聖職者の集い・聖ペトロ聖パウロのミサ説教

2017年6月26日、東京カテドラル

[聖書朗読箇所]

6月の最後の月曜日、東京教区は聖職者の日とし、そして、司祭の叙階25年、50年、更に60年のお祝いをし、聖ペトロ・聖パウロのごミサをお献げいたします。

「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」。
有名な言葉です。わたしたちの教会は、ペトロという岩の上に建てられました。
このペトロ、ひとりの人間としての弱さを担い、ご承知のように、主イエスを三度も否んだ人でした。しかし最後は、立派な殉教の死を遂げました。

もうひとりの人、パウロは、ご承知のように、キリスト者を迫害しておりましたが、復活したイエスに出会い、熱烈な異邦人の人となり、殉教いたしました。
今日の第二朗読は、パウロが殉教を前にして、自分の心境を語っている箇所であるとされています。
「わたしのうちに生きているのは、もはや、自分ではなく、キリストである」と、パウロは断言するまでに至ったのでした。

このふたりの人の信仰を、わたしたちは受け継ぎ、同じ信仰をすべての人に宣べ伝え、証しするという使命を受けております。

さて、わたくしども、東京教区は、数々の課題を持ちながら、主イエス・キリストから使徒たちに授けられた教会の建設という務めを、困難のうちにも、一生懸命務めているところです。
東京教区において、わたしたち司祭は、何度も相談し、「信仰を宣べ伝え、証しするという使命は、司祭、奉献生活者だけでなく、信徒も含めたすべての信者の務めである」という共通理解を得た上で、今度は、「すべての人が、福音宣教という使命を実行することができるように、司祭は環境を整え、教え、励ますようにしよう」と話し合おうとしているところです。

10月の下旬には、司祭集会を予定しておりますが、その中で、更に話を煮詰めていき、そして、来春復活祭の後すぐに、『入門講座・信仰講座担当者養成講座』(仮称)を開始したいと考えております。
その際、難しい言葉を使わなくとも、自分の言葉で、自分が信じたことを、その時、その場所で、人々に現し、伝えることができるよう、お互いに励まし合い、そうできるよう、「実習の機会を設けようではないか」ということも話し合っています。

ところで、福音宣教ということは、言葉で福音を宣べ伝えるということだけではなく、わたしたちの生活、わたしたちの仕事、わたしたちの存在を通して、イエス・キリストの生き方を人々に表し、伝えることでもあります。

いま、日本の社会で、どのようなことが、一番問題であり、どのような問題を、わたしたちは緊急で重要な問題として、取り組まなければならないのでしょうか。
わたくしは、そのひとつが〈いのち〉という課題であり、もうひとつは、〈平和〉という課題ではないかと思います。
どのような宗教を信じる人にとっても、あるいは、宗教を信じない人にとっても、〈いのち〉の尊さ、そして、〈平和〉の大切さは同じではないかと思うからです。

〈いのち〉ということについて考えてみますと、日本では自殺をする人(自死者)が非常に多く、かつて、14年間にわたって、自死者が3万人を超えていました。
たしか、1998年から14年間、その後、政府をはじめ、色々なかたの努力もあり、自死者の数は減ってまいりました。
しかし、若者については、あまり改善されていないとのことです。15歳から34歳までの人たちの、自殺する人の人数が、非常に多いと言われております。この年齢の人たちの死因の第一位は、病気ではなく、自殺であるということです。この背景には、「いまの社会の生きづらさ」ということがあるでしょう。
更に、自分の存在を評価できない、自己肯定感の低さということがあると指摘されています。
「頑張りなさい」と言われて頑張っても、上手くいかない。頑張った末に、疲れ切ってしまう。その人たちに、更に「頑張りなさい」と言うことは、何の効果もないと言われています。
それよりも、「あなたは非常に大切な人なのだ」ということを実感できるような、そのような状況、環境が、必要ではないでしょうか。

わたしたちの宗教は、「神様が、わたしたちひとりひとりを造り、ひとりひとりを掛け替えのない存在として、大切に思っていてくださる」ということを信じる宗教です。
「あなたの髪の毛1本も、神様は知っているよ。あなたは他に替えることのできない、掛け替えのない大切な存在なのだよ」というメッセージを、わたしたちは受け取っているのです。
苦しんでいる人、落ち込んでいる人に、「がんばれ」、「このようにした方が良い、あのようにした方が良い」ということは、むしろ言わない方が良いようでして、まず先に、あなたの存在は、わたしたちにとって大切であるということを表し、伝えることが大切であると思います。

まして、わたしたちは、神を信じる者でありますので、「わたしたちの神は、あなたのことをよく知っているよ。大切に思っているよ」、そのようなメッセージを表し、伝えなければならないのではないかと思います。

それは、もちろん、まず司祭、奉献生活者の務めですが、信徒も含めた信者全員で、「毎日出会う、いろいろなかたがたに、そのようなメッセージを現し、伝える。決して、押し付けたり、指示したり、非難したりしないで、その人の存在を大切に思う」というわたしたちの働きを行うべきであり、そのことを行うことが、最も大切な、教会の福音宣教ではないかと思うのです。

使徒ペトロ、使徒パウロの殉教を記念する今日、ふたりの信仰の証しを引き継ぎながら、いまの日本で、わたしたちが行うべきことは何であるかということを、今日、深く心に刻み、分かち合いたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 使徒言行録12・1-11
第二朗読 二テモテ4・6-8、17-18
福音朗読 マタイ16・13-19

(福音本文)
イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

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麹町教会堅信式説教

2017年6月25日、年間第12主日

[聖書朗読箇所]

今日は、160名以上のかたが、堅信の秘跡をお受けになります。

堅信の秘跡は、洗礼を受けて、キリストの弟子となった人々に、聖霊の力が注がれて、信仰を証しし、イエス・キリストを宣べ伝えることができるようにする秘跡です。
すべての信者は、イエス・キリストを宣べ伝え、証しするという尊い使命を授かっております。
もちろん、司祭、奉献生活者は、特別な養成を受け、特にイエス・キリストを証しするという務めを受けておりますが、すべての信者、すべての信徒は、福音宣教者になるという使命を受けています。
イエス・キリストを信じる者は、自分の言葉で、自分の信仰を人々に表し、伝えなければなりません。難しい、特別な言葉でなくとも、自分がイエス・キリストを信じている、その信仰を、自分の言葉で、自分の置かれている場所で、宣言するようにいたしましょう。
それには、勇気がいります。

今日のイエス様のお言葉は、何度も繰り返し、「恐れてはならない」と言っております。有名な預言者エレミヤも、神様から授かった使命の遂行には、大変苦しみを受けましたが、神はエレミヤを、いつも励ましました。

いま、日本の社会で、イエス・キリストを宣べ伝え、証しするということは、どのようにすることでしょうか。不安、恐れがないとは言えないと思います。
しかし、主イエスは言われました。「聖霊を送ります。聖霊の力によって、あなたがたはわたしを宣べ伝え、証しすることができるようになります」。

さて、いまの日本の社会で、どのようなことが大きな問題となっているでしょうか。
いろいろなことがあると思いますが、わたくしが1つ、特に心を痛めていることをお伝えしたいと思います。
それは、日本において、青少年のみなさん、15歳くらいから34歳くらいという数字が出ていますが、このかたがたの自殺が非常に多い。かつて、1998年からでしょうか、14年間に渡って、日本では自殺者、わたしたちは自死者と呼びたいのですが、3万人という数字を伝えていました。

わたくしが、ケルン教区にまいりましたときに、日本の社会のことをお話しなければならなくて、日本は、いま、毎年3万人の人が自殺しているということを言いましたら、数字が1桁違うのではないかという質問がありました。
確認された数が3万人ですから、はっきり分からない人や、未遂者を入れれば、大変な数になります。

政府を初めとする多くの方の努力で、自殺者は減少しました。しかし、若い人の自殺は、それほど減っていない。そして、7ヶ国でしたでしょうか、先進諸国の中で、日本が一番若い人の自殺率が多いです。それには、いろいろな原因、理由がありましょう。病気ということもあるかもしれません。
その中で、1つ、わたくしが大変気にしますことは、自己評価、あるいは、自己肯定感が非常に低い。自分が存在していることの意味が、よく分からない。自分がここにいることに、どのような意味があるのだろうか、明日何か良いことがあるのだろうか、何のために生きなければならないのかが、分からない。他の人とのつながりも、よく見えない。
孤独、自己存在肯定感の欠如、弱さ、そのようなことが、日本の青少年を襲っているという報告がございます。

「あなたがそこにいることは素晴らしいことなのだ、神様は、あなたのことをよく知っていますよ。あなたはすずめなどよりも、余程価値がある存在ですよ。髪の毛1本1本、みな神様ご存知ですよ。あなたのことを神様は毎日見守り、励ましているのですよ。」
そのような信仰を、わたしたちは是非、人々に伝えたい。

堅信を受けられるみなさん、恐らく皆さんの周りには、自分の存在を喜べない、そのようなかたがおられるのではないでしょうか。
そのようなかたがたに寄り添い、そのようなかたがたの心の声に耳を傾け、そして、慰めと励ましを伝え、与えることができますように、聖霊の導きを願いましょう。

わたしたちは、自分の存在が大切であるということは、両親をはじめ、家族から受け継ぎますが、それだけでは足りないように思います。

人間を超えた、偉大な存在、素晴らしい存在、自分がどのようになっても、あなたは大切だと言ってくれる存在、どのような欠点があっても、どんなに失敗しても、あなたがそこにいることは素晴らしいことだ、あなたの生涯には意味があるのだということを言ってくれる存在も必要なのです。
それは、わたしたちが信じる神様であり、その神様をわたしたちに示してくださったかた、それは、主イエス・キリストです。

神は、わたしたちの罪や欠点を、すべて承知の上で、わたしたちを愛し、そして、わたしたちのために、イエス・キリストを遣わしてくださったのです。

今日、その信仰を改めて強くしていただき、そして、みなさんも、ひとりひとり、福音宣教する者となり、そして、この日本の社会で、力強く、イエス・キリストを表し、証しするようにいたしましょう。

そのための聖霊の力を信じ、そして、ご一緒に祈り求めるようにいたしましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読 エレミヤの預言 (エレミヤ20・10-13)
第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙(5・12-15)
福音朗読 マタイによる福音(マタイ10・26-33)

(福音本文)
〔そのとき、イエスは使徒たちに言われた。〕「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。
わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。
むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。
だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

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ペトロの家賛助会感謝のミサ説教

2017年6月24日、洗礼者聖ヨハネの誕生、ケルンホール

[聖書朗読箇所]

みなさん、今日は、洗礼者聖ヨハネの誕生の祭日です。
「祭日」という典礼歴の日は、わたしたちカトリック教会では、非常に重要な日とされています。6月は祭日が多い月です。昨日も祭日で、「イエスのみ心」の祭日でした。
今日は洗礼者ヨハネの誕生から、イエスのみ心までのつながりというものは、何だろうかと考えてみたいと思います。

イエスの誕生は、12月24日とされていますので、その6ヶ月前が今日。そして、更にその3ヶ月前が、おとめマリアが、天使ガブリエルのお告げを受けて、救い主の母になることを承諾し、「お言葉どおり、この身に成りますように」と返事なさった日となっています。
イエスの誕生とヨハネの誕生は、6ヶ月の間があるということになりますが、その誕生の次第を、ルカ福音書はわたしたちに告げている。どうしてこのことを、かなり詳しく述べているのだろうか。
ルカは、マタイとマルコが伝えていない、独自の話をわたしたちに伝えてくださっておりまして、ルカは、イエスの誕生の次第、ヨハネの誕生について述べています。
ヨハネの父親はザカリヤという祭司でして、神殿で神に奉仕する仕事をしていました。ザカリヤに天使ガブリエルが現れたのですが、ザカリヤは天使の言うことを信じなかったので、「事が成就するまで、あなたは口が利けなくなる」と言われて、その通りになった、と出ています。
ルカの福音を読んで、ザカリヤがはっきりと「そのようなことは信じません」と答えたようには読むことができませんが、「わたしは年寄ですし、妻も年をとっていますし、それをどのようにして知ることができるのでしょうか」と答えました。ルカの福音を読んで、ザカリヤがはっきりと「そのようなことは信じません」と答えたようには読むことができませんが、それでも、「わたしは年寄ですし、妻も年をとっていますし、それをどのようにして知ることができるのでしょうか」と神の業に対して前向きではない姿が浮かび上がる答えであったことは事実でしょう。
《信じないから、すぐに口が利けなくなる》と、天使に言われたその辺りの展開が、よく分かりませんが、「口が利けなくなった」ということです。
そして、ザカリヤに子どもが生まれ、ヨハネという名前を付けた。ヨハネという名前は、『主は恵み深い』という意味で、《恵み深い神の賜物》という意味でしょうか。
子どもが誕生し、名前を付けたところで、口がほどけて、神を賛美する賛歌を献げた。それが、『ザカリヤの賛歌』でして、わたくしどもカトリック教会が、毎日朝の務めである祈りの中で、必ず唱える福音の歌、『ザカリヤの賛歌』となっています。「神をほめたたえよ、イスラエルの神を」という言葉で始まります。

おとめマリアのほうは、天使のお告げを受けた後、すぐに旅立ちました。わたしたちは、5月31日に、聖母の訪問の祝日を祝いましたが、その時のルカに福音によれば、マリアはすぐに旅立ちました。エリサベトとザカリヤの家に行った。100キロメートル以上ある、大変な距離ですが、どのようにして移動したのかと思いますが、とにかく行きました。
そして、ヨハネが生まれてから帰ったのでしょうか、エリサベトの家に3ヶ月滞在したのでした。
マリアがエリサベトに会ったときに、やはり神を賛美する賛歌を献げました。教会の祈りの晩の祈りでわたしたちが唱える『マリアの歌』、昔から《マグニフィカート》と言われる賛歌です。「わたしは神をあがめ わたしの心は神の救いに喜びおどる」。このような言葉で始まる、有名な賛歌です。

そこで、今更、気付くことですが、わたしたちが毎日献げる教会の祈り、その中で朝の祈り、晩の祈り、大変重要なお祈りで、朝の祈りのときは、ヨハネの誕生に関係のある『ザカリヤの賛歌』、晩の祈りは、マリアが天使のお告げを受けたときの賛歌、『マグニフィカート』、これを唱えているということです。

洗礼者ヨハネとイエスの関係は、待降節になると、改めて考える機会がありますが、洗礼者ヨハネは、イエスの到来を準備する、先駆者という役割です。
イエスはヨルダン川で、ヨハネから洗礼を受けてから荒れ野に引きこもり、その後「神の国の福音」を宣べ始められた、という展開になります。

ところでその後のイエスの言動ですが、非常に興味深い記述が、マタイの福音などに出ています。
ヨハネのほうは、生涯、絶対に酒を飲まない「ナジル人」であったようです。旧約聖書では、「ナジル人」という、神に特別に献げられた人のことが出てきますが、ぶどうで作った液体は絶対に飲まない人とされている。そして、非常に禁欲的な生活をした。そのスタイルが凄いです。『らくだの毛皮、革の帯』。どのような恰好なのでしょうか。まさに、旧約聖書のエリヤの風貌、食べ物は『いなごと野蜜』と出ています。
それに対して、イエスのほうは悪口を言われた。「大食漢で大酒飲み。徴税人や罪人の仲間だ」。イエスは、ときには、たっぷりごちそうも食べ、ぶどう酒も召し上がっていたらしい。
そして、そのイエスが、ヨハネについて言いました。「女性から生まれた者の中で、ヨハネより偉大な者はいない」。
物凄く褒めたわけですが、それに付け加えて、しかし、不思議な言葉が告げられた。「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」。この言葉の意味がよく分かりません。
一番偉いと言いながら、しかし、『天の国では一番小さい者も、ヨハネよりは偉い』という意味のようです。
イエスが登場し、ヨハネから洗礼を受けた後、「神の国は来た」という福音を宣べ伝えました。
この時を期して、イエスは、洗礼者ヨハネの厳しい悔い改めのメッセージの段階を超えて、わたしたちの教会の誕生につながる、新しい恵みのときの到来を、わたしたちにもたらしたのだろうか、と思います。

今日は、洗礼者ヨハネの誕生、そして、昨日はイエスのみ心の日を祝いました。荒れ野で叫ぶ声であるヨハネ、あのような生き方は、わたしたちにはとてもできないと思いますが、わたしたち、弱い者、そして、罪人であるわたしたちを、温かく包み、受け入れる神のいつくしみを、主イエス・キリストは、わたしたちに示してくださったのではないかと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ49・1-6
第二朗読 使徒言行録13・22-26
福音朗読 ルカ1・57-66,80

(福音本文)
さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。
ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。
すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。
幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

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ベタニア修道会創立80周年記念・ミサ説教

2017年6月23日、イエスのみ心の祭日、徳田教会

[聖書朗読箇所]

本日、イエスのみ心の祭日は、ベタニア修道女会の創立80周年の日であります。
イエスのみ心は神の愛、イエスにおいて現われた神の愛を表しています。イエスはまことの人間として、人間の心を持って人を愛しました。イエスのみ心は、イエスの人間としての愛を示しています。
1675年、フランスのマリア訪問会の修道女マルグリッド・マリー・アラコックにイエスが出現し、ご自分の心臓を示しながら、人々の忘恩を嘆いていわれました。
「聖体の秘跡において受けたすべての辱めを償うために、聖体の祭日の次の金曜日に祝日を設け、償いのために聖体拝領をしてほしい。」
イエスのみ心への信心は聖人たちの働きによって多くの人々へ広がり、「聖心」の名を用いた修道会や信心会が多数創立されたのでした。

今日の第一朗読、申命記でモーセは言っています。
「(神は)ご自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。」(申命記7・9-10)
そうは言っても、イスラエルの民は、なかなか神の戒めと定めを守ることができませんでした。そこで、神は、同時に自らを、この弱く脆く間違いを犯す人間を赦し受け入れる神として自らを表します。この神の愛は、いわば傷つき迷うわが子を受け入れ癒す母の愛であると、言えましょう。
旧約聖書から新約聖書の流れの中で次第に、神の愛は同時に「赦す愛」であることが明らかにされます。「赦す愛」はイエス・キリストの十字架において最高潮に達しました。槍で貫かれたイエスのみ心は人々の罪を担い、罪を赦す神の愛を示しています。

イエスは言われました。「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11・28)
イエスの愛はわたしたちを招く愛です。イエスは「わたしのもとに来なさい」といい、さらに「わたしの軛(くびき)を、負い、わたしに学びなさい。」(マタイ11・29) 
実はわたくしには、このイエスの言葉は、聖マルグリッド・マリー・アラコックに告げられたイエスの嘆きの言葉を想起させるのです。
イエスの愛は罪人を受け入れ包む愛、いわば母の愛ですが、イエスの与える軛(くびき)を負うことを、そしてイエスに学ぶことを求める愛です。
キリスト教の教えを一言で言えば、「神は愛」ですが、神の愛は人の歩む道である戒めを教え導く愛であり、また同時に弱さと過ちの中で迷い苦しむ人間を包み癒し救う、母のような愛でもあります。
今日の第二朗読、ヨハネの手紙で、使徒ヨハネは繰り返し「神は愛である」と宣べ、互いに愛し合うよう求め、語っています。キリスト教が人々へ伝えたい命題は結局「神は愛である」という短い信仰告白にまとめられます。聖書はすべて神の愛を語ります。

さて、キリスト教が日本に伝えられたとき、キリシタンの時代福音宣教者は現在「愛」と訳されているギリシャ語の「アガペー」という言葉をどのような言葉に言い換えるか、を問題にしました。
仏教では、「愛」は、「執着、妄執、欲望」などに結び付く、否定的な意味をもつ言葉であったからです。そこで福音宣教者は「ご大切」という言葉を採用した、と聞いています。
明治時代になって宣教が再開された時、そのような過去は忘れ去られて、「アガペー」は「愛」と訳されて今日に至っています。
現在でも「愛」は不適当である、という意見があります。その理由は、仏教の「愛」とは別な理由によるようです。それは、「愛」とは上から下への愛情、親から子へ、主君から家来へ、男性から女性への愛情・行為・施しを上から目線の愛を意味するとされているからです。
確かに以前はそういう面がありましたが、それは昔のこと、現在では、対等な人間関係の愛情を表す場合に使われています。
「個人の立場や利害にとらわれず、広く身のまわりのものすべての存在価値を認め、最大限に尊重していきたいと願う、人間本来の豊かな心情」という説明があります。(『新明解国語辞典』)この説明は優れてキリスト教的であると言えましょう。

「愛する」を「大切にする」とする方が適切かもしれませんが、もう定着している「愛」の意味を相応しく理解し使用できれば、「愛」でよい、と考えます。
「神は愛です」を「神は大切です」とは言い難いのでどう表現するのか。強いて言えば、「神は、人をはじめ存在するものをすべて大切に思っている」となるのでしょうか。

聖書朗読箇所

第一朗読 申命記7・6-11
第二朗読 一ヨハネ4・7-16
福音朗読 マタイ11・25-30

(福音本文)
〔そのとき、イエスはこう言われた。〕
「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

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京葉宣教協力体合同堅信式説教

2017年6月18日、キリストの聖体の祭日、市川教会

[聖書朗読箇所]

今日は、キリストの聖体の祭日です。
ヨハネの福音の6章が読まれましたが、イエスの言葉は、ユダヤ人には躓きであり、弟子たちにも、受け取りにくい言葉でした。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を受ける」(ヨハネ6.54)
と言われました。

ユダヤ人はびっくりした。「どうして、この人の肉を食べたり、血を飲んだりすることができるのだろう。冗談じゃない」という感じであったかもしれません。
弟子たちも、「一体、何をおっしゃっているのだろう。分からない」と思い、多くの弟子たちは、「もう、付いて行けない」と、イエスから離れて行った。
イエスは、十二人の弟子に向かって聞きました。
「あなたがたも、わたしから去って行くのか」。
「いいえ、わたしたちはあなたに従います。あなたをおいて、だれのところへ行きましょうか」。

ペトロが格好良く答えた。ペトロはそのように言ったが、イエスの言葉の意味、真意を理解していたわけではなかった。でも、この先生に付いて行く。そのような気持ちを、なお強く持ち、その決意を表明しました。

この前の日曜日の福音は、三位一体の主日の福音でして、どのような内容であったかと言いますと、
「神はこの世を愛し、わたしたち人間を愛された。そして、ご自分の命に招いておられる。非常に愛して、掛け替えのない独り子、イエスをお遣わしになった。イエスを信じる者が、みな、永遠の命に至るようにと、お考えになった。」
そのような福音でした。

今日は、その続きです。神様は、すべての人を、ご自分の「いのち」に招く。ご自分の幸せに招きたい。
ただ、その神様のお気持ちを知り、そして、受け入れ、感謝しなければ、人は、神の「いのち」に与ることができない。
受け入れようとしない、信じようとしない限り、神様といえども、人を強制することができない。人の心を、無理に動かすことはなさらない。
それでも、神様は、人が信じてくれるように、あらゆる手立てを尽くされた。そして、ナザレのイエスという人を遣わし、人々に、神の国の福音を説き、更に、イエスがご自分の体を十字架につけられること、十字架の上で、御血を流すことさえ、拒まれませんでした。
弟子たちは、後になって、このイエスの言葉の意味を悟ったのでしょう。

今日、キリストの聖体の日、ご聖体をわたしたちは信じ、ご聖体拝領をいたします。ご聖体は、ミサの中で、司祭によって聖別される。司祭の唱える聖体制定の言葉も、司祭は必ずこの言葉を唱え、みなさまは必ずその言葉を聞き、そして、その後、司祭が「信仰の神秘」と言います。

司祭の唱える言葉は、それは、どのような言葉でしょうか。
「皆、これを取って食べなさい。
これは、あなたがたのために渡される
わたしのからだである。」
《イエスのからだ》、それは、あなたがた、つまり、わたしたちのために、十字架につけられる体です。

「皆、これを受けて飲みなさい。
これは、わたしの血の杯、
あなたがたと多くの人のために流されて
罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である。」

この言葉の中に、わたしたちの信仰の中心が凝縮されています。
イエスが十字架にかかり、そして、血を流されたのは、わたしたちの罪の赦しのためです。
わたしたちは、罪の赦しをいただきます。罪の赦しをいただくわたしたちは、心からの感謝を献げましょう。
ミサは、感謝の祭儀とも言います。ミサというのは、神様の恵み、イエス・キリストのみわざに、心から感謝を献げる。一緒に感謝を献げ、神を賛美する、典礼の儀式です。

神様は、わたしたちをご自分の「いのち」に招く。しかし、わたしたちは、どんなに頑張っても、神様に完全に満足していただけるような、神様のみこころに適うような人間になることができないのではないか。聖書の歴史は、人々が神様の招きに応えきれない、それどころか、神様の招きを拒む人々の歴史でした。

わたくしは、若いとき、キリスト教に出会い、信者になり、そして、司祭になりました。
信者になったときの気持ちを思い出してみると、あのときの方が熱心であった気がします。進歩しているはずだが、そのような実感がない。人には、神様の教え、イエス・キリストの教え、聖書の教えを説いていますが、自分の説いている信仰をどれだけ、実行できているだろうか。本当に恥ずかしい。
そのような自分でも、神様は、赦し、受け入れてくださっている。罪の赦し、そして、わたしたちに永遠の「いのち」を与えてくださる。その信仰で、わたしは、毎日歩んでいるのだ、と思います。

今日、堅信を受けられるみなさん、この世界の中で、キリスト教の信仰を守って生きるということは、決して易しいことではない。
イエス・キリストは、いつも、わたしたちとともにいてくださる。そして、励まし、力付けてくださいます。
それは、聖霊の派遣によります。堅信は、聖霊の賜物を授け、生涯に渡って、イエス・キリストの弟子として、力強く歩むことができるようにしてくださる秘跡です。

今日の堅信式を、生涯思い起こし、大切にしていただきたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 申命記8:2-3、14b-16a
第二朗読 一コリント10:16-17
福音朗読 ヨハネ6・51-58

(福音本文)
〔そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。〕「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。
イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

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吉祥寺教会堅信式説教

2017年6月11日、三位一体の主日、吉祥寺教会

[聖書朗読箇所]

聖霊降臨の次の主日が、今日、三位一体の主日です。
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」。
いま、読まれました、第二朗読の中にある、このパウロの言葉が、わたしたちのミサの開祭のときに、司祭が唱える招きの言葉となっており、わたしたちの、「父と子と聖霊」の神への信仰告白を表しています。

ヨハネ福音の3章、この箇所は、ヨハネの福音の中でも、よく知られている箇所です。イエスとニコデモとの対話の延長の中で、イエス・キリストの教えの中心、真髄となる教えが告げられています。

第一朗読で述べられていますように、父である神、イスラエルの神は、いつくしみ深い神です。
『いつくしみの特別聖年』を、わたしたちは献げましたが、その、神のいつくしみは、御独り子、イエス・キリストの派遣、その生涯によって、完全にあらわされました。

御父は、独り子、主イエスを世にお遣わしになり、そして、わたしたちと同じ人間とされ、御子の十字架の死を耐え忍ばれました。それ故に、主イエスがすべての人のために、救い主となられたのです。
神が独り子をお遣わしになったのは、すべての人が救われるため、すべての人がイエス・キリストを信じて、永遠のいのちに至るためです。
御子、イエス・キリストを信じる者は、永遠のいのちに移され、そして、神のいのち、救いにあずかる者とされます。ここに、わたしたちの信仰告白の中心があると思います。

今日、堅信を受けられるみなさんは、この教会の信仰を人々にのべ伝えるという使命を授かり、そして、そのために必要な恵み、聖霊の賜物をお受けになるのです。

改めて、今日ご一緒に考えてみましょう。
わたしたちは、何を信じているのか。どのように信じているのか。わたしたちの信仰を、自分の言葉と自分の生活であらわし、伝えなければなりません。自分の心で受け止めた、神の言葉。それを、自分の言葉で、人々に分かる言葉であらわし、伝えなければならないと思います。

わたしたちは、信仰講座、入門講座などに出席し、入信の秘跡を受ける準備をして、洗礼を受けました。その際、いろいろな言葉で信仰の説明を受けたと思います。そのわたしたちの受けた信仰を説明する言葉を、更に、自分の心の中で咀嚼し、自分の血肉とし、そして、自分の言葉で、人々に伝えなければならない、と思います。
もし、自分の言葉で自分の信仰を伝えるとしたら、どのように述べたら良いのかということを、今日、堅信を受けられるみなさんは、特に考えていただきたい。

福音宣教ということは、司祭や奉献生活者だけの任務ではなくて、洗礼を受け、堅信を受けた人、全員の務めですので、自分であれば、このような言葉で自分の信仰をあらわし、伝えるということを、考え、用意していただきたい。
信仰をあらわし、伝えるということは、まず言葉により行われますが、行いによって、自分の信仰をあらわすのでなければなりません。

わたしたちの信仰の中心には、「神は愛である。」という信仰告白があります。この信仰はわたしたちの心に注がれている聖霊の働きによります。その、神の愛を信じているわたしたちが、自分の生活の中で、神の愛をあらわし、実行しなければ、神の愛が人々に伝わっていくことは難しいでしょう。

言葉と行いが一致しない人の信仰を、人々は、なかなか認めてくれないのではないかと思います。

日本カトリック司教協議会は『いのちへのまなざし』増補新版、という教えの書を発行しました。これは2001年に出した、日本の司教たちの教えを、大幅に書き改めたものです。
是非、みなさんに読んでいただきたい。

その中に出てくる項目のひとつに、《子どもの貧困》という言葉があります。
豊かな国であると思っていた日本で、いま、子どもたちが、貧困という状態に置かれています。《相対的貧困率》いう言葉が出てきていますが、子どもたちの何割かは、人間の基本的な必要、「食べること」「治療を受けること」などにおいて、非常に足りない状態に置かれている。「教育を受ける機会」も不十分である。そのようなことが、いろいろなデータから説明されている訳です。

更に、もうひとつ、わたくしの心に訴えている事実は、日本の子どもたちは、「自分に価値がある」という思いを持つことが少ない。自分を肯定する気持ちが弱い。「自分は大切な存在だ」、「自分は必要とされている」、「自分は人のために役に立つ人間だ」などという思いを、なかなか持つことができない子どもが増えている、というように報告されています。

神の愛、それは、すべての人に注がれる愛であり、「どのような人も、あなたは大切な存在であり、あなたは必要とされる存在なのですよ」ということをあらわし、伝えています。

日本の教会の宣教ということを、毎日考えておりますが、わたしたちの教えは、もしかしたら、説明が難しいのかもしれません。

しかし、わたしたちが、本当に信じている神の愛を、毎日の生活の中で実行するならば、ひとりひとりの人が、価値のある、かけがえのない存在であるということを、言葉と行いであらわし、伝えていくならば、多くの人は、わたしたちの生き方を認め、そして、わたしたちと一緒に歩んでいただけるようになるのではないでしょうか。
そのように、言葉と行いにおいて、神の愛、イエス・キリストの教えを実行することこそ、日本の福音宣教、福音化の務めであると、わたくしは思い、今日、堅信を受ける方々は、是非、「あなたの福音宣教は、どのようにすることなのか」ということを、具体的に考えていただきたいと思います。
よろしくお願いします。

聖書朗読箇所

第一朗読 出エジプト記 34:4b-6、8-9
第二朗読 二コリントの信徒への手紙 13:11-13
福音朗読 ヨハネによる福音書 3:16-18

(福音本文)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。

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合同堅信式ミサ説教

2017年6月4日、聖霊降臨の祭日

[聖書朗読箇所]

今日、わたしたちは、聖霊降臨の日を迎え、2017年の合同堅信式を行います。

いま、ヨハネの福音の20章による聖霊降臨の次第が読み上げられましたが、堅信の秘跡は、弟子たちが受けた、「聖霊降臨」という素晴らしい出来事を、わたしたちに与え、伝える秘跡です。

聖霊降臨の様子は、使徒言行録、第一朗読で伝えられました。それに対して、ヨハネの福音は、復活と聖霊降臨の出来事を、あたかも、1つにつないでいるかのように語っています。

ここで注意したいことは、弟子たちの変り様です。弟子たちは、恐れ、おののき、不安な状態にありました。ユダヤ人を恐れていた。そして、恐らく、先生、イエスを見捨ててしまった。裏切ってしまったという、後ろめたさ、あるいは、負い目を持っていたからではないでしょうか。

そのイエスが、彼らの隠れ家に現れて、
「あなたがたに平和があるように」と言ってくれた。
「弟子たちは、主を見て喜んだ」とあります。
この喜びの体験が、わたしたちの教会の出発にあります。

わたしたちは、言わば、この弟子たちの喜びの体験を、いまここで追体験して、また派遣されていくのであります。
復活したイエスは、弟子たちに、息を吹きかけて言われた。
「聖霊を受けなさい。」
聖霊、聖なる霊です。霊とは息です。そこで今日のヨハネが言う「聖霊」とは、イエス・キリストの息によって表されています。
わたしたちも聖霊を受け、聖霊によって、罪を赦し、そして、使徒としての働きを行うための力を受けます。
ヨハネの福音は、使徒たちが受けた経験を伝えておりますが、使徒たちの体験を、教会は多くの人に延長させました。
その結果、特定の人だけの体験ではなくて、数え切れない多くの人々、場所と時間を越えて、まったく同じ恵みが与えられるようにと、典礼が執行され、秘跡が与えられるのです。
この後、洗礼の約束の更新をしていただきます。そのとき、司式者がお尋ねする言葉、それは、まず、「悪霊と、そのわざと誘惑を退けますか」ということです。
洗礼を受けたときに、みなさんは、ご自分で、あるいは、代父、代母を通して、「退けます」とお答えになりました。そして、信者としての歩みを続けて来られました。
「誘惑を退ける」という約束をしたわけですが、この世の中には、さまざまな誘惑があります。誘惑というのは、外にある問題だけではなく、わたしたちの心の中にもある問題です。
本当に、誘惑を退けて来たのだろうか。そのようなわたしを、神は赦し、受け入れてくれるだろうか。そのような思いが、わたしたちの胸をかすめるかもしれません。

使徒たちが受けた使命、それは、「罪の赦し、神の愛を伝える」という使命です。同じ使命を、わたしたちも受けています。わたしたちの教会は、「罪の赦し」ということを、非常に大切に教えている。
洗礼によって、すべての罪の赦しを受けました。しかし、それで、罪の問題が終わったわけではなく、わたしたちは何度も、また「罪の赦し」を受けなければならない。
このようなわたしを、本当に神様は愛してくれているのだろうか。
「罪」という言葉も、場合によっては分かりにくい。主の祈りで、「罪をおゆるしください」と祈りますが、「負い目」をおゆるしください、とも翻訳されています。
「負い目」と言った方が、わたしたちの文化の中では分かりやすいかと思います。
もっと分かりやすいのは、「恥」という言葉です。「恥」と「罪」は同じであるとは言えませんが、「恥」という言葉を、わたしたちは、非常に敏感に感じることができるからです。
この罪深い、恥ずかしい、このわたしを、神は、それでも愛し、受け入れ、赦してくださる。
この信仰を持って、日々歩みます。罪を犯す人間であるわたし、そして、罪であるかどうかは別として、弱い、もろい、わたしたちです。そのわたしたちが、イエス・キリストの弟子として、歩むことができるように、聖霊の助けが与えられる。
それが、今日の堅信式です。

今日のミサの奉献文の中では、一つの言葉が付け加えられています。
即ち、「今日、堅信の秘跡を受け、聖霊を注がれた人々が、主イエスの弟子として、歩み続ける恵みをお与えください。」という言葉です。

「『人を愛する』ということは、大変なことです。人間にはできなくとも、神にはできないことはない。
そのおかげで、この至らないわたしが、神様から愛されている者であり、周りの人から大切にされ、赦してもらっている存在であるということを、思い起こしましょう。
そのおかげで、この至らないわたしが、神様から愛されている者であり、周りの人から大切にされ、赦してもらっている存在であるということを、思い起こしましょう。
そのようにしていただいているのだから、わたしたちもそのようにできるはずだし、そのようにしなければならないと思います。

更に、日本の社会で、わたしたちはこのような愛を表し、伝えていかなければならないと思います。
ここに一つの本があります。日本カトリック司教団発行『いのちへのまなざし』(増補新版)。これは、いまの日本の社会、家庭で、「いのち」というものが、どのような問題にぶつかっているのか、そして、どのような課題があるのかということを、分かりやすく、丁寧に語っている、司教全員の合意による教えの文書です。
これを、今日、堅信を受けられるみなさんは、特にお読みになり、ご自分の生活の中で、一つでも良いですから、何かいのちを大切にするために、実行するようにしていただきたいと思います。
ひとりでお読みになるのではなく、ご一緒に読んで話し合うということもできれば、更に良いことです。
よろしくお願いします。

聖書朗読箇所

第一朗読 使徒言行録2・1-11
第二朗読 一コリント12・3b-7,12-13
福音朗読 ヨハネ20・19-23

(福音本文)
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。
弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

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アレルヤ会総会ミサ説教

2017年5月31日、聖母の訪問の祝日(復活節第7水曜日 )
カテドラル地下聖堂

[聖書朗読箇所]

今日、5月最後の日の31日は、聖母の訪問の祝日です。
マリアは天使のお告げを受け、「お言葉通り、この身に成りますように」とお答えしたそのすぐ後、「急いで山里に向かい、ユダの町に行った」とルカの福音が述べています。
今まで何気なくこの個所を読んできましたけれども、ふと、ここで立ち止まると、これはどのようなことなのだろうかと考えてみました。

マリアは、ナザレに住んでいました。ナザレという所から、ユダの町を通って、ザカリアの家に入って、エリザベトに挨拶した、とルカの福音が言っています。
すると、ザカリアの家はどちらにあるのか。エルサレムから、更に先の方です。距離はどれ位あるのか。どのようにして、そちらまで行ったのか。ひとりで行ったのか。誰かが一緒だったのか。・・・福音書には何も書いてありません。
ここでルカの福音が語る《善いサマリア人の話》を思い出します。旅人がエルサレムからエリコへ下る道で追い剥ぎに会って、半死半生の目に合ったという出来事です。(ルカ10・30-36)参照)そのような危険に出くわすかもしれないエルサレムへの道を若い女性が、一人でどのように通過したのだろうか、と考えてしまします。
そのようなときに、どのように説明されているのかということを調べると、著者はあまり、そのことは気にしていないようです。ある人は、「これは後から作り上げた伝説である」と、そのひと言で片付けてしまいます。

「あなたは救い主の母になるでしょう」、と言われて、マリアは、
「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えた。
非常に、重大な瞬間でした。その後、すぐのことのようです、彼女はて旅立つって長い間故郷を留守にするわけです。誰かと相談して決めたのでしょうか。
そもそも、ヨセフという人との話し合いは、どのようになっていたのか。あるいは、マリアの家族はどうであったのか。エリザベトは親戚でした。洗礼者ヨハネの母になるわけですが、妊娠して6か月経っているということです。
聖書に出ている地図から、おおよその距離を測ってみると、100キロメートルは優にあると思います。歩いて100キロメートル移動するとしたら、何日位かかるでしょうか。
「ヨセフとマリアとイエスの一家は、毎年、過越しの祭りのために、エルサレムまで巡礼していた」(ルカ2・41参照)と出てきます。その巡礼のときにイエスは行方不明になった。親類や知人の間を探し回ったどこにも見当たらなかった。三日の後やっと両親はイエスを神殿の境内で見つけたのでした。
この話から分かるように、何日もかかって、ナザレからエルサレムの間を巡礼するわけです。往復するわけですから、かなりの日数を使っていたと思います。
エリサベトの家は更にその先なのですから、本当に身軽に、長い道のりを出掛けて行って、エリザベトの家に到着することになりました。

わたしたちは、マリアという人を、どのような人と考えているのか。そのイメージはどのようなものであるか。まだ、イエスを産む前の、少女と言って良い、ナザレという寂しい集落で生まれ育った少女は、どのような人であったのか。
この場面から考えるに、非常に決断が速いし、行動する人であったというように思われます。

更に、今日のルカの福音に出てくる「マリアの賛歌」、これは、教会が非常に大切にしているお祈りでして、教会の祈り(聖務日課)の晩の祈りで、毎日唱える祈りです。
最初の言葉は、ラテン語で「マグニフィカート」と言います。これは「あがめる」という意味の言葉です。
この中で、何が言われているかと申しますと、丁寧に読んでみると、福音的と言うのか、あるいは、革新的と言って良いのか、そのような内容が述べられている。
「思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」。
即ち、「当時の社会の在り方は、神様のみこころに適っていない。いわば、当時の社会の在り方をひっくり返さなければならない」、と言っています。
人々を押さえつけ、締めつけ、そして、搾り取っている、支配階級の人たち、そのような人たちは、引きずり下ろされなければならない。貧しい人、飢えた人が大切にされ、そして、権力ある人、富んでいる人は、その力をしない、低くさえなければならない。「それが神様のみこころですよ」と言っているようです。
日頃、意識してそのように、この祈りをしていないかもしれないが、実は、少女マリアを通じて、神様が告げられたこと、それは、「いまの社会の状態は、神様のみこころに適っていない。いまの支配階級の人は、神様のみこころに適っていない」と宣告していることになります。
今日の第一朗読の言葉も併せて、考えてみましょう。
「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」(ロマ12・9)
尊敬をもって互いに相手を優れた者と思う。これは、易しいことではないと思います。わたしたちが、すぐにできることは、人を見下すことでして、相手が駄目だという判断は速いのですが、相手を優れた者と思うことは、なかなかできないことです。
人の欠点を見つけることは得意ですが、人の良い所、優れた所を見つけるということは、わたしたちは、あまり得意ではない。

「いつくしみの特別聖年」がありました。昨年の11月20日に終了しましたが、フランシスコ教皇は、何度も繰り返し、「どのような人にも与えられている、神様の似姿、神の美しさ、神様の恵みを認め、それを尊重するようにしなさい」と言っておられます。
今日は5月31日、聖母マリアを祝う日ですが、今日の福音から、おとめマリアが、この聖書の教え、旧約聖書を貫いている、あわれみの神の教えに、深く分け入った人ではなかったかということを、分かち合いたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 ローマ12:9-16b
福音朗読 ルカによる福音1:39-56

(福音本文)
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。
エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
そこで、マリアは言った。
「わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、
その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、
憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

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築地教会歴代大司教記念ミサ

2017年5月28日、主の昇天、築地教会

[聖書朗読箇所]

イエスは復活された後、40日間にわたって弟子たちのところに現れました。そして今日の福音が伝えておりますように、40日目に天の御父のもと戻って行かれました。
40日ですから、この間の木曜日が昇天の祭日ですが、日本の教会はその次の主日(復活節第7主日)をもって昇天の日とすることになっています。
イエスは昇天に際して弟子たちにお命じになりました。「すべての民を私の弟子にしなさい、洗礼を授けなさい、さらにイエスが教え命じたことを守らせなさい。」そのご命令を私たちは承って、教会の務めを果たしているのであります。
イエスは「私は世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる」と言ってくださっています。今日はこのみ言葉をご一緒に味わいたいと思います。

第一朗読では、イエスは弟子たちが証人となると言われました。何の証人になるのかと言えば「わたし」の証人、イエスキリストの証人となるということです。そして、そうであるように力が与えられる。その力は聖霊によって与えられるのです。
さらに第二朗読では「教会はキリストのからだです」と教え、わたしたちは聖霊を注がれた者、聖霊によって満たされている者、聖霊の力を受けている者であり、主イエスのご命令を実行することができる者とされています。
ですからわたしたちはイエスの弟子として生きるようにされていますが、他方わたしたちは弱い人間であり、失敗をしたり病気になったりします。

10年ちょっと前のことですが、私は非常に困難な体験をいたしました。肉体的にも精神的にもだいぶ衰えた状態になったので、お医者さんのところに行きました。その時に読むようにと勧められた本があります。
その本の最初の言葉は「人生とは困難なものである」でした。もともと英語で書かれたものなので原文も読んでみようと思い、手に入れました。
最初の言葉は英語ですけれども「Life is difficult」。

私たちはこの世界で様々な困難に出合います。仏教では四苦八苦と教えています。四つの苦しみに四つ加えて八つの苦しみ。仏教の教えは本当に人間の真実を突いており、教えているとつくづく思います。生・病・老・死のあと四つありますが、人間は生まれてから死ぬまで苦しまなければならない。
先ほど申し上げた本の著者も仏教の教えに触れています。そして、「人生は困難である」ということを知る者は困難に立ち向かい、困難を乗り越えることができる。だから人生の真実を見つめなければならないと教えています。

皆様の困難はどのようなものか。それぞれ困難があると思います。困難のない人はいません。地上にいる間、わたしたちはいろんなことで苦しみ、悩まなければならない。そして他人の悩み苦しみを知らなければならない。自分が苦しんでいるならば、他の人も苦しんでいる。それを知らなければならないですね。

このわたしですが、私と一緒に働いてくださっている司祭の皆さんも、病気になったり、召されたり。非常に困難な状況にあります。どうしたらよいのだろうかと思いつつ、「あなたは終わりまであなたと共にいるとおっしゃいましたね」、「あなたはどこでそうしてくださっているのですか」、と自問自答で、ご聖体の前で祈ります。

「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいます」、こんな時にこそわたしはあなたの側(そば)にいる。イエスはもう天の父のもとに行ってしまった、この世の煩わしいことからすっかり手を引いて、「さようなら、もう関係ありません」、という意味ではなくて、わたしはあなた方と一緒にいる。これから去っていく人が「あなたがたと一緒にいる」というのは矛盾しますが、この世界で一緒にいてくださっている。それは聖霊という神様の力によるのです。

わたしたちは三位一体の神を信じています。父と子と聖霊の神を信じています。この聖霊によって、聖霊の照らしによって、わたしたちと一緒にいてくださっている。闇があっても、その闇の中に灯される灯火、その灯火を通して、人間の弱さ、あるいはこの地上の困難の中に神の力が働いています。そのようにわたしたちは信じます。

この日本という国や、この世界中に日々起こっている様々な事件、問題、困難。その中に神の力が働いている。そう信じています。そして「すべてはわたしがまた地上に来る時に終わります。いっさいの問題はそこで終了します」と言われます。その時までわたしたちは、それぞれ自分の務めを果たさなければならない。それは「自分の務め」です。他の人の務めをとやかく言うよりも、まず自分の務めをしっかり果たしましょう。

東京教区の歴史を振り返り、ここに写真がある歴代の大司教様もさまざまな困難に遭い、務めを果たされました。
心から感謝を申し上げるとともに、わたしたちもそれぞれ自分の務めを誠実に果たすことができますよう、聖霊の恵みを願いたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 使徒言行録 1:1-11
第二朗読 エフェソの信徒への手紙 1:17-23
福音朗読 マタイによる福音書 28:16-20

(福音本文)〔そのとき、〕十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

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内山賢次郎師納骨式説教

2017年5月27日、復活節第6土曜日 、府中墓地

[聖書朗読箇所]

今日、5月27日、復活節第6土曜日に内山神父様の納骨の儀を行うために、わたくしどもは府中墓地に集まっております。内山賢次郎神父様は、2017年2月24日に帰天されました。

ペトロの家に移られたのは、2012年4月30日でございますので、5年ほど、わたしたちと一緒に生活いたしましたが、神父様は、ペトロの家に最後まで住んで、そして神様のもとに旅立ちたいというご意向をはっきりと表明しておられましたので、わたくしどもは、神父様を看取ることにいたしました。

ちょうど、亡くなった日、わたくしは神父様のお部屋に伺いましたが、その後、会議が始まるので、お部屋を離れていましたが、その間に、息を引き取られました。
ご自分の部屋で最後を迎えられた神父様は最近ではまれなことでございました。

司祭になられた日は、1954年12月21日でございます。白柳枢機卿様とご一緒に叙階されたと聞いております。
長い司祭の生涯、東京教区の司祭として、わたくしどものために、そして、多くの人々への福音宣教のために、生涯を尽くしてくださいましたことを、改めて感謝申し上げます。そして、神父様に協力し、神父様を支え、神父様のためにお祈りいただいたみなさまに、改めて心より御礼申し上げます。ありがとうございました。

いま読まれた、ヨハネによる福音でイエスは言われました。「わたしの名によって父に願うならば、父はその願いをかなえてくれる」。
わたくしたちは、毎日、イエス・キリストのみなによって、お願いをしております。

今日、まずお願いしたいことは、内山神父様の司祭としての生涯に、神様が目を留め、豊かな報い、そして安息をお与えくださいということでございます。

先ほど、これから神父様をお納めするお墓の方に行ってみましたが、既にわたくしどものもとから旅立たれた、多くの司教、司祭方が、主のみもとで、本当に心から安息を得られますようにと、合わせてお祈り申し上げたいと思います。

更に、東京教区の教区司祭、あるいは、東京教区で働いてくださっている司祭、働いてくださった司祭方、いろいろな病気など、困難な状況に置かれている方もいらっしゃいます。一日も早い回復をお祈り申し上げます。

いま、日本のカトリック教会、日本に福音がもたらされて、そろそろ500年に達しようかという時期、なかなか宣教というものが、進展しない、進展しているのかもしれないが、目に見える、はっきりとした結果は見られません。しかし、わたしたちが日々誠実に生きるならば、そのこと自体が立派な福音宣教、福音化の働きであると思います。

日本では、明日が昇天の日ですが、昇天のときにイエスは言われました。「あなたがたは地の果てまで、わたしの証人となる」。
復活したイエス・キリストの証人となる。イエス・キリストは復活された。そして、更に、聖霊を送り、わたしたちとともにいてくださる。世の終わりまで、わたくしたちを導き、支え、励まし、力づけてくださる。わたしたちは、そのように信じております。

いろいろな困難、問題の中で、更に、この信仰を強くしていただけますように。そして、既にわたしたちの中に差し込んでいる、イエス・キリストの復活の光、そして、聖霊の働きに信頼し、信仰を強くし、希望を持って、神の国の到来のしるしとなって行きたいと思います。

内山神父様の葬儀のときに、お渡ししました、このご絵、カードには、マタイの福音の言葉、6章33節「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」という聖句が記されております。

内山神父様は、この言葉をモットーとして生きられた司祭です。

わたしたちも、更に、決意を新たにし、日本において、東京教区において、神の国は既に来ているのだということを、言葉と生活、行いで、指し示すことができますよう、ご一緒にお祈りをお献げいたしましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読 使徒言行録 18:23-28
福音朗読 ヨハネによる福音書 16:23b-28

(福音本文)(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。
わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」

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日本カトリック管区長協議会2017年中ミサ説教

2017年5月19日(金)、復活節第5金曜日
御聖体の宣教クララ会修道会中軽井沢修道院

[聖書朗読箇所]

(説教の要旨)
ことしの総会のテーマは「宗教改革500周年を迎えて」となっています。わたくしは司教協議会でエキュメニズム部門を担当しておりますので皆さんから招待を受け昨日午後からですが参加いたしております。

本日の福音朗読、ヨハネによる福音15章で主イエスは言われました。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ15・16-17)

わたしたち司祭、修道者は主イエスの呼びかけを受け、呼びかけに答えて、選びを受けて、いま司祭、修道者の召命の道を歩んでいます。実は宗教改革者となったマルティン・ルーテルも熱心な修道者でした。

ちょうど500年の1517年、修道者マルティン・ルーテルは当時のカトリック教会の在り方を批判する95箇条の提題を発表しました。この出来事が宗教改革の発端となったのです。
マルティン・ルーテルはアウグスチヌス会の修道者でした。かれは熱心に祈り、苦行を行い、また聖書の勉学に励みました。
ご存知のようにルーテルはのちに原文から聖書のドイツ語に翻訳した最初の人です。彼の翻訳に採用されたドイツ語はドイツ語の統一に大きな貢献をしたといわれています。
それはともかく、彼はどんなに祈っても、自分の救いの確信、個々の平安を得ることができませんでした。
そのような状態で聖書の講義を行うことは彼に大きな苦悶をもたらしたのです。どんなに努力しても心の中の不安消えない。神に喜んでいただけるような清らかで罪のない自分にはなれない。
そのような嘆きのなかであるとき、ある聖書の言葉があたかも天啓かのように彼の心に響いてきました。それが、神は罪人の罪を覆い罪を赦し、義と認めてくださる、という「義認」の教えの根拠となりました。
神は罪のある人をそのまま赦し受け入れてくださるという信仰に入ることができたのです。(1)

さて第二ヴァチカン公会議を経て、カトリック教会とルーテル教会との間に対話が始まり、50年の期間を経て、今日では「義認」の教えについては、基本的の両者の間に合意が成立しています。強調点の違いや言葉の使い方の違いはあります。しかし、次の信仰理解において違いはありません。
人は神の神による罪の赦しを信じることにより神から義とされるのです。信仰は神の恵みです。神の恵みなしに人は救に入ることができません。信仰も神の恵みによって与えられるのです。

ところで「罪」という言葉の理解には微妙な違いがあることが明らかになりました。ルーテルは、洗礼後の人間の中に残っている欲望(concupiscentia)自体を罪とみなしていました。
カトリックでは「罪」とは主体的な神への反抗と考えますので、欲望自体は厳密な意味の罪とはみなしません。しかし人間には罪への傾向が残っています。
乱れた欲望は罪の原因となりますので、人は絶えず祈りと犠牲をもって悪と戦い、自分を聖霊の導きのもとに置かれていなければならないのです。人の生涯は聖霊の導きによる罪との戦いです。(2)

欲望を完全に制御することは困難です。義人も日々小罪を犯すと言われます。「自分には罪がない、と言うなら、自らを欺いており、…神を偽り者にすること」(一ペトロ1・8-10)になります。日々唱える主の祈りの「わたしたちの罪をおゆるしください」はわたしたちの心からの真実の願いであるはずです。
そうではあっても人は既に死から命へ、神の恵みの中に置かれていると、わたしたちカトリック信者は信じています。

ところでこの機会に一つ皆さんにお願いがあります。
最近日本の司教団は「『命へのまなざし』増補新版」を発表しました。英訳もあります。是非皆さんに読んでいただき、さらに多くの人に読むよう、勧めていただきたいのです。
とくに「子どもの貧困」という深刻な問題に注目していただきたい。よろしくお願いします。

 

(1)徳善義和『マルティン・ルター』(岩波新書)によると、それは詩篇31編2節と72編2節にある「あなたの義によって私を解放してください」であるという。ここでいう義(Justitia)とは神の正義による断罪ではなく神の恵みによる救いを意味し、イエス・キリストの十字架による贖い、神におる解放と救いを意味していると彼は考えた、という。

(2)『義認の教理に関する共同宣言』(教文館)を参照。

聖書朗読箇所

第一朗読 使徒言行録15・22-31
福音朗読 ヨハネ15・12-17

(本文)
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

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世界召命祈願の日ミサ説教

2017年5月7日、復活節第4主日、カテドラル

[聖書朗読箇所]

今日、世界召命祈願の日、懸案のジョセフィーヌの鐘の祝福もすることができ、このように、みなさまとご一緒に、召命のためにお祈りできますことを、大変嬉しく思っております。
「わたしは良い牧者である」と主イエスは言われました。イエスは、すべての人を、ご自分のもとにお招きになります。わたしたちのことを、よくご存知の上で、わたしたちを呼び出し、ご自分と一緒に歩むようにと勧め、励ましてくださいます。

5月はマリア様の月と言われておりますが、3月、4月を振り返りますと、叙階式の多い月でした。
わたくしは、司祭に叙階する叙階、助祭に叙階する叙階を数えますと、5回行いましたが、そのたびに、特別な思いを抱いてきたのです。
それぞれの人が、イエス・キリストの呼びかけを受け、そして、司祭になると決心した。そして、多くの人の祈り、導きに支えられ、長い年月の研修を経て、司祭となる。本当に、これは実に大変なことです。

みなさまのお祈り、ご支援の賜物があってこそ、助祭となり司祭となる人が生まれます。彼らは、自分の弱さということを自覚していく。自分が弱い者であるということ、自分が司祭の仕事を果たすためには力が足りない、足りないというより、ないということを知っております。

その点については、司教も同じ想いです。司祭が叙階するときに、司教が唱える祈りの言葉の中に、「使徒から受け継いだ司教の務めを果たすには力の足りないわたしを顧み、・・・今わたしにもこの人たちを必要な助け手としてお与えください」と祈ります。そして、司祭は司教の務めを助ける者として与えられます。

既に、旧約聖書の時代から、神はいろいろな人を呼び出し、ご自分の務めにあずからせました。呼ばれた者は、とても自分にはそのような務めはできないと断ったり、躊躇したりしています。

例えば、モーセは「わたしはもともと弁が立つ方ではありません。・・・全くわたしは口が重く、舌の重い者なおです」(出エジプト4・10)からとてもあなたの言葉を伝えることができない」と言っています。
預言者エレミヤは「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」(エレミヤ1・6)どうしてあなたの務めを果たすことができるでしょう、と言っています。
イエスの周りにいた、ペトロをはじめとする弟子たち、彼らは、イエスのために命を捨てることさえ辞さないと言ったのに、あえなく、裏切り、逃げ去ってしまった。そのような弱い人間を神様は用いて、ご自分の務めを継続させ、発展させます。

その際、必要なことは、「自分が弱い者であるということ」、「自分が本当に分かっている者ではないということ」をつくづく思い、必要な助けを祈り求め、更に、教会の仲間に助けを求めることではないかと思います。
神は約束してくださいます。「わたしがいつもあなたと共にて助け、必要な言葉を与えるから、信頼して歩みなさい」と。

さて、今日は、世界召命祈願の日であり、何よりもまず、司祭、修道者、奉献生活者の召命のために祈る日です。
しかし、東京教区も、他の教区も、修道会も、本当に、司祭召命の問題に直面しております。どうか、みなさん、司祭の召命のためにお祈りくださるように、そして、必要な助けを与えてくださるように、お願いいたします。

今日、更に、「召命」ということについて、いま一度、分かち合いをしたい。
「召命」というのは、すべてのひとに与えられている、神様の呼びかけです。神様は、「誰々さんは必要だけれども、あなたは必要ではない。あなたはいなくてもよい。」とおっしゃる方ではない。
すべての人は、神様のみ心によって、この世に生まれ、果たすべき務めを与えられています。その立場、その境遇、その場所において、自分が成すべきこと、あるいは、自分にしかできないことがあります。それが何であるのか。その人にしか、分からないことであるかもしれない。

「わたしは良い牧者。わたしは羊のことをよく知っている」。
そのイエスの言葉に、更に耳を傾け、「わたしは何をしたら良いでしょうか。どのようにしたら、あなたのみ心に適うことができるでしょうか。」と祈り求めるときが、特に今日ではないかと思います。

神様が、そして、主イエス・キリストが、わたしたちを必要としてくださるということは、何と素晴らしいことでないでしょうか。
神様は、わたしたちに「はい」という同意を求めている。「これをしませんか。してくれませんか。」、「はい、喜んでいたします。」
その答えを求めています。どうか、わたしたちが、主イエス・キリストの呼びかけに、喜んで答え、そして、生涯を献げることができますよう、お祈りいたしましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読 使徒言行録2・14a、36-41
第二朗読 一ペトロ2・20b-25
福音朗読 ヨハネ10・1-10

(本文)
〔その時、イエスは言われた。〕「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」

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ジョセフィーヌの鐘と鐘楼の祝福式の挨拶

2017年5月7日、復活節第4主日
カテドラル・司教館前の庭にて

 

みなさん、こんにちは。
今日は、5月の清々しい良い日でございます。
世界召命祈願の日に合わせて、このジョセフィーヌの鐘とそれを収めるための鐘楼をご披露し、祝福して、これからジョセフィーヌの鐘を大切に使っていきたいと思います。
ジョセフィーヌの鐘は東京教区の歴史と深いかかわりがあります。今日はその教区の歴史と共に歩んだ、このジョセフィーヌの鐘について、今日、ご一緒に、思いを共にしたいと思います。

現在は、こちらの関口教会がカテドラルですが、かつて、東京教区のカテドラルは築地教会でした。
1877年、当時、日本に来て、日本政府の招きに応じて、日本に近代的な法律を確立するために尽力されていた、ボアソナードという方がおられまして、その奥様とお二人が、2つで1つになっている対の鐘を教会に寄贈されました。その鐘の1つが、ジョセフィーヌ。(もう一つはジャン・ルイーズと呼ばれています。)
1920年にカテドラルが築地教会から関口教会に移動となりました。1920年ですから、あと3年でちょうど100年ということになります。
司教座聖堂が、築地から関口に移ったときに、鐘も一緒に移されました。また、お告げの祈り、アレルヤの祈り、その他の機会に鐘が鳴らされて、わたしたちは、その度に心を上げて、お祈りをしてきました。
そして、1964年、こちらの立派なカテドラルが献堂され、見上げると分かりますように、4つの鐘が付いている鐘楼ができまして、築地教会から移された鐘は、その役目を終えました。

しかし2014年、カテドラル献堂50周年の機会に、こちらの鐘をもう一度、みなさまの前に登場させ、さらに何らかの役割を果たしていただき、また合わせて、東京教区の歴史を思い起こし分かち合うための記念として大切に保存したい、ということになったのです。
時間をかけた話し合いと準備の期間を経て、今日、この鐘と鐘楼の祝福を行い、これから大切なときに鐘を鳴らして、わたしたちの心を神様に上げるための時を告げるための縁(よすが)としたい、と思っております。

今日は、これから祝福の祈りを献げ、そして、ご一緒にアレルヤの祈りをしたいと思います。
では祝福の祈りを唱えます。

全能の父なる神よ。
わたしたちは、今日、世界召命祈願の日ミサを献げる前に、
新たに設けられたジョセフィーヌの鐘を設置するための鐘楼に、集まっています。
この鐘楼とジョセフィーヌの鐘を、あなたに献げて祈ります。
どうか、この鐘楼とジョセフィーヌの鐘を、祝福してください。
この鐘楼が、いつもいつくしみ深い神、あなたの招きを思い起こすしるしとなりますように。
この鐘の音が、わたしたちの心を天に上げるための時を告げる音となりますように。
そして、いまから唱えるアレルヤの祈りによって、わたしたちが、聖母を賛美し、聖母の取り次ぎによって、永遠のいのちへの信仰と希望を強めることができますように。
主キリストによって。アーメン。

アレルヤの祈りをいたします。

神の母聖マリア、お喜びください。アレルヤ。(鐘の音)
おことばどおりに復活されました。アレルヤ。
わたしたちのためにお祈りください。アレルヤ。(鐘の音)
聖マリア、お喜びください。アレルヤ。
主はまことに復活されました。アレルヤ。(鐘の音)

みなさんもご一緒にお祈りいたしましょう。

神よ、あなたは御子キリストの復活によって、
世界に喜びをお与えになりました。
キリストの母、聖マリアにならい、
わたしたちも永遠のいのちの喜びを得ることができますように。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。(鐘の音)




サレジオ会司祭叙階式説教

2017年4月30日 復活節第3主日、碑文谷教会

[聖書朗読箇所]

受階者
ヨハネ・ボスコ 谷口 亮平(たにぐち りょうへい)

説教

みなさんのご親族、あるいは友人である、ヨハネ・ボスコ 谷口亮平さんが、間もなく、司祭団に加えられます。そこで、ご一緒に、この兄弟から、教会の中で、どのような奉仕の務めを行うために司祭に叙階されるのか、ご一緒に考え、分かち合ってまいりたいと思います。
ただいま読まれました、ヨハネの福音で、主イエスは繰り返し、「わたしは良い羊飼いである」と言われました。良い羊飼いは、羊のために命を献げます。イエス・キリストは、そのお言葉どおり、わたしたちのために十字架におかかりになり、命を献げてくださいました。

今日は、復活節第3主日であり、主日のミサでは、エマオへ向かう2人の弟子たちに、旅人の姿をしたイエスがご出現になったという、ルカの福音を伝えております。
わたしたちの教会は、「イエス・キリストの復活」という出来事の上に、復活されたイエス・キリストに出会った人々の体験の上に、教会が設立され、発展し、わたしたちは、そのイエス・キリストの復活の恵みにあずかる者とされております。

弟子たちは、生前のイエスの言葉の意味を、よく理解することができませんでした。
しかし、復活されたイエスに出会い、聖霊を受けて、生前の主イエスの言葉の意味を悟ることができました。
エマオへ向かう2人の弟子も、旅人の姿で現れたイエスから、モーセをはじめとする、旧約聖書の教えの解説を聞き、更に、日が暮れたときに一緒に食事をし、パンを裂く場面を共にして、はじめて、その人が復活されたイエスであるということを悟りました。
ご承知のように、このルカの福音の構造は、いまわたしたちが献げているミサ聖祭と、よく似ている。基本的に同じ構造ではないかと言われております。

さて、谷口亮平さんは、良い牧者になるという召命にあずかる者とされます。今日の第一朗読では、エレミヤの召命が告げられました。エレミヤは、まだ若い。そして、言葉を知らない。心細い状態であったのに、主からお召しを受けた。
そのとき、主なる神は言われた。「彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す。・・・見よ、わたしはあなたの口にわたしに言葉を授ける。」(エレミヤ1・8-9)。

谷口さんは、いま、サレジオ会の司祭となり、サレジオ会士として、主イエスの使命にあずかる者となります。それは、決して容易な務めではないと思います。
しかし、主なる神様が、エレミヤに言われたように、いま、復活された、主キリストが、あなたに言ってくださいます。「わたしはいつもあなたと共にいる。あなたを支え、教え、そして、力を与えます。」ですから、主イエスに信頼して歩んでください。

わたしたち司祭は、復活の証人となり、そして、良い牧者、キリストが羊のために命を献げた、その生き方を、自分自身の生涯の生き方とする決意を献げるものです。

今日、谷口さんの叙階式にあたり、更に、わたくしの念頭にあることを1つ付け加えて、谷口さんだけではなく、こちらにお集まりのみなさまの参考に供したいと思います。
それは、少し唐突ではありますが、いまの日本の子どもたちのことです。サレジオ会は、青少年の育成のために創立されたと理解しております。どうか、現代の日本の青少年のために力を尽くしてください。

「子どもの貧困」という言葉を、わたしたちは耳にします。わたしたちは、日本は豊かな国であり、そして、「貧困」という言葉は、日本には馴染まないというように思っておりましたが、現在の日本は、そうではありません。
「貧困」という問題がある。そして、弱い立場である子どもたちは、「貧困」という問題に出会っている。ある説明によりますと、6人に1人の子どもが「貧困」の状態にあるそうです。それは、「物質的並びに精神的な貧困」です。

きちんと栄養のある食事を摂ることができない。病院で治療を受けることができない。進学もできない。そのような状態に置かれている子どもさんが増えている。そして、その子どもを支える家庭、両親の在り方が、大きな問題に直面している。
ある意味で、危機的な状態にあるということが言われており、わたくしたちも、多分、そのように感じているのではないかと思います。「不登校」、「いじめ」、「自殺」という現象が、子どもたちを襲っています。

「わたしは、人々から愛され、必要とされています」という、誰しも持つべき「自己肯定感」、自分は大切な存在なのだという思いを、持つことが難しいと感じている子どもが、いま、日本では増えています。

どうか、子どもたちのために働いてください。そして、「あなたは大切な人だ」ということを教え、知らせるようにしていただきたい。
そのような務めを、ご一緒にして行きたいと思いますので、宜しくお願いいたします。

聖書朗読箇所

第一朗読 エレミヤの預言1・4-9
第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙5・14-20
福音朗読 ヨハネによる福音10・11-16

(福音本文)
(イエスは言われた。)わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命をすてる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

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復活節第二主日説教

2017年4月23日、関口教会

[聖書朗読箇所]

説教

今日は、復活の第二主日です。
聖ヨハネ・パウロ二世によって、「神のいつくしみの主日」と名付けられております。
2015年12月8日から、昨年の11月20日、「王であるキリスト」の日までの1年余り、「いつくしみの特別聖年」をわたしたちは祝いました。
神はいつくしみ深い方であることを深く学び、そして、わたしたちもいつくしみ深い者であるようにと努める、特別な1年でした。
神のいつくしみを知り、いつくしみに生きるということは、わたしたちキリスト者が、毎日心掛けるべきことです。

イエスの弟子たちは、イエス・キリストに出会い、イエス・キリストから神のいつくしみを学び、そして、キリストの復活という出来事に出会って、わたしたちの教会を創立しました。

いま、読まれました福音は、ヨハネによる福音の20章です。ヨハネによる福音が伝えているところを、今日、分かち合いたいと思います。

「週の初めの日の夕方」という言葉から始まっております。「週の初めの日」というのは、今日(こんにち)でいえば、日曜日に当たります。
弟子たちは、どちらかの家に集まって、その家に鍵をかけていた。それは、ユダヤ人が恐ろしかったからです。イエスの身の上に起こったこと、それは、非常に残酷な、恐怖を起こさせる出来事でした。弟子たちは、イエスを裏切り、見捨て、逃げてしまいました。
どちらかの家に集まって、肩を寄せ合っていたのでしょう、家に鍵がかかっていたにもかかわらず、イエスが入って来られて、
「あなたがたに平和があるように」
と言われた。

どのようにして、扉を通って来たのでしょうか。

「あなたがたに平和があるように」。
この言葉を、司祭はミサを献げるときに、何度も唱えます。そして、わたしたちも、手紙を書くときなどに、挨拶として使っている言葉です。
「平和」とは、旧約聖書以来、使われている、非常に重要な言葉であり、欠けたところのない神のみこころが、十分に実現している状態であるとされています。

この場合、弟子たちにとっての「平和」は、何であるか。ユダヤ人に逮捕されたり、処刑されたりするという恐れもあったでしょうが、恐らくは、何よりも、主イエスと離れている状態、イエスが取り去られてしまった。そして、自分たちは彼らを見捨て、彼らはイエスを見捨ててしまった。いわば、「裏切ってしまった」という罪の意識、後ろめたさが、彼らの平安を奪っていたのではないかと思います。
「あなたがたに平和があるように」
とイエスは言われたので、彼らの心は平和で満たされました。

「弟子たちは、主を見て喜んだ」
とあります。

そして、更に、イエスは彼らに聖霊をお与えになりました。
「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」。

イエスから、罪の赦しを受けた弟子たちは、更に、人の罪を赦すことができるように、聖霊を受けました。

さて、その大切な場面に、12人の中で1人の弟子、トマスは居合わせなかった。疑い深いトマスと言われますが、トマスはイエスのご出現を信じなかった。トマスは、それから8日後、つまり、今日の典礼は復活の日から2週間目を想定した日ですが、トマスの前に現れて言われた。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。
トマスは、イエスに答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。

さて、今日の第二朗読におきまして、最初の教会の人たちのことが述べられています。
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」。

わたしたちは、すでに、復活の出来事があってから、2千年以上経過しているときの信者です。ペトロの手紙の相手となっている人たちは、復活の出来事を信じている神の民、いつ頃のことでしょうか、1世紀か2世紀の初めか、大部分の人が、地上のイエスに出会ったことのない人たちであろうと思われます。
イエスに会ったことがない、復活したイエスに出会ったことがないのにもかかわらず、イエスを信じている、そのように著者が言っている。わたしたちの方は、更に、そのようなことになる。

わたしたちは、復活を信じ、キリスト者となっております。現代において、復活を信じて生きるということは、更なる努力が必要です。たびたび、神の言葉、キリストの言葉を聞き、ご一緒にお祈りし、励まし合い、困難の中に、神の導き、復活の光を見つけるように努めなければならないと思います。

わたしたち教会は、キリストの復活を告げ知らせる、神の民です。キリストが復活した、死と罪に打ち勝ったという信仰を、人々に表す団体、イエス・キリストが、いまも復活して、わたしたちのところに来てくださるという信仰、イエス・キリストの復活の現存、復活したイエスがいてくださるという信仰を表す、そのような印である教会です。

わたしたちを見て、イエス・キリストの復活の印があると、多くの方が見てくださるような、わたしたちでありたい。
そのためには、わたしたちは、よく祈る神の民、神のいつくしみを実行する神の民、お互い助け合っている神の民、最初の教会のような教会でなければならないと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 使徒言行録2・42-47
第二朗読 一ペトロ1・3-9
福音朗読 ヨハネ20・19-31

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カルメル会助祭叙階式説教

2017年4月22日 復活の土曜日、上野毛教会

[聖書朗読箇所]

受階者
ヨハネ 志村 武(しむら たけし)

説教

カルメル会の志村武さんの助祭叙階にあたり、ひと言申し上げます。
今日は、復活後の最初の土曜日、復活の土曜日ですので、本日の朗読と祈願に従って、ミサを献げます。
いま読まれました、福音朗読は、マルコの福音の結びの部分です。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」という、主イエスの言葉をもって、結びとされております。
マルコの福音は、4つの福音の中で、もっとも短く、簡潔な内容であり、成立は、4つの福音書の中で、もっとも早いと思われます。
今日の箇所は16章9節から15節ですが、この最後の部分は、後から教会が付け加えた部分であるということを、聖書学者は言っております。
イエスは、「すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16・15)そのように言われた。
復活した、主イエスは、弟子たちに聖霊を注ぎ、聖霊の恵み、聖霊の力、聖霊の照らしをもって、すべての人が、全世界、この地上のどちらにおいても、イエス・キリストを宣べ伝え、証するという使命を授け、そして、その使命を実行することのできるように、聖霊をお注ぎになりました。

ヨハネ 志村武さんは、そのようにして成立した教会の中で、いま、カルメル会の助祭に叙階され、更に、司祭に叙階される道を歩むこととなっております。助祭は、新約聖書では「奉仕者」、あるいは「執事」と呼ばれています。

使徒言行録によれば、ステファノをはじめとする7人が、もっぱら共同体の食事の世話をする奉仕者として選ばれました。(使徒6・1-6)
ペトロをはじめとする使徒たちは、祈りとみことばの奉仕に専念したい、そのために、教会共同体の奉仕をしようと、貧しい人への愛の奉仕は、後に助祭と呼ばれる人に、もっぱら委ねることになったとされております。

助祭は、教会共同体の奉仕の活動・運営・管理などの、非常に大切な責務を担うようになり、助祭の存在は、非常に重要なものとなりました。しかし教会の歴史の進展の中で、次第に、そのような助祭の任務が忘れられ、廃れてゆき、ラテン教会、わたしたちの教会では、司祭職に至るための1つの段階、過渡的な助祭だけが残りました。

「これではいけない」という意見が取り上げられまして、わたしたちの教会は、終身助祭の制度を再考しました。司祭になるために取りあえずなる助祭ではなくて、終身、一生助祭として奉仕しますという人を任命し、叙階することができるようになった。もともとは、助祭とはそのような存在でした。
司教協議会も、その道を開くように決定し、現在、全国には、多くの終身助祭の方がおられます。

なお、助祭の典礼における任務は、次のように言われております。
「荘厳に洗礼式を執行し、聖体を保管し、分け与え、教会の名において結婚に立ち合い、祝福し、死の近くにある者に聖体を運び、信者たちのために聖書を朗読し、人々に教え勧告し、信徒の祭礼と祈りを司会し、準秘跡を授け、葬儀と埋葬を司式する」(『教会憲章』29)と決められております。

さて、志村さんは、やがて、司祭になり、カルメル修道会の霊性に従って、生涯を神様にお献げになる。その、志村さんの召命の中で、日本の福音宣教、日本の福音化の使命を担う、分担することになります。
カルメル会の霊性を生きるとともに、この日本における福音宣教、日本におられる人々に、イエスの福音を宣べ伝え、且つイエス・キリストの復活の証人となるという任務を、しっかりと実行していただきたいと思います。
特に、わたくしが、いま念頭に置いておりますことは、すべての信徒の方を福音宣教へと進ませる、福音宣教をする者、福音宣教者とするために、教え導き、励ますという務めを、わたしたち司祭は授かっている、ということです。

更に、カルメル会の司祭になるわけですから、「祈り」ということを教えていただきたい。この世にあって、この忙しい毎日の生活の中で、祈りをもって、日々を神様に献げる人となるためには、どのようにしたらよいのかということについて、親しく、具体的に教え、実行する者となっていただきたい。
日本の社会では、いま、少なからぬ人が、いわば、行き暮れ、迷い、子どもの貧困ということが、現実となっており、更に、家庭の問題、家庭が崩壊している、あるいは、家庭が危機的な状況にあるという中で、人々は生きるための光、支え、道筋を見失いがちである、と思います。
そのような人々のために、励まし、導き、希望となる、イエス・キリストの道を指し示すよう、どうか、努力してくださるようにお願いいたします。

聖書朗読箇所

第一朗読 使徒言行録4・13-21
福音朗読 マルコ16・9-15

(福音本文)
イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。
マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。
その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。
その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。
それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

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復活徹夜祭説教

2017年4月15日、カテドラル関口教会

[聖書朗読箇所]

今年は、3月1日が灰の水曜日でした。その日から四旬節が始まり、そして、4月9日、受難の主日から、わたしたちは聖週間を過ごして来ました。

いま、わたしたちは、復活の聖なる徹夜祭の祭儀を執り行っております。復活徹夜祭は、教会の伝統が伝える、最も豊かで重要な典礼祭儀です。このなかで、洗礼式が行われ、多くの兄弟姉妹が洗礼をお受けになります。わたしたちも洗礼を受けた者です。
洗礼式では「白衣の授与」が行われます。そのときに、司祭は「あなたがたは新しい人となり、キリストを着る者となりました。神の国の完成を待ち望みながら、キリストに従って歩みなさい。」と言います。「白い衣を受ける」ということは、「生まれ変わって新しい人になる」ということを意味しています。
更に、それぞれの方は、自分のろうそくに、復活のろうそくから光を受け取ります。これは、「復活のいのち受け、復活のいのちを生き、そして、復活の光を受けて、人々を照らす者となる」ということを表しています。

今日の、復活徹夜祭の最初の部分で、わたしたちは、光の祭儀を行いました。「洗礼」という言葉は、ギリシャ語で「バプティスマ」と言いますが、「水に浸される。水に沈められる」ということを、元来意味しています。

ローマ書(6・3-11)の朗読が教えているように、それは、キリストの死と復活にあずかるということ、キリストとともに死に、キリストとともに、新しい命に生きるようになる、ということを意味しております。洗礼を受ける人は、罪に支配される古い自分に死に、キリストの復活の命を受けて、新しい人間として生まれ変わるのです。

復活徹夜祭で必ず読まれなければならない出エジプト記(14·15-15·1)は、イスラエルの民が紅海を渡って、エジプトでの奴隷の状態から解放されたことを述べていますが、これは、あらかじめ洗礼の秘跡を示す「しるし」であり、紅海は洗礼の泉を、イスラエルの民は、洗礼によって罪から解放される、わたしたちキリスト信者を表すと解釈されています。

また、エゼキエルの預言(36・16-28)の朗読がありました。
「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石を取り除き、肉の心を与える」(36・25-26)。
神の霊の働きによって、わたしたちの頑なな心は打ち砕かれ、神の言葉に素直に、柔軟に聞き従う、新しい人となるということを表しています。

わたしたちは、人生の歩みの中で、非常に辛いこと、あるいは、どうしようもない、嫌な思いをすることがあるかもしれません。自分で自分を受け入れることが、難しいと感じることがあるかもしれない。
そのようなときでも、わたしたちは新しく生まれ変わることができるという信仰を、新たにしたいと思います。人は、どのような過去があっても、新しく生まれ変わることができる。わたしたちは、そのように信じます。

今日、洗礼を受けられるみなさん、洗礼によって受ける新しい命は、最後の過越しである「死」によって完成します。わたしたちは生涯かけて「死から命へ」という過越しの神秘、復活の信仰に従って歩みます。これからの日々を、希望と、そして、主なる神様への信頼を持って、お献げするようにいたしましょう。

復活徹夜祭では、更に、洗礼を受けた人たちの「洗礼の約束の更新」が行われます。洗礼を受けている、兄弟姉妹のみなさん、洗礼を受けたときのことを思い起こしましょう。
あのときの喜び、あのときのすがすがしい気持ちを思い出しながら、新たな決意を持って、キリストの弟子として歩むことができますよう、聖霊のご保護とおん助けを祈り求めましょう。

聖書朗読箇所

ことばの典礼
第一朗読   創世記1・1、26-31a
第三朗読   出エジプト記14・15-15・1a
第七朗読   エゼキエル36・16-17a、18-28
使徒書の朗読 ローマ6・3-11
福音朗読   マタイ28・1-10

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聖香油のミサ説教

2017年4月13日、東京カテドラル

[聖書朗読箇所]

本日、聖香油のミサの日を迎えました。
聖香油のミサの中で、3種類の油の祝福と聖別が行われます。『病者の油』と『洗礼志願者の油』は祝福され、『聖香油の油』は聖別されるとされております。
『塗油』を意味するギリシャ語は、『クリスマ』という言葉であり、そちらから、『キリスト者』、『キリスト教徒』という言葉が出てきていると言われております。

わたしたちは、キリスト者、キリスト教徒、クリスチャンと呼ばれております。キリストは、旧約聖書の言葉であるヘブライ語で「救い主」を意味する「メシア」のギリシャ語訳で、『油注がれた者』という意味であることを、わたしたちは学びました。
そのキリストの使命に与る者、キリストに従って、それぞれの任務を遂行する者として、わたしたちは洗礼、更に、堅信の秘跡を受けているのですし、わたしたち司祭は、叙階の秘跡を受けているのです。

洗礼、堅信、叙階の秘跡のときに欠かせないものが、何であるかというと、もちろん、お祈りの言葉ですが、それとともに、聖香油がなければなりません。1年に1度だけ、司教は、司祭団と一緒に香油を聖別する、聖香油のミサを献げます。

みなさんのお手元にある、聖香油のミサの式次第は、今年のために改訂されたものです。油の祝福と聖別は、ミサの終わりの方で行うことが、わたしたちの教会の伝統ですが、司牧的な理由があれば、説教の後、正確に言いますと、司祭の約束の更新の後、行うことができるとされておりますので、本日は、そのようにいたします。

聖香油のミサのときに読まれる福音は、毎年同じ個所、ルカの4章16節より21節です。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。」

主イエスが、ご自分のお育ちになったナザレの会堂で、ご自分の使命の開始、公生活の開始にあたって読まれた、イザヤの預言にある箇所、イザヤ61章の言葉をもって、「この言葉は、いまここで成就した」と宣言され、自分は主から油を注がれた者、主の霊を受けた者であると宣言しました。

わたしたちは、主イエス・キリストを信じると宣言し、そして、主イエス・キリストの使命に与る者であると自覚しております。そして、その使命を実行できるようにと、主なる神は、わたしたちに聖霊の力を注いでくださいましたし、今も注いでくださっています。
わたしたちは、洗礼、堅信、そして、司祭は叙階の秘跡のときに、聖香油を塗っていただき、『塗油された者』、すなわち、『キリスト者』となりました。わたしたちは、キリスト者、主の霊を受けた者ですから、霊の導き、霊の働き、霊の助けがあると信じています。

この困難な時代、それぞれの場所で、キリスト者としての使命を実行することは難しいと感じますが、しかし、「それをあなたはすることができる」と、聖霊がわたしたちに教えてくれていると思います。

今日、聖香油のミサを献げるにあたり、わたくしは聖香油というのは何であるかということを、今日ご一緒に分かち合いたいと考えました。
旧約の指導者たちは、祭司、王、預言者は、油を注がれてその務めに就任した。サウル、ダビデ、ソロモンなどの王たちは民の同意のもと、油を注がれて王となったのでした。「油注がれた者」は、ヘブライ語でメシアと呼ばれ、ギリシャ語で『キリスト』となりました。

さて、ここにいるわたしたちは全員がキリスト者となっています。
全員がキリストの使命を受けた者です。そのようなわけで、わたしたちは自分の使命を果たすことができるよう、お互いに、励まし合い、助け合い、祈り合いましょう。
わたしたち司祭は、信徒のみなさんが、それぞれの立場で、それぞれの場所で、キリスト者として生きられるよう、支え、助け、導き、そのために、毎日お祈りをしております。

どうぞ、宜しくお願いいたします。

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ61・1-3a、6a,b8-9
第二朗読 黙示録1・5-8
福音朗読 ルカ4・16-21
(本文)
イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」
イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

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受難の月曜日説教

2017年4月10日、関口教会

[聖書朗読箇所]

昨日、わたしたちは主の受難の主日を記念しました。

今日は、受難の月曜日です。本日の福音朗読、ヨハネの12章は、過越祭の6日前に、ベタニアで起こった出来事を伝えています。それは、イエスがよみがえらせたラザロの姉妹のマリアが、非常に高価なナルドの香油をイエスの足に塗り、自分の髪で足を拭ったという出来事です。女性がイエスに香油を注ぎ塗るというような話は、他の福音書、マタイ、マルコ、ルカも伝えています。

この出来事を見ていた、弟子のイスカリオテのユダは言いました。
「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」(ヨハネ12・5)
1デナリは当時、人が働いて得る賃金、日当にあたる金額でした。ですから、300デナリと言えばほぼ1年分の収入にあたる、かなり高い金額になります。このユダの言葉には、「なるほど」と思わないわけではありません。しかし、「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」(ヨハネ12・6)とヨハネ福音書は語ります。
ユダは、イエスから信頼されて財布を預かり、お金の出し入れを任されていました。300デナリが欲しかったのかもしれません。このときイエスは、彼女をかばって言いました。
「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」(ヨハネ12・7)

イエスの十字架のときが迫っていました。マリアはそのことを感じていたのでしょうか。マリアはイエスに香油を注ぎ、自分の持っている最も大切なものをイエスに献げて、イエスの葬りの準備をすることになったのです。
この場面からわたしは、彼女のひたすらなる清い思いを感じます。なりふり構わずに、イエスの足を髪で拭うというこの行為は、非常識と思われました。しかし、彼女は自分の行いが周りにはどう映るかということなど、全く気にはしていませんでした。

他方、ユダの態度はマリアとは対照的です。ヨハネ福音書は、「彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」(ヨハネ12・6)と述べています。彼は、盗人、ごまかす人、うわべは貧しい人を思いやるように装っているが、心の中は強欲な人、とされています。

今日、聖週間の月曜日、復活祭へ向かって歩むわたしたちの心はどうでしょうか。わたしは、自分自身について言えば、ユダの心がわからないわけではない、ユダの心が自分にもあると感じます。マリアの清い心に惹かれながら、ユダの心との間で揺れているような自分を見ます。

乱れた心を神が浄めてくださいますよう、聖霊に祈ります。

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ書 42:1-7
福音朗読 ヨハネによる福音書 12:1-11
(本文)
過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。

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受難の主日(枝の主日)説教

2017年4月9日、関口教会

[聖書朗読箇所]

ただいま、わたしたちは、マタイによる主イエス・キリストの受難の朗読を聞きました。二千年前に起こった、ナザレのイエスと呼ばれる、ひとりの男の最後の場面を、教会は大切な記憶として、今日まで伝えております。

イエスが受けた苦しみは、十字架につけられるという、肉体の苦しみだけでなく、弟子たちから裏切られ、見捨てられ、人々から侮られ、蔑まれるという、精神的な苦しみでした。
更に、今日の朗読が伝えている、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」というイエスの言葉から想いますに、それは、父である神から見捨てられるという心の苦しみではなかったかと思います。

イエスが十字架につけられて、そして、息を引き取るまでの様子を、聖書は詳しく伝えていますが、先ほどの朗読によると、12時頃から、暗闇が辺りを覆い、3時まで続いたとあります。3時頃、イエスは息を引き取りました。暗闇が、世界全体を覆っている。その状況を、わたしたちは想像しています。そして、この暗闇は、イエス自身の心をも襲った暗闇ではなかったでしょうか。

「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」。イエスの口から発せられた、この言葉は人々の心に、強く、深く、刻み込まれました。もっとも、実際にどのような発音であったのか、正確にはわかりません。マルコ福音書の方は、「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ」となっています。

いずれにせよ、イエスが十字架の上で叫んだ、いくつかの言葉、その中で、マタイが伝える「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」、これは、今日の朗読自身が解説しているように、「わたしの神よ、わたしの神よ、どうしてわたしをお見捨てになるのか」という意味でした。そして、この言葉は、本日の答唱詩編22の冒頭の言葉と全く同じ文言です。

イエスのこの言葉は、何を意味しているのでしょうか。
わたくしは、このイエスの叫びは、イエスの心が罪の力、闇によって覆われていたことを表していると思います。「罪」とは人が神から離れている状態です。神の光が届かない暗闇を意味します。

 イエスは、全く罪のない人でしたが、「神は、このイエスを罪とした」とパウロは言っています。パウロの言い方では、「罪とは何の関わりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちは、その方によって、『神の義』を得ることができたのです」(コリント二5・21)となります。

「神の義」という言葉が、わたしたちには、いまひとつわかりにくいのですが、「イエスが罪とされ苦しみを受けたのは、イエスの苦しみを通してわたしたちが罪の赦しを受けるためであった」という意味であると考えます。イエスは、わたしたち罪人のために、罪人に代わって、罪の闇を引き受けてくださったのです。
父である神は、このイエスの苦しみを献げものとして受け入れ、その答えとして、イエスを復活させました。そして、すべての人のために、永遠の命への道を開いてくださったのです。

本日の第二朗読は言います。
「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公にのべて、父である神をたたえるのです。」(フィリッピ2・10-11)

今日の典礼を、大切に、丁寧に、お献げいたしましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ50・4-7
第二朗読 フィリッピ2・6-11
福音朗読 マタイ26・14-27

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司祭叙階式説教

2017年3月20日、東京カテドラル

[聖書朗読箇所]

受階者
ミカエル 泉 雄生(ゆう)   (東京教区)
パウロ  野口 邦大(くにひろ)(東京教区)

説教

今日これから司祭に叙階される、
ミカエル 泉 雄生(ゆう)さん
パウロ  野口 邦大(くにひろ)さん
そして叙階式に参加しているすべての皆さん

叙階式にあたり、「司祭の務め」について皆さんとご一緒に分かち合いたいと思います。

1.司祭は仕える者です。
今日の聖書朗読と福音朗読が示しているように、司祭は何よりまず人に仕える者であります。
「司祭になる」ということは、人から崇められる人、権威、尊敬、地位、名誉を与えられて、いわゆる『偉い神父様』となる、ということではありません。
頭ではそう分かっていますが心の中では、いつの間にか司祭は、自分が重んじられていないと感じて不安になり、あるいは自分を評価してくれない人に不快を憶えるようになります。

今日の福音が告げているように「誰が一番偉いのか」という問題に心がこだわるようになりかねません。
他の人よりも評価されたいという思いが生まれることは誰しも避けられません。しかしそのこだわりから、「不安、嫉妬、怒り、憎しみ」などの人を苦しめる思いが生まれることになります。この思いは誰にとっても大きな誘惑であります。

司祭の日々はこの誘惑との戦いの日々であると思います。このようなときに、例えば次のように祈りながら、誘惑を退けるようにしてください。

主イエスよ、どうかわたしをお救いください。
人から評価されたいという思いから、
重んじられたいという思いから、
褒められたいという思いから、
認められたいという思いから、
侮辱されることへの恐れから、
見下されることへの恐れから、
非難される苦しみへの恐れから、
中傷されることへの恐れから、
誤解されることへの恐れから、
わたしを解放してください。

2.司祭は司教の協力者であり司祭団のメンバーです。
今日の叙階式の式文がたびたび言っているように、司祭とは司教の協力者です。司教は司祭の存在と協力なしにその使命を果たすことはできません。司祭はまず司教との緊密な交わりに中でしか任務を遂行することができません。

ですから司祭はまず司教の話をよく聴いて頂きたい。もちろん司教も司祭の話をよく聴く者であるはずです。自分の希望、自分の問題、自分の真実を率直に司教に話してください。司教もそうされるに値する、信頼されるべき者であるよう努めるはずです。

そしてまた、司教の協力者として叙階される司祭は同時に、司教を中心とする司祭団へ加入することになります。
「わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさい」との主イエスの掟はまず司祭の交わりの中で具体的な姿をとって実現されなければなりません。

新しく司祭に叙階されるあなた方は、すでに叙階されている先輩の司祭、年長の司祭を尊敬し、その指導と助言とに謙遜に耳を傾け、その体験と知恵に学ぶよう努めてください。
また、病気の司祭、高齢の司祭を労わり助け、その必要によく応えるよう心がけてください。
日々の宣教司牧活動については何事も仲間の司祭との緊密な連絡と協力のもとに行うようを心がけてください。またあなたの後に続く司祭の召命に特に意を注ぎ、青少年の育成に配慮するようお願いします。

3. 司祭は信徒に聴き信徒に学ぶ者。
教会は信徒、司祭,奉献生活者からなる神の民です。教会の発展のために司祭と信徒のふさわしい協力関係をたえず築かれ新たされなければなりません。
第2ヴァチカン公会議は司祭と信徒とのあるべき関係について次のように述べています。
「聖なる牧者は,教会における信徒の地位と責任を認め,またこれを向上させなければならない。信徒の賢明なる助言をこころよく受け入れ,教会の奉仕のために信頼を持って彼らに任務をゆだね,行動の自由と余地をかれらに残し,さらに,かれらが自発的に仕事に着手するよう激励しなければならない。また信徒から提案された創意,要求,希望を,キリストにおける慈父としての愛を持って慎重に考慮しなければならない。」(『教会憲章』37番参照)

東京教区が、この司祭と信徒にあるべき協力関係のなかで、希望のうちに健全なる発展を遂げるよう切に望んでいます。
特にお二人にお願いしたいのは、信徒が福音宣教へ向けて信頼と、希望、勇気をもって働けるよう、教会の環境を整え、準備をし、信徒の信仰を養成するよう心掛ける、ということです。
これは東京教区の最優先課題です。

聖霊があなた方を守り支え導いてくださいますように。

聖書朗読箇所

第一朗読 エレミヤ1・4-18
第二朗読 1コリント1・26-31
福音朗読 マタイ20・25-28

(福音本文)
そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

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ネットワークミーティング in 東京 派遣ミサ説教

2017年3月19日、藤が丘教会(横浜教区)

[聖書朗読箇所]

みなさん、こんにちは。東京教区の岡田でございます。
昨日から、みなさんは、祈り、学び、分かち合いをして過ごされたのだと思います。
事前にいただいた、ミサの3つの朗読箇所を見まして、この箇所は、「いつくしみの特別聖年」のときに、特に大切な箇所として提示された箇所であったと思い起こしました。
「あなたがたの父がいつくしみ深いように、あなたがたもいつくしみ深い者でありなさい。」(ルカ6・36)。
この主イエスの言葉を、わたしたちはしっかりと受け止め、そして、日々の生活の中で、個人的にも教会としても、社会の中で神のいつくしみを示し、あらわし、伝える者でなければならないということを学んできました。

ところで今日は四旬節第三主日であり、主日の福音としては、サマリヤの女性の話が朗読されました。教皇様が、「いつくしみの特別聖年」中に、祈るようにと示されたお祈りの中に、サマリヤの女性が出てきています。
神のいつくしみは、ナザレのイエスという人において完全にあらわされ、そして、実行されました。地上においてイエスに出会った人は、神のいつくしみに触れ、そして、自分が受け入れられ、愛されているということをしみじみと感じ、そのように受け取ることができた。その中に、有名なこのサマリヤの女性がいます。彼女は、イエスとの出会いによって、自分が愛されている者であるということ、自分が認められ、受け入れられている者であるということを、しみじみと悟ることができたのでした。

イエスの時代から、二千年を経て、わたしたちは、いまここに、同じイエス・キリストを信じる者として集まっています。わたしたちは、だれかのおかげでだれかに出会って、神の存在、イエス・キリストの生涯について学び、そして、使徒ヨハネの手紙で言われているように、「神は愛です」と信じることができました。それは既に、「神は愛である」と信じた人との出会いのおかげです。神の愛を信じ、神の愛を実行してくれている人との出会いがあったので、信じることができたのではないでしょうか。

人生には、非常に過酷で、不条理な面、辛いことがあります。そのような日々の中で、「神様がいる」ということ、「神が愛である」ことを信じ、その信仰を生きる、ということができるためには、絶えざる祈り、絶えざる助け合いが必要です。ひとりで信じ抜くということは容易ではありません。同じ仲間として、信仰を分かち合い、深めることが、本当に大切なことではないかと思います。

今日は、この機会に、たまたま、わたしの念頭にある、2つのことを紹介して、みなさまの参考に供したいと思います。

そのひとつは、「子どもの貧困」ということです。
日本のカトリック司教協議会は、最近、『いのちへのまなざし』という本の、増補新版というものを出しました。
この本の中に「子どもの貧困」という項目があります。
世界中で子どもが貧困の状態にあります。よその国のことではなく、この日本においても、子どもが貧困の状態に置かれている、ということです。
「相対的貧困率」という言葉が出てきます。日本において子どもの相対的貧困率が高い、という状態にある、と言っています。そして、貧困の状態にある家族が直面している、さまざまな問題が指摘されています。
子どもが親によって虐待されたり、あるいは、ネグレクトされたりということが起こっています。どうして、そのようなことになるだろうか。
その親にも、それなりの事情や原因があって、そのようになってしまう、ということです。ここに「悪の連鎖」がみられます。そのような日本の社会の現実の中で、本当にいのちが大切にされるような社会を造っていくために、わたしたちは力を合わせなければならないと思います。
「子どもの貧困」、あるいは、「子ども」と「貧困」ということについて、わたしたちはもっと注目し、その改善のために努力したいと思います。

もうひとつは、「子どもの貧困」とはまったく違うことですが、「宗教改革500年」ということです。ちょうど500年前1517年という年は、マルチン・ルーテルによる宗教改革が始まった年です。わたしたちのキリスト教会は、いくつかの宗派、教団に分かれてしまっています。それなりに、事情、理由があって、そのようになっているのですが、この500年の間に、双方の教会は、お互いに相手の言うことをもっとよく聞こうということになった。特に、わたしたちの方は、1962年から1965年にかけて開催された、「第2ヴァチカン公会議」において、分かれた兄弟との対話を大切にするという姿勢を打ち出した。その結果、相手によく聞き、相手の主張を調べてみると、強調点や、理解の仕方において、細部に違いがあるにせよ、基本的なことにおいては、なんら相違はない、ということがわかってきました。
ルーテルという人は、アウグスチノ会の修道者で、大変熱心にお祈りし、聖書を学びましたが、彼はどんなに祈っても、どんなに勉強しても、自分が神様のみこころに適う者になれないということで悩みました。・・・ところがあるとき、聖書を読んでいて、自分は自分の努力によってではなく、イエス・キリストの贖(あがな)いを信じることによって救われる、ということを発見しました。信仰によって、わたしたちは神からの恵みに与るということを、はっきりと理解しました。実は、それは、わたしたち、カトリック教会の教えでも同じです。わたしたちも、神の愛を信じ、神の愛に与っている者です。神がわたしたちを愛してくれたということを、わたしたちは知り、信じた。そして、神の恵みに与る者となった。この点は、まったく同じ信仰の理解です。
自分と違う者に対する、偏見や誤解というものを、わたしたちは持ってしまいますが、広い心を持って、人の言うことをよく聞き、そして受け入れるという態度を持つことが肝要ではないでしょうか。
「いつくしみの特別聖年」のときに、教皇様が説いたことも、そのようなことであったと思います。日本という国で、キリスト者は、全部合わせても、人口の1パーセントしかいない。そのような現実の中で、同じイエス・キリストを信じるわたしたちが、ともに手を携えて、神の愛を実行する者となり、この社会の中で虐げられ、後回しにされ、苦しんでいる人々に、神のいつくしみをあらわし、伝えることができますよう祈りましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ58・1-11
喉をからして叫べ、黙すな
声をあげよ、角笛のように。
わたしの民に、その背きを
ヤコブの家に、その罪を告げよ。
彼らが日々わたしを尋ね求め わたしの道を知ろうと望むように。
恵みの業を行い、神の裁きを捨てない民として
彼らがわたしの正しい裁きを尋ね 神に近くあることを望むように。

何故あなたはわたしたちの断食を顧みず
苦行しても認めてくださらなかったのか。
見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし
お前たちのために労する人々を追い使う。
見よ
お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし
神に逆らって、こぶしを振るう。
お前たちが今しているような断食によっては
お前たちの声が天で聞かれることはない。
そのようなものがわたしの選ぶ断食
苦行の日であろうか。
葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと
それを、お前は断食と呼び
主に喜ばれる日と呼ぶのか。

わたしの選ぶ断食とはこれではないか。
悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて
虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。
更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え
さまよう貧しい人を家に招き入れ
裸の人に会えば衣を着せかけ
同胞に助けを惜しまないこと。
そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で
あなたの傷は速やかにいやされる。
あなたの正義があなたを先導し
主の栄光があなたのしんがりを守る。
あなたが呼べば主は答え
あなたが叫べば
「わたしはここにいる」と言われる。
軛を負わすこと、指をさすこと
呪いの言葉をはくことを
あなたの中から取り去るなら
飢えている人に心を配り
苦しめられている人の願いを満たすなら
あなたの光は、闇の中に輝き出で
あなたを包む闇は、真昼のようになる。
主は常にあなたを導き
焼けつく地であなたの渇きをいやし
骨に力を与えてくださる。
あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。

第二朗読 ヨハネ一4・7-16
愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。 神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。 わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。 神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。

福音朗読 マタイ25・31-40
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

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朗読奉仕者・祭壇奉仕者選任式

2017年3月12日、ケルン・ホール

選任された者
朗読奉仕者 フランシスコ・アシジ 小田武直(東京教区)  
祭壇奉仕者 洗礼者ヨハネ レー・ファム・ギェ・フー(サレジオ修道会)

説教

朗読奉仕者並びに祭壇奉仕者の選任式が、今年は、ケルン・ホールで開催される一粒会総会の前に行われることになりました。  

いま、読まれました福音は、今日、四旬節第二主日のミサで読まれた福音です。  
イエスのご変容の場面、「イエスの姿が光り輝く栄光の姿に変わった」という出来事をわたしたちに告げています。その時、天の父から声がしたのでした。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。  
イエスは受難を前にして、弟子たちに、このご変容の出来事を経験させながら、受難につまずかないよう、信仰を失わないよう願って、このような場面を弟子たちに示したのだと思います。イエスは、ご自分の受難と復活の神秘をあらかじめ弟子たちに垣間見させたのではないでしょうか。  
そしてさらに、わたしたちもいつかこのイエスのご変容の恵みに与ることができるだろうという信仰と希望を与えてくれる場面であると思います。  

さて、いま、朗読奉仕者、祭壇奉仕者を受けるお二人に一言申し上げたいと思います。  
昨日、3月11日は東日本大震災が起こった日であり、昨日でちょうど6周年を迎えました。いまなお、多くの人が、被災者として、避難者として、苦しみ、不安と悲しみの日々を送っています。そして、多くの人の命が失われました。  
わたしたちは、この人々のために、何をすることができるだろうかと、考えざるを得ません。  

昨日、カテドラルで献げられました、復興祈念のミサのときに、わたしたちは祈りを献げ、黙祷の時間を持ちました。そして、いま、わたしたちの信じる主イエスは、苦しんでいる人のことをよくわかり、その人たちと一緒にいてくださる、寄り添ってくださると、わたしたちは、改めて、そのように思いました。わたしたちも、主イエスにならい、苦しむ人々と寄り添う者でいたいと思います。  
やがて、助祭、司祭になる道を歩んでおられるお二人は、「これに聞け」と言われた御父の声を、今日、改めて、深く心に刻み、主イエスにならって歩む者となるのです。  
この世の中に起こる、さまざまな難しい問題に出会うときに、苦しみ、迷い、悩む人々を受け止め、そして、一緒に歩むことができるよう、どうぞ、日頃から、いろいろな面での準備をしていただきたいと思います。  

もう一つのことに触れたいと思います。これは東日本大震災とは関係のないことですが、今年2017年は宗教改革からちょうど500年という年です。  
この500年の間に、カトリック教会とルーテル教会との関係は、大きく変わってきました。そして、いま、お互いに相手の言うことをよく聞いてみると、基本的には仲違いするほどの大きな問題はなかったということに気付いたと、双方が認めています。

「相手の言うことを、よく聞かなかった。決めつけてしまった。誤解した。」  
そのような間違いを、いま、双方が反省しております。なお、完全な一致に至るまでには、乗り越えるべき問題が、いろいろありますが、基本的な重要なことについては、一致しているということがわかりました。わたしたち、キリスト教会の中で、もっと、お互いの理解と一致が進みますように、祈りたいと思います。  
そして、わたくしが感じましたことは、「人間というものは、なかなか人の言うことをよく聞けないものである」ということです。聞いているつもりではありますが、自分の思いの方が先に立ってしまって、頭から相手の言うことを受け付けない、という部分があるのではないかという気がします。そのようなことが、カトリック教会とルーテル教会の間に起こったのではないでしょうか。

「人の話を聞き、人のためにできることをする。」  
そのような務めをわたしたちは受けています。どのようなことであっても、静かに耳を傾けることができるような心と体、そして霊的な準備をするようにしたいと思いますし、そのようにできますよう、お二人は、これからの司祭への道の中で、よい準備をしていただきたい。  

今日が3月12日、そして、2017年ということで、わたくしの念頭にあることを、ひと言申し上げました。どうぞ、宜しくお願いいたします。




東日本大震災復興祈念ミサ「思いつづける 3.11」

2017年3月11日、東京カテドラル

[聖書朗読箇所]

説教

大震災が起こって間もなくのことでした。日本に住んでいたカトリック信者の7歳の少女、エレナさんが教皇ベネディクト十六世に手紙を出したところ、その手紙がイタリアのテレビ番組で取りあげられました。
その手紙は、
「日本に住む子ども達はどうしてこんなに怖い思いをしなければならないのでしょうか、神様とおはなしされる皇様、どうか神様に聞いてください」
というような質問だったのです。

「その質問に答えることはわたしにもできません。けれどもわたしたちは知っています。イエスは罪がないにもかかわらず苦しみをお受けになりました。イエスのうちにご自分を現わされた神様は皆さんの苦しみをご存知です。皆さんを愛しています。神様は皆さんの傍にいてくださいます。世界中の人々が皆さんとともにいてくださいます。今は大震災が起こったその理由はわかりませんが、何時かわかるときが来ると信じています。」

教皇はおよそこのようにお答えになりました。わたしはこの教皇様の誠実な応答に非常に感動しました。(教皇ベネディクト十六世「霊的講話集2011」より)
わたしもこの問題はわたしたちの信仰の試練であると感じました。

今日は聖書から二つの箇所を取り上げご一緒に味わいたいと思います。

まずローマ書5章です。
ここでは、被造物の解放が述べられています。人間だけでなく、被造物も「滅びへの隷属」の状態にあるとパウロは述べています。
「滅びへの隷属」とは何を意味しているのでしょうか。神が造った世界はきわめて善い世界です。しかし世界に悪が侵入し、神の計画のなかで神の御心に沿わない部分が出てきています。神の国の秩序が乱されています。この世界に見られる乱れ、「不秩序」が「滅びへの隷属」ではないでしょうか。
パウロによればこの世界も隷属から解放されるときが来ます。それは神の創造の計画の中に織り込まれています。黙示録他で「新しい天と新しい地」の到来が告げられています。(黙示録21章1-7、イザヤ65・17,66・22参照)

本日の朗読でパウロは言います。
「 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ8・24-25)

この希望を新たにして下さるよう、慈しみ深い神に祈りましょう。

本日の福音は、教会の看板などでよく見るイエスの言葉です。
「 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11・28)

犠牲者・被災者・避難者の皆さんは大きな苦しみ、悲しみという重荷を担っています。その皆さんの傍に復活した主イエスは一緒にいてくださいます。このわたしたちの信仰の根拠は復活の主イエス・キリストのうちにあります。キリストはわたしたちの人生を苦しみのない快適な人生にしてくださるという約束はしてくださいませんでしたが、ともに「軛」を負ってくださると約束してくださいました。

わたしは思います。復活したキリストはわたしたちの中におられます。わたしたちを通して生き働かれます。わたしたちが寄り添いと助け合うならば、そこには復活したキリストの恵みが働き、イエスご自身がそこにいてくださいます。
キリストは最後の日に決定的に来てくださる。しかし今既にわたしたちの間に来て神のいつくしみと愛を示してくださっています。この信仰は世界を神のお望みにかなう現実に変化させるための戦いでもあります。

主の祈りでわたしたちは
「わたしたちを悪からお救いください」
と祈り、その後司祭は副文でさらに祈ります。
「いつくしみ深い父よ、すべての悪から、わたしたちを救い
現代に平和をお与えください。
あなたのあわれみに支えられ罪から解放されて、
すべての困難にうち勝つことができますように。
わたしたちの希望、救い主、イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます。
アーメン。」

震災の被災者と被災地と連帯しながら、勇気をもって、信仰と希望のうちに困難に立ち向かえることができますよう祈、聖霊の導きを祈りましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読 ローマ 8・18-25
現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。
被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。
見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

福音朗読 マタイ 11・25-30
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

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習志野教会ミサ説教

2017年3月5日、四旬節第一主日

[聖書朗読箇所]

説教

みなさん、今日は、四旬節第一主日です。
復活祭を迎えるための準備の期間、40日が与えられて、わたしたちは、とくに祈りをささげ、節制をし、犠牲をささげて、主イエス・キリストの復活を喜び祝うことができますよう、心がける期間です。
今日の聖書の朗読を読んで、わたしが感じましたところを少し述べて、分かち合っていただきたいと思います。

第二朗読はローマ書5章です。
「ひとりの人のおかげで、この世の中に罪が入ってきた」と述べています。ひとりの人というのは、第一朗読で述べられている、「アダム」のことを指しています。そして、「ひとりの正しい人のおかげで、すべての人に救いが与えられる」と述べられています。この、ひとりの正しい人とは、わたしたちが信じている、主イエス・キリストのことです。
「ひとりの人が神様に背いたので、残りのすべての人に罪が及んで、死が入ってきた」と聖書は教えています。この教えを、みなさんは「なるほど」と思いますでしょうか。人々に説明するときに、難しいように感じます。更に、「ひとりの人がすべての人のために命をささげてくださったので、神の恵みはすべての人に及ぶのです」というように、わたしたちは信じ、説明します。この、ひとりの人というのは、イエス・キリストのことです。ひとりの人が悪いことをすると、残りのすべての人が、その結果を受ける。逆に、ひとりの人がよいことをすると、その結果も、すべての人に及んでいく。簡単にいうと、そのようなことなのでしょうか。

こちらに集まっているわたしたち、同じ習志野教会に属するみなさんですけれども、それぞれの場所で、それぞれの生活をし、お仕事など、いろいろなことをしていらっしゃいますが、自分のすることについて、その結果を自分で引き受けなければならないということは分かります。しかし、自分のすることが、他の人にまで及んでいくということは、どのようなことだろうか。「連帯責任」ということばがありますが、聖書の教えで、分かりにくい点があるとしたら、今日申し上げている、この2つの点である気がいたします。

「アダム」とは、「最初の人間」を指していますが同時に人間一般を割いています。塵で造られたために、アダムと呼ばれていますが、「アダマ」ということばが「塵」を意味するので、語呂合わせのようになっています。
「人は塵から造られて塵に戻る」。先日、灰の式がありました。そのときに、人間は塵から造られた者であるということを思い起こさせられます。しかし、その人間に、神様が息を吹きかけたので、命が宿った。その人間は、造り主である神様のことばに従って、日々生きるべき者であります。しかし、だんだん、自分で自分の思うように生きたいと思うようになり、神様のいいつけに背いて、神様とのつながりにひびが入ってしまった。まともに、神様の顔を見ることができなくなってしまった。そのような話が、創世記に出てきます。ひとりの人が神様との親しい交わりを失ってしまうと、その結果は、他の人にまで及んでいく。アダムとエバは、神様の目を避けなければならなくなった。その結果は、人類すべてに及んでいる。

わたしたちは、自分自身を見ると、自分の中に、どうしてもうまくいかないところがある。このようにしなければならないと思うが、なかなかそのようにはできない。このようにしてはいけないが、ついそのようにしてしまう。あるいは、もっときちんと分かっていなければならないのに、どうしてそのようなことが分からないのかなど、うまくいかないところがある。それを、誰しも自覚すると思います。
そして、わたしたちは、日々いろいろな誘惑に出会い、その誘惑に負けてしまうことがある。どうして、わたしたちは、このようにもろく、弱いのでしょうか。

今日の福音は、四旬節の起源を示す話ですが、イエス・キリストが40日間、荒れ野で悪魔の試みを受け、そして、その誘惑に打ち勝たれた次第を話しています。わたしたちも、そのようにしなさい、そのようにできるはずだということを、今日、わたしたちは、よく黙想したいと思います。イエス・キリストは神の子であり、神の力をもっていましたが、人間として誘惑をお受けになった。石をパンに変えたらどうか、苦労して働いて、労働の糧を得るよりは、ひと言、「パンになれ」といえば済むことだと、そのような誘惑を受けても、イエスは、「人はパンだけで生きるのではなく、パンも必要であるが、神のことばによって生きるのだ」といわれた。

あるいは、かつて、イスラエルの民が40年間、荒れ野を放浪しなければならなかった。それは、神様が本当に、自分たちの中にいてくださるかどうかということを疑ったことがあったからです。「メリバ」というところで、「まっさ」というところで神を試みたことがあったため、神は40年の間、荒れ野でイスラエルの民を放浪させて、神への信仰を強くもつようにおさせになった。

わたしたちの場合はどうか。現代の日本、東京とその周辺は、本当に生きることが大変なところではないだろうか。砂漠のようなところではないが、精神的に非常に生きづらい環境の中で、本当に神様は居てくださるのだろうか。神様は何をしてくださるのか。どうしてこのようなことが起こるのだろうか。神様はいないのかもしれない。そのような思いをもってしまうかもしれない。それよりも、もっと簡単に、自分を慰め、楽しませてくれる、いろいろなものがあるので、そちらの方に手が伸びてしまう。そのような思いを、わたしたちはもっていないだろうか。そのような誘惑を感じていないだろうか。

引退なさった教皇ベネディクト十六世は、教皇に就任されたときにいわれました。「わたしたちの住んでいるこの世界は、現代の荒れ野である。現代の荒れ野において、本当に神のことばによって、毎日生きるように努めなければならない。目を神以外のものにそらして、そちらの方にすがりつくようなことがあってはいけません。どんなに難しく、辛い状況があっても、神はいつもわたしたちと一緒にいてくださり、わたしたちを支え、導いてくださる」。

東京教区の現状を見ますと、わたしたちが越えていかなくてはならない、いろいろな課題があります。他人ごとではなくて、わたしたち、ひとりひとりが、力を合わせて、現実を見ながら、その問題を越えていかなければならないと思います。

今日のミサの集会祈願は、今日のミサの主旨をよくあらわしていると思います。
「主イエスは、40日の荒れ野の試みをとおして、悪への誘惑に打ち勝つ道を示してくださいました。四旬節の歩みを始めるわたしたちを導き、日々あなたのことばによって生きる者としてください」。
日々、神のことば、キリストのことばを味わいながら、忍耐と希望をもって歩んでいくようにいたしましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読 創世記 2・7-9、3・1-7
第二朗読 ローマ 5・12-19
福音朗読 マタイ 4・1-11

(福音本文)
〔そのとき、〕イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

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