
「そのころ」というのが、いつなのかと言いますと、ルカの福音によると、マリアは天使のお告げを受けて、救い主の母になるということになりました。
少女マリアは、「お言葉のとおり、この身に成りますように」(ルカ1・38)とお答えになりました。そのときに、彼女は神の母になったと、わたしたちは信じています。
そして、「そのころ」とは、そのすぐ後に起こった出来事のように、読むことができます。
「出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」。
5月31日が、毎年、聖母の訪問の日となっていて、この箇所が読まれていますが、何か、唐突な感じがします。

エリサベトの家は、どちらにあるのか。ナザレからエルサレムの方向というと、ずっと南に下って、エルサレムから、さらに先になる。何というところなのかが、よく分かりませんが、フランシスコ会の聖書を見ると、アイン・カレムという地名が出ていて、クエスチョンマーク?が付いています。いずれにせよ、その辺まで行ったということになります。
大変な距離でして、100キロメートル、150キロメートルかもしれません。いまでも大変な距離ですが、当時、交通の不便な時代に、ひとりの少女、うら若い女性が、どうやって、そちらまで行ったのでしょうか。
「歩いて行ったのか、あるいは、馬車のようなものがあったのか」という疑問を、わたくしが漏らしたところ、「少女マリアが、馬に乗って、ナザレからアイン・カレムに行く場面を描いた絵が、ある修道院付の聖堂の壁に描いてある」と、ある人が教えてくれました。
その絵を送っていただいたので見ましたが、そこにはおとめマリアの勇ましい騎馬の姿が出ています。従者がひとりいるみたいです。
当時はそのようにして遠い距離を移動したのでしょうか。それとも、やはり歩いて行ったのでしょうか。あるいは、既に、交通が、ある程度発展していて、駅から駅へと人を乗せてくれる場所のような制度があったのかどうか、よく分かりません。
どのように行ったのかを、全く考えたことがありませんでしたが、あるときから、気になるようになりました。

そのような重大な出来事、ガブリエルからのお告げに、「はい」と承諾し、すぐに、ひとりで、そのように遠いところへ行くだろうか。家族と相談したのだろうか。何よりも、ヨセフ自身とそのような話をしたのだろうか。
何も書いておらず、分かりませんが、非常に身軽に、果断にと言うか、すぐに決心して、ぱっと実行したことだけは確かでしょう。
わたしたちが、何となく抱いている、聖母マリアのイメージというものは、そのようなものではないように思いますが、決断力、実行力のある果断で活動的な女性の姿をうかがうことができます。

それから、エリサベトと会ったときの、有名なマリアの賛歌は、教会が、毎日、晩の祈りで唱えている、大切な祈りで、マグニフィカートと呼ばれる祈りですが、この祈りも、旧約聖書の伝統の中で、おのずから生まれてきた、少女マリアの口を衝いて出てきた祈りなのかもしれません。

この内容を、改めて読んでみると、かなり、驚くべきことが言われています。
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。

どの時代も権力者がいて、金持ちがいて、貧しい人、弱い人を圧迫し、苦しめている。そのような状況があります。
今年の東京教区の平和旬間は、『こどもと貧困』というテーマを取り上げましたが、貧困という問題が、日本の社会にも、厳然として存在しているのです。
まして、2千年前の、パレスチナの社会、神様はそのような状況を、決して「よし」とはされないはずです。
「良くないという状況を、変えなければならない。ひっくり返さなければならない」という理解は、秩序の転倒という、恐るべき、革命的な考えかもしれませんが、そのようなことを、神様は望んでおられるという意味に取ることができないこともないです。

マリア様について、無原罪の聖母、被昇天の聖母という、信仰理解は大切な伝統ですが、その背景となる、一人のおとめマリアの姿に注目することも大切だと思います。天使のお告げを受けた直後のナザレの少女マリアの姿、その心のうちを、わたしたちは、今日、新たな思いを抱き、これからの教会のあるべき姿を学ぶことができるのではないかと思います。
「わたしたちの社会は、力による支配の社会、その力、権力、財力、その他のいろいろな力によって、支配されている。しかし、それではいけないのだ」という思いが、わたしたちのうちにあり、少女マリアの思いを、わたしたちも自分の思いとし、日々の生活の中で、平和の実現のために、力を尽くしたいと思います。

なお、今日は、この後、洗礼式と堅信式が行われます。みなさんと一緒に、洗礼の恵み、堅信の恵みをお受けになり、洗礼を受けたわたしたちも、その恵みを思い起こし、決心を新たにし、そして、洗礼のときの決心、堅信のときの決心を、もう一度思い起こして、信仰者の生涯、わたしたちの生涯が、平和を実現する者の生涯となるよう、神の恵みを祈り求めたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 ヨハネの黙示録 11:19a、12:1-6、10ab
第二朗読 コリントの信徒への手紙 Ⅰ 15:20-27a
福音朗読 ルカによる福音書 1:39-56
(本文)
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。
エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
そこで、マリアは言った。
「わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、
その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、
憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

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2017年平和旬間カテドラル「平和を願うミサ」説教

2017年8月12日、カテドラル

[聖書朗読箇所]

2017年の平和旬間、カテドラルで献げる、平和を願うミサの福音は、いま、お聞きになられたように、主イエスの、山上の説教です。
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と、主イエスは言われました。わたしたちは、それぞれ、平和のために働き、平和が実現するよう、努力するようにと、呼びかけられています。
すべての人の、望ましいあり方を、平和という言葉で言い換えることができると思います。
日本カトリック司教協議会が発行した、『いのちへのまなざし』という教えを、今日、改めて、みなさんに紹介しながら、平和について学びたいと思います。
『いのちへのまなざし』が言っておりますように、平和というのは、4つの次元から考えることが適切ではないかと思います。「神との和解、調和」、「人間相互の和解、調和」、「自然との和解、調和」、「自分自身との和解、調和」、この4つの和解、調和が、必要であり、大切であると思います。

今日の第一朗読は、イザヤの預言、この中で、わたくしの心に響く、大切な言葉は、「大地は主を知る知識で満たされる」(イザヤ11・9)という言葉です。創造主である神、被造物である大地、さらに、大地と、われわれ人間との関係が、不調に陥っているのが、いまの状態ではないでしょうか。

創世記の3章では、「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」(創世記3・17)という言葉が出てきます。神と、最初の人間、アダムとエバが、神との親しさを失ったために、その影響は、人間と人間との関係だけでなく、人間と自然との関係にも及びました。
「土は呪われるものとなった」。そのように言われております。

しかし、イザヤの預言によると、その呪いから解放されるという希望があります。
「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。
その日が来れば、エッサイの根は、すべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。(イザヤ11・6-10)

教皇フランシスコは、『ラウダート・シ』という回勅を出されました。そして、少し難しい言葉ですが、「総合的なエコロジー」を提唱しています。
わたしたちは、特に、人類の歴史の中で、最近のことですが、自然を大切にするという、基本的な精神を忘れ、あるいは、粗末にしてしまいました。
自然との調和を踏まえた生き方、それは、すべてのいのち、すべての存在の間には、深いつながりがあるのだという理解であり、それは、すべてのものをお造りになった、主なる神様への信仰に基づくものです。

この観点から、一足飛びに結論に行きますが、日本の司教協議会は、たびたび、原子力発電の問題を訴えてきました。
「原発即時停止」、あるいは、「原発の撤廃」を求めるメッセージを送っております。
この環境問題、環境は、すべてのものがつながりを持っているという、わたしたちの信仰、神の創造の働きに、もう一度、わたしたちの心を戻し、そして、日々の生活の中で、神様からいただいている自然の恵みを大切にしたいと思います。

さて、先ほど申し上げた、『いのちへのまなざし』は、いのちを大切にすることについての、わたしたちの数々の課題を述べております。
その中で、今日は、特にひとつのことを取り上げたいと思います。それは、最近、日本で行われた、まだ行われているかもしれない、「ヘイトクライム」、あるいは、「ヘイトスピーチ」という問題です。4つの和解の中で、「人間相互の和解、調和」を損なう、非常に重要な、由々しい問題です。

イエス・キリストは、隣人を愛するように教え、しかも、その隣人には境界を設けませんでした。
わたしたちは、自分が、よく理解できない、自分にとって都合が良くない人たちのことを、嫌ったり、避けたり、あるいは、極端な場合、排斥するという傾向をもっております。
主イエスは、人間と人間との間の、あらゆる境界を超え、敵と言われる人たちも、同じ人間として受け入れ、ゆるすようにと教え、そして、その教えを自ら実行されました。

この、『いのちへのまなざし』をお読みいただきたいのですが、この本では、次のように述べられています。

「ヘイトクライム(憎悪犯罪)」とは、差別や偏見を動機とした犯罪を指すことばで、「ヘイトスピーチ(差別煽動表現)」とともに、1980年以降、米国で使われ始めました。
「ヘイトスピーチとは、人種、民族、性的指向、宗教などの属性を理由として、その属性を有する少数派の集団や個人を侮辱し、差別、憎悪、排除、暴力を煽動する言動のことです」。(150ページ)

差別することは、その集団を憎悪し排斥し攻撃し、さらに抹殺するという実行行為に発展します。この、差別という、人間の心に宿っている、根深い問題、それは、わたしたち自身の問題でもあると思います。
わたしたちは、差別はいけない、自分は差別をしていない、差別をしている人がいけないのだと、言うことができるでしょうか。

先日の、ご変容の日の福音は、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」でした。
わたしたちも、差別、そして、人権侵害という問題を、自分自身の問題としてとらえ、そして、この悪と戦うために、日々、主イエスにならい、主イエスに聞き従うように、努めたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ11・1-10
第二朗読 エフェソ2・17-22
福音朗読 マタイ5・1-15
(福音本文)
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。」

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2017年千葉地区平和旬間ミサ説教

2017年8月11日、五井教会

[聖書朗読箇所]

2017年の千葉地区の平和旬間行事は、五井の教会で行うことになり、このように多くのかたがお集まりくださいまして、大変うれしく、また、心強く思っております。
先ほどは、ティエン神父様をはじめ、パキスタンからの友人、そしてシスターのお話も伺いまして、それぞれのところで平和を求める戦いが行われていることを、わたしたちは、ひしひしと感じます。
主イエスは、ご存知のように、隣人を愛するということと、わたしたちも互いに愛し合うようにとお命じになり、そして、敵を愛するように、と教え、ご自分の生涯を通し、ご自分の言葉と行いを一致させて、わたしたちに模範を示してくださいました。

平和とは、正義と愛の実りです。毎年、わたしたちは平和旬間を行い、特にこの期間、平和について考え、学び、平和のために祈り、平和についての何らかの行動を起こすようにと心掛けております。

今日、いろいろな課題の中で、ひとつ、みなさんと一緒に考えてみたいことは、『いのちへのまなざし』(増補新版)、日本の司教団による教書に出て来る諸課題です。これを、ぜひ、分かち合っていただきたいです。
いのちを守り、いのちを大切にし、お互いにすべてのいのちを守り、大切にするということがそのまま、平和を実現することになると思います。
わたしたちは、人間のいのちはもちろんのこと、いのちあるものすべてを大切にする、そしてさらに、この世界に存在するあらゆるものも、大切にすることを学ばなければなりません。

本来、聖書の教え、あるいは、イエス・キリストの教えは、人間は大切にするが、人間でないものは、それほどにしなくても良いという教えではなく、あらゆるものが、尊重されなければならないということである、と思います。

いま、全世界で大事な課題は、「環境問題」です。人間は、自分に都合の良いように、この世界を利用しようとして、結果的に、自分で自分の首を絞めているというようなことになっています。
教皇フランシスコの、『ラウダート・シ』という回勅で、このことを訴えておられます。

さて、今日の福音をみましょう。
「『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5・43)とイエスは言われました。
「敵を憎め」という言葉は、旧約聖書のどちらにも見当たらないようです。旧約聖書では、隣人を大切にしなさいと教えています。困っている人を守り、助けなさいと教えています。
困っている人の代表、孤児、やもめ、寄留者(きりゅうしゃ)、いまでは難民と呼ばれているような人でしょう。旧約聖書の世界では、特に、弱い立場にある人を大切にするようにということが、繰り返し述べられています。

ただ、「敵を憎め」ということについて、「敵を憎め」という言葉は見当たらないようですが、モーセ、あるいは、サムエル、預言者が神様の言葉としてイスラエルの民に告げた言葉は、必ずしも、現代のわれわれにとって、納得のいくことではありません。
特に、わたしたちを悩ませる言葉というのは、イスラエルがカナンに侵入し、カナンの先住民を征服したときに、そちらの先住民を「皆殺しにしなさい」と言ったという聖書の言葉です。
いくら戦争とはいえ、戦うことのできない、女性も、子どもも、家畜も、「情けをかけてはいけない。皆殺しにせよ」と神が言ったというふうに書いてあります。
これを、どのように解釈するか。難しい問題ですが、「聖戦」という言葉、聖なる戦いという考えがありまして、ずっと続きました。他の宗教でも、もちろんあります。
しかし教皇フランシスコは、「聖なる戦いはあり得ない」と何度もおっしゃっています。

さて、『いのちへのまなざし』は、いろいろな問題について解説しておりますので、ぜひ、読んでください。最近、英訳も完成しましたので、まだ本にはなっていませんが、英訳も、中央協議会から入手することはできます。中央協議会のウェブサイトで公開されています。
この本の終わりの方に、「ヘイトクライム」、「ヘイトスピーチ」というカタカナが出ていますが、これは、みなさま、お聞きになったことがあるかと思います。「ヘイト」という言葉は「憎しみ」という意味です。犯罪になると、「ヘイトクライム」。スピーチに関する法律が最近できまして、軽犯罪になるとされています。
どうして、人間の心に、特定の人、あるいは集団を排斥し、憎悪し、できることならば、抹殺したいというような心が起こるのでしょうか。
「ヘイトスピーチ」が何であるかについて、この本は、非常に適切な説明をしております。
「ヘイトスピーチ」とは、人種、民族、性的指向、宗教などの属性を理由として、その属性を有する少数派の集団や個人を侮辱し、差別、憎悪、排除、暴力を煽動(せんどう)する言動のことです。(150ページ参照)
これは、日本でたびたび起こった、差別を通り越した、犯罪行為です。最近は、少し収まっているようですが、なくなっているわけではありません。
人を差別し、憎悪し、排斥するという、人間の心の問題が、特定の人にはあるが、われわれにはない、と言えるかというと、そうでもないです。わたしたちの中にあるが、わたしたちは、そのような心の動きに負けないで、頑張っているわけでして、でも、何かの拍子に、そのような心の動きが表に出てきて、言葉と行いになって出てくるかもしれないと思います。
そうすると、平和を実現するということは、実に大変なことで、わたしは良い、問題はないが、他の人は良くないから、平和ではないと、なかなか言えなくなってきます。
平和というのは、この社会の現実に原因がありますが、その現実を作り出しているのは、わたしたち人間の心の在り方です。

今日の第一朗読は、そのことを、わたしたちに教えているような気がいたします。
「この世から出る、悪い思い、それは、悪魔から出るものであって、ねたみや利己心があるところには、混乱やあらゆる悪い行いがある」(ヤコブ3・15-16参照)。

わたくしは、仏教の教えを聞く機会がありましたが、仏教でも同じようなことを言っています。
人間の心には、悪い思いがあり、その中で、特に3つの毒、「三毒」ということを言っていまして、貪(とん)瞋(じん)癡(ち)という難しい言葉ですが、貪る心、ねたみ、憎む心、恨む心、相手のことを知ろうとしない、自分勝手な心というものが、人間を間違いに陥れているということです。
カトリックで言う、「原罪」という教えと同じか、よく似ていると思います。

平和旬間、それは、特に、平和について学び、平和のために祈り、そして、平和のための小さな努力を積み重ねることを学ぶための10日間です。
わたしたちが、自分の心を見つめながら、人々が被っている、苦しみ、悲しみ、辛さを、少しでも理解し、その人たちのために、何かをすることができますように。
何をしたら良いかということは、なかなか難しいことですが、よく祈り、よく考え、なすべきことをし、してはいけないことはしない、そのようなことから始めなければならないのではないかと思っております。

今日のこの機会に感謝しております。

聖書朗読箇所

第一朗読 ヤコブの手紙3・13-18
(本文)
あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。
そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。
上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。

福音朗読 マタイ5・38-48
(本文)
〔イエスは言われた。〕「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。
だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

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2017年多摩地区平和旬間ミサ説教

2017年8月5日、主の変容の祝日前晩、町田教会

[聖書朗読箇所]

平和旬間を迎えます。この期間、わたしたちは特に、平和について学び、平和を実現するものとなることができるよう努め、そのための恵みを祈り求めます。

どうしたら平和を実現するものになれるのか。

それは主イエス・キリストに聞き従うことであります。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と主なる神様が言われました。イエス・キリストは旧約聖書の教えの延長として現れ、そして律法を完成するものとして登場しました。

今日の福音では、旧約聖書の代表的な指導者であるモーセとエリヤが登場しています。モーセ、そしてエリヤたちによって伝えられた神の教え、神のみ心はイスラエルの人々にとって、どういうように理解されたのか。
わたしたち人間は神様のおっしゃることを充分に、まして完全に理解することはできないのであります。神様はその時、その人々が理解できる限りにおいてお話になったのかもしれない。
今日のわたしたちから見ると理解に苦しむ、あるいは、躓きになるような教えが旧約聖書に出てきます。その代表的なものは、カナンの征服に際しての、神の言葉ではないでしょうか。「聖絶」とされているのですけれども、聖というのは聖書の聖に、絶滅の、絶対の絶です。

申命記では、神は次のように言ったと述べられています。
「ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。」(申命記20・17)

サムエル記上では、もっとはっきりと恐ろしいことが言われている。
「アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも、打ち殺せ。容赦してはならない。」(サムエル記上15・3)

解釈が難しい箇所です。

イエス・キリストは、わたしたちが平和のために働くようにと命じられ、そういう人は神の子と言われると言われました。そして、わたしたちを理解しない、わたしたちを排斥する、わたしたちを憎む人々、いわば敵である人々を赦し、受け入れるようにと言われ、自分の言葉を実行しました。なかなかできないことではあります。
新約聖書の教えは使徒パウロも言っているように、「悪に対して悪をもってせず、悪に対して善をもって打ち勝ちなさ」(ローマの信徒への手紙2・17-21参照)ということであります。

先ほどの講話の中で触れましたが、最近日本で問題になっている差別の問題の中に、「ヘイトクライム」、「ヘイトスピーチ」という事件があり、「いのちへのまなざし」で取り上げられています。
「ヘイトクライム(憎悪犯罪)」とは、差別や偏見を動機とした犯罪を指すことばで、「ヘイトスピーチ(差別煽動表現)」とともに、1980年以降、米国で使われ始めました。
「ヘイトスピーチとは、人種、民族、性的指向、宗教などの属性を理由として、その属性を有する少数派の集団や個人を侮辱し、差別、憎悪、排除、暴力を煽動する言動のことです。」(150ページ)
差別することは、その集団を憎悪し排斥し攻撃し、さらに抹殺するという実行行為に発展します。

差別とは実に根深い問題です。差別の心はわたしたちの心の中にあります。
今日のご変容を告げる福音で、天の父は言われました。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」
わたしたちは差別という問題を自分自身の心にある悪の問題としてとらえ、悪と戦うためには主イエスに倣い、主イエスに聞き従わなければならないのです。
明日からの平和旬間を迎えるにあたり、まずわたしたちは、わたしたちの間で平和を確立しなければならないのであります。わたしたちの間で、互いに赦し合い、受け入れあうという神の愛が実現していなければならないと思うのであります。

主イエス・キリストが罪深いわたしたちを癒し、導き、そして助けてくださるように祈りましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読 ダニエル7・9-10,13-14
第二朗読 二ペトロ1・16-19
福音朗読 マタイ17・1-9

(福音本文)
〔そのとき、〕イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。
ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。
イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

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千葉中央宣教協力体 聖体奉仕者・集会司式者研修会講話

2017年7月23日、西千葉教会

 

(挨拶省略)

2006年版幸田司教編集の「テキスト}(案)聖体奉仕者の仕事について、ご聖体を病人の方にお届けするときの、心構えや注意が述べられておりまして、大変心に響きました。

今日はまず教会の奉仕者に共通となる基本的な心構えについてお話します。
わたしたちの教会は、ナザレのイエスという人の、死と復活の出来事を体験した人々によって成立しました。復活したイエスに出会った人々が、その信仰を、次の世代に伝えまして、わたしたちの教会が成立し、発展してきました。
わたしたちは、1年かけて、典礼歴によって、イエス・キリストの生涯を学び、ミサの中で、イエスの生涯を記念しています。特に、灰の水曜日から始まる四旬節、復活祭、その前の聖週間、復活節は、キリストの復活を記念する、大切な典礼を執り行っています。
使徒パウロも、生前のイエスの弟子ではなかったが、復活したイエスに会って、電撃的な体験をして、イエスの弟子、イエスから遣わされた使徒となりました。それを、何度も、パウロは強調しています。
ですから、教会は、イエス・キリストの復活を証言し、そして、復活のイエスが今も教会におられるということを、証する団体なのです。イエスは、地上を去るときに、「弟子たちに宣教命令を与え、世界中に行って、わたしの教えを宣べ伝え、守らせなさい。そして、わたしの弟子を作りなさい」と言われ、そして、そのときに、付け加えて言われました。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
去ることは去るが、世の終わりまで、あなたがたと一緒にいると言われた、この不思議を生きているのが、わたしたち教会なのです。
復活したキリストが本当にわたしたちと共にいると、本当に人々に思っていただけるような、わたしたちでなければなりません。事実、「なるほど、そうだ」と思ってくれた人たちがいたので、教会が続いているし、わたしたちも信者になった訳です。
復活したイエス・キリストがいつもわたしたちと共におられるということを、あらわし、伝える「しるし」が、わたしたちの教会です。
その、「しるし性」というものが、あるときは、非常に明らかであり、輝かしい。あるときは、非常に弱くて薄い、よく見、よくよく聞いてみると、なるほど、そこにイエスがおられると思ってもらえるかもしれないが、表面的に見ると、とてもそのようには思われないというような在り様が、わたしたちの状態ではないでしょうか。

今日の、年間16主日の福音は、良い麦と、毒麦(雑草)が一緒に伸び、育っている状態のことを言っていますが、わたしたちの教会が、正にそのような状態です。悪い点だけを選んで、そこだけ抜き取ると、良いところも一緒に取れてしまいます。いまは、同じ人間が両方に関わっています。両者は、いずれ分離するということかもしれません。
そのような教会が、復活したイエス・キリストを宣べ伝えていのであり、そして、それは、わたしたちひとり一人が行っていることなのです。

わたしたちは神の民です。神の民の中に、いろいろな役割、いろいろな立場があって、それぞれが、自分の役割、立場を大切にし、お互いに尊重しながら、全体として、イエス・キリストの仕事を継続させ、発展させ、また、教会全体が、復活したイエス・キリストがわたしたちと共におられることをあらわし、且つ、イエス・キリストが行うことを行うということが、わたしたちの教会の姿であると思います。

そこで、第2ヴァチカン公会議は、教会観というものを一新し、位階制を中心とした、教会の理解、縦構造の教会、教皇様がいて、司教がいて、司祭がいて、信徒がいて、別格に奉献生活者がいるというような理解をやめまして、キリスト信者全体が神の民であって、全員がイエス・キリストから呼ばれ、イエス・キリストの務めをそれぞれ行うという教会理解を前面に出しています。

イエス・キリストの3つの役割は、旧約聖書から引き継がれた3つの役割であって、旧約聖書には、祭司、預言者、王という人がいて、それぞれが役割を担っていました。
祭司は、神殿で「いけにえ」ささげる人、預言者は、神のことばを取り次ぎ、人々に伝える人、王は、地上において、神の御心を行い、弱い立場に置かれた人を守り、神の正義を地上に実現するべき人でした。
しかし、大体の王は失格でして、ほとんど合格した人がいないというのが、旧約聖書の歴史ですが、この3つの役割を、ひとりの人、即ちイエスが、自分の中に受け取り、そして、具現させ、弟子たちに伝えたのが、わたしたちの教会です。

さて、そのような教会の役割を2006年に作成された聖体奉仕者・集会司式者養成講座のテキストでは、「福音を宣べ伝える」、「賛美と感謝をささげる」、「愛の掟を実行する」という言葉を使い、非常に分かりやすく述べています。
お互いに助け合い、且つ、教会の外に向かって、一人ひとりの人が大切にされるような社会の実現のために力を尽くすという、この3つが、わたしたちの役割であるということです。
これが、旧約聖書の3つの役割を言い換えたものであり、福音を宣べ伝える預言職、賛美と感謝をささげる祭司職、愛の実践を行う王職、この3つはお互いに深く関わり合い、結びついていて、1つのことを忠実に行うならば、他の2つのことも必然的に、一緒に実行されることになると思います。

今回は、千葉中央宣教協力体での聖体奉仕者・集会司式者の養成講座ということで、みなさんは、研修を行っています。既に学ばれたこと、今日お聞きになったこと、また、今日わたしの後で、福島神父様がお話になることは、重なることになるとは思いますが、聖体奉仕者・集会司式者は、教会の中での祭司職の実践に該当する役割です。
しかし、それは同時に、イエスの福音を宣べ伝え、イエスの教えを実践することにもならないといけない。3つのことが、お互いに関わり合っているのでなければならないと思います。

東京教区では、日曜日のミサが挙げられないという場合はあまりありません。ほとんどありませんが、千葉県ですと、安房上総宣教協力体では、既に、主日に、ミサに代わる主日のことばの祭儀を行っていると思います。

こちらに、改訂新版の儀式書があります。まだミサ以外のときの、聖体拝領と聖体礼拝、主日に行われる集会祭儀のことは、あまり取り上げられていませんが、この儀式書で述べられていることがそのための基本になります。

さいたま教区、仙台教区、札幌教区では、主日にミサを行うことができない、司祭に来てもらうことができない教会が、非常に増えていまして、主日を聖とするという教会の大切な掟を、どのように実行するかということが、重要な課題になっています。

しかし、司祭を中心に考えると、司祭がいないと大変だとパニックになるかもしれませんが、教会全体が、イエスの死と復活を記念する時間を持つ、そして、復活したイエス・キリストがわたしたちと共におられることを一緒に分かち合うことが大切なのです。
わたしたちは地上のことに捉われて、日々、忙しく過ごしますので、特定の場所で、特定の時間、神様だけにささげる時間を持つということが、非常に大切です。それが、われわれの場合はミサですが、ミサが行われない場合も、それに代わって、みなさんで集まって、一緒に神を賛美し、聖書のことばを聞き、キリストの体を受け、そして、復活したイエス・キリストがわたしたちと共におられることを一緒に分かち合う、ということは、非常に大切だと思います。
もちろん、ミサに参加できれば良いのですが、いろいろな事情で行うことができない場合は、一緒に集まって、お祈りする。それは、立派に主日を聖化することになる。
具体的に、どのようにするかということは、2006年のテキストでも、非常にきめ細かく書いてあります。

その日にミサで読まれる聖書朗読、通常、第一朗読、第二朗読、福音朗読を中心に、主の日を聖化するということが、よろしいのではないでしょうか。その場合、福音の分かち合い、その福音と福音朗読の前に読まれる、第一朗読、第二朗読との関係が、どのようなものであるかなどを、一緒に考え、感想を分かち合うということも、大変良いことであると思います。

以下、少し具体的なことをお話しします。

集会司式者は、いま申し上げたように、ミサが行われないときの、主日の礼拝を担当する方です。そのような場合に、どのように実行するかということは、入念に準備し、且つ、練習もした方が良いと思います。

聖体奉仕者ですが、通常のミサ中、聖体を授ける奉仕をするということが、一番行われていることですが、かつて、用語が混乱しました。たしか、特別聖体奉仕者と言っていたと思います。
通常、聖体を授ける役割は、司教、司祭、助祭、その他、特別に任命された人、祭壇奉仕者もできるはずですが、そちらは、通常の奉仕者であって、それでは、聖体の奉仕者が足りない場合にお願いされた人が聖体奉仕者としたものの、『extraordinary』ということばを特別と訳したので混乱しました。
しかし、その共同体で、お互いに必要を認め合って、教区でいえば、教区の司教、裁治権者が依頼という形になっています。
ちなみに、聖体奉仕者は、申請があったら、裁治権者が承認するなり、委嘱するということになっています。

司祭が、直接ご聖体をお持ちして、拝領して頂ければ良いのですが、だんだん環境的に難しくなってきましたので、司祭以外の方が、司祭から依頼されて、ご聖体をお持ちして、そして、短いお祈りをする。できれば、聖書の朗読をして、聖書のことばを味わいながら、ご聖体拝領をしてもらうということが、非常に大切だと、こちらのテキストには、そのことがよく出ておりますが、そのようにして、主イエス・キリストの復活を分かち合うということが、非常に大切だと思います。
いま、具体的に、そのような役割を担っている方が増えていると思います。それは、大変良いことだと思います。

昔、わたしが主任司祭をしているときに、ある男性が洗礼を受けまして、聖体拝領をしますが、どうも様子がおかしいので、調べてみたら、その場ですぐに拝領しないで、持ち帰って、家族を集めて、聖体奉仕職を自分で実行していたということがありました。
とにかく、その場で聖体拝領をしていただかないといけない。どうして、いけないのかとも思いますが、もしかしたら、教会がいろいろな経験をして、『その場でご聖体が拝領されるか見届けなさい』という教えになってきたのかもしれません。
いまでも、ときどき、持ったまま行ってしまう人がいますので、万が一、間違えて与えてしまった場合でも、別の場所へ持って行かれると困るので、とにかく拝領してもらうことに、最近はしています。

さて、その聖体拝領について、ときどき苦情が来ます。
なかなか難しいのですが、日本の教会は、確か、1970年ごろ、公会議が終わって間もなく、教皇庁に申請して、日本には、尊いものをいただくときには、手で押しいただくという文化であるので、口ではなくて、手で拝領できるようにしてもらいました。

また、日本の司教協議会は、立った姿勢で受けてくださいとお願いしています。
中には、ひざまずかないといただきたくないという方がいます。こちらは、まだトラブルが終わっていません。
日本の司教協議会が、2014年に教皇庁典礼秘跡省に申請して、認証を受けた、『日本におけるミサ中の聖体拝領の方法に関する指針』は、みなさんのところに渡っていると思います。こちらで、はっきりと述べているのですが、ミサ中の拝領のときの姿勢は、日本では、原則として、立って拝領することとします。一同が同じ姿勢で拝領することによって、会衆の一致をしるしとしてあらわすことができるからです。また、拝領の行列が円滑に流れることにもなります。ただし、ミサを行う場所によって、立って拝領することが不自然である、また、健康状態が良くない、その他、理由があれば、立った姿勢ではない姿勢、場合によっては、ひざまずいた姿勢でも、拝領することができます。
この日本に向けた指針には「拝領の姿勢は司教協議会で決めなさい。しかし、ひざまずいて聖体を受けることを希望する信者に対して、そのことだけを理由に聖体授与を拒むことはできない」、「ひざまずいては拝領させない、ということはしてはいけない」ということが、教皇庁の通達に書いてあります。

カテドラルで、わたしのところに行列ができて、聖体を受けるときに、こちらが言う前に、ひざまずいて、口を開ける方がいますが、そのような場合に、わたしは立たないとあげないということはしません。そこで、行列が止まってしまいますが、カテドラルは広いですから、それほど支障はありません。
しかし、狭い教会などで、その人がひざまずいて、みなが静まり返り、みなが見守っているという状態では、典礼の中ではふさわしくないように思われます。
ひざまずいて、聖体拝領をしてはいけないというわけではありません。自分は、ひざまずかないと聖体拝領したくないという人に対しては、間違っているから聖体をあげないと言ってはいけない。

もう一つ、聖体奉仕者と集会司式者で、せっかくみなさんが、こうして研修を受け、任命されても、役立てる機会がないということを聞きます。もっと、いろいろなことをしていただけるようにしていかなければならないと思います。
少し飛躍しますが、勇気を出して言いますと、司祭でなければできないこと以外のことは、できるだけ、していただけるようにしたら良いと思います。
たとえば、葬儀です。葬儀の中で、ミサは司祭でなければできない。しかし、それ以外のこと、ほとんどできます。もちろん、助祭がいれば、助祭がします。
お通夜は、たしか、長崎教区では、信者が多いので、お通夜に司祭は行かないと聞いています。ましてや、カトリックの国では、お通夜というものは、はっきりとした習慣として確立されたものではありません。みなが集まって故人をしのんで、お祈りします。

司祭は、お通夜と葬儀で2日間使わなくてはなりません。黙想会などの最中でも、途中で帰って行って、それっきり戻ってこないということになります。亡くなった後、棺にお納めし、お祈りし、葬儀までの間の数日間をどうするか。それに、全て司祭が毎日直接関わっていたら、他のことができなくなります。
司祭でないといけないという思い込みは、やめなければなりません。葬儀で、司祭以外の方ができることは、どんどんしていただきたいと思います。

ご聖体拝領については、先ほど言いましたように、できれば、ミサ中は、行列の中で、立った姿勢で、手で受けていただきたいのですが、どうしても、行列の中にあって、途中で、自分だけがひざまずいて受けたいという場合は、その神父様の判断で、狭いところ、込み合っている場合は、できるだけ立っていただいていただきたい。しかし、言うことを聞かないとあげないというような、高圧的な扱いをしていただいては困ります。

ヨハネ・パウロ二世になってから、聖体拝領を同じ日に2回しても良いということが、はっきりと言われるようになりました。いままでは、聖体拝領を1回しているから、ミサには出ても、2回目はしないということでしたが、いまは、結婚式のミサや他の趣旨のミサのときに、既に聖体をいただいているから、今回は受けないという必要はありません。受けていただいて結構です。

聖体奉仕者・集会司式者の奉仕を行う人は、日々の生活の中で、イエス・キリストの教えを実行するように努めていただきたい。
特に、人間のいのちを大切にするということと、平和を実現するために働くという、キリスト者にとって、非常に大切な務めを行うようにしていただきたいと思います。

今年の平和旬間は、《こどもと貧困》というテーマになりました。『こどもの貧困』ということにしようかと思いましたが、子どもの貧困だけではなくて、子どもの貧困ということも入れながら、日本において、貧困というものが、どのような問題になっているか。そこから発して、世界中に存在する、貧困という問題を見ながら、わたしたちに、この問題をどのようにしたら良いのか、どのようにしたら、この貧困の解消のために、働くことができるかということを、分かち合う機会にしていただきたいと思います。

 

では、わたしの話は以上にいたしまして、後は、日頃から言いたいと思っていること、聞きたいと思っていることがおありでしたら、どうぞ。

会 衆:
聖体拝領の姿勢についてですが、できるだけ、このようにしてくださいというように、アドバイスをしておいた方がよろしいでしょうか。

大司教:
ほとんどの教会では、分かってくれていると思いますが、中に、ことばの通じない、外国から来られた信者で、自分の国ではそのようにしていたので、こちらでもそうしたいという方がいるかもしれません。
日本の司教協議会は、聖体拝領のときは、原則として、立った姿勢で受けてくださいとお願いしています。また、日本には、尊いものをいただくときには、手で押しいただくという文化があります。でも、もし、ひざまずいて聖体拝領をしたいのであれば、司祭は、頭からはね付けることはせず、その人の希望にどのように応えられるかを考えてくれるだろうと思います。けれども、他の人も聖体拝領をするのだから、できればそのようにしていただきたい。
しかし、日本は、非常に多国籍化していて、他のことばによるミサのときに、どのようにしているのか、わたしはあまり経験がありませんが、六本木のチャペルセンターのミサでも、ひざまずいて、口で受けるという人はほとんどいません。外国ではどのようにしているのかと聞いてみると、正確ではありませんが、ミサ中、ひとりひとりひざまずいて、口で受けるとなると、授ける方も大変なので、だんだん行列の中で、手で受ける人が増えているとのことです。
わたしが、何年か前にパリ外国宣教会の創立のお祝いでフランスに行ったとき、ミサ中、聖体拝領をする人を見ていましたが、大体が手で受けていました。
どうしても受けたいという方を、拒んではいけない。どのようにして聖体を受けるかということよりも、教会の中で、イエス・キリストの交わりをともにするということが大事なのであって、ご聖体拝領の仕方が理由で、兄弟の交わりが壊れてしまうことのないようにしましょうと思っています。

わたしたちは、自分とは違う考え方の人に、どのような反応を示すか。それは、反射的にそのようになっているので、自分では気付きません。相手がどのように感じているかということには気付きませんが、カトリック教会、普遍の教会、いろいろな文化、習慣、言語、民族を包含することによって、教会が発展してきたわけであって、日本のような小さな共同体の中で、いま、いろいろな国から来ている信者の方がいますので、具体的なことについて、なお話し合って、大体このようにしようではないかという合意を、更に作っていく必要があるのではないかと思います。

自分だけが本物で、他の人が間違っているということはありません。自分の中にも雑草が茂っています。雑草を取ろうとすると、自分自身が壊れてしまいます。しばらく、お互いに我慢しましょう。

会 衆:
趣旨の違うミサの場合、1日のうちに複数回聖体拝領をしても良いということでしたが、同じ趣旨であれば、やはり、だめということでしょうか。

答 え:
主日のミサの場合、同じミサに何度も出たいということがあるかもしれませんが、その場合、いままでは、最初からだめだったのですが、同じ主日のミサでもできると思います。
日曜日に、他のごミサがある場合、ご聖体拝領ができるかという問題がありましたが、それは、問題ありません。
しかし、主日のミサの場合、なぜ、同じ日に2回出るのか、その動機が分かりません。

会 衆:
こちらは、7時半と9時、更に英語のミサがあります。わたしの場合には、少なくとも2回出る可能性が、大いにあります。

大司教:
それは、自分のためですか。

会 衆:
英語のミサは自分の担当になっています。

大司教:
担当であるとか、当番であるという場合には、聖体拝領をすることができます。ただ、いわゆる自分の信心で、1回よりも2回出た方が良いというような場合は、聖体の意味を間違えて理解していると思います。1回で十分です。

会 衆:
病者にご聖体を持っていく場合に、ひとりの人のところに、ふたりが訪問した場合、みなで分かち合った方がよろしいということで、みなでいただくのですが、既にミサに与っていた場合、2回目の聖体拝領になりますが、そのような場合はいかがでしょうか。

大司教:
ミサに与った後に、ご聖体をお持ちした場合、持って行った人は、既にミサで聖体拝領をしていて、今度は病人の方にご聖体を授けるときに、自分たちも一緒にもらって良いかということですか。

会 衆:
はい。最初はいただいていませんでしたが、神父様がみなで分かち合った方が良いとおっしゃいましたので、いただくようになりました。

大司教:
いままでは一緒にいただきませんでしたが、一緒にいただくという考え方もあるのでしょうね。そうかもしれないという気もしますが、その件については、回答を保留いたします。だめというわけではありませんが、問題ないとも言い切ることができません。

会 衆:
教会法など、いろいろなことがありますが、1日に2回ご聖体をいただくことができるのは、ミサの形であればということであったと思いますが。

大司教:
そうですね。ミサというのは、ご聖体をいただくことが基本なので、従来は、既にいただいているから、遠慮しますというようになったと思います。
更に昔は、ご聖体への畏敬の念により、ご聖体から遠ざかっていましたので、年に1回は聖体拝領をしなさいとおふれを出さなくてはならないほどになってしまいました。
最近は、簡単にご聖体を受けすぎることが問題となっていますので、ご聖体を受けるということが、どのような意味なのか、もう一度、確認する必要があるかと思います。
ところで、ミサというものは、ひとりで挙げるものではないと思います。
ひとりでミサを挙げることが、イエスの定めた最後の晩餐の記念の趣旨に合っているのであろうかと思いますが、ミサというのは、共同体の行為ですので、ミサ以外の聖体拝領ということは後から行われるようになりました。最初は、ミサに与らない人のために、ご聖体を運ぶというところから始まりましたので、ミサに出た人は、一緒にいただかなくてもよいのではないかと思いますが、すこし考えさせてください。




茂原教会国際ミサ説教

2017年7月23日、年間第16主日

[聖書朗読箇所]

今日は、年間第16主日でして、福音は、先週に引き続き、天の国(神の国)のたとえ話であり、今日はいわゆる『毒麦のたとえ話』です。
わたしたちの住んでいる、この世界は、神がお造りになった世界であり、創世記で言われていますように、極めて良い世界で在る筈です。
しかし、わたしたちが毎日体験しておりますように、さまざまな問題が存在し、《悪》というものが存在していることを、わたしたちは否定することができない。この世界には《悪》がある。
わたしたちの教会にもいろいろな問題があり、時としてわたしたちは大いに悩み、苦しんでいることも否めません。どうして、この世界に、《悪》という、あってはならないものが存在するのだろうか。多くの人が、この問題に、頭を悩ませてきました。

今日の福音を読んでいきますと、主人に向かってしもべが言います。
「毒麦を引き抜いて集めましょうか」。
《毒麦》と訳されていますが、調べてみましたら、麦の成長を妨げる「雑草」のことであるそうです。「雑草」だけを引き抜いて、問題のない、理想的な社会にしたいと思った人がいて、これまで長い歴史の中で、いろいろな試みがなされてきました。しかし、結果は、われわれが知っているとおりであり、完全に理想的な、平和で平等な社会というものは、なかなか実現しないように思います。

このしもべの提案に対して、主人がどのように言ったかというと、
「いまはそのようにしない。毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」
悪い麦だけを引き抜くということができれば良いのですが、悪い麦を抜こうとすると、良い麦も一緒に抜くことになってしまう。
本当に、この言葉は、わたくしどもには、実感をもって迫ってきます。何か良くないことを見て、そのことだけを取り除こうとすると、一緒に他のものもだめになってしまうからです。
教会でいろいろなことがありますが、そのようなことを根絶するためには、何も人間がしないようにすれば良いのかもしれません。しかし、何もしないということは、良いこともしないことになる訳です。

悪いことが一切起こらないようにするためには、人間が何もできないようにするということが、一番簡単な解決方法ですが、そうすると、その人はそれで終わりです。世界についても、教会についても、同じことが言えます。

それよりも、われわれは自分自身のことを振り返ってみると、自分の中には、良いものも、悪いものもあることが分かります。もちろん、悪いものは取り除かなければならないが、悪いところだけ取り除こうとすると、自分自身が、そこで、大きな傷を受けることになりはしないでしょうか。
そこで、欠点の除去に努力を集中するより、既に与えられている良い点を育てるよう努力して、その結果として悪い点を克服するようにした方が良いのではないか、というように考えることができます。

教会の中に、いつも存在するさまざまな問題を、わたしたちは知っています。そして、それがなくなることを望んでいす。しかし、そのことだけを見て、それだけを取り除こうとすると、もっと大きな悪い結果が生ずることになるのではないかと、今日の福音は言っているのではないでしょうか。
忍耐し、希望をもって、神様が、この世界を完成してくださる日を待ち望みましょう。そのように、わたしたちは思います。

(以下に英語の説教が続く。Homily for 16th Sunday in ordinary time)
Dear brothers and sisters in the Lord Jesus Christ,

Today we celebrate the 16th Sunday of the Year.
The Gospel of today speaks of the parable of wheat and weeds.
The kingdom of heaven is compared to a man who sowed seed in his field. What he sowed was good wheat seed, but someone sowed seeds of weeds called darnel, among the wheat. When the wheat sprouted and ripened, the weeds appeared. The servant thought that they should eliminate the darnel, but the man said: No, because when you weed out the darnel, you might pull up the wheat with it.

Dear friends, the field where wheat and darnel are growing at the same time represents our church and also our world where good and evil are co-existing. Our humanity is like the field and there co-exists various good and evil among us which we cannot separate. Our minds are exactly like this field. In our mind there appear good thoughts and evil thoughts. In the mind of the some person there exists good and evil.
Our God is very merciful, patient and tolerant. He waits and waits until we know our own evil mind and repent our sins. Merciful God waits until we want to be real children of God, accepting the grace and love of God which has already been given us through the redemption of our Lord Jesus Christ and the sending of the Holy Spirit.

聖書朗読箇所

第一朗読 知恵12・13,16-19
第二朗読 ローマ8・26-27
福音朗読 マタイ13・23-43

(福音本文)
〔そのとき、〕イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
《イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「わたしは口を開いてたとえを用い、
天地創造の時から隠されていたことを告げる。」
それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」》

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高円寺教会堅信式説教

2017年7月16日、年間第15主日、高円寺教会

[聖書朗読箇所]

今日はこれから堅信式が行われます。堅信の秘跡は、洗礼を受けて神の子となった人々に、生涯にわたってイエス・キリストの弟子として歩み続けるための恵みを授ける秘跡であります。

さて、今日の聖書朗読、福音朗読から、わたくしが感じておりますことを申し上げて、堅信を受けられる皆さん、そして、ミサに参加しておられます皆様の参考に、励ましにしたいと考えております。
わたくしは、ミサのときに読まれる聖書の教えと日々のわたくしどもの生活、そして社会の状況とのつながりというか、関わりはなんであるかということをいつも考えております。
先日目にした非常に興味深い新聞の記事がありました。それは、指導者、リーダーというものはどういう人であるべきか、ということについて、江戸時代の専門家の田中優子さんが述べている記事であります。
田中さんは江戸幕府を創設したのは徳川家康という人について述べています。この人についての評価は、最近高まりつつあるのでしょうか、印象としては、従来はあまり人気がなかったですが最近再評価されているのかもしれません。
この人が心がけたことは、「急がない」ということと「待つ」ということだそうです。「待つ」と「急がない」と同じことでしょうが、指導者というのは、理想、目標を掲げて、その目標に向かって人々と共に歩む人だそうです。目標がないといけない。そして、強制したり脅したり、力づくで人を動かすのではなくて、人々が理解してくれるように、納得してくれるように、忍耐強く待つ人だそうです。

さて、人間の指導者がそうであれば、全知全能の神様はまして、忍耐強くあわれみ深い方であるに違いない。わたしたちの神は忍耐強く、あわれみ深く、怒るに遅い、いつくしみの神であります。

今日の福音のたとえ話は、イエスご自身がこのたとえの意味を解き明かしております。神の言葉、御言葉は全ての人に届けられます。神の言葉を聞く人の心の状態は様々です。ある人は道端のような状態、ある人は石地のような状態、ある人は茨に覆われた状態、ある人は良い土地になっている。わたしたちはそれぞれどの状態でしょうか。茨に覆われた土地というのは、様々な思い煩いあるいは誘惑で心が囚われている人であります。そういう人のところに神の言葉が蒔かれても、それを受け取り、そして実らせる準備がまだできていない。良い土地に蒔かれますと、実りがあります。30倍、60倍、100倍の実りがもたらされる、とイエスは述べております。

今日の第一朗読はイザヤの預言。このイザヤの御言葉はわたしたちに希望を与えてくれます。
わたしの口から出るわたしの言葉も
むなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ
わたしが与えた使命を必ず果たす。

この御言葉、神はお望みになることを成し遂げ、そして、人々に与えた使命を必ず実現させる、と力強く宣言しております。

堅信を受けられる皆さんは、この神の呼びかけを受けて、そして、神様の計画の実現の一端を担うものとなるのであります。皆さんの状態、神の呼びかけを受ける状態は、豊かな実りをもたらすのにふさわしい状態になっているでしょうか。
大体、100%オーケーという人はいないですね。100%まるで準備ができていないという人もいない。何パーセントかというのは分からないのですけれども、全ての人に、神の呼びかけを聞き、悟り、そしてそれを行う可能性があります。神様は、ご自分の呼びかけを聞き取りそして実行する日が来ることを信じ、そのために恵みを与え、そして、いつまでもいつまでも待っていてくださる、そういう方ではないかと思います。

教会の使命、それは、福音宣教、福音化ということでございます。わたしたちは精一杯この使命に取り組んでおりますが、なかなか実を結ばないような気がしている。
いや、人々には見えないけれども、もう実を結んでいるのかもしれません。その時が来れば誰にでもはっきり分かるような神の国の到来のしるしが現れるのではないかと思います。

わたしたちの神は忍耐強く、いつくしみ深い。その神様のみ心を完全に実現し実行された方が、わたしたちの主イエス・キリストであります。

今日皆さんの心に蒔かれる福音の御言葉は必ず力を発揮し、そしてこの日本の社会において豊かな実を結ぶことになる。この信仰と希望をもって、堅信式を行い、堅信式を受けていただき、堅信を受けた皆さんは、堅信のときの決意を新たにしていただきたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ55・10-11
第二朗読 ローマ8・18-23
福音朗読 マタイ13・1-23

(福音本文)
その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。
「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」
弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。
『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、

見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、
心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』
しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。
だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

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茂原教会ミサ説教

2017年7月9日、年間第14主日

[聖書朗読箇所]

イエスは言われました。
「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11・28)
イエスの弟子である、わたしたちも、同じように、疲れている者、悩んでいる者、困っている者に向かって、「どうぞいらしてください。わたしたちが助けになりましょう」と言いたいところですが、これが、なかなか難しい。

わたくしは、カテドラルから本郷の教会まで小一時間、歩いて行くことがあります。途中、カトリックでない教会があります。その教会の看板に、この言葉が書いてある。
「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。」
本郷のカトリック教会にたどり着いてみると、看板に同じことが書いてある。

いろいろな方がおられて、相談に見えますが、何とかして差し上げたいけれども、できないこともある。できないことの方が、多いかもしれない。
安請け合いをして、「何でもしてあげるよ」というわけにはいきません。
わたしたちは、イエスではない。イエスの弟子です。弟子というのは、先生のようになる修行をしている者です。
でも、先生にはたどり着けない。たどり着けないが、ほんの少しでも、見習いましょうというのが、弟子だと思います。

イエスは更に言われました。
「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。」(マタイ11・29)
これは、イエスがおっしゃったので、わたしたちは「なるほど」と思うかもしれませんが、わたしには、とても、自分がそうだ、柔和、謙遜な者だ、とは言うことができない。
でも、イエスはそのように言ったと、聖書が伝えています。

「柔和、謙遜」というのは、どのような人なのだろうか。山上の垂訓でも、イエスは「柔和な人は幸い」(マタイ5・5)とおっしゃいました。

「柔和」というのは、穏やかで優しいことでしょう。
他方、柔和すぎて、いろいろなことを責任持って引き受けたり、決めたりできないという人がいる。誰かが何を言っても、「はい、そうですね」と答える。これは駄目です。
駄目なことは駄目と、言わなければならない。決めるべきことは、決めなければならない。いけないことは、いけないと言わなければならない。
ですから、「柔和」ということは、優柔不断、責任逃れ、誰にでも適当なことを言うということではない。「柔和」ということは、自分の欲望や自分の気持ちを、いつでも正しく制御することができる人でしょう。思い通りにならなくとも怒ったり、いらついたりしない人だと思います。

それでは、イエスは怒ったことがないかというと、福音書を読むと、そうでもない。
ファリサイ派の人や律法学者には、激しい言葉で非難している。ですから、イエスという人は、ただ優しいだけの人ではなかった。はっきりと、いけないことはいけないと言ったために、十字架につけられるようになりました。

わたしたちは普通、自分のことで、自分の思い通りにならないから、文句を言う。自分が正当に評価されないから、不快に思ったり、怒りを感じたりする。自分が辱められたとか、認められなかったからといって、怒ってしまう。このような人は、柔和な人ではない。
他方、弱い人が苦しめられているとか、社会に不正があるというときに、それではいけないのだと、そのようなことは許されないのだと叫ぶことがあります。この場合の怒りは、当然の怒りであり、「柔和」とは矛盾しないと思います。

気が弱い人はあまり大きな声で怒ることはしていないと思いますが、心中、不快に思うことはしょっちゅうあります。不快と怒りは、あまり違いありません。口に出しては言わないが、心の中では思っています。なかには、心で思ったことを、すぐに言動で示してしまう人がいます。

自分の言うとおりにしないから、怒って大きな声を出すというのは良くないが、その人のために、「こうしなさい。これはいけない」と丁寧に親切に諭すことは、そうしないといけないのだと思います。

誰にとってもつらいことの中に、「相手に注意を与えると」いう仕事があります。相手がしていることに「問題ない」ということは簡単ですが、「あなたがこのようにしているけれども、それはやめなさい」とか、「こうした方が良い」と言わなくてはならない場合がある。それは、あまり楽しいことではない。
相手が不快に思うことでも、言わなければなりません。言わないと、どんどんその人は悪くなる。
特に、そのような立場にある人、親は子どもに対して、そのようにしなければならない。子どものときにしつけないと、大きくなってからは手遅れということになる。
教師、医師、司祭、司教などは、もっとそうしなければならない。

一番つらい仕事は、人に注意することです。注意するのなら、早めに、きちんとすれば良いのですが、一日延ばしにして、最後にまとめてするというのは、あまり良くないのかもしれません。

イエスは、柔和で謙遜な者で、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負いなさい」と言われました。軛は、御者が牛や馬の首に着けて、仕事をさせるために使う道具です。
大工であったイエスは軛作りの名人だった、という伝説あります。イエスの作った軛はその馬や牛の体にぴったりと合ったそうです。合わなければ痛いのですが、合えば喜んで仕事ができるようになる、ということです。

わたしたちが人に軛を与えるときは、その人が嫌がって苦しむようなものを与えてしまうかもしれないが、イエスがわたしたちに与えてくださる軛は、その人にぴったりと合っている。その人に合った軛が、どのようなものなのか、その人のことを愛し、その人のことをよく分かった上で、「こうした方が良い。こうしなさい」ということになるのだろうと思います。

さて、わたしたちの教会は、罪人の集まりであり、物が、まだよく分かっていない者の集まりで、お互いに不完全ですが、イエスが、わたしたちに聖霊を送り、そして、聖霊の助けをもって、わたしたちが軛を負って、歩むことができるように、助けてくださっていると思います。
今日の第一朗読は、ゼカリヤの預言で、ロバに乗ってくる王の話です。柔和、謙遜な僕を伝えています。
わたしたちも、難しいですが、柔和で謙遜な者として、お互いに助け合い、仕え合うことができますように、お祈りいたしましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読 ゼカリヤ9:9-10
第二朗読 ローマ8:9、11-13
福音朗読 マタイによる福音書 11:25-30

(福音本文)
〔そのとき、イエスはこう言われた。〕「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。
そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

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赤羽教会堅信式説教

2017年7月2日、年間13主日、赤羽教会

[聖書朗読箇所]

赤羽教会のみなさん、今日、年間第13主日を迎え、この説教の後で、堅信式が行われますが、いま読まれました、マタイによる福音の言葉を聞いて、ご一緒に味わいたいと思います。

さて、イエズス様のお言葉は、非常に厳しいものであり、受け取りにくい、分かりにくいと感じるかもしれません。
また、わたくしが申し上げることが正解だから、そのように思いなさいと言うつもりはありません。
ただ、わたくしが、どのように感じているかということを申し上げて、みなさんの参考にしていただきたいと思います。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10・37)。
「父や母を敬いなさい。大切にしなさい」という掟は、聖書の大切な教えであり、わたしたち、キリスト教徒ばかりでなく、どのような宗教でも、あるいは、どのような国においても、大切なこととされています。
しかし、父母を敬うということと、イエス・キリストに従うということと、一緒に考えると、どのようなことになるでしょうか。

イエス・キリストに従うために、父や母への、昔の言葉で言えば、『親孝行』をやめなければならないのか。お父さんやお母さんに従うと、イエス・キリストに従うことにならないのか。両方は一致するのか、しないのか。そのようなことを、ふと考えます。

わたくしも、若いときに、この問題を持ちました。親の言うとおりにすることと、司祭の道に入ることは、一致しません。おそらく、ほとんどすべての司祭、あるいは、修道者は、召命を受けたと思ったときに、このような悩みを持ったかもしれない。
わたくしは、たとえ、父母の賛成や理解が得られなくとも、イエズス様が呼んでいるのだから、そちらに行くと決めまして、そのようにしましたが、後に振り返ってみますと、わたしが、司祭への道を歩んだために、両親、家族が、どのような思いを持ったか。あるいは、どのような苦労をすることになったのかということが、だんだん分かってきました。

そのときは、あまり考えなかった。そして、イエズス様が呼んでいるのだから、イエズス様に従う。そのように思ったわけです。
しかし、そのときの自分の心を振り返ってみると、そちらのほうが、自分にとっては魅力のある人生でした。いろいろと勉強もできるし、地上のいろいろと面倒なことはしないでも済むからです。
しかし、本当に、神様のみ心に従って、歩もうと思ったかどうか、もう遅いのですが、自分の隠れていた思い、自分がこのようにしたい、あのようにしたいという思いが心の中にあって、でも、それはあまり表には出さないで、イエズス様が呼んでいるからということにした部分がなかったのか。それは、神様にしか分かりません。

いまになってみると、いろいろな人生の苦労を背負って、生きていくということは、大変なことです。みなさま、日々それを体験していらっしゃると思います。
好きな勉強ができるとか、お祈りができるということだけが、大きな動機であったとしたら、それは、自分勝手な決断であったことになります。
「わたしに従う人は、自分の十字架を担ってついて来なさい」とおっしゃいました。
楽しいから、好きだから、そちらの方へ行くということだけでは、不十分な動機になります。

わたしたちは、神様のみ心に従って生きる。そのためには、苦しみというものをお献げしないといけない。神のみ心を求めて誠実に生きる人は、必ず自分の十字架を担うことになります。その十字架を、喜んでお献げしなければならない。いつも、文句不平を言っているようでは、イエスの弟子となったことにはならない。そのように、最近、強く思っております。

洗礼を受けるときに、洗礼は何であるかということを、学ばれたと思います。洗礼を受けるということは、本来は、水の中に沈められるという式でした。全身が、水の中に浸されて、それから引き上げられるという式でした。だんだん象徴的な式、額に水を掛ける式に変わってきた。「父と子と聖霊の名によって、あなたに洗礼を授けます」という言葉と、水を掛けるという行為で成り立つようになりましたが、もともとは、全身を水の中に浸してもらうということでした。
それは、『死ぬ』ということを意味していました。『わたしは死にます。罪に死にます。この世の欲望に対して死にます。古い人にさよならを言って、新しい人になります』という意味です。
しかし、新しい人になるということは大変なことで、日々苦しみを担うことになります。

さて、堅信を受けられるみなさんは、更に、イエス・キリストを宣べ伝えるという使命を受けることになるので、まず、自分の信仰を自分の言葉で言い表してください。
「それは神父様に聞いてください」というのでは、だめです。自分で言わなければならない。『誰を信じていますか。その人は、どのような人ですか。自分にとって、その人は誰ですか。』ということを、言わなければならない。もちろん、そのような場面が来たときに、ということです。

それから、わたしたちの信じている救い主、イエス・キリストの教えを守って、実行しなければなりません。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも愛し合いなさい」。
自分に挨拶をしてくれる人に挨拶をしたところで、それが何になりましょう。それは、誰でもしています。自分に挨拶をしない人に挨拶をしなさい。自分を憎む人を、自分の敵を大切にしなさい。そのような教えを、わたしたちは聞いています。それを実行することは易しくない。
ですから、神様は、イエス・キリストを通して、聖霊を注ぎ、そして、神様の愛を人々に表し、伝えることができるようにしてくださいます。
堅信式、それは、聖霊の賜物を授かる秘跡です。どうか、今日のこの喜びを生涯思い起こし、大切にしていただきたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 列王記 下 4:8-11、14-16a
第二朗読 ローマの信徒への手紙 6:3-4、8-11
福音朗読 マタイによる福音書 10:37-42

(福音本文)
〔そのとき、イエスは使徒たちに言われた。〕「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。
あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。
はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

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聖職者の集い・聖ペトロ聖パウロのミサ説教

2017年6月26日、東京カテドラル

[聖書朗読箇所]

6月の最後の月曜日、東京教区は聖職者の日とし、そして、司祭の叙階25年、50年、更に60年のお祝いをし、聖ペトロ・聖パウロのごミサをお献げいたします。

「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」。
有名な言葉です。わたしたちの教会は、ペトロという岩の上に建てられました。
このペトロ、ひとりの人間としての弱さを担い、ご承知のように、主イエスを三度も否んだ人でした。しかし最後は、立派な殉教の死を遂げました。

もうひとりの人、パウロは、ご承知のように、キリスト者を迫害しておりましたが、復活したイエスに出会い、熱烈な異邦人の人となり、殉教いたしました。
今日の第二朗読は、パウロが殉教を前にして、自分の心境を語っている箇所であるとされています。
「わたしのうちに生きているのは、もはや、自分ではなく、キリストである」と、パウロは断言するまでに至ったのでした。

このふたりの人の信仰を、わたしたちは受け継ぎ、同じ信仰をすべての人に宣べ伝え、証しするという使命を受けております。

さて、わたくしども、東京教区は、数々の課題を持ちながら、主イエス・キリストから使徒たちに授けられた教会の建設という務めを、困難のうちにも、一生懸命務めているところです。
東京教区において、わたしたち司祭は、何度も相談し、「信仰を宣べ伝え、証しするという使命は、司祭、奉献生活者だけでなく、信徒も含めたすべての信者の務めである」という共通理解を得た上で、今度は、「すべての人が、福音宣教という使命を実行することができるように、司祭は環境を整え、教え、励ますようにしよう」と話し合おうとしているところです。

10月の下旬には、司祭集会を予定しておりますが、その中で、更に話を煮詰めていき、そして、来春復活祭の後すぐに、『入門講座・信仰講座担当者養成講座』(仮称)を開始したいと考えております。
その際、難しい言葉を使わなくとも、自分の言葉で、自分が信じたことを、その時、その場所で、人々に現し、伝えることができるよう、お互いに励まし合い、そうできるよう、「実習の機会を設けようではないか」ということも話し合っています。

ところで、福音宣教ということは、言葉で福音を宣べ伝えるということだけではなく、わたしたちの生活、わたしたちの仕事、わたしたちの存在を通して、イエス・キリストの生き方を人々に表し、伝えることでもあります。

いま、日本の社会で、どのようなことが、一番問題であり、どのような問題を、わたしたちは緊急で重要な問題として、取り組まなければならないのでしょうか。
わたくしは、そのひとつが〈いのち〉という課題であり、もうひとつは、〈平和〉という課題ではないかと思います。
どのような宗教を信じる人にとっても、あるいは、宗教を信じない人にとっても、〈いのち〉の尊さ、そして、〈平和〉の大切さは同じではないかと思うからです。

〈いのち〉ということについて考えてみますと、日本では自殺をする人(自死者)が非常に多く、かつて、14年間にわたって、自死者が3万人を超えていました。
たしか、1998年から14年間、その後、政府をはじめ、色々なかたの努力もあり、自死者の数は減ってまいりました。
しかし、若者については、あまり改善されていないとのことです。15歳から34歳までの人たちの、自殺する人の人数が、非常に多いと言われております。この年齢の人たちの死因の第一位は、病気ではなく、自殺であるということです。この背景には、「いまの社会の生きづらさ」ということがあるでしょう。
更に、自分の存在を評価できない、自己肯定感の低さということがあると指摘されています。
「頑張りなさい」と言われて頑張っても、上手くいかない。頑張った末に、疲れ切ってしまう。その人たちに、更に「頑張りなさい」と言うことは、何の効果もないと言われています。
それよりも、「あなたは非常に大切な人なのだ」ということを実感できるような、そのような状況、環境が、必要ではないでしょうか。

わたしたちの宗教は、「神様が、わたしたちひとりひとりを造り、ひとりひとりを掛け替えのない存在として、大切に思っていてくださる」ということを信じる宗教です。
「あなたの髪の毛1本も、神様は知っているよ。あなたは他に替えることのできない、掛け替えのない大切な存在なのだよ」というメッセージを、わたしたちは受け取っているのです。
苦しんでいる人、落ち込んでいる人に、「がんばれ」、「このようにした方が良い、あのようにした方が良い」ということは、むしろ言わない方が良いようでして、まず先に、あなたの存在は、わたしたちにとって大切であるということを表し、伝えることが大切であると思います。

まして、わたしたちは、神を信じる者でありますので、「わたしたちの神は、あなたのことをよく知っているよ。大切に思っているよ」、そのようなメッセージを表し、伝えなければならないのではないかと思います。

それは、もちろん、まず司祭、奉献生活者の務めですが、信徒も含めた信者全員で、「毎日出会う、いろいろなかたがたに、そのようなメッセージを現し、伝える。決して、押し付けたり、指示したり、非難したりしないで、その人の存在を大切に思う」というわたしたちの働きを行うべきであり、そのことを行うことが、最も大切な、教会の福音宣教ではないかと思うのです。

使徒ペトロ、使徒パウロの殉教を記念する今日、ふたりの信仰の証しを引き継ぎながら、いまの日本で、わたしたちが行うべきことは何であるかということを、今日、深く心に刻み、分かち合いたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 使徒言行録12・1-11
第二朗読 二テモテ4・6-8、17-18
福音朗読 マタイ16・13-19

(福音本文)
イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

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麹町教会堅信式説教

2017年6月25日、年間第12主日

[聖書朗読箇所]

今日は、160名以上のかたが、堅信の秘跡をお受けになります。

堅信の秘跡は、洗礼を受けて、キリストの弟子となった人々に、聖霊の力が注がれて、信仰を証しし、イエス・キリストを宣べ伝えることができるようにする秘跡です。
すべての信者は、イエス・キリストを宣べ伝え、証しするという尊い使命を授かっております。
もちろん、司祭、奉献生活者は、特別な養成を受け、特にイエス・キリストを証しするという務めを受けておりますが、すべての信者、すべての信徒は、福音宣教者になるという使命を受けています。
イエス・キリストを信じる者は、自分の言葉で、自分の信仰を人々に表し、伝えなければなりません。難しい、特別な言葉でなくとも、自分がイエス・キリストを信じている、その信仰を、自分の言葉で、自分の置かれている場所で、宣言するようにいたしましょう。
それには、勇気がいります。

今日のイエス様のお言葉は、何度も繰り返し、「恐れてはならない」と言っております。有名な預言者エレミヤも、神様から授かった使命の遂行には、大変苦しみを受けましたが、神はエレミヤを、いつも励ましました。

いま、日本の社会で、イエス・キリストを宣べ伝え、証しするということは、どのようにすることでしょうか。不安、恐れがないとは言えないと思います。
しかし、主イエスは言われました。「聖霊を送ります。聖霊の力によって、あなたがたはわたしを宣べ伝え、証しすることができるようになります」。

さて、いまの日本の社会で、どのようなことが大きな問題となっているでしょうか。
いろいろなことがあると思いますが、わたくしが1つ、特に心を痛めていることをお伝えしたいと思います。
それは、日本において、青少年のみなさん、15歳くらいから34歳くらいという数字が出ていますが、このかたがたの自殺が非常に多い。かつて、1998年からでしょうか、14年間に渡って、日本では自殺者、わたしたちは自死者と呼びたいのですが、3万人という数字を伝えていました。

わたくしが、ケルン教区にまいりましたときに、日本の社会のことをお話しなければならなくて、日本は、いま、毎年3万人の人が自殺しているということを言いましたら、数字が1桁違うのではないかという質問がありました。
確認された数が3万人ですから、はっきり分からない人や、未遂者を入れれば、大変な数になります。

政府を初めとする多くの方の努力で、自殺者は減少しました。しかし、若い人の自殺は、それほど減っていない。そして、7ヶ国でしたでしょうか、先進諸国の中で、日本が一番若い人の自殺率が多いです。それには、いろいろな原因、理由がありましょう。病気ということもあるかもしれません。
その中で、1つ、わたくしが大変気にしますことは、自己評価、あるいは、自己肯定感が非常に低い。自分が存在していることの意味が、よく分からない。自分がここにいることに、どのような意味があるのだろうか、明日何か良いことがあるのだろうか、何のために生きなければならないのかが、分からない。他の人とのつながりも、よく見えない。
孤独、自己存在肯定感の欠如、弱さ、そのようなことが、日本の青少年を襲っているという報告がございます。

「あなたがそこにいることは素晴らしいことなのだ、神様は、あなたのことをよく知っていますよ。あなたはすずめなどよりも、余程価値がある存在ですよ。髪の毛1本1本、みな神様ご存知ですよ。あなたのことを神様は毎日見守り、励ましているのですよ。」
そのような信仰を、わたしたちは是非、人々に伝えたい。

堅信を受けられるみなさん、恐らく皆さんの周りには、自分の存在を喜べない、そのようなかたがおられるのではないでしょうか。
そのようなかたがたに寄り添い、そのようなかたがたの心の声に耳を傾け、そして、慰めと励ましを伝え、与えることができますように、聖霊の導きを願いましょう。

わたしたちは、自分の存在が大切であるということは、両親をはじめ、家族から受け継ぎますが、それだけでは足りないように思います。

人間を超えた、偉大な存在、素晴らしい存在、自分がどのようになっても、あなたは大切だと言ってくれる存在、どのような欠点があっても、どんなに失敗しても、あなたがそこにいることは素晴らしいことだ、あなたの生涯には意味があるのだということを言ってくれる存在も必要なのです。
それは、わたしたちが信じる神様であり、その神様をわたしたちに示してくださったかた、それは、主イエス・キリストです。

神は、わたしたちの罪や欠点を、すべて承知の上で、わたしたちを愛し、そして、わたしたちのために、イエス・キリストを遣わしてくださったのです。

今日、その信仰を改めて強くしていただき、そして、みなさんも、ひとりひとり、福音宣教する者となり、そして、この日本の社会で、力強く、イエス・キリストを表し、証しするようにいたしましょう。

そのための聖霊の力を信じ、そして、ご一緒に祈り求めるようにいたしましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読 エレミヤの預言 (エレミヤ20・10-13)
第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙(5・12-15)
福音朗読 マタイによる福音(マタイ10・26-33)

(福音本文)
〔そのとき、イエスは使徒たちに言われた。〕「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。
わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。
むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。
だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

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ペトロの家賛助会感謝のミサ説教

2017年6月24日、洗礼者聖ヨハネの誕生、ケルンホール

[聖書朗読箇所]

みなさん、今日は、洗礼者聖ヨハネの誕生の祭日です。
「祭日」という典礼歴の日は、わたしたちカトリック教会では、非常に重要な日とされています。6月は祭日が多い月です。昨日も祭日で、「イエスのみ心」の祭日でした。
今日は洗礼者ヨハネの誕生から、イエスのみ心までのつながりというものは、何だろうかと考えてみたいと思います。

イエスの誕生は、12月24日とされていますので、その6ヶ月前が今日。そして、更にその3ヶ月前が、おとめマリアが、天使ガブリエルのお告げを受けて、救い主の母になることを承諾し、「お言葉どおり、この身に成りますように」と返事なさった日となっています。
イエスの誕生とヨハネの誕生は、6ヶ月の間があるということになりますが、その誕生の次第を、ルカ福音書はわたしたちに告げている。どうしてこのことを、かなり詳しく述べているのだろうか。
ルカは、マタイとマルコが伝えていない、独自の話をわたしたちに伝えてくださっておりまして、ルカは、イエスの誕生の次第、ヨハネの誕生について述べています。
ヨハネの父親はザカリヤという祭司でして、神殿で神に奉仕する仕事をしていました。ザカリヤに天使ガブリエルが現れたのですが、ザカリヤは天使の言うことを信じなかったので、「事が成就するまで、あなたは口が利けなくなる」と言われて、その通りになった、と出ています。
ルカの福音を読んで、ザカリヤがはっきりと「そのようなことは信じません」と答えたようには読むことができませんが、「わたしは年寄ですし、妻も年をとっていますし、それをどのようにして知ることができるのでしょうか」と答えました。ルカの福音を読んで、ザカリヤがはっきりと「そのようなことは信じません」と答えたようには読むことができませんが、それでも、「わたしは年寄ですし、妻も年をとっていますし、それをどのようにして知ることができるのでしょうか」と神の業に対して前向きではない姿が浮かび上がる答えであったことは事実でしょう。
《信じないから、すぐに口が利けなくなる》と、天使に言われたその辺りの展開が、よく分かりませんが、「口が利けなくなった」ということです。
そして、ザカリヤに子どもが生まれ、ヨハネという名前を付けた。ヨハネという名前は、『主は恵み深い』という意味で、《恵み深い神の賜物》という意味でしょうか。
子どもが誕生し、名前を付けたところで、口がほどけて、神を賛美する賛歌を献げた。それが、『ザカリヤの賛歌』でして、わたくしどもカトリック教会が、毎日朝の務めである祈りの中で、必ず唱える福音の歌、『ザカリヤの賛歌』となっています。「神をほめたたえよ、イスラエルの神を」という言葉で始まります。

おとめマリアのほうは、天使のお告げを受けた後、すぐに旅立ちました。わたしたちは、5月31日に、聖母の訪問の祝日を祝いましたが、その時のルカに福音によれば、マリアはすぐに旅立ちました。エリサベトとザカリヤの家に行った。100キロメートル以上ある、大変な距離ですが、どのようにして移動したのかと思いますが、とにかく行きました。
そして、ヨハネが生まれてから帰ったのでしょうか、エリサベトの家に3ヶ月滞在したのでした。
マリアがエリサベトに会ったときに、やはり神を賛美する賛歌を献げました。教会の祈りの晩の祈りでわたしたちが唱える『マリアの歌』、昔から《マグニフィカート》と言われる賛歌です。「わたしは神をあがめ わたしの心は神の救いに喜びおどる」。このような言葉で始まる、有名な賛歌です。

そこで、今更、気付くことですが、わたしたちが毎日献げる教会の祈り、その中で朝の祈り、晩の祈り、大変重要なお祈りで、朝の祈りのときは、ヨハネの誕生に関係のある『ザカリヤの賛歌』、晩の祈りは、マリアが天使のお告げを受けたときの賛歌、『マグニフィカート』、これを唱えているということです。

洗礼者ヨハネとイエスの関係は、待降節になると、改めて考える機会がありますが、洗礼者ヨハネは、イエスの到来を準備する、先駆者という役割です。
イエスはヨルダン川で、ヨハネから洗礼を受けてから荒れ野に引きこもり、その後「神の国の福音」を宣べ始められた、という展開になります。

ところでその後のイエスの言動ですが、非常に興味深い記述が、マタイの福音などに出ています。
ヨハネのほうは、生涯、絶対に酒を飲まない「ナジル人」であったようです。旧約聖書では、「ナジル人」という、神に特別に献げられた人のことが出てきますが、ぶどうで作った液体は絶対に飲まない人とされている。そして、非常に禁欲的な生活をした。そのスタイルが凄いです。『らくだの毛皮、革の帯』。どのような恰好なのでしょうか。まさに、旧約聖書のエリヤの風貌、食べ物は『いなごと野蜜』と出ています。
それに対して、イエスのほうは悪口を言われた。「大食漢で大酒飲み。徴税人や罪人の仲間だ」。イエスは、ときには、たっぷりごちそうも食べ、ぶどう酒も召し上がっていたらしい。
そして、そのイエスが、ヨハネについて言いました。「女性から生まれた者の中で、ヨハネより偉大な者はいない」。
物凄く褒めたわけですが、それに付け加えて、しかし、不思議な言葉が告げられた。「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」。この言葉の意味がよく分かりません。
一番偉いと言いながら、しかし、『天の国では一番小さい者も、ヨハネよりは偉い』という意味のようです。
イエスが登場し、ヨハネから洗礼を受けた後、「神の国は来た」という福音を宣べ伝えました。
この時を期して、イエスは、洗礼者ヨハネの厳しい悔い改めのメッセージの段階を超えて、わたしたちの教会の誕生につながる、新しい恵みのときの到来を、わたしたちにもたらしたのだろうか、と思います。

今日は、洗礼者ヨハネの誕生、そして、昨日はイエスのみ心の日を祝いました。荒れ野で叫ぶ声であるヨハネ、あのような生き方は、わたしたちにはとてもできないと思いますが、わたしたち、弱い者、そして、罪人であるわたしたちを、温かく包み、受け入れる神のいつくしみを、主イエス・キリストは、わたしたちに示してくださったのではないかと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ49・1-6
第二朗読 使徒言行録13・22-26
福音朗読 ルカ1・57-66,80

(福音本文)
さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。
ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。
すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。
幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

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ベタニア修道会創立80周年記念・ミサ説教

2017年6月23日、イエスのみ心の祭日、徳田教会

[聖書朗読箇所]

本日、イエスのみ心の祭日は、ベタニア修道女会の創立80周年の日であります。
イエスのみ心は神の愛、イエスにおいて現われた神の愛を表しています。イエスはまことの人間として、人間の心を持って人を愛しました。イエスのみ心は、イエスの人間としての愛を示しています。
1675年、フランスのマリア訪問会の修道女マルグリッド・マリー・アラコックにイエスが出現し、ご自分の心臓を示しながら、人々の忘恩を嘆いていわれました。
「聖体の秘跡において受けたすべての辱めを償うために、聖体の祭日の次の金曜日に祝日を設け、償いのために聖体拝領をしてほしい。」
イエスのみ心への信心は聖人たちの働きによって多くの人々へ広がり、「聖心」の名を用いた修道会や信心会が多数創立されたのでした。

今日の第一朗読、申命記でモーセは言っています。
「(神は)ご自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。」(申命記7・9-10)
そうは言っても、イスラエルの民は、なかなか神の戒めと定めを守ることができませんでした。そこで、神は、同時に自らを、この弱く脆く間違いを犯す人間を赦し受け入れる神として自らを表します。この神の愛は、いわば傷つき迷うわが子を受け入れ癒す母の愛であると、言えましょう。
旧約聖書から新約聖書の流れの中で次第に、神の愛は同時に「赦す愛」であることが明らかにされます。「赦す愛」はイエス・キリストの十字架において最高潮に達しました。槍で貫かれたイエスのみ心は人々の罪を担い、罪を赦す神の愛を示しています。

イエスは言われました。「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11・28)
イエスの愛はわたしたちを招く愛です。イエスは「わたしのもとに来なさい」といい、さらに「わたしの軛(くびき)を、負い、わたしに学びなさい。」(マタイ11・29) 
実はわたくしには、このイエスの言葉は、聖マルグリッド・マリー・アラコックに告げられたイエスの嘆きの言葉を想起させるのです。
イエスの愛は罪人を受け入れ包む愛、いわば母の愛ですが、イエスの与える軛(くびき)を負うことを、そしてイエスに学ぶことを求める愛です。
キリスト教の教えを一言で言えば、「神は愛」ですが、神の愛は人の歩む道である戒めを教え導く愛であり、また同時に弱さと過ちの中で迷い苦しむ人間を包み癒し救う、母のような愛でもあります。
今日の第二朗読、ヨハネの手紙で、使徒ヨハネは繰り返し「神は愛である」と宣べ、互いに愛し合うよう求め、語っています。キリスト教が人々へ伝えたい命題は結局「神は愛である」という短い信仰告白にまとめられます。聖書はすべて神の愛を語ります。

さて、キリスト教が日本に伝えられたとき、キリシタンの時代福音宣教者は現在「愛」と訳されているギリシャ語の「アガペー」という言葉をどのような言葉に言い換えるか、を問題にしました。
仏教では、「愛」は、「執着、妄執、欲望」などに結び付く、否定的な意味をもつ言葉であったからです。そこで福音宣教者は「ご大切」という言葉を採用した、と聞いています。
明治時代になって宣教が再開された時、そのような過去は忘れ去られて、「アガペー」は「愛」と訳されて今日に至っています。
現在でも「愛」は不適当である、という意見があります。その理由は、仏教の「愛」とは別な理由によるようです。それは、「愛」とは上から下への愛情、親から子へ、主君から家来へ、男性から女性への愛情・行為・施しを上から目線の愛を意味するとされているからです。
確かに以前はそういう面がありましたが、それは昔のこと、現在では、対等な人間関係の愛情を表す場合に使われています。
「個人の立場や利害にとらわれず、広く身のまわりのものすべての存在価値を認め、最大限に尊重していきたいと願う、人間本来の豊かな心情」という説明があります。(『新明解国語辞典』)この説明は優れてキリスト教的であると言えましょう。

「愛する」を「大切にする」とする方が適切かもしれませんが、もう定着している「愛」の意味を相応しく理解し使用できれば、「愛」でよい、と考えます。
「神は愛です」を「神は大切です」とは言い難いのでどう表現するのか。強いて言えば、「神は、人をはじめ存在するものをすべて大切に思っている」となるのでしょうか。

聖書朗読箇所

第一朗読 申命記7・6-11
第二朗読 一ヨハネ4・7-16
福音朗読 マタイ11・25-30

(福音本文)
〔そのとき、イエスはこう言われた。〕
「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

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京葉宣教協力体合同堅信式説教

2017年6月18日、キリストの聖体の祭日、市川教会

[聖書朗読箇所]

今日は、キリストの聖体の祭日です。
ヨハネの福音の6章が読まれましたが、イエスの言葉は、ユダヤ人には躓きであり、弟子たちにも、受け取りにくい言葉でした。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を受ける」(ヨハネ6.54)
と言われました。

ユダヤ人はびっくりした。「どうして、この人の肉を食べたり、血を飲んだりすることができるのだろう。冗談じゃない」という感じであったかもしれません。
弟子たちも、「一体、何をおっしゃっているのだろう。分からない」と思い、多くの弟子たちは、「もう、付いて行けない」と、イエスから離れて行った。
イエスは、十二人の弟子に向かって聞きました。
「あなたがたも、わたしから去って行くのか」。
「いいえ、わたしたちはあなたに従います。あなたをおいて、だれのところへ行きましょうか」。

ペトロが格好良く答えた。ペトロはそのように言ったが、イエスの言葉の意味、真意を理解していたわけではなかった。でも、この先生に付いて行く。そのような気持ちを、なお強く持ち、その決意を表明しました。

この前の日曜日の福音は、三位一体の主日の福音でして、どのような内容であったかと言いますと、
「神はこの世を愛し、わたしたち人間を愛された。そして、ご自分の命に招いておられる。非常に愛して、掛け替えのない独り子、イエスをお遣わしになった。イエスを信じる者が、みな、永遠の命に至るようにと、お考えになった。」
そのような福音でした。

今日は、その続きです。神様は、すべての人を、ご自分の「いのち」に招く。ご自分の幸せに招きたい。
ただ、その神様のお気持ちを知り、そして、受け入れ、感謝しなければ、人は、神の「いのち」に与ることができない。
受け入れようとしない、信じようとしない限り、神様といえども、人を強制することができない。人の心を、無理に動かすことはなさらない。
それでも、神様は、人が信じてくれるように、あらゆる手立てを尽くされた。そして、ナザレのイエスという人を遣わし、人々に、神の国の福音を説き、更に、イエスがご自分の体を十字架につけられること、十字架の上で、御血を流すことさえ、拒まれませんでした。
弟子たちは、後になって、このイエスの言葉の意味を悟ったのでしょう。

今日、キリストの聖体の日、ご聖体をわたしたちは信じ、ご聖体拝領をいたします。ご聖体は、ミサの中で、司祭によって聖別される。司祭の唱える聖体制定の言葉も、司祭は必ずこの言葉を唱え、みなさまは必ずその言葉を聞き、そして、その後、司祭が「信仰の神秘」と言います。

司祭の唱える言葉は、それは、どのような言葉でしょうか。
「皆、これを取って食べなさい。
これは、あなたがたのために渡される
わたしのからだである。」
《イエスのからだ》、それは、あなたがた、つまり、わたしたちのために、十字架につけられる体です。

「皆、これを受けて飲みなさい。
これは、わたしの血の杯、
あなたがたと多くの人のために流されて
罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である。」

この言葉の中に、わたしたちの信仰の中心が凝縮されています。
イエスが十字架にかかり、そして、血を流されたのは、わたしたちの罪の赦しのためです。
わたしたちは、罪の赦しをいただきます。罪の赦しをいただくわたしたちは、心からの感謝を献げましょう。
ミサは、感謝の祭儀とも言います。ミサというのは、神様の恵み、イエス・キリストのみわざに、心から感謝を献げる。一緒に感謝を献げ、神を賛美する、典礼の儀式です。

神様は、わたしたちをご自分の「いのち」に招く。しかし、わたしたちは、どんなに頑張っても、神様に完全に満足していただけるような、神様のみこころに適うような人間になることができないのではないか。聖書の歴史は、人々が神様の招きに応えきれない、それどころか、神様の招きを拒む人々の歴史でした。

わたくしは、若いとき、キリスト教に出会い、信者になり、そして、司祭になりました。
信者になったときの気持ちを思い出してみると、あのときの方が熱心であった気がします。進歩しているはずだが、そのような実感がない。人には、神様の教え、イエス・キリストの教え、聖書の教えを説いていますが、自分の説いている信仰をどれだけ、実行できているだろうか。本当に恥ずかしい。
そのような自分でも、神様は、赦し、受け入れてくださっている。罪の赦し、そして、わたしたちに永遠の「いのち」を与えてくださる。その信仰で、わたしは、毎日歩んでいるのだ、と思います。

今日、堅信を受けられるみなさん、この世界の中で、キリスト教の信仰を守って生きるということは、決して易しいことではない。
イエス・キリストは、いつも、わたしたちとともにいてくださる。そして、励まし、力付けてくださいます。
それは、聖霊の派遣によります。堅信は、聖霊の賜物を授け、生涯に渡って、イエス・キリストの弟子として、力強く歩むことができるようにしてくださる秘跡です。

今日の堅信式を、生涯思い起こし、大切にしていただきたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 申命記8:2-3、14b-16a
第二朗読 一コリント10:16-17
福音朗読 ヨハネ6・51-58

(福音本文)
〔そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。〕「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。
イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

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吉祥寺教会堅信式説教

2017年6月11日、三位一体の主日、吉祥寺教会

[聖書朗読箇所]

聖霊降臨の次の主日が、今日、三位一体の主日です。
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」。
いま、読まれました、第二朗読の中にある、このパウロの言葉が、わたしたちのミサの開祭のときに、司祭が唱える招きの言葉となっており、わたしたちの、「父と子と聖霊」の神への信仰告白を表しています。

ヨハネ福音の3章、この箇所は、ヨハネの福音の中でも、よく知られている箇所です。イエスとニコデモとの対話の延長の中で、イエス・キリストの教えの中心、真髄となる教えが告げられています。

第一朗読で述べられていますように、父である神、イスラエルの神は、いつくしみ深い神です。
『いつくしみの特別聖年』を、わたしたちは献げましたが、その、神のいつくしみは、御独り子、イエス・キリストの派遣、その生涯によって、完全にあらわされました。

御父は、独り子、主イエスを世にお遣わしになり、そして、わたしたちと同じ人間とされ、御子の十字架の死を耐え忍ばれました。それ故に、主イエスがすべての人のために、救い主となられたのです。
神が独り子をお遣わしになったのは、すべての人が救われるため、すべての人がイエス・キリストを信じて、永遠のいのちに至るためです。
御子、イエス・キリストを信じる者は、永遠のいのちに移され、そして、神のいのち、救いにあずかる者とされます。ここに、わたしたちの信仰告白の中心があると思います。

今日、堅信を受けられるみなさんは、この教会の信仰を人々にのべ伝えるという使命を授かり、そして、そのために必要な恵み、聖霊の賜物をお受けになるのです。

改めて、今日ご一緒に考えてみましょう。
わたしたちは、何を信じているのか。どのように信じているのか。わたしたちの信仰を、自分の言葉と自分の生活であらわし、伝えなければなりません。自分の心で受け止めた、神の言葉。それを、自分の言葉で、人々に分かる言葉であらわし、伝えなければならないと思います。

わたしたちは、信仰講座、入門講座などに出席し、入信の秘跡を受ける準備をして、洗礼を受けました。その際、いろいろな言葉で信仰の説明を受けたと思います。そのわたしたちの受けた信仰を説明する言葉を、更に、自分の心の中で咀嚼し、自分の血肉とし、そして、自分の言葉で、人々に伝えなければならない、と思います。
もし、自分の言葉で自分の信仰を伝えるとしたら、どのように述べたら良いのかということを、今日、堅信を受けられるみなさんは、特に考えていただきたい。

福音宣教ということは、司祭や奉献生活者だけの任務ではなくて、洗礼を受け、堅信を受けた人、全員の務めですので、自分であれば、このような言葉で自分の信仰をあらわし、伝えるということを、考え、用意していただきたい。
信仰をあらわし、伝えるということは、まず言葉により行われますが、行いによって、自分の信仰をあらわすのでなければなりません。

わたしたちの信仰の中心には、「神は愛である。」という信仰告白があります。この信仰はわたしたちの心に注がれている聖霊の働きによります。その、神の愛を信じているわたしたちが、自分の生活の中で、神の愛をあらわし、実行しなければ、神の愛が人々に伝わっていくことは難しいでしょう。

言葉と行いが一致しない人の信仰を、人々は、なかなか認めてくれないのではないかと思います。

日本カトリック司教協議会は『いのちへのまなざし』増補新版、という教えの書を発行しました。これは2001年に出した、日本の司教たちの教えを、大幅に書き改めたものです。
是非、みなさんに読んでいただきたい。

その中に出てくる項目のひとつに、《子どもの貧困》という言葉があります。
豊かな国であると思っていた日本で、いま、子どもたちが、貧困という状態に置かれています。《相対的貧困率》いう言葉が出てきていますが、子どもたちの何割かは、人間の基本的な必要、「食べること」「治療を受けること」などにおいて、非常に足りない状態に置かれている。「教育を受ける機会」も不十分である。そのようなことが、いろいろなデータから説明されている訳です。

更に、もうひとつ、わたくしの心に訴えている事実は、日本の子どもたちは、「自分に価値がある」という思いを持つことが少ない。自分を肯定する気持ちが弱い。「自分は大切な存在だ」、「自分は必要とされている」、「自分は人のために役に立つ人間だ」などという思いを、なかなか持つことができない子どもが増えている、というように報告されています。

神の愛、それは、すべての人に注がれる愛であり、「どのような人も、あなたは大切な存在であり、あなたは必要とされる存在なのですよ」ということをあらわし、伝えています。

日本の教会の宣教ということを、毎日考えておりますが、わたしたちの教えは、もしかしたら、説明が難しいのかもしれません。

しかし、わたしたちが、本当に信じている神の愛を、毎日の生活の中で実行するならば、ひとりひとりの人が、価値のある、かけがえのない存在であるということを、言葉と行いであらわし、伝えていくならば、多くの人は、わたしたちの生き方を認め、そして、わたしたちと一緒に歩んでいただけるようになるのではないでしょうか。
そのように、言葉と行いにおいて、神の愛、イエス・キリストの教えを実行することこそ、日本の福音宣教、福音化の務めであると、わたくしは思い、今日、堅信を受ける方々は、是非、「あなたの福音宣教は、どのようにすることなのか」ということを、具体的に考えていただきたいと思います。
よろしくお願いします。

聖書朗読箇所

第一朗読 出エジプト記 34:4b-6、8-9
第二朗読 二コリントの信徒への手紙 13:11-13
福音朗読 ヨハネによる福音書 3:16-18

(福音本文)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。

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合同堅信式ミサ説教

2017年6月4日、聖霊降臨の祭日

[聖書朗読箇所]

今日、わたしたちは、聖霊降臨の日を迎え、2017年の合同堅信式を行います。

いま、ヨハネの福音の20章による聖霊降臨の次第が読み上げられましたが、堅信の秘跡は、弟子たちが受けた、「聖霊降臨」という素晴らしい出来事を、わたしたちに与え、伝える秘跡です。

聖霊降臨の様子は、使徒言行録、第一朗読で伝えられました。それに対して、ヨハネの福音は、復活と聖霊降臨の出来事を、あたかも、1つにつないでいるかのように語っています。

ここで注意したいことは、弟子たちの変り様です。弟子たちは、恐れ、おののき、不安な状態にありました。ユダヤ人を恐れていた。そして、恐らく、先生、イエスを見捨ててしまった。裏切ってしまったという、後ろめたさ、あるいは、負い目を持っていたからではないでしょうか。

そのイエスが、彼らの隠れ家に現れて、
「あなたがたに平和があるように」と言ってくれた。
「弟子たちは、主を見て喜んだ」とあります。
この喜びの体験が、わたしたちの教会の出発にあります。

わたしたちは、言わば、この弟子たちの喜びの体験を、いまここで追体験して、また派遣されていくのであります。
復活したイエスは、弟子たちに、息を吹きかけて言われた。
「聖霊を受けなさい。」
聖霊、聖なる霊です。霊とは息です。そこで今日のヨハネが言う「聖霊」とは、イエス・キリストの息によって表されています。
わたしたちも聖霊を受け、聖霊によって、罪を赦し、そして、使徒としての働きを行うための力を受けます。
ヨハネの福音は、使徒たちが受けた経験を伝えておりますが、使徒たちの体験を、教会は多くの人に延長させました。
その結果、特定の人だけの体験ではなくて、数え切れない多くの人々、場所と時間を越えて、まったく同じ恵みが与えられるようにと、典礼が執行され、秘跡が与えられるのです。
この後、洗礼の約束の更新をしていただきます。そのとき、司式者がお尋ねする言葉、それは、まず、「悪霊と、そのわざと誘惑を退けますか」ということです。
洗礼を受けたときに、みなさんは、ご自分で、あるいは、代父、代母を通して、「退けます」とお答えになりました。そして、信者としての歩みを続けて来られました。
「誘惑を退ける」という約束をしたわけですが、この世の中には、さまざまな誘惑があります。誘惑というのは、外にある問題だけではなく、わたしたちの心の中にもある問題です。
本当に、誘惑を退けて来たのだろうか。そのようなわたしを、神は赦し、受け入れてくれるだろうか。そのような思いが、わたしたちの胸をかすめるかもしれません。

使徒たちが受けた使命、それは、「罪の赦し、神の愛を伝える」という使命です。同じ使命を、わたしたちも受けています。わたしたちの教会は、「罪の赦し」ということを、非常に大切に教えている。
洗礼によって、すべての罪の赦しを受けました。しかし、それで、罪の問題が終わったわけではなく、わたしたちは何度も、また「罪の赦し」を受けなければならない。
このようなわたしを、本当に神様は愛してくれているのだろうか。
「罪」という言葉も、場合によっては分かりにくい。主の祈りで、「罪をおゆるしください」と祈りますが、「負い目」をおゆるしください、とも翻訳されています。
「負い目」と言った方が、わたしたちの文化の中では分かりやすいかと思います。
もっと分かりやすいのは、「恥」という言葉です。「恥」と「罪」は同じであるとは言えませんが、「恥」という言葉を、わたしたちは、非常に敏感に感じることができるからです。
この罪深い、恥ずかしい、このわたしを、神は、それでも愛し、受け入れ、赦してくださる。
この信仰を持って、日々歩みます。罪を犯す人間であるわたし、そして、罪であるかどうかは別として、弱い、もろい、わたしたちです。そのわたしたちが、イエス・キリストの弟子として、歩むことができるように、聖霊の助けが与えられる。
それが、今日の堅信式です。

今日のミサの奉献文の中では、一つの言葉が付け加えられています。
即ち、「今日、堅信の秘跡を受け、聖霊を注がれた人々が、主イエスの弟子として、歩み続ける恵みをお与えください。」という言葉です。

「『人を愛する』ということは、大変なことです。人間にはできなくとも、神にはできないことはない。
そのおかげで、この至らないわたしが、神様から愛されている者であり、周りの人から大切にされ、赦してもらっている存在であるということを、思い起こしましょう。
そのおかげで、この至らないわたしが、神様から愛されている者であり、周りの人から大切にされ、赦してもらっている存在であるということを、思い起こしましょう。
そのようにしていただいているのだから、わたしたちもそのようにできるはずだし、そのようにしなければならないと思います。

更に、日本の社会で、わたしたちはこのような愛を表し、伝えていかなければならないと思います。
ここに一つの本があります。日本カトリック司教団発行『いのちへのまなざし』(増補新版)。これは、いまの日本の社会、家庭で、「いのち」というものが、どのような問題にぶつかっているのか、そして、どのような課題があるのかということを、分かりやすく、丁寧に語っている、司教全員の合意による教えの文書です。
これを、今日、堅信を受けられるみなさんは、特にお読みになり、ご自分の生活の中で、一つでも良いですから、何かいのちを大切にするために、実行するようにしていただきたいと思います。
ひとりでお読みになるのではなく、ご一緒に読んで話し合うということもできれば、更に良いことです。
よろしくお願いします。

聖書朗読箇所

第一朗読 使徒言行録2・1-11
第二朗読 一コリント12・3b-7,12-13
福音朗読 ヨハネ20・19-23

(福音本文)
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。
弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

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アレルヤ会総会ミサ説教

2017年5月31日、聖母の訪問の祝日(復活節第7水曜日 )
カテドラル地下聖堂

[聖書朗読箇所]

今日、5月最後の日の31日は、聖母の訪問の祝日です。
マリアは天使のお告げを受け、「お言葉通り、この身に成りますように」とお答えしたそのすぐ後、「急いで山里に向かい、ユダの町に行った」とルカの福音が述べています。
今まで何気なくこの個所を読んできましたけれども、ふと、ここで立ち止まると、これはどのようなことなのだろうかと考えてみました。

マリアは、ナザレに住んでいました。ナザレという所から、ユダの町を通って、ザカリアの家に入って、エリザベトに挨拶した、とルカの福音が言っています。
すると、ザカリアの家はどちらにあるのか。エルサレムから、更に先の方です。距離はどれ位あるのか。どのようにして、そちらまで行ったのか。ひとりで行ったのか。誰かが一緒だったのか。・・・福音書には何も書いてありません。
ここでルカの福音が語る《善いサマリア人の話》を思い出します。旅人がエルサレムからエリコへ下る道で追い剥ぎに会って、半死半生の目に合ったという出来事です。(ルカ10・30-36)参照)そのような危険に出くわすかもしれないエルサレムへの道を若い女性が、一人でどのように通過したのだろうか、と考えてしまします。
そのようなときに、どのように説明されているのかということを調べると、著者はあまり、そのことは気にしていないようです。ある人は、「これは後から作り上げた伝説である」と、そのひと言で片付けてしまいます。

「あなたは救い主の母になるでしょう」、と言われて、マリアは、
「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えた。
非常に、重大な瞬間でした。その後、すぐのことのようです、彼女はて旅立つって長い間故郷を留守にするわけです。誰かと相談して決めたのでしょうか。
そもそも、ヨセフという人との話し合いは、どのようになっていたのか。あるいは、マリアの家族はどうであったのか。エリザベトは親戚でした。洗礼者ヨハネの母になるわけですが、妊娠して6か月経っているということです。
聖書に出ている地図から、おおよその距離を測ってみると、100キロメートルは優にあると思います。歩いて100キロメートル移動するとしたら、何日位かかるでしょうか。
「ヨセフとマリアとイエスの一家は、毎年、過越しの祭りのために、エルサレムまで巡礼していた」(ルカ2・41参照)と出てきます。その巡礼のときにイエスは行方不明になった。親類や知人の間を探し回ったどこにも見当たらなかった。三日の後やっと両親はイエスを神殿の境内で見つけたのでした。
この話から分かるように、何日もかかって、ナザレからエルサレムの間を巡礼するわけです。往復するわけですから、かなりの日数を使っていたと思います。
エリサベトの家は更にその先なのですから、本当に身軽に、長い道のりを出掛けて行って、エリザベトの家に到着することになりました。

わたしたちは、マリアという人を、どのような人と考えているのか。そのイメージはどのようなものであるか。まだ、イエスを産む前の、少女と言って良い、ナザレという寂しい集落で生まれ育った少女は、どのような人であったのか。
この場面から考えるに、非常に決断が速いし、行動する人であったというように思われます。

更に、今日のルカの福音に出てくる「マリアの賛歌」、これは、教会が非常に大切にしているお祈りでして、教会の祈り(聖務日課)の晩の祈りで、毎日唱える祈りです。
最初の言葉は、ラテン語で「マグニフィカート」と言います。これは「あがめる」という意味の言葉です。
この中で、何が言われているかと申しますと、丁寧に読んでみると、福音的と言うのか、あるいは、革新的と言って良いのか、そのような内容が述べられている。
「思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」。
即ち、「当時の社会の在り方は、神様のみこころに適っていない。いわば、当時の社会の在り方をひっくり返さなければならない」、と言っています。
人々を押さえつけ、締めつけ、そして、搾り取っている、支配階級の人たち、そのような人たちは、引きずり下ろされなければならない。貧しい人、飢えた人が大切にされ、そして、権力ある人、富んでいる人は、その力をしない、低くさえなければならない。「それが神様のみこころですよ」と言っているようです。
日頃、意識してそのように、この祈りをしていないかもしれないが、実は、少女マリアを通じて、神様が告げられたこと、それは、「いまの社会の状態は、神様のみこころに適っていない。いまの支配階級の人は、神様のみこころに適っていない」と宣告していることになります。
今日の第一朗読の言葉も併せて、考えてみましょう。
「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」(ロマ12・9)
尊敬をもって互いに相手を優れた者と思う。これは、易しいことではないと思います。わたしたちが、すぐにできることは、人を見下すことでして、相手が駄目だという判断は速いのですが、相手を優れた者と思うことは、なかなかできないことです。
人の欠点を見つけることは得意ですが、人の良い所、優れた所を見つけるということは、わたしたちは、あまり得意ではない。

「いつくしみの特別聖年」がありました。昨年の11月20日に終了しましたが、フランシスコ教皇は、何度も繰り返し、「どのような人にも与えられている、神様の似姿、神の美しさ、神様の恵みを認め、それを尊重するようにしなさい」と言っておられます。
今日は5月31日、聖母マリアを祝う日ですが、今日の福音から、おとめマリアが、この聖書の教え、旧約聖書を貫いている、あわれみの神の教えに、深く分け入った人ではなかったかということを、分かち合いたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 ローマ12:9-16b
福音朗読 ルカによる福音1:39-56

(福音本文)
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。
エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
そこで、マリアは言った。
「わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、
その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、
憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

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築地教会歴代大司教記念ミサ

2017年5月28日、主の昇天、築地教会

[聖書朗読箇所]

イエスは復活された後、40日間にわたって弟子たちのところに現れました。そして今日の福音が伝えておりますように、40日目に天の御父のもと戻って行かれました。
40日ですから、この間の木曜日が昇天の祭日ですが、日本の教会はその次の主日(復活節第7主日)をもって昇天の日とすることになっています。
イエスは昇天に際して弟子たちにお命じになりました。「すべての民を私の弟子にしなさい、洗礼を授けなさい、さらにイエスが教え命じたことを守らせなさい。」そのご命令を私たちは承って、教会の務めを果たしているのであります。
イエスは「私は世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる」と言ってくださっています。今日はこのみ言葉をご一緒に味わいたいと思います。

第一朗読では、イエスは弟子たちが証人となると言われました。何の証人になるのかと言えば「わたし」の証人、イエスキリストの証人となるということです。そして、そうであるように力が与えられる。その力は聖霊によって与えられるのです。
さらに第二朗読では「教会はキリストのからだです」と教え、わたしたちは聖霊を注がれた者、聖霊によって満たされている者、聖霊の力を受けている者であり、主イエスのご命令を実行することができる者とされています。
ですからわたしたちはイエスの弟子として生きるようにされていますが、他方わたしたちは弱い人間であり、失敗をしたり病気になったりします。

10年ちょっと前のことですが、私は非常に困難な体験をいたしました。肉体的にも精神的にもだいぶ衰えた状態になったので、お医者さんのところに行きました。その時に読むようにと勧められた本があります。
その本の最初の言葉は「人生とは困難なものである」でした。もともと英語で書かれたものなので原文も読んでみようと思い、手に入れました。
最初の言葉は英語ですけれども「Life is difficult」。

私たちはこの世界で様々な困難に出合います。仏教では四苦八苦と教えています。四つの苦しみに四つ加えて八つの苦しみ。仏教の教えは本当に人間の真実を突いており、教えているとつくづく思います。生・病・老・死のあと四つありますが、人間は生まれてから死ぬまで苦しまなければならない。
先ほど申し上げた本の著者も仏教の教えに触れています。そして、「人生は困難である」ということを知る者は困難に立ち向かい、困難を乗り越えることができる。だから人生の真実を見つめなければならないと教えています。

皆様の困難はどのようなものか。それぞれ困難があると思います。困難のない人はいません。地上にいる間、わたしたちはいろんなことで苦しみ、悩まなければならない。そして他人の悩み苦しみを知らなければならない。自分が苦しんでいるならば、他の人も苦しんでいる。それを知らなければならないですね。

このわたしですが、私と一緒に働いてくださっている司祭の皆さんも、病気になったり、召されたり。非常に困難な状況にあります。どうしたらよいのだろうかと思いつつ、「あなたは終わりまであなたと共にいるとおっしゃいましたね」、「あなたはどこでそうしてくださっているのですか」、と自問自答で、ご聖体の前で祈ります。

「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいます」、こんな時にこそわたしはあなたの側(そば)にいる。イエスはもう天の父のもとに行ってしまった、この世の煩わしいことからすっかり手を引いて、「さようなら、もう関係ありません」、という意味ではなくて、わたしはあなた方と一緒にいる。これから去っていく人が「あなたがたと一緒にいる」というのは矛盾しますが、この世界で一緒にいてくださっている。それは聖霊という神様の力によるのです。

わたしたちは三位一体の神を信じています。父と子と聖霊の神を信じています。この聖霊によって、聖霊の照らしによって、わたしたちと一緒にいてくださっている。闇があっても、その闇の中に灯される灯火、その灯火を通して、人間の弱さ、あるいはこの地上の困難の中に神の力が働いています。そのようにわたしたちは信じます。

この日本という国や、この世界中に日々起こっている様々な事件、問題、困難。その中に神の力が働いている。そう信じています。そして「すべてはわたしがまた地上に来る時に終わります。いっさいの問題はそこで終了します」と言われます。その時までわたしたちは、それぞれ自分の務めを果たさなければならない。それは「自分の務め」です。他の人の務めをとやかく言うよりも、まず自分の務めをしっかり果たしましょう。

東京教区の歴史を振り返り、ここに写真がある歴代の大司教様もさまざまな困難に遭い、務めを果たされました。
心から感謝を申し上げるとともに、わたしたちもそれぞれ自分の務めを誠実に果たすことができますよう、聖霊の恵みを願いたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 使徒言行録 1:1-11
第二朗読 エフェソの信徒への手紙 1:17-23
福音朗読 マタイによる福音書 28:16-20

(福音本文)〔そのとき、〕十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

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内山賢次郎師納骨式説教

2017年5月27日、復活節第6土曜日 、府中墓地

[聖書朗読箇所]

今日、5月27日、復活節第6土曜日に内山神父様の納骨の儀を行うために、わたくしどもは府中墓地に集まっております。内山賢次郎神父様は、2017年2月24日に帰天されました。

ペトロの家に移られたのは、2012年4月30日でございますので、5年ほど、わたしたちと一緒に生活いたしましたが、神父様は、ペトロの家に最後まで住んで、そして神様のもとに旅立ちたいというご意向をはっきりと表明しておられましたので、わたくしどもは、神父様を看取ることにいたしました。

ちょうど、亡くなった日、わたくしは神父様のお部屋に伺いましたが、その後、会議が始まるので、お部屋を離れていましたが、その間に、息を引き取られました。
ご自分の部屋で最後を迎えられた神父様は最近ではまれなことでございました。

司祭になられた日は、1954年12月21日でございます。白柳枢機卿様とご一緒に叙階されたと聞いております。
長い司祭の生涯、東京教区の司祭として、わたくしどものために、そして、多くの人々への福音宣教のために、生涯を尽くしてくださいましたことを、改めて感謝申し上げます。そして、神父様に協力し、神父様を支え、神父様のためにお祈りいただいたみなさまに、改めて心より御礼申し上げます。ありがとうございました。

いま読まれた、ヨハネによる福音でイエスは言われました。「わたしの名によって父に願うならば、父はその願いをかなえてくれる」。
わたくしたちは、毎日、イエス・キリストのみなによって、お願いをしております。

今日、まずお願いしたいことは、内山神父様の司祭としての生涯に、神様が目を留め、豊かな報い、そして安息をお与えくださいということでございます。

先ほど、これから神父様をお納めするお墓の方に行ってみましたが、既にわたくしどものもとから旅立たれた、多くの司教、司祭方が、主のみもとで、本当に心から安息を得られますようにと、合わせてお祈り申し上げたいと思います。

更に、東京教区の教区司祭、あるいは、東京教区で働いてくださっている司祭、働いてくださった司祭方、いろいろな病気など、困難な状況に置かれている方もいらっしゃいます。一日も早い回復をお祈り申し上げます。

いま、日本のカトリック教会、日本に福音がもたらされて、そろそろ500年に達しようかという時期、なかなか宣教というものが、進展しない、進展しているのかもしれないが、目に見える、はっきりとした結果は見られません。しかし、わたしたちが日々誠実に生きるならば、そのこと自体が立派な福音宣教、福音化の働きであると思います。

日本では、明日が昇天の日ですが、昇天のときにイエスは言われました。「あなたがたは地の果てまで、わたしの証人となる」。
復活したイエス・キリストの証人となる。イエス・キリストは復活された。そして、更に、聖霊を送り、わたしたちとともにいてくださる。世の終わりまで、わたくしたちを導き、支え、励まし、力づけてくださる。わたしたちは、そのように信じております。

いろいろな困難、問題の中で、更に、この信仰を強くしていただけますように。そして、既にわたしたちの中に差し込んでいる、イエス・キリストの復活の光、そして、聖霊の働きに信頼し、信仰を強くし、希望を持って、神の国の到来のしるしとなって行きたいと思います。

内山神父様の葬儀のときに、お渡ししました、このご絵、カードには、マタイの福音の言葉、6章33節「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」という聖句が記されております。

内山神父様は、この言葉をモットーとして生きられた司祭です。

わたしたちも、更に、決意を新たにし、日本において、東京教区において、神の国は既に来ているのだということを、言葉と生活、行いで、指し示すことができますよう、ご一緒にお祈りをお献げいたしましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読 使徒言行録 18:23-28
福音朗読 ヨハネによる福音書 16:23b-28

(福音本文)(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。
わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」

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日本カトリック管区長協議会2017年中ミサ説教

2017年5月19日(金)、復活節第5金曜日
御聖体の宣教クララ会修道会中軽井沢修道院

[聖書朗読箇所]

(説教の要旨)
ことしの総会のテーマは「宗教改革500周年を迎えて」となっています。わたくしは司教協議会でエキュメニズム部門を担当しておりますので皆さんから招待を受け昨日午後からですが参加いたしております。

本日の福音朗読、ヨハネによる福音15章で主イエスは言われました。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ15・16-17)

わたしたち司祭、修道者は主イエスの呼びかけを受け、呼びかけに答えて、選びを受けて、いま司祭、修道者の召命の道を歩んでいます。実は宗教改革者となったマルティン・ルーテルも熱心な修道者でした。

ちょうど500年の1517年、修道者マルティン・ルーテルは当時のカトリック教会の在り方を批判する95箇条の提題を発表しました。この出来事が宗教改革の発端となったのです。
マルティン・ルーテルはアウグスチヌス会の修道者でした。かれは熱心に祈り、苦行を行い、また聖書の勉学に励みました。
ご存知のようにルーテルはのちに原文から聖書のドイツ語に翻訳した最初の人です。彼の翻訳に採用されたドイツ語はドイツ語の統一に大きな貢献をしたといわれています。
それはともかく、彼はどんなに祈っても、自分の救いの確信、個々の平安を得ることができませんでした。
そのような状態で聖書の講義を行うことは彼に大きな苦悶をもたらしたのです。どんなに努力しても心の中の不安消えない。神に喜んでいただけるような清らかで罪のない自分にはなれない。
そのような嘆きのなかであるとき、ある聖書の言葉があたかも天啓かのように彼の心に響いてきました。それが、神は罪人の罪を覆い罪を赦し、義と認めてくださる、という「義認」の教えの根拠となりました。
神は罪のある人をそのまま赦し受け入れてくださるという信仰に入ることができたのです。(1)

さて第二ヴァチカン公会議を経て、カトリック教会とルーテル教会との間に対話が始まり、50年の期間を経て、今日では「義認」の教えについては、基本的の両者の間に合意が成立しています。強調点の違いや言葉の使い方の違いはあります。しかし、次の信仰理解において違いはありません。
人は神の神による罪の赦しを信じることにより神から義とされるのです。信仰は神の恵みです。神の恵みなしに人は救に入ることができません。信仰も神の恵みによって与えられるのです。

ところで「罪」という言葉の理解には微妙な違いがあることが明らかになりました。ルーテルは、洗礼後の人間の中に残っている欲望(concupiscentia)自体を罪とみなしていました。
カトリックでは「罪」とは主体的な神への反抗と考えますので、欲望自体は厳密な意味の罪とはみなしません。しかし人間には罪への傾向が残っています。
乱れた欲望は罪の原因となりますので、人は絶えず祈りと犠牲をもって悪と戦い、自分を聖霊の導きのもとに置かれていなければならないのです。人の生涯は聖霊の導きによる罪との戦いです。(2)

欲望を完全に制御することは困難です。義人も日々小罪を犯すと言われます。「自分には罪がない、と言うなら、自らを欺いており、…神を偽り者にすること」(一ペトロ1・8-10)になります。日々唱える主の祈りの「わたしたちの罪をおゆるしください」はわたしたちの心からの真実の願いであるはずです。
そうではあっても人は既に死から命へ、神の恵みの中に置かれていると、わたしたちカトリック信者は信じています。

ところでこの機会に一つ皆さんにお願いがあります。
最近日本の司教団は「『命へのまなざし』増補新版」を発表しました。英訳もあります。是非皆さんに読んでいただき、さらに多くの人に読むよう、勧めていただきたいのです。
とくに「子どもの貧困」という深刻な問題に注目していただきたい。よろしくお願いします。

 

(1)徳善義和『マルティン・ルター』(岩波新書)によると、それは詩篇31編2節と72編2節にある「あなたの義によって私を解放してください」であるという。ここでいう義(Justitia)とは神の正義による断罪ではなく神の恵みによる救いを意味し、イエス・キリストの十字架による贖い、神におる解放と救いを意味していると彼は考えた、という。

(2)『義認の教理に関する共同宣言』(教文館)を参照。

聖書朗読箇所

第一朗読 使徒言行録15・22-31
福音朗読 ヨハネ15・12-17

(本文)
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

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世界召命祈願の日ミサ説教

2017年5月7日、復活節第4主日、カテドラル

[聖書朗読箇所]

今日、世界召命祈願の日、懸案のジョセフィーヌの鐘の祝福もすることができ、このように、みなさまとご一緒に、召命のためにお祈りできますことを、大変嬉しく思っております。
「わたしは良い牧者である」と主イエスは言われました。イエスは、すべての人を、ご自分のもとにお招きになります。わたしたちのことを、よくご存知の上で、わたしたちを呼び出し、ご自分と一緒に歩むようにと勧め、励ましてくださいます。

5月はマリア様の月と言われておりますが、3月、4月を振り返りますと、叙階式の多い月でした。
わたくしは、司祭に叙階する叙階、助祭に叙階する叙階を数えますと、5回行いましたが、そのたびに、特別な思いを抱いてきたのです。
それぞれの人が、イエス・キリストの呼びかけを受け、そして、司祭になると決心した。そして、多くの人の祈り、導きに支えられ、長い年月の研修を経て、司祭となる。本当に、これは実に大変なことです。

みなさまのお祈り、ご支援の賜物があってこそ、助祭となり司祭となる人が生まれます。彼らは、自分の弱さということを自覚していく。自分が弱い者であるということ、自分が司祭の仕事を果たすためには力が足りない、足りないというより、ないということを知っております。

その点については、司教も同じ想いです。司祭が叙階するときに、司教が唱える祈りの言葉の中に、「使徒から受け継いだ司教の務めを果たすには力の足りないわたしを顧み、・・・今わたしにもこの人たちを必要な助け手としてお与えください」と祈ります。そして、司祭は司教の務めを助ける者として与えられます。

既に、旧約聖書の時代から、神はいろいろな人を呼び出し、ご自分の務めにあずからせました。呼ばれた者は、とても自分にはそのような務めはできないと断ったり、躊躇したりしています。

例えば、モーセは「わたしはもともと弁が立つ方ではありません。・・・全くわたしは口が重く、舌の重い者なおです」(出エジプト4・10)からとてもあなたの言葉を伝えることができない」と言っています。
預言者エレミヤは「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」(エレミヤ1・6)どうしてあなたの務めを果たすことができるでしょう、と言っています。
イエスの周りにいた、ペトロをはじめとする弟子たち、彼らは、イエスのために命を捨てることさえ辞さないと言ったのに、あえなく、裏切り、逃げ去ってしまった。そのような弱い人間を神様は用いて、ご自分の務めを継続させ、発展させます。

その際、必要なことは、「自分が弱い者であるということ」、「自分が本当に分かっている者ではないということ」をつくづく思い、必要な助けを祈り求め、更に、教会の仲間に助けを求めることではないかと思います。
神は約束してくださいます。「わたしがいつもあなたと共にて助け、必要な言葉を与えるから、信頼して歩みなさい」と。

さて、今日は、世界召命祈願の日であり、何よりもまず、司祭、修道者、奉献生活者の召命のために祈る日です。
しかし、東京教区も、他の教区も、修道会も、本当に、司祭召命の問題に直面しております。どうか、みなさん、司祭の召命のためにお祈りくださるように、そして、必要な助けを与えてくださるように、お願いいたします。

今日、更に、「召命」ということについて、いま一度、分かち合いをしたい。
「召命」というのは、すべてのひとに与えられている、神様の呼びかけです。神様は、「誰々さんは必要だけれども、あなたは必要ではない。あなたはいなくてもよい。」とおっしゃる方ではない。
すべての人は、神様のみ心によって、この世に生まれ、果たすべき務めを与えられています。その立場、その境遇、その場所において、自分が成すべきこと、あるいは、自分にしかできないことがあります。それが何であるのか。その人にしか、分からないことであるかもしれない。

「わたしは良い牧者。わたしは羊のことをよく知っている」。
そのイエスの言葉に、更に耳を傾け、「わたしは何をしたら良いでしょうか。どのようにしたら、あなたのみ心に適うことができるでしょうか。」と祈り求めるときが、特に今日ではないかと思います。

神様が、そして、主イエス・キリストが、わたしたちを必要としてくださるということは、何と素晴らしいことでないでしょうか。
神様は、わたしたちに「はい」という同意を求めている。「これをしませんか。してくれませんか。」、「はい、喜んでいたします。」
その答えを求めています。どうか、わたしたちが、主イエス・キリストの呼びかけに、喜んで答え、そして、生涯を献げることができますよう、お祈りいたしましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読 使徒言行録2・14a、36-41
第二朗読 一ペトロ2・20b-25
福音朗読 ヨハネ10・1-10

(本文)
〔その時、イエスは言われた。〕「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」

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ジョセフィーヌの鐘と鐘楼の祝福式の挨拶

2017年5月7日、復活節第4主日
カテドラル・司教館前の庭にて

 

みなさん、こんにちは。
今日は、5月の清々しい良い日でございます。
世界召命祈願の日に合わせて、このジョセフィーヌの鐘とそれを収めるための鐘楼をご披露し、祝福して、これからジョセフィーヌの鐘を大切に使っていきたいと思います。
ジョセフィーヌの鐘は東京教区の歴史と深いかかわりがあります。今日はその教区の歴史と共に歩んだ、このジョセフィーヌの鐘について、今日、ご一緒に、思いを共にしたいと思います。

現在は、こちらの関口教会がカテドラルですが、かつて、東京教区のカテドラルは築地教会でした。
1877年、当時、日本に来て、日本政府の招きに応じて、日本に近代的な法律を確立するために尽力されていた、ボアソナードという方がおられまして、その奥様とお二人が、2つで1つになっている対の鐘を教会に寄贈されました。その鐘の1つが、ジョセフィーヌ。(もう一つはジャン・ルイーズと呼ばれています。)
1920年にカテドラルが築地教会から関口教会に移動となりました。1920年ですから、あと3年でちょうど100年ということになります。
司教座聖堂が、築地から関口に移ったときに、鐘も一緒に移されました。また、お告げの祈り、アレルヤの祈り、その他の機会に鐘が鳴らされて、わたしたちは、その度に心を上げて、お祈りをしてきました。
そして、1964年、こちらの立派なカテドラルが献堂され、見上げると分かりますように、4つの鐘が付いている鐘楼ができまして、築地教会から移された鐘は、その役目を終えました。

しかし2014年、カテドラル献堂50周年の機会に、こちらの鐘をもう一度、みなさまの前に登場させ、さらに何らかの役割を果たしていただき、また合わせて、東京教区の歴史を思い起こし分かち合うための記念として大切に保存したい、ということになったのです。
時間をかけた話し合いと準備の期間を経て、今日、この鐘と鐘楼の祝福を行い、これから大切なときに鐘を鳴らして、わたしたちの心を神様に上げるための時を告げるための縁(よすが)としたい、と思っております。

今日は、これから祝福の祈りを献げ、そして、ご一緒にアレルヤの祈りをしたいと思います。
では祝福の祈りを唱えます。

全能の父なる神よ。
わたしたちは、今日、世界召命祈願の日ミサを献げる前に、
新たに設けられたジョセフィーヌの鐘を設置するための鐘楼に、集まっています。
この鐘楼とジョセフィーヌの鐘を、あなたに献げて祈ります。
どうか、この鐘楼とジョセフィーヌの鐘を、祝福してください。
この鐘楼が、いつもいつくしみ深い神、あなたの招きを思い起こすしるしとなりますように。
この鐘の音が、わたしたちの心を天に上げるための時を告げる音となりますように。
そして、いまから唱えるアレルヤの祈りによって、わたしたちが、聖母を賛美し、聖母の取り次ぎによって、永遠のいのちへの信仰と希望を強めることができますように。
主キリストによって。アーメン。

アレルヤの祈りをいたします。

神の母聖マリア、お喜びください。アレルヤ。(鐘の音)
おことばどおりに復活されました。アレルヤ。
わたしたちのためにお祈りください。アレルヤ。(鐘の音)
聖マリア、お喜びください。アレルヤ。
主はまことに復活されました。アレルヤ。(鐘の音)

みなさんもご一緒にお祈りいたしましょう。

神よ、あなたは御子キリストの復活によって、
世界に喜びをお与えになりました。
キリストの母、聖マリアにならい、
わたしたちも永遠のいのちの喜びを得ることができますように。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。(鐘の音)




サレジオ会司祭叙階式説教

2017年4月30日 復活節第3主日、碑文谷教会

[聖書朗読箇所]

受階者
ヨハネ・ボスコ 谷口 亮平(たにぐち りょうへい)

説教

みなさんのご親族、あるいは友人である、ヨハネ・ボスコ 谷口亮平さんが、間もなく、司祭団に加えられます。そこで、ご一緒に、この兄弟から、教会の中で、どのような奉仕の務めを行うために司祭に叙階されるのか、ご一緒に考え、分かち合ってまいりたいと思います。
ただいま読まれました、ヨハネの福音で、主イエスは繰り返し、「わたしは良い羊飼いである」と言われました。良い羊飼いは、羊のために命を献げます。イエス・キリストは、そのお言葉どおり、わたしたちのために十字架におかかりになり、命を献げてくださいました。

今日は、復活節第3主日であり、主日のミサでは、エマオへ向かう2人の弟子たちに、旅人の姿をしたイエスがご出現になったという、ルカの福音を伝えております。
わたしたちの教会は、「イエス・キリストの復活」という出来事の上に、復活されたイエス・キリストに出会った人々の体験の上に、教会が設立され、発展し、わたしたちは、そのイエス・キリストの復活の恵みにあずかる者とされております。

弟子たちは、生前のイエスの言葉の意味を、よく理解することができませんでした。
しかし、復活されたイエスに出会い、聖霊を受けて、生前の主イエスの言葉の意味を悟ることができました。
エマオへ向かう2人の弟子も、旅人の姿で現れたイエスから、モーセをはじめとする、旧約聖書の教えの解説を聞き、更に、日が暮れたときに一緒に食事をし、パンを裂く場面を共にして、はじめて、その人が復活されたイエスであるということを悟りました。
ご承知のように、このルカの福音の構造は、いまわたしたちが献げているミサ聖祭と、よく似ている。基本的に同じ構造ではないかと言われております。

さて、谷口亮平さんは、良い牧者になるという召命にあずかる者とされます。今日の第一朗読では、エレミヤの召命が告げられました。エレミヤは、まだ若い。そして、言葉を知らない。心細い状態であったのに、主からお召しを受けた。
そのとき、主なる神は言われた。「彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す。・・・見よ、わたしはあなたの口にわたしに言葉を授ける。」(エレミヤ1・8-9)。

谷口さんは、いま、サレジオ会の司祭となり、サレジオ会士として、主イエスの使命にあずかる者となります。それは、決して容易な務めではないと思います。
しかし、主なる神様が、エレミヤに言われたように、いま、復活された、主キリストが、あなたに言ってくださいます。「わたしはいつもあなたと共にいる。あなたを支え、教え、そして、力を与えます。」ですから、主イエスに信頼して歩んでください。

わたしたち司祭は、復活の証人となり、そして、良い牧者、キリストが羊のために命を献げた、その生き方を、自分自身の生涯の生き方とする決意を献げるものです。

今日、谷口さんの叙階式にあたり、更に、わたくしの念頭にあることを1つ付け加えて、谷口さんだけではなく、こちらにお集まりのみなさまの参考に供したいと思います。
それは、少し唐突ではありますが、いまの日本の子どもたちのことです。サレジオ会は、青少年の育成のために創立されたと理解しております。どうか、現代の日本の青少年のために力を尽くしてください。

「子どもの貧困」という言葉を、わたしたちは耳にします。わたしたちは、日本は豊かな国であり、そして、「貧困」という言葉は、日本には馴染まないというように思っておりましたが、現在の日本は、そうではありません。
「貧困」という問題がある。そして、弱い立場である子どもたちは、「貧困」という問題に出会っている。ある説明によりますと、6人に1人の子どもが「貧困」の状態にあるそうです。それは、「物質的並びに精神的な貧困」です。

きちんと栄養のある食事を摂ることができない。病院で治療を受けることができない。進学もできない。そのような状態に置かれている子どもさんが増えている。そして、その子どもを支える家庭、両親の在り方が、大きな問題に直面している。
ある意味で、危機的な状態にあるということが言われており、わたくしたちも、多分、そのように感じているのではないかと思います。「不登校」、「いじめ」、「自殺」という現象が、子どもたちを襲っています。

「わたしは、人々から愛され、必要とされています」という、誰しも持つべき「自己肯定感」、自分は大切な存在なのだという思いを、持つことが難しいと感じている子どもが、いま、日本では増えています。

どうか、子どもたちのために働いてください。そして、「あなたは大切な人だ」ということを教え、知らせるようにしていただきたい。
そのような務めを、ご一緒にして行きたいと思いますので、宜しくお願いいたします。

聖書朗読箇所

第一朗読 エレミヤの預言1・4-9
第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙5・14-20
福音朗読 ヨハネによる福音10・11-16

(福音本文)
(イエスは言われた。)わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命をすてる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

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復活節第二主日説教

2017年4月23日、関口教会

[聖書朗読箇所]

説教

今日は、復活の第二主日です。
聖ヨハネ・パウロ二世によって、「神のいつくしみの主日」と名付けられております。
2015年12月8日から、昨年の11月20日、「王であるキリスト」の日までの1年余り、「いつくしみの特別聖年」をわたしたちは祝いました。
神はいつくしみ深い方であることを深く学び、そして、わたしたちもいつくしみ深い者であるようにと努める、特別な1年でした。
神のいつくしみを知り、いつくしみに生きるということは、わたしたちキリスト者が、毎日心掛けるべきことです。

イエスの弟子たちは、イエス・キリストに出会い、イエス・キリストから神のいつくしみを学び、そして、キリストの復活という出来事に出会って、わたしたちの教会を創立しました。

いま、読まれました福音は、ヨハネによる福音の20章です。ヨハネによる福音が伝えているところを、今日、分かち合いたいと思います。

「週の初めの日の夕方」という言葉から始まっております。「週の初めの日」というのは、今日(こんにち)でいえば、日曜日に当たります。
弟子たちは、どちらかの家に集まって、その家に鍵をかけていた。それは、ユダヤ人が恐ろしかったからです。イエスの身の上に起こったこと、それは、非常に残酷な、恐怖を起こさせる出来事でした。弟子たちは、イエスを裏切り、見捨て、逃げてしまいました。
どちらかの家に集まって、肩を寄せ合っていたのでしょう、家に鍵がかかっていたにもかかわらず、イエスが入って来られて、
「あなたがたに平和があるように」
と言われた。

どのようにして、扉を通って来たのでしょうか。

「あなたがたに平和があるように」。
この言葉を、司祭はミサを献げるときに、何度も唱えます。そして、わたしたちも、手紙を書くときなどに、挨拶として使っている言葉です。
「平和」とは、旧約聖書以来、使われている、非常に重要な言葉であり、欠けたところのない神のみこころが、十分に実現している状態であるとされています。

この場合、弟子たちにとっての「平和」は、何であるか。ユダヤ人に逮捕されたり、処刑されたりするという恐れもあったでしょうが、恐らくは、何よりも、主イエスと離れている状態、イエスが取り去られてしまった。そして、自分たちは彼らを見捨て、彼らはイエスを見捨ててしまった。いわば、「裏切ってしまった」という罪の意識、後ろめたさが、彼らの平安を奪っていたのではないかと思います。
「あなたがたに平和があるように」
とイエスは言われたので、彼らの心は平和で満たされました。

「弟子たちは、主を見て喜んだ」
とあります。

そして、更に、イエスは彼らに聖霊をお与えになりました。
「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」。

イエスから、罪の赦しを受けた弟子たちは、更に、人の罪を赦すことができるように、聖霊を受けました。

さて、その大切な場面に、12人の中で1人の弟子、トマスは居合わせなかった。疑い深いトマスと言われますが、トマスはイエスのご出現を信じなかった。トマスは、それから8日後、つまり、今日の典礼は復活の日から2週間目を想定した日ですが、トマスの前に現れて言われた。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。
トマスは、イエスに答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。

さて、今日の第二朗読におきまして、最初の教会の人たちのことが述べられています。
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」。

わたしたちは、すでに、復活の出来事があってから、2千年以上経過しているときの信者です。ペトロの手紙の相手となっている人たちは、復活の出来事を信じている神の民、いつ頃のことでしょうか、1世紀か2世紀の初めか、大部分の人が、地上のイエスに出会ったことのない人たちであろうと思われます。
イエスに会ったことがない、復活したイエスに出会ったことがないのにもかかわらず、イエスを信じている、そのように著者が言っている。わたしたちの方は、更に、そのようなことになる。

わたしたちは、復活を信じ、キリスト者となっております。現代において、復活を信じて生きるということは、更なる努力が必要です。たびたび、神の言葉、キリストの言葉を聞き、ご一緒にお祈りし、励まし合い、困難の中に、神の導き、復活の光を見つけるように努めなければならないと思います。

わたしたち教会は、キリストの復活を告げ知らせる、神の民です。キリストが復活した、死と罪に打ち勝ったという信仰を、人々に表す団体、イエス・キリストが、いまも復活して、わたしたちのところに来てくださるという信仰、イエス・キリストの復活の現存、復活したイエスがいてくださるという信仰を表す、そのような印である教会です。

わたしたちを見て、イエス・キリストの復活の印があると、多くの方が見てくださるような、わたしたちでありたい。
そのためには、わたしたちは、よく祈る神の民、神のいつくしみを実行する神の民、お互い助け合っている神の民、最初の教会のような教会でなければならないと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 使徒言行録2・42-47
第二朗読 一ペトロ1・3-9
福音朗読 ヨハネ20・19-31

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カルメル会助祭叙階式説教

2017年4月22日 復活の土曜日、上野毛教会

[聖書朗読箇所]

受階者
ヨハネ 志村 武(しむら たけし)

説教

カルメル会の志村武さんの助祭叙階にあたり、ひと言申し上げます。
今日は、復活後の最初の土曜日、復活の土曜日ですので、本日の朗読と祈願に従って、ミサを献げます。
いま読まれました、福音朗読は、マルコの福音の結びの部分です。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」という、主イエスの言葉をもって、結びとされております。
マルコの福音は、4つの福音の中で、もっとも短く、簡潔な内容であり、成立は、4つの福音書の中で、もっとも早いと思われます。
今日の箇所は16章9節から15節ですが、この最後の部分は、後から教会が付け加えた部分であるということを、聖書学者は言っております。
イエスは、「すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16・15)そのように言われた。
復活した、主イエスは、弟子たちに聖霊を注ぎ、聖霊の恵み、聖霊の力、聖霊の照らしをもって、すべての人が、全世界、この地上のどちらにおいても、イエス・キリストを宣べ伝え、証するという使命を授け、そして、その使命を実行することのできるように、聖霊をお注ぎになりました。

ヨハネ 志村武さんは、そのようにして成立した教会の中で、いま、カルメル会の助祭に叙階され、更に、司祭に叙階される道を歩むこととなっております。助祭は、新約聖書では「奉仕者」、あるいは「執事」と呼ばれています。

使徒言行録によれば、ステファノをはじめとする7人が、もっぱら共同体の食事の世話をする奉仕者として選ばれました。(使徒6・1-6)
ペトロをはじめとする使徒たちは、祈りとみことばの奉仕に専念したい、そのために、教会共同体の奉仕をしようと、貧しい人への愛の奉仕は、後に助祭と呼ばれる人に、もっぱら委ねることになったとされております。

助祭は、教会共同体の奉仕の活動・運営・管理などの、非常に大切な責務を担うようになり、助祭の存在は、非常に重要なものとなりました。しかし教会の歴史の進展の中で、次第に、そのような助祭の任務が忘れられ、廃れてゆき、ラテン教会、わたしたちの教会では、司祭職に至るための1つの段階、過渡的な助祭だけが残りました。

「これではいけない」という意見が取り上げられまして、わたしたちの教会は、終身助祭の制度を再考しました。司祭になるために取りあえずなる助祭ではなくて、終身、一生助祭として奉仕しますという人を任命し、叙階することができるようになった。もともとは、助祭とはそのような存在でした。
司教協議会も、その道を開くように決定し、現在、全国には、多くの終身助祭の方がおられます。

なお、助祭の典礼における任務は、次のように言われております。
「荘厳に洗礼式を執行し、聖体を保管し、分け与え、教会の名において結婚に立ち合い、祝福し、死の近くにある者に聖体を運び、信者たちのために聖書を朗読し、人々に教え勧告し、信徒の祭礼と祈りを司会し、準秘跡を授け、葬儀と埋葬を司式する」(『教会憲章』29)と決められております。

さて、志村さんは、やがて、司祭になり、カルメル修道会の霊性に従って、生涯を神様にお献げになる。その、志村さんの召命の中で、日本の福音宣教、日本の福音化の使命を担う、分担することになります。
カルメル会の霊性を生きるとともに、この日本における福音宣教、日本におられる人々に、イエスの福音を宣べ伝え、且つイエス・キリストの復活の証人となるという任務を、しっかりと実行していただきたいと思います。
特に、わたくしが、いま念頭に置いておりますことは、すべての信徒の方を福音宣教へと進ませる、福音宣教をする者、福音宣教者とするために、教え導き、励ますという務めを、わたしたち司祭は授かっている、ということです。

更に、カルメル会の司祭になるわけですから、「祈り」ということを教えていただきたい。この世にあって、この忙しい毎日の生活の中で、祈りをもって、日々を神様に献げる人となるためには、どのようにしたらよいのかということについて、親しく、具体的に教え、実行する者となっていただきたい。
日本の社会では、いま、少なからぬ人が、いわば、行き暮れ、迷い、子どもの貧困ということが、現実となっており、更に、家庭の問題、家庭が崩壊している、あるいは、家庭が危機的な状況にあるという中で、人々は生きるための光、支え、道筋を見失いがちである、と思います。
そのような人々のために、励まし、導き、希望となる、イエス・キリストの道を指し示すよう、どうか、努力してくださるようにお願いいたします。

聖書朗読箇所

第一朗読 使徒言行録4・13-21
福音朗読 マルコ16・9-15

(福音本文)
イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。
マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。
その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。
その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。
それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

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