復活節第二主日説教


2017年4月23日、関口教会

[聖書朗読箇所]

説教

今日は、復活の第二主日です。
聖ヨハネ・パウロ二世によって、「いつくしみの主日」と名付けられております。
2015年12月8日から、昨年の11月20日、「王であるキリスト」の日までの1年余り、「いつくしみの特別聖年」をわたしたちは祝いました。
神はいつくしみ深い方であることを深く学び、そして、わたしたちもいつくしみ深い者であるようにと努める、特別な1年でした。
神のいつくしみを知り、いつくしみに生きるということは、わたしたちキリスト者が、毎日心掛けるべきことです。

イエスの弟子たちは、イエス・キリストに出会い、イエス・キリストから神のいつくしみを学び、そして、キリストの復活という出来事に出会って、わたしたちの教会を創立しました。

いま、読まれました福音は、ヨハネによる福音の20章です。ヨハネによる福音が伝えているところを、今日、分かち合いたいと思います。

「週の初めの日の夕方」という言葉から始まっております。「週の初めの日」というのは、今日(こんにち)でいえば、日曜日に当たります。
弟子たちは、どちらかの家に集まって、その家に鍵をかけていた。それは、ユダヤ人が恐ろしかったからです。イエスの身の上に起こったこと、それは、非常に残酷な、恐怖を起こさせる出来事でした。弟子たちは、イエスを裏切り、見捨て、逃げてしまいました。
どちらかの家に集まって、肩を寄せ合っていたのでしょう、家に鍵がかかっていたにもかかわらず、イエスが入って来られて、
「あなたがたに平和があるように」
と言われた。

どのようにして、扉を通って来たのでしょうか。

「あなたがたに平和があるように」。
この言葉を、司祭はミサを献げるときに、何度も唱えます。そして、わたしたちも、手紙を書くときなどに、挨拶として使っている言葉です。
「平和」とは、旧約聖書以来、使われている、非常に重要な言葉であり、欠けたところのない神のみこころが、十分に実現している状態であるとされています。

この場合、弟子たちにとっての「平和」は、何であるか。ユダヤ人に逮捕されたり、処刑されたりするという恐れもあったでしょうが、恐らくは、何よりも、主イエスと離れている状態、イエスが取り去られてしまった。そして、自分たちは彼らを見捨て、彼らはイエスを見捨ててしまった。いわば、「裏切ってしまった」という罪の意識、後ろめたさが、彼らの平安を奪っていたのではないかと思います。
「あなたがたに平和があるように」
とイエスは言われたので、彼らの心は平和で満たされました。

「弟子たちは、主を見て喜んだ」
とあります。

そして、更に、イエスは彼らに聖霊をお与えになりました。
「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」。

イエスから、罪の赦しを受けた弟子たちは、更に、人の罪を赦すことができるように、聖霊を受けました。

さて、その大切な場面に、12人の中で1人の弟子、トマスは居合わせなかった。疑い深いトマスと言われますが、トマスはイエスのご出現を信じなかった。トマスは、それから8日後、つまり、今日の典礼は復活の日から2週間目を想定した日ですが、トマスの前に現れて言われた。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。
トマスは、イエスに答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。

さて、今日の第二朗読におきまして、最初の教会の人たちのことが述べられています。
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」。

わたしたちは、すでに、復活の出来事があってから、2千年以上経過しているときの信者です。ペトロの手紙の相手となっている人たちは、復活の出来事を信じている神の民、いつ頃のことでしょうか、1世紀か2世紀の初めか、大部分の人が、地上のイエスに出会ったことのない人たちであろうと思われます。
イエスに会ったことがない、復活したイエスに出会ったことがないのにもかかわらず、イエスを信じている、そのように著者が言っている。わたしたちの方は、更に、そのようなことになる。

わたしたちは、復活を信じ、キリスト者となっております。現代において、復活を信じて生きるということは、更なる努力が必要です。たびたび、神の言葉、キリストの言葉を聞き、ご一緒にお祈りし、励まし合い、困難の中に、神の導き、復活の光を見つけるように努めなければならないと思います。

わたしたち教会は、キリストの復活を告げ知らせる、神の民です。キリストが復活した、死と罪に打ち勝ったという信仰を、人々に表す団体、イエス・キリストが、いまも復活して、わたしたちのところに来てくださるという信仰、イエス・キリストの復活の現存、復活したイエスがいてくださるという信仰を表す、そのような印である教会です。

わたしたちを見て、イエス・キリストの復活の印があると、多くの方が見てくださるような、わたしたちでありたい。
そのためには、わたしたちは、よく祈る神の民、神のいつくしみを実行する神の民、お互い助け合っている神の民、最初の教会のような教会でなければならないと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 使徒言行録2・42-47
第二朗読 一ペトロ1・3-9
福音朗読 ヨハネ20・19-31

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カルメル会助祭叙階式説教


2017年4月22日 復活の土曜日、上野毛教会

[聖書朗読箇所]

受階者
ヨハネ 志村 武(しむら たけし)

説教

カルメル会の志村武さんの助祭叙階にあたり、ひと言申し上げます。
今日は、復活後の最初の土曜日、復活の土曜日ですので、本日の朗読と祈願に従って、ミサを献げます。
いま読まれました、福音朗読は、マルコの福音の結びの部分です。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」という、主イエスの言葉をもって、結びとされております。
マルコの福音は、4つの福音の中で、もっとも短く、簡潔な内容であり、成立は、4つの福音書の中で、もっとも早いと思われます。
今日の箇所は16章9節から15節ですが、この最後の部分は、後から教会が付け加えた部分であるということを、聖書学者は言っております。
イエスは、「すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16・15)そのように言われた。
復活した、主イエスは、弟子たちに聖霊を注ぎ、聖霊の恵み、聖霊の力、聖霊の照らしをもって、すべての人が、全世界、この地上のどちらにおいても、イエス・キリストを宣べ伝え、証するという使命を授け、そして、その使命を実行することのできるように、聖霊をお注ぎになりました。

ヨハネ 志村武さんは、そのようにして成立した教会の中で、いま、カルメル会の助祭に叙階され、更に、司祭に叙階される道を歩むこととなっております。助祭は、新約聖書では「奉仕者」、あるいは「執事」と呼ばれています。

使徒言行録によれば、ステファノをはじめとする7人が、もっぱら共同体の食事の世話をする奉仕者として選ばれました。(使徒6・1-6)
ペトロをはじめとする使徒たちは、祈りとみことばの奉仕に専念したい、そのために、教会共同体の奉仕をしようと、貧しい人への愛の奉仕は、後に助祭と呼ばれる人に、もっぱら委ねることになったとされております。

助祭は、教会共同体の奉仕の活動・運営・管理などの、非常に大切な責務を担うようになり、助祭の存在は、非常に重要なものとなりました。しかし教会の歴史の進展の中で、次第に、そのような助祭の任務が忘れられ、廃れてゆき、ラテン教会、わたしたちの教会では、司祭職に至るための1つの段階、過渡的な助祭だけが残りました。

「これではいけない」という意見が取り上げられまして、わたしたちの教会は、終身助祭の制度を再考しました。司祭になるために取りあえずなる助祭ではなくて、終身、一生助祭として奉仕しますという人を任命し、叙階することができるようになった。もともとは、助祭とはそのような存在でした。
司教協議会も、その道を開くように決定し、現在、全国には、多くの終身助祭の方がおられます。

なお、助祭の典礼における任務は、次のように言われております。
「荘厳に洗礼式を執行し、聖体を保管し、分け与え、教会の名において結婚に立ち合い、祝福し、死の近くにある者に聖体を運び、信者たちのために聖書を朗読し、人々に教え勧告し、信徒の祭礼と祈りを司会し、準秘跡を授け、葬儀と埋葬を司式する」(『教会憲章』29)と決められております。

さて、志村さんは、やがて、司祭になり、カルメル修道会の霊性に従って、生涯を神様にお献げになる。その、志村さんの召命の中で、日本の福音宣教、日本の福音化の使命を担う、分担することになります。
カルメル会の霊性を生きるとともに、この日本における福音宣教、日本におられる人々に、イエスの福音を宣べ伝え、且つイエス・キリストの復活の証人となるという任務を、しっかりと実行していただきたいと思います。
特に、わたくしが、いま念頭に置いておりますことは、すべての信徒の方を福音宣教へと進ませる、福音宣教をする者、福音宣教者とするために、教え導き、励ますという務めを、わたしたち司祭は授かっている、ということです。

更に、カルメル会の司祭になるわけですから、「祈り」ということを教えていただきたい。この世にあって、この忙しい毎日の生活の中で、祈りをもって、日々を神様に献げる人となるためには、どのようにしたらよいのかということについて、親しく、具体的に教え、実行する者となっていただきたい。
日本の社会では、いま、少なからぬ人が、いわば、行き暮れ、迷い、子どもの貧困ということが、現実となっており、更に、家庭の問題、家庭が崩壊している、あるいは、家庭が危機的な状況にあるという中で、人々は生きるための光、支え、道筋を見失いがちである、と思います。
そのような人々のために、励まし、導き、希望となる、イエス・キリストの道を指し示すよう、どうか、努力してくださるようにお願いいたします。

聖書朗読箇所

第一朗読 使徒言行録4・13-21
福音朗読 マルコ16・9-15

(福音本文)
イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。
マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。
その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。
その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。
それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

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復活徹夜祭説教


2017年4月15日、カテドラル関口教会

[聖書朗読箇所]

今年は、3月1日が灰の水曜日でした。その日から四旬節が始まり、そして、4月9日、受難の主日から、わたしたちは聖週間を過ごして来ました。

いま、わたしたちは、復活の聖なる徹夜祭の祭儀を執り行っております。復活徹夜祭は、教会の伝統が伝える、最も豊かで重要な典礼祭儀です。このなかで、洗礼式が行われ、多くの兄弟姉妹が洗礼をお受けになります。わたしたちも洗礼を受けた者です。
洗礼式では「白衣の授与」が行われます。そのときに、司祭は「あなたがたは新しい人となり、キリストを着る者となりました。神の国の完成を待ち望みながら、キリストに従って歩みなさい。」と言います。「白い衣を受ける」ということは、「生まれ変わって新しい人になる」ということを意味しています。
更に、それぞれの方は、自分のろうそくに、復活のろうそくから光を受け取ります。これは、「復活のいのち受け、復活のいのちを生き、そして、復活の光を受けて、人々を照らす者となる」ということを表しています。

今日の、復活徹夜祭の最初の部分で、わたしたちは、光の祭儀を行いました。「洗礼」という言葉は、ギリシャ語で「バプティスマ」と言いますが、「水に浸される。水に沈められる」ということを、元来意味しています。

ローマ書(6・3-11)の朗読が教えているように、それは、キリストの死と復活にあずかるということ、キリストとともに死に、キリストとともに、新しい命に生きるようになる、ということを意味しております。洗礼を受ける人は、罪に支配される古い自分に死に、キリストの復活の命を受けて、新しい人間として生まれ変わるのです。

復活徹夜祭で必ず読まれなければならない出エジプト記(14·15-15·1)は、イスラエルの民が紅海を渡って、エジプトでの奴隷の状態から解放されたことを述べていますが、これは、あらかじめ洗礼の秘跡を示す「しるし」であり、紅海は洗礼の泉を、イスラエルの民は、洗礼によって罪から解放される、わたしたちキリスト信者を表すと解釈されています。

また、エゼキエルの預言(36・16-28)の朗読がありました。
「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石を取り除き、肉の心を与える」(36・25-26)。
神の霊の働きによって、わたしたちの頑なな心は打ち砕かれ、神の言葉に素直に、柔軟に聞き従う、新しい人となるということを表しています。

わたしたちは、人生の歩みの中で、非常に辛いこと、あるいは、どうしようもない、嫌な思いをすることがあるかもしれません。自分で自分を受け入れることが、難しいと感じることがあるかもしれない。
そのようなときでも、わたしたちは新しく生まれ変わることができるという信仰を、新たにしたいと思います。人は、どのような過去があっても、新しく生まれ変わることができる。わたしたちは、そのように信じます。

今日、洗礼を受けられるみなさん、洗礼によって受ける新しい命は、最後の過越しである「死」によって完成します。わたしたちは生涯かけて「死から命へ」という過越しの神秘、復活の信仰に従って歩みます。これからの日々を、希望と、そして、主なる神様への信頼を持って、お献げするようにいたしましょう。

復活徹夜祭では、更に、洗礼を受けた人たちの「洗礼の約束の更新」が行われます。洗礼を受けている、兄弟姉妹のみなさん、洗礼を受けたときのことを思い起こしましょう。
あのときの喜び、あのときのすがすがしい気持ちを思い出しながら、新たな決意を持って、キリストの弟子として歩むことができますよう、聖霊のご保護とおん助けを祈り求めましょう。

聖書朗読箇所

ことばの典礼
第一朗読   創世記1・1、26-31a
第三朗読   出エジプト記14・15-15・1a
第七朗読   エゼキエル36・16-17a、18-28
使徒書の朗読 ローマ6・3-11
福音朗読   マタイ28・1-10

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聖香油のミサ説教


2017年4月13日、東京カテドラル

[聖書朗読箇所]

本日、聖香油のミサの日を迎えました。
聖香油のミサの中で、3種類の油の祝福と聖別が行われます。『病者の油』と『洗礼志願者の油』は祝福され、『聖香油の油』は聖別されるとされております。
『塗油』を意味するギリシャ語は、『クリスマ』という言葉であり、そちらから、『キリスト者』、『キリスト教徒』という言葉が出てきていると言われております。

わたしたちは、キリスト者、キリスト教徒、クリスチャンと呼ばれております。キリストは、旧約聖書の言葉であるヘブライ語で「救い主」を意味する「メシア」のギリシャ語訳で、『油注がれた者』という意味であることを、わたしたちは学びました。
そのキリストの使命に与る者、キリストに従って、それぞれの任務を遂行する者として、わたしたちは洗礼、更に、堅信の秘跡を受けているのですし、わたしたち司祭は、叙階の秘跡を受けているのです。

洗礼、堅信、叙階の秘跡のときに欠かせないものが、何であるかというと、もちろん、お祈りの言葉ですが、それとともに、聖香油がなければなりません。1年に1度だけ、司教は、司祭団と一緒に香油を聖別する、聖香油のミサを献げます。

みなさんのお手元にある、聖香油のミサの式次第は、今年のために改訂されたものです。油の祝福と聖別は、ミサの終わりの方で行うことが、わたしたちの教会の伝統ですが、司牧的な理由があれば、説教の後、正確に言いますと、司祭の約束の更新の後、行うことができるとされておりますので、本日は、そのようにいたします。

聖香油のミサのときに読まれる福音は、毎年同じ個所、ルカの4章16節より21節です。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。」

主イエスが、ご自分のお育ちになったナザレの会堂で、ご自分の使命の開始、公生活の開始にあたって読まれた、イザヤの預言にある箇所、イザヤ61章の言葉をもって、「この言葉は、いまここで成就した」と宣言され、自分は主から油を注がれた者、主の霊を受けた者であると宣言しました。

わたしたちは、主イエス・キリストを信じると宣言し、そして、主イエス・キリストの使命に与る者であると自覚しております。そして、その使命を実行できるようにと、主なる神は、わたしたちに聖霊の力を注いでくださいましたし、今も注いでくださっています。
わたしたちは、洗礼、堅信、そして、司祭は叙階の秘跡のときに、聖香油を塗っていただき、『塗油された者』、すなわち、『キリスト者』となりました。わたしたちは、キリスト者、主の霊を受けた者ですから、霊の導き、霊の働き、霊の助けがあると信じています。

この困難な時代、それぞれの場所で、キリスト者としての使命を実行することは難しいと感じますが、しかし、「それをあなたはすることができる」と、聖霊がわたしたちに教えてくれていると思います。

今日、聖香油のミサを献げるにあたり、わたくしは聖香油というのは何であるかということを、今日ご一緒に分かち合いたいと考えました。
旧約の指導者たちは、祭司、王、預言者は、油を注がれてその務めに就任した。サウル、ダビデ、ソロモンなどの王たちは民の同意のもと、油を注がれて王となったのでした。「油注がれた者」は、ヘブライ語でメシアと呼ばれ、ギリシャ語で『キリスト』となりました。

さて、ここにいるわたしたちは全員がキリスト者となっています。
全員がキリストの使命を受けた者です。そのようなわけで、わたしたちは自分の使命を果たすことができるよう、お互いに、励まし合い、助け合い、祈り合いましょう。
わたしたち司祭は、信徒のみなさんが、それぞれの立場で、それぞれの場所で、キリスト者として生きられるよう、支え、助け、導き、そのために、毎日お祈りをしております。

どうぞ、宜しくお願いいたします。

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ61・1-3a、6a,b8-9
第二朗読 黙示録1・5-8
福音朗読 ルカ4・16-21
(本文)
イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」
イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

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受難の月曜日説教


2017年4月10日、関口教会

[聖書朗読箇所]

昨日、わたしたちは主の受難の主日を記念しました。

今日は、受難の月曜日です。本日の福音朗読、ヨハネの12章は、過越祭の6日前に、ベタニアで起こった出来事を伝えています。それは、イエスがよみがえらせたラザロの姉妹のマリアが、非常に高価なナルドの香油をイエスの足に塗り、自分の髪で足を拭ったという出来事です。女性がイエスに香油を注ぎ塗るというような話は、他の福音書、マタイ、マルコ、ルカも伝えています。

この出来事を見ていた、弟子のイスカリオテのユダは言いました。
「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」(ヨハネ12・5)
1デナリは当時、人が働いて得る賃金、日当にあたる金額でした。ですから、300デナリと言えばほぼ1年分の収入にあたる、かなり高い金額になります。このユダの言葉には、「なるほど」と思わないわけではありません。しかし、「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」(ヨハネ12・6)とヨハネ福音書は語ります。
ユダは、イエスから信頼されて財布を預かり、お金の出し入れを任されていました。300デナリが欲しかったのかもしれません。このときイエスは、彼女をかばって言いました。
「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」(ヨハネ12・7)

イエスの十字架のときが迫っていました。マリアはそのことを感じていたのでしょうか。マリアはイエスに香油を注ぎ、自分の持っている最も大切なものをイエスに献げて、イエスの葬りの準備をすることになったのです。
この場面からわたしは、彼女のひたすらなる清い思いを感じます。なりふり構わずに、イエスの足を髪で拭うというこの行為は、非常識と思われました。しかし、彼女は自分の行いが周りにはどう映るかということなど、全く気にはしていませんでした。

他方、ユダの態度はマリアとは対照的です。ヨハネ福音書は、「彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」(ヨハネ12・6)と述べています。彼は、盗人、ごまかす人、うわべは貧しい人を思いやるように装っているが、心の中は強欲な人、とされています。

今日、聖週間の月曜日、復活祭へ向かって歩むわたしたちの心はどうでしょうか。わたしは、自分自身について言えば、ユダの心がわからないわけではない、ユダの心が自分にもあると感じます。マリアの清い心に惹かれながら、ユダの心との間で揺れているような自分を見ます。

乱れた心を神が浄めてくださいますよう、聖霊に祈ります。

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ書 42:1-7
福音朗読 ヨハネによる福音書 12:1-11
(本文)
過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。

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受難の主日(枝の主日)説教


2017年4月9日、関口教会

[聖書朗読箇所]

ただいま、わたしたちは、マタイによる主イエス・キリストの受難の朗読を聞きました。二千年前に起こった、ナザレのイエスと呼ばれる、ひとりの男の最後の場面を、教会は大切な記憶として、今日まで伝えております。

イエスが受けた苦しみは、十字架につけられるという、肉体の苦しみだけでなく、弟子たちから裏切られ、見捨てられ、人々から侮られ、蔑まれるという、精神的な苦しみでした。
更に、今日の朗読が伝えている、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」というイエスの言葉から想いますに、それは、父である神から見捨てられるという心の苦しみではなかったかと思います。

イエスが十字架につけられて、そして、息を引き取るまでの様子を、聖書は詳しく伝えていますが、先ほどの朗読によると、12時頃から、暗闇が辺りを覆い、3時まで続いたとあります。3時頃、イエスは息を引き取りました。暗闇が、世界全体を覆っている。その状況を、わたしたちは想像しています。そして、この暗闇は、イエス自身の心をも襲った暗闇ではなかったでしょうか。

「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」。イエスの口から発せられた、この言葉は人々の心に、強く、深く、刻み込まれました。もっとも、実際にどのような発音であったのか、正確にはわかりません。マルコ福音書の方は、「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ」となっています。

いずれにせよ、イエスが十字架の上で叫んだ、いくつかの言葉、その中で、マタイが伝える「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」、これは、今日の朗読自身が解説しているように、「わたしの神よ、わたしの神よ、どうしてわたしをお見捨てになるのか」という意味でした。そして、この言葉は、本日の答唱詩編22の冒頭の言葉と全く同じ文言です。

イエスのこの言葉は、何を意味しているのでしょうか。
わたくしは、このイエスの叫びは、イエスの心が罪の力、闇によって覆われていたことを表していると思います。「罪」とは人が神から離れている状態です。神の光が届かない暗闇を意味します。

 イエスは、全く罪のない人でしたが、「神は、このイエスを罪とした」とパウロは言っています。パウロの言い方では、「罪とは何の関わりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちは、その方によって、『神の義』を得ることができたのです」(コリント二5・21)となります。

「神の義」という言葉が、わたしたちには、いまひとつわかりにくいのですが、「イエスが罪とされ苦しみを受けたのは、イエスの苦しみを通してわたしたちが罪の赦しを受けるためであった」という意味であると考えます。イエスは、わたしたち罪人のために、罪人に代わって、罪の闇を引き受けてくださったのです。
父である神は、このイエスの苦しみを献げものとして受け入れ、その答えとして、イエスを復活させました。そして、すべての人のために、永遠の命への道を開いてくださったのです。

本日の第二朗読は言います。
「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公にのべて、父である神をたたえるのです。」(フィリッピ2・10-11)

今日の典礼を、大切に、丁寧に、お献げいたしましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ50・4-7
第二朗読 フィリッピ2・6-11
福音朗読 マタイ26・14-27

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司祭叙階式説教


2017年3月20日、東京カテドラル

[聖書朗読箇所]

受階者
ミカエル 泉 雄生(ゆう)   (東京教区)
パウロ  野口 邦大(くにひろ)(東京教区)

説教

今日これから司祭に叙階される、
ミカエル 泉 雄生(ゆう)さん
パウロ  野口 邦大(くにひろ)さん
そして叙階式に参加しているすべての皆さん

叙階式にあたり、「司祭の務め」について皆さんとご一緒に分かち合いたいと思います。

1.司祭は仕える者です。
今日の聖書朗読と福音朗読が示しているように、司祭は何よりまず人に仕える者であります。
「司祭になる」ということは、人から崇められる人、権威、尊敬、地位、名誉を与えられて、いわゆる『偉い神父様』となる、ということではありません。
頭ではそう分かっていますが心の中では、いつの間にか司祭は、自分が重んじられていないと感じて不安になり、あるいは自分を評価してくれない人に不快を憶えるようになります。

今日の福音が告げているように「誰が一番偉いのか」という問題に心がこだわるようになりかねません。
他の人よりも評価されたいという思いが生まれることは誰しも避けられません。しかしそのこだわりから、「不安、嫉妬、怒り、憎しみ」などの人を苦しめる思いが生まれることになります。この思いは誰にとっても大きな誘惑であります。

司祭の日々はこの誘惑との戦いの日々であると思います。このようなときに、例えば次のように祈りながら、誘惑を退けるようにしてください。

主イエスよ、どうかわたしをお救いください。
人から評価されたいという思いから、
重んじられたいという思いから、
褒められたいという思いから、
認められたいという思いから、
侮辱されることへの恐れから、
見下されることへの恐れから、
非難される苦しみへの恐れから、
中傷されることへの恐れから、
誤解されることへの恐れから、
わたしを解放してください。

2.司祭は司教の協力者であり司祭団のメンバーです。
今日の叙階式の式文がたびたび言っているように、司祭とは司教の協力者です。司教は司祭の存在と協力なしにその使命を果たすことはできません。司祭はまず司教との緊密な交わりに中でしか任務を遂行することができません。

ですから司祭はまず司教の話をよく聴いて頂きたい。もちろん司教も司祭の話をよく聴く者であるはずです。自分の希望、自分の問題、自分の真実を率直に司教に話してください。司教もそうされるに値する、信頼されるべき者であるよう努めるはずです。

そしてまた、司教の協力者として叙階される司祭は同時に、司教を中心とする司祭団へ加入することになります。
「わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさい」との主イエスの掟はまず司祭の交わりの中で具体的な姿をとって実現されなければなりません。

新しく司祭に叙階されるあなた方は、すでに叙階されている先輩の司祭、年長の司祭を尊敬し、その指導と助言とに謙遜に耳を傾け、その体験と知恵に学ぶよう努めてください。
また、病気の司祭、高齢の司祭を労わり助け、その必要によく応えるよう心がけてください。
日々の宣教司牧活動については何事も仲間の司祭との緊密な連絡と協力のもとに行うようを心がけてください。またあなたの後に続く司祭の召命に特に意を注ぎ、青少年の育成に配慮するようお願いします。

3. 司祭は信徒に聴き信徒に学ぶ者。
教会は信徒、司祭,奉献生活者からなる神の民です。教会の発展のために司祭と信徒のふさわしい協力関係をたえず築かれ新たされなければなりません。
第2ヴァチカン公会議は司祭と信徒とのあるべき関係について次のように述べています。
「聖なる牧者は,教会における信徒の地位と責任を認め,またこれを向上させなければならない。信徒の賢明なる助言をこころよく受け入れ,教会の奉仕のために信頼を持って彼らに任務をゆだね,行動の自由と余地をかれらに残し,さらに,かれらが自発的に仕事に着手するよう激励しなければならない。また信徒から提案された創意,要求,希望を,キリストにおける慈父としての愛を持って慎重に考慮しなければならない。」(『教会憲章』37番参照)

東京教区が、この司祭と信徒にあるべき協力関係のなかで、希望のうちに健全なる発展を遂げるよう切に望んでいます。
特にお二人にお願いしたいのは、信徒が福音宣教へ向けて信頼と、希望、勇気をもって働けるよう、教会の環境を整え、準備をし、信徒の信仰を養成するよう心掛ける、ということです。
これは東京教区の最優先課題です。

聖霊があなた方を守り支え導いてくださいますように。

聖書朗読箇所

第一朗読 エレミヤ1・4-18
第二朗読 1コリント1・26-31
福音朗読 マタイ20・25-28

(福音本文)
そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

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ネットワークミーティング in 東京 派遣ミサ説教


2017年3月19日、藤が丘教会(横浜教区)

[聖書朗読箇所]

みなさん、こんにちは。東京教区の岡田でございます。
昨日から、みなさんは、祈り、学び、分かち合いをして過ごされたのだと思います。
事前にいただいた、ミサの3つの朗読箇所を見まして、この箇所は、「いつくしみの特別聖年」のときに、特に大切な箇所として提示された箇所であったと思い起こしました。
「あなたがたの父がいつくしみ深いように、あなたがたもいつくしみ深い者でありなさい。」(ルカ6・36)。
この主イエスの言葉を、わたしたちはしっかりと受け止め、そして、日々の生活の中で、個人的にも教会としても、社会の中で神のいつくしみを示し、あらわし、伝える者でなければならないということを学んできました。

ところで今日は四旬節第三主日であり、主日の福音としては、サマリヤの女性の話が朗読されました。教皇様が、「いつくしみの特別聖年」中に、祈るようにと示されたお祈りの中に、サマリヤの女性が出てきています。
神のいつくしみは、ナザレのイエスという人において完全にあらわされ、そして、実行されました。地上においてイエスに出会った人は、神のいつくしみに触れ、そして、自分が受け入れられ、愛されているということをしみじみと感じ、そのように受け取ることができた。その中に、有名なこのサマリヤの女性がいます。彼女は、イエスとの出会いによって、自分が愛されている者であるということ、自分が認められ、受け入れられている者であるということを、しみじみと悟ることができたのでした。

イエスの時代から、二千年を経て、わたしたちは、いまここに、同じイエス・キリストを信じる者として集まっています。わたしたちは、だれかのおかげでだれかに出会って、神の存在、イエス・キリストの生涯について学び、そして、使徒ヨハネの手紙で言われているように、「神は愛です」と信じることができました。それは既に、「神は愛である」と信じた人との出会いのおかげです。神の愛を信じ、神の愛を実行してくれている人との出会いがあったので、信じることができたのではないでしょうか。

人生には、非常に過酷で、不条理な面、辛いことがあります。そのような日々の中で、「神様がいる」ということ、「神が愛である」ことを信じ、その信仰を生きる、ということができるためには、絶えざる祈り、絶えざる助け合いが必要です。ひとりで信じ抜くということは容易ではありません。同じ仲間として、信仰を分かち合い、深めることが、本当に大切なことではないかと思います。

今日は、この機会に、たまたま、わたしの念頭にある、2つのことを紹介して、みなさまの参考に供したいと思います。

そのひとつは、「子どもの貧困」ということです。
日本のカトリック司教協議会は、最近、『いのちへのまなざし』という本の、増補新版というものを出しました。
この本の中に「子どもの貧困」という項目があります。
世界中で子どもが貧困の状態にあります。よその国のことではなく、この日本においても、子どもが貧困の状態に置かれている、ということです。
「相対的貧困率」という言葉が出てきます。日本において子どもの相対的貧困率が高い、という状態にある、と言っています。そして、貧困の状態にある家族が直面している、さまざまな問題が指摘されています。
子どもが親によって虐待されたり、あるいは、ネグレクトされたりということが起こっています。どうして、そのようなことになるだろうか。
その親にも、それなりの事情や原因があって、そのようになってしまう、ということです。ここに「悪の連鎖」がみられます。そのような日本の社会の現実の中で、本当にいのちが大切にされるような社会を造っていくために、わたしたちは力を合わせなければならないと思います。
「子どもの貧困」、あるいは、「子ども」と「貧困」ということについて、わたしたちはもっと注目し、その改善のために努力したいと思います。

もうひとつは、「子どもの貧困」とはまったく違うことですが、「宗教改革500年」ということです。ちょうど500年前1517年という年は、マルチン・ルーテルによる宗教改革が始まった年です。わたしたちのキリスト教会は、いくつかの宗派、教団に分かれてしまっています。それなりに、事情、理由があって、そのようになっているのですが、この500年の間に、双方の教会は、お互いに相手の言うことをもっとよく聞こうということになった。特に、わたしたちの方は、1962年から1965年にかけて開催された、「第2ヴァチカン公会議」において、分かれた兄弟との対話を大切にするという姿勢を打ち出した。その結果、相手によく聞き、相手の主張を調べてみると、強調点や、理解の仕方において、細部に違いがあるにせよ、基本的なことにおいては、なんら相違はない、ということがわかってきました。
ルーテルという人は、アウグスチノ会の修道者で、大変熱心にお祈りし、聖書を学びましたが、彼はどんなに祈っても、どんなに勉強しても、自分が神様のみこころに適う者になれないということで悩みました。・・・ところがあるとき、聖書を読んでいて、自分は自分の努力によってではなく、イエス・キリストの贖(あがな)いを信じることによって救われる、ということを発見しました。信仰によって、わたしたちは神からの恵みに与るということを、はっきりと理解しました。実は、それは、わたしたち、カトリック教会の教えでも同じです。わたしたちも、神の愛を信じ、神の愛に与っている者です。神がわたしたちを愛してくれたということを、わたしたちは知り、信じた。そして、神の恵みに与る者となった。この点は、まったく同じ信仰の理解です。
自分と違う者に対する、偏見や誤解というものを、わたしたちは持ってしまいますが、広い心を持って、人の言うことをよく聞き、そして受け入れるという態度を持つことが肝要ではないでしょうか。
「いつくしみの特別聖年」のときに、教皇様が説いたことも、そのようなことであったと思います。日本という国で、キリスト者は、全部合わせても、人口の1パーセントしかいない。そのような現実の中で、同じイエス・キリストを信じるわたしたちが、ともに手を携えて、神の愛を実行する者となり、この社会の中で虐げられ、後回しにされ、苦しんでいる人々に、神のいつくしみをあらわし、伝えることができますよう祈りましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ58・1-11
喉をからして叫べ、黙すな
声をあげよ、角笛のように。
わたしの民に、その背きを
ヤコブの家に、その罪を告げよ。
彼らが日々わたしを尋ね求め わたしの道を知ろうと望むように。
恵みの業を行い、神の裁きを捨てない民として
彼らがわたしの正しい裁きを尋ね 神に近くあることを望むように。

何故あなたはわたしたちの断食を顧みず
苦行しても認めてくださらなかったのか。
見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし
お前たちのために労する人々を追い使う。
見よ
お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし
神に逆らって、こぶしを振るう。
お前たちが今しているような断食によっては
お前たちの声が天で聞かれることはない。
そのようなものがわたしの選ぶ断食
苦行の日であろうか。
葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと
それを、お前は断食と呼び
主に喜ばれる日と呼ぶのか。

わたしの選ぶ断食とはこれではないか。
悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて
虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。
更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え
さまよう貧しい人を家に招き入れ
裸の人に会えば衣を着せかけ
同胞に助けを惜しまないこと。
そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で
あなたの傷は速やかにいやされる。
あなたの正義があなたを先導し
主の栄光があなたのしんがりを守る。
あなたが呼べば主は答え
あなたが叫べば
「わたしはここにいる」と言われる。
軛を負わすこと、指をさすこと
呪いの言葉をはくことを
あなたの中から取り去るなら
飢えている人に心を配り
苦しめられている人の願いを満たすなら
あなたの光は、闇の中に輝き出で
あなたを包む闇は、真昼のようになる。
主は常にあなたを導き
焼けつく地であなたの渇きをいやし
骨に力を与えてくださる。
あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。

第二朗読 ヨハネ一4・7-16
愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。 神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。 わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。 神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。

福音朗読 マタイ25・31-40
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

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朗読奉仕者・祭壇奉仕者選任式


2017年3月12日、ケルン・ホール

選任された者
朗読奉仕者 フランシスコ・アシジ 小田武直(東京教区)  
祭壇奉仕者 洗礼者ヨハネ レー・ファム・ギェ・フー(サレジオ修道会)

説教

朗読奉仕者並びに祭壇奉仕者の選任式が、今年は、ケルン・ホールで開催される一粒会総会の前に行われることになりました。  

いま、読まれました福音は、今日、四旬節第二主日のミサで読まれた福音です。  
イエスのご変容の場面、「イエスの姿が光り輝く栄光の姿に変わった」という出来事をわたしたちに告げています。その時、天の父から声がしたのでした。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。  
イエスは受難を前にして、弟子たちに、このご変容の出来事を経験させながら、受難につまずかないよう、信仰を失わないよう願って、このような場面を弟子たちに示したのだと思います。イエスは、ご自分の受難と復活の神秘をあらかじめ弟子たちに垣間見させたのではないでしょうか。  
そしてさらに、わたしたちもいつかこのイエスのご変容の恵みに与ることができるだろうという信仰と希望を与えてくれる場面であると思います。  

さて、いま、朗読奉仕者、祭壇奉仕者を受けるお二人に一言申し上げたいと思います。  
昨日、3月11日は東日本大震災が起こった日であり、昨日でちょうど6周年を迎えました。いまなお、多くの人が、被災者として、避難者として、苦しみ、不安と悲しみの日々を送っています。そして、多くの人の命が失われました。  
わたしたちは、この人々のために、何をすることができるだろうかと、考えざるを得ません。  

昨日、カテドラルで献げられました、復興祈念のミサのときに、わたしたちは祈りを献げ、黙祷の時間を持ちました。そして、いま、わたしたちの信じる主イエスは、苦しんでいる人のことをよくわかり、その人たちと一緒にいてくださる、寄り添ってくださると、わたしたちは、改めて、そのように思いました。わたしたちも、主イエスにならい、苦しむ人々と寄り添う者でいたいと思います。  
やがて、助祭、司祭になる道を歩んでおられるお二人は、「これに聞け」と言われた御父の声を、今日、改めて、深く心に刻み、主イエスにならって歩む者となるのです。  
この世の中に起こる、さまざまな難しい問題に出会うときに、苦しみ、迷い、悩む人々を受け止め、そして、一緒に歩むことができるよう、どうぞ、日頃から、いろいろな面での準備をしていただきたいと思います。  

もう一つのことに触れたいと思います。これは東日本大震災とは関係のないことですが、今年2017年は宗教改革からちょうど500年という年です。  
この500年の間に、カトリック教会とルーテル教会との関係は、大きく変わってきました。そして、いま、お互いに相手の言うことをよく聞いてみると、基本的には仲違いするほどの大きな問題はなかったということに気付いたと、双方が認めています。

「相手の言うことを、よく聞かなかった。決めつけてしまった。誤解した。」  
そのような間違いを、いま、双方が反省しております。なお、完全な一致に至るまでには、乗り越えるべき問題が、いろいろありますが、基本的な重要なことについては、一致しているということがわかりました。わたしたち、キリスト教会の中で、もっと、お互いの理解と一致が進みますように、祈りたいと思います。  
そして、わたくしが感じましたことは、「人間というものは、なかなか人の言うことをよく聞けないものである」ということです。聞いているつもりではありますが、自分の思いの方が先に立ってしまって、頭から相手の言うことを受け付けない、という部分があるのではないかという気がします。そのようなことが、カトリック教会とルーテル教会の間に起こったのではないでしょうか。

「人の話を聞き、人のためにできることをする。」  
そのような務めをわたしたちは受けています。どのようなことであっても、静かに耳を傾けることができるような心と体、そして霊的な準備をするようにしたいと思いますし、そのようにできますよう、お二人は、これからの司祭への道の中で、よい準備をしていただきたい。  

今日が3月12日、そして、2017年ということで、わたくしの念頭にあることを、ひと言申し上げました。どうぞ、宜しくお願いいたします。




東日本大震災復興祈念ミサ「思いつづける 3.11」


2017年3月11日、東京カテドラル

[聖書朗読箇所]

説教

大震災が起こって間もなくのことでした。日本に住んでいたカトリック信者の7歳の少女、エレナさんが教皇ベネディクト十六世に手紙を出したところ、その手紙がイタリアのテレビ番組で取りあげられました。
その手紙は、
「日本に住む子ども達はどうしてこんなに怖い思いをしなければならないのでしょうか、神様とおはなしされる皇様、どうか神様に聞いてください」
というような質問だったのです。

「その質問に答えることはわたしにもできません。けれどもわたしたちは知っています。イエスは罪がないにもかかわらず苦しみをお受けになりました。イエスのうちにご自分を現わされた神様は皆さんの苦しみをご存知です。皆さんを愛しています。神様は皆さんの傍にいてくださいます。世界中の人々が皆さんとともにいてくださいます。今は大震災が起こったその理由はわかりませんが、何時かわかるときが来ると信じています。」

教皇はおよそこのようにお答えになりました。わたしはこの教皇様の誠実な応答に非常に感動しました。(教皇ベネディクト十六世「霊的講話集2011」より)
わたしもこの問題はわたしたちの信仰の試練であると感じました。

今日は聖書から二つの箇所を取り上げご一緒に味わいたいと思います。

まずローマ書5章です。
ここでは、被造物の解放が述べられています。人間だけでなく、被造物も「滅びへの隷属」の状態にあるとパウロは述べています。
「滅びへの隷属」とは何を意味しているのでしょうか。神が造った世界はきわめて善い世界です。しかし世界に悪が侵入し、神の計画のなかで神の御心に沿わない部分が出てきています。神の国の秩序が乱されています。この世界に見られる乱れ、「不秩序」が「滅びへの隷属」ではないでしょうか。
パウロによればこの世界も隷属から解放されるときが来ます。それは神の創造の計画の中に織り込まれています。黙示録他で「新しい天と新しい地」の到来が告げられています。(黙示録21章1-7、イザヤ65・17,66・22参照)

本日の朗読でパウロは言います。
「 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ8・24-25)

この希望を新たにして下さるよう、慈しみ深い神に祈りましょう。

本日の福音は、教会の看板などでよく見るイエスの言葉です。
「 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11・28)

犠牲者・被災者・避難者の皆さんは大きな苦しみ、悲しみという重荷を担っています。その皆さんの傍に復活した主イエスは一緒にいてくださいます。このわたしたちの信仰の根拠は復活の主イエス・キリストのうちにあります。キリストはわたしたちの人生を苦しみのない快適な人生にしてくださるという約束はしてくださいませんでしたが、ともに「軛」を負ってくださると約束してくださいました。

わたしは思います。復活したキリストはわたしたちの中におられます。わたしたちを通して生き働かれます。わたしたちが寄り添いと助け合うならば、そこには復活したキリストの恵みが働き、イエスご自身がそこにいてくださいます。
キリストは最後の日に決定的に来てくださる。しかし今既にわたしたちの間に来て神のいつくしみと愛を示してくださっています。この信仰は世界を神のお望みにかなう現実に変化させるための戦いでもあります。

主の祈りでわたしたちは
「わたしたちを悪からお救いください」
と祈り、その後司祭は副文でさらに祈ります。
「いつくしみ深い父よ、すべての悪から、わたしたちを救い
現代に平和をお与えください。
あなたのあわれみに支えられ罪から解放されて、
すべての困難にうち勝つことができますように。
わたしたちの希望、救い主、イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます。
アーメン。」

震災の被災者と被災地と連帯しながら、勇気をもって、信仰と希望のうちに困難に立ち向かえることができますよう祈、聖霊の導きを祈りましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読 ローマ 8・18-25
現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。
被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。
見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

福音朗読 マタイ 11・25-30
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

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習志野教会ミサ説教


2017年3月5日、四旬節第一主日

[聖書朗読箇所]

説教

みなさん、今日は、四旬節第一主日です。
復活祭を迎えるための準備の期間、40日が与えられて、わたしたちは、とくに祈りをささげ、節制をし、犠牲をささげて、主イエス・キリストの復活を喜び祝うことができますよう、心がける期間です。
今日の聖書の朗読を読んで、わたしが感じましたところを少し述べて、分かち合っていただきたいと思います。

第二朗読はローマ書5章です。
「ひとりの人のおかげで、この世の中に罪が入ってきた」と述べています。ひとりの人というのは、第一朗読で述べられている、「アダム」のことを指しています。そして、「ひとりの正しい人のおかげで、すべての人に救いが与えられる」と述べられています。この、ひとりの正しい人とは、わたしたちが信じている、主イエス・キリストのことです。
「ひとりの人が神様に背いたので、残りのすべての人に罪が及んで、死が入ってきた」と聖書は教えています。この教えを、みなさんは「なるほど」と思いますでしょうか。人々に説明するときに、難しいように感じます。更に、「ひとりの人がすべての人のために命をささげてくださったので、神の恵みはすべての人に及ぶのです」というように、わたしたちは信じ、説明します。この、ひとりの人というのは、イエス・キリストのことです。ひとりの人が悪いことをすると、残りのすべての人が、その結果を受ける。逆に、ひとりの人がよいことをすると、その結果も、すべての人に及んでいく。簡単にいうと、そのようなことなのでしょうか。

こちらに集まっているわたしたち、同じ習志野教会に属するみなさんですけれども、それぞれの場所で、それぞれの生活をし、お仕事など、いろいろなことをしていらっしゃいますが、自分のすることについて、その結果を自分で引き受けなければならないということは分かります。しかし、自分のすることが、他の人にまで及んでいくということは、どのようなことだろうか。「連帯責任」ということばがありますが、聖書の教えで、分かりにくい点があるとしたら、今日申し上げている、この2つの点である気がいたします。

「アダム」とは、「最初の人間」を指していますが同時に人間一般を割いています。塵で造られたために、アダムと呼ばれていますが、「アダマ」ということばが「塵」を意味するので、語呂合わせのようになっています。
「人は塵から造られて塵に戻る」。先日、灰の式がありました。そのときに、人間は塵から造られた者であるということを思い起こさせられます。しかし、その人間に、神様が息を吹きかけたので、命が宿った。その人間は、造り主である神様のことばに従って、日々生きるべき者であります。しかし、だんだん、自分で自分の思うように生きたいと思うようになり、神様のいいつけに背いて、神様とのつながりにひびが入ってしまった。まともに、神様の顔を見ることができなくなってしまった。そのような話が、創世記に出てきます。ひとりの人が神様との親しい交わりを失ってしまうと、その結果は、他の人にまで及んでいく。アダムとエバは、神様の目を避けなければならなくなった。その結果は、人類すべてに及んでいる。

わたしたちは、自分自身を見ると、自分の中に、どうしてもうまくいかないところがある。このようにしなければならないと思うが、なかなかそのようにはできない。このようにしてはいけないが、ついそのようにしてしまう。あるいは、もっときちんと分かっていなければならないのに、どうしてそのようなことが分からないのかなど、うまくいかないところがある。それを、誰しも自覚すると思います。
そして、わたしたちは、日々いろいろな誘惑に出会い、その誘惑に負けてしまうことがある。どうして、わたしたちは、このようにもろく、弱いのでしょうか。

今日の福音は、四旬節の起源を示す話ですが、イエス・キリストが40日間、荒れ野で悪魔の試みを受け、そして、その誘惑に打ち勝たれた次第を話しています。わたしたちも、そのようにしなさい、そのようにできるはずだということを、今日、わたしたちは、よく黙想したいと思います。イエス・キリストは神の子であり、神の力をもっていましたが、人間として誘惑をお受けになった。石をパンに変えたらどうか、苦労して働いて、労働の糧を得るよりは、ひと言、「パンになれ」といえば済むことだと、そのような誘惑を受けても、イエスは、「人はパンだけで生きるのではなく、パンも必要であるが、神のことばによって生きるのだ」といわれた。

あるいは、かつて、イスラエルの民が40年間、荒れ野を放浪しなければならなかった。それは、神様が本当に、自分たちの中にいてくださるかどうかということを疑ったことがあったからです。「メリバ」というところで、「まっさ」というところで神を試みたことがあったため、神は40年の間、荒れ野でイスラエルの民を放浪させて、神への信仰を強くもつようにおさせになった。

わたしたちの場合はどうか。現代の日本、東京とその周辺は、本当に生きることが大変なところではないだろうか。砂漠のようなところではないが、精神的に非常に生きづらい環境の中で、本当に神様は居てくださるのだろうか。神様は何をしてくださるのか。どうしてこのようなことが起こるのだろうか。神様はいないのかもしれない。そのような思いをもってしまうかもしれない。それよりも、もっと簡単に、自分を慰め、楽しませてくれる、いろいろなものがあるので、そちらの方に手が伸びてしまう。そのような思いを、わたしたちはもっていないだろうか。そのような誘惑を感じていないだろうか。

引退なさった教皇ベネディクト十六世は、教皇に就任されたときにいわれました。「わたしたちの住んでいるこの世界は、現代の荒れ野である。現代の荒れ野において、本当に神のことばによって、毎日生きるように努めなければならない。目を神以外のものにそらして、そちらの方にすがりつくようなことがあってはいけません。どんなに難しく、辛い状況があっても、神はいつもわたしたちと一緒にいてくださり、わたしたちを支え、導いてくださる」。

東京教区の現状を見ますと、わたしたちが越えていかなくてはならない、いろいろな課題があります。他人ごとではなくて、わたしたち、ひとりひとりが、力を合わせて、現実を見ながら、その問題を越えていかなければならないと思います。

今日のミサの集会祈願は、今日のミサの主旨をよくあらわしていると思います。
「主イエスは、40日の荒れ野の試みをとおして、悪への誘惑に打ち勝つ道を示してくださいました。四旬節の歩みを始めるわたしたちを導き、日々あなたのことばによって生きる者としてください」。
日々、神のことば、キリストのことばを味わいながら、忍耐と希望をもって歩んでいくようにいたしましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読 創世記 2・7-9、3・1-7
第二朗読 ローマ 5・12-19
福音朗読 マタイ 4・1-11

(福音本文)
〔そのとき、〕イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

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イエズス会助祭叙階式


2017年3月4日 麹町教会マリア聖堂

[聖書朗読箇所]

受階者
ヨセフ・グエン・タン・ニャー
洗礼者ヨハネ・ファン・デュック・ディン

説教

みなさん、今日は、お二人のヴェトナムから来られた兄弟、ヨセフ・グエン・タン・ニャーさん、洗礼者ヨハネ・ファン・デュック・ディンさん、の助祭の叙階式が行われます。
助祭は新約聖書では、しばしば、「執事」という奉仕者と呼ばれています。
今日読まれた、第一朗読、使徒言行録6章では、ステファノをはじめとする7人が、もっぱら共同体の食事の世話をする奉仕者として選ばれました。彼らが、最初の助祭であると考えられております。食事の世話をするということは、非常に大切なことですが、更にさまざまな奉仕の仕事、とくに貧しい人のことを配慮することが、助祭の務めでした。助祭は教会共同体のさまざまな課題、運営、管理などの重要な責任を担うようにもなり、非常に重要な位置を占めるようになりました。
しかし、歴史の流れの中で、次第に、助祭の務めが忘れられたのでしょうか、わたしたちのラテン教会では、司祭職に至るための過渡的な助祭だけが、残って続いてきました。
第二ヴァチカン公会議の後、カトリック教会では、生涯、助祭として仕える、「終身助祭」の制度を再興し、典礼、司牧、社会福祉の仕事をとおして、生涯人々への奉仕の召命を果たす道を開きました。現在、世界中で多くの方々が、終身助祭として、教会共同体の中で大切な役割を担っております。
なお、典礼においても、非常に重要な任務を持っており、「荘厳に洗礼式を執行し、聖体を保管し、分け与え、教会の名において結婚に立ち会い、祝福し、死の近くにある者に聖体を運び、信者たちのために聖書を朗読し、人々に教え勧告し、信徒の祭礼と祈りを司会し、準秘跡を授け、葬儀と埋葬を司式する」などのことを執行することができます。
それはさておき、本日、助祭に叙階されるお二人は、司祭になる前の段階の助祭になりますので、程なく司祭に叙階される予定であると思います。グエン・タン・ニャーさん、ファン・デュック・ディンさん、お二人ともヴェトナム人であるということが、今回、わたしの心に大きな印象として残っております。お二人は司祭になり、司祭として働かれる。どちらでどのような任命をお受けになるのか、まだ分かりませんが、日本という文化で成り立っている国、しかし、非常に国際化が進んでいる、この日本の社会において、ヴェトナム人の司祭として、とくに、日本とヴェトナムの2つの国を橋渡しするために、力を尽くしていただきたいと思います。お二人は、すすんで助祭に叙階され、更に司祭に叙階されることを希望しています。かつて使徒たちによって愛のわざの奉仕者として選ばれた人々のように、人望があつく、聖霊と知恵に満たされた者であるはずです。そして、お二人は生涯独身のまま、奉仕職を果たします。独身生活は、牧者としての愛のしるしと励ましであり、また、世にあって豊かな実りをもたらす特別な源なのです。ただ独身であるだけでしたら、そう難しいことではありませんが、貞潔で独身であり、修道誓願を守って生きる。人々の前に、「貞潔の意味、価値」を示しながら生きていくためには、絶えざる祈りと、神様のご保護が必要です。より自由に神と人々に仕えることに専念し、人々を神によって新たに生まれる者とするわざに、よりよく奉仕するように努めてください。信仰に根ざし、信仰を土台にして、キリストの役務者、神の秘義を人々にもたらす者にふさわしく、神と人々の前で汚れのない者、非のうちどころのない者として、自らを示してください。福音が告げ知らせる希望から目をそらさないでください。あなたがたは、福音を聞くだけではなく、福音に奉仕する者であり、自ら信じたことをのべ伝え、のべ伝えていることを、ご自分で実行する者となってください。仕えられるためではなく、仕えるために来られた、主キリストにならい、さまざまな困難の中で、試練に出会っても、主イエス・キリストを思い、忍耐と勇気をもって、あなたがたの召命を全うされるよう、わたしたち一同、祈っております。

聖書朗読箇所

第一朗読 使徒言行録 6・1-7
福音朗読 マルコ 10・35-45

(福音本文)
〔そのとき〕ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

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灰の水曜日の説教


2017年3月1日 カテドラル

[聖書朗読箇所]

説教

今日から四旬節が始まります。
この後、灰の祝福が行われ、頭の上に灰を受けていただくことになります。

そこで、思い出すひとつの和歌がございます。
「塵(ちり)に出で 塵にかへれる人なるを いまし頭上に灰をいただく」。

わたしたち人間は、塵から出て、また、塵に返るものです。土から出て、土に返っていく。
昨日、落合の斎場で、内山賢次郎神父様の火葬がありました。神父様が亡くなると、わたしたちは、いつも同じ火葬場、落合にある斎場に行って、荼毘(だび)に付(ふ)してもらいます。1時間くらいすると、火葬が終わって、声が掛かって、わたしたちは、遺骨、遺灰を骨壺にお納めする。みなさんもしていらっしゃることですが、骨上げ(こつあげ)と言うのでしょうか。
司教は、通常、司祭の葬儀を主宰する。神父様たちは、葬儀をいつもなさっていますが、わたくしの場合は、神父様のご葬儀をする。最近までご一緒だった方が、このように、遺骨、遺灰になってしまった。そのような、痛切な思いを持ちます。

そして、折しも、その翌日、今日が、「灰の水曜日」です。今年は、そのような巡り合わせになっています。人間は、誰でも、いつかは、地上の生涯を終えて、土に返る。
しかし、わたしたちにとっては、それだけではありません。わたしたちは、「死は滅びではなく、神様のもとに帰ることである。死は新しいいのちへの門であり、地上の住み家を出て、天上の住み家へと旅立つことである」と信じています。今日は、この教えを深く思う日であると思います。

これから行う、灰の式の中で、わたくしが唱えるお祈りは、次のようになっています。
「土から出て、土に返っていくわたしたちが、四旬節の務めに励み、罪の赦しを受けて、新しいいのちを得(え)、復活された御子の姿にあやかることができますように」。この祈りに、今日の典礼の主旨が込められております。

3つの朗読を思い起こし、ご一緒に味わいましょう。
第一朗読、ヨエルの預言。
「今こそ、心からわたしに立ち帰れ
断食し、泣き悲しんで。
衣を裂くのではなく
お前たちの心を引き裂け。」
神に立ち帰る。自分の人生を、神様に向かうように、向きを変える。変え直す。
心を引き裂きなさい。心を引き裂くという表現は、非常に印象的ではないでしょうか。

第二朗読は、コリント書・二。
「神と和解させていただきなさい」という言葉が、わたくしの心に留まりました。
神との和解。それは、神様に、わたしたちの罪を赦していただくということ。神様とわたしたちとのつながりを回復し、つながりを新たにし、よりしっかりとしたものとなるように、わたしたちの心を改める。心を清くしていただくことではないかと思います。

マタイによる福音。
偽善の戒めです。偽善と言われると、たじろいでしまう気持ちがあります。心にあることと、表現していることとの間に、ずれがある。言葉、表情、行動では、素知らぬ顔をして、自分が善いことをしていると装いながら、実は、心の中では、自分を満足させる、人から認めてもらう、自分の欲望を満足させることを、心の中で強く意識しているという場合、表と裏、外と内がかけ離れている。そのような場合、偽善というのではないでしょうか。自分の中に、偽善が全くないとは言い切れない。そのような思いを、いつも申し訳ないと感じています。

地上の生涯は、いつかは終わりになる。土から出て土に返る。しかし、わたしたちの存在は、ただ、状態が変わるだけで、新しいいのちへと進んでいくと、わたしたちは信じている。死という門を通って、新しいいのちに移るまでの、地上の生涯。限られた時間が、ますます縮まっていきますが、大切にしたい。心を込め、ただ、神様に向けて、ささやかであっても、自分にできる真心のある献げ物を、そのような犠牲をお献げして、四旬節を過ごしたいと考えております。

聖書朗読箇所

第一朗読 ヨエル書 2:12-18
主は言われる。
「今こそ、心からわたしに立ち帰れ
断食し、泣き悲しんで。
衣を裂くのではなく
お前たちの心を引き裂け。」

あなたたちの神、主に立ち帰れ。
主は恵みに満ち、憐れみ深く忍耐強く、
慈しみに富み
くだした災いを悔いられるからだ。
あるいは、主が思い直され
その後に祝福を残しあなたたちの神、主にささげる穀物とぶどう酒を
残してくださるかもしれない。

シオンで角笛を吹き
断食を布告し、聖会を召集せよ。
民を呼び集め、会衆を聖別し
長老を集合させよ。
幼子、乳飲み子を呼び集め
花婿を控えの間から
花嫁を祝いの部屋から呼び出せ。
祭司は神殿の入り口と祭壇の間で泣き
主に仕える者は言うがよい。
「主よ、あなたの民を憐れんでください。
あなたの嗣業である民を恥に落とさず
国々の嘲りの種としないでください。
『彼らの神はどこにいるのか』と
なぜ諸国の民に言わせておかれるのですか。」

そのとき主は御自分の国を強く愛し
その民を深く憐れまれた。

 

第二朗読 二 コリントの信徒への手紙 5:20-6:2
(皆さん、)神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。
わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、
「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。

 

福音朗読 マタイによる福音書 6:1-6、16-18 
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。
祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

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内山賢次郎神父葬儀説教


2017年2月28日 東京カテドラルにて

[聖書朗読箇所]

説教

内山賢次郎神父様は、2月24日午後4時43分、天の父のもとへと旅立たれました。
1925年10月9日にお生まれになり、同じ日に八王子教会で洗礼を受けられました。
そして、1954年12月21日に司祭に叙階されました。白柳枢機卿様と一緒でした。
そのときから、東京教区の司祭として、いろいろな小教区で奉仕され、2012年4月30日からペトロの家に入居されております。
因みに、ペトロの家は、2010年11月に、竣工、祝別されております。

内山神父様は、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われたキリストに仕え、キリストを伝え、そして、キリストのみわざを行う司祭として、長い年月をお献げくださいました。

誰にとっても、「死」ということは、人生の非常に重要な出来事です。わたくしども、キリスト信者は、「死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活が終わった後も、天に永遠の住み家が備えられている」と信じています。これは今日唱えるミサの叙唱にある言葉です。主イエスは、わたしたちのために、天に住み家を用意してくださっております。「主イエス・キリストは、ご自分の血によって、わたしたちを義とされた」と、今日の朗読、ローマ書で述べられております。

わたしたち人間は、本来、神の似姿として造られ、神との親しい交わりのもとに置かれておりましたが、その神との交わりを失ってしまいました。イエス・キリストはご自分のいのちを、天の御父にお献げになり、わたしたちのために、すべての人のために、神との交わりを回復してくださいました。わたしたちは、そのように信じております。

内山神父様の、91年の生涯、生まれてすぐに洗礼を受けられ、そして、司祭への道を歩み、司祭になるまでは、この日本という国は、戦争という不幸な時代を経験しておりましたが、戦争が終わって、司祭になり、そして、司祭の道を歩まれました。

いま、日本の教会、東京教区は、さまざまな問題や課題に直面しております。神父様が、最後まで、力を振り絞って、司祭としての生涯を受けられたことを、日々目の当たりにしました。わたくしどもは、神父様にならって、それぞれ、自分の務めを忠実に果たしていきたいと考えております。

今日、みなさまにお渡しした記念のカードをご覧いただきますと、聖句は、マタイ6章の山上の説教から採られております。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」。
さまざまな、日常の出来事の中で、このイエスの言葉、「神の国と神の義を求める」というわたしたちの生き方を深く心に刻んで、これからも、みなさん、ご一緒に歩んでまいりましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読 ローマ 5・5-11
福音朗読 ヨハネ 14・1-11

(福音本文)
〔そのときイエスは言われた。〕「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

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パトリック宮崎翔太郎助祭・司祭候補者認定式


2017年2月19日 カテドラルの晩の祈りにおいて

[聖書朗読箇所]

説教

今日は、2月19日、年間第7主日です。
この晩の祈りの中で、助祭・司祭候補者認定式が行われます。式に先立って、今日の福音、そして朗読から、わたくしが感じていますことを、少し申し上げたいと思います。

イエスは言われました。
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」
イエス・キリストの教えは、「敵への愛」であるということを、ほとんど誰でも知っていると思います。彼は、そのように教え、自分の教えを実行しました。そして、わたしたちも、そのようにするようにと命じています。

「天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい」
そのように言われても、なかなか、そのようにはいかないという気持ちを持っております。もっとも、「愛する」ということは、「その人を好きになりなさい」ということではありませんので、たとえ、「嫌だ」とこちらが感じる場合でも、その人を憎んだり、その人の上に災いを望んだりはしない、そいうことはできると思います。

旧約聖書のレビ記でも、
「自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい」と教え、
「民の人々に恨みを抱いてはならない」と教えています。
「憎んではならない」、「恨みを抱いてはならない」と言っています。それは、はっきりとした、旧約・新約聖書を通しての一貫した教えてあります。

「憎んでいるか、いないか」、「恨みを抱いているか、いないか」、それを、誰がどのように判定するか。ゆるしの秘跡を受けるときなど、迷う点ですが、そのような気持ちを全然持たないということは、人間として不可能ではないかと、わたくしは思います。しかし、そのような心の動きが自分にあることを認め、そして、そのような気持ちに捉えられないようにする努力はできますし、「そのようにできますように」と祈らなければならないと思います。

昨年の11月20日まで、『いつくしみの特別聖年』でした。
「天の父がいつくしみ深い者であるから、あなたがたもいつくしみ深い者でありなさい」
という教えを、わたしたちは一年がかりで、更に深く学びました。
「人にいつくしみ深い者であれ」ということですが、その前に、どんなにわたしたちは、他の人から「いつくしみ」を被っている者であるかということを、この機会に、思い起こす必要がありました。自分の人生を振り返ると、いろいろな人から被った「恩(おん)」は、後になってから気付く。そのときは、あまりわからない。あるいは、全然わからない。後で、「あのとき、あの人はこのようにしてくれたのだ」と、両親をはじめ、いろいろな人から受けた「いつくしみ深い行い」を思い起こします。わたしたちは、いろいろな人から、「いつくしみ」を被っている。その「いつくしみ」は、考えてみれば、信仰の上から言えば、神様から来たものでありましょう。

「いつくしみ深い者でありなさい」ということは、難しいことではありますが、いつくしみ深くしていただいた、自分の過去を振り返りながら、「感謝を込めて、少しでも、いつくしみ深く生きること」は、十分に可能であると思います。そして、その「いつくしみ」というものは、聖霊の働きによるものです。神様は目に見えないし、聖霊も目に見えませんが、わたしたちが日々出会う人は、目に見える、毎日具体的な場面でお会いする人々です。その人々に、聖霊が働いているということを信じ、感謝を献げたいと思います。

今日、認定式を受ける神学生、宮崎翔太郎さんは、これから認定式、更に、朗読奉仕者、祭壇奉仕者の選任式を受ける、更に助祭の叙階を受ける、その後でやっと司祭になる。でも、司祭になれば、それは新しい出発点ですので、それから長い司祭の奉仕の日々が続く。そして、自分が信じたことを教え、教えたことを実行するように求められています。

自分が実行できていないことを人に言うということは、大変辛いものです。しかし、できていないからと、言わないわけにはいかないです。そのような思いを、全ての司祭は抱きながら、それでも、イエス・キリストを通してわたしたちに与えられた神の恵みを信じ、そして、出会う人々に神のいつくしみを現し、伝えていくことが、わたしたちの務めであります。

今日、宮崎さんのためにだけ、これだけの人が集まってお祈りしてくれるのですから、生涯忘れないで欲しい。困ったとき、行き詰まったとき、このことを思い出していただきたいと思います。

聖書朗読箇所

福音朗読  マタイによる福音書 5:38-48

(福音本文)

 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。

 あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

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世界病者の日・説教


2017年2月11日、カテドラル

[聖書朗読箇所]

説教

みなさん、今日は2月11日、ルルドの聖母の祝日となっています。  
1858年2月11日、スペインとフランスの国境に近い、フランス側のルルドという所で、少女ベルナデッタに、聖母マリアがお現れになった日であると、カトリック教会が認めております。  
ベルナデッタという少女、良い教育を受けることができなかったので、ラテン語はおろか、フランス語もきちんと話すことのできない少女であったそうです。  
そのベルナデッタに、「わたしは無原罪の御宿りである」と、現れた貴婦人が名乗ったという出来事を、カトリック教会は公式に認めて、ルルドは、世界で最も有名で大切な聖所となりました。  

さて、この2月11日を、聖ヨハネ・パウロ二世は、「世界病者の日」と定めました。  
ヨハネ・パウロ2世ご自身は、即位されたときは、まだ50代と、大変健康で元気な方であったと思いますが、その後、パーキンソン病という難病にかかられ、晩年は、大変お苦しみになりました。  
そのヨハネ・パウロ二世が、「世界病者の日」を定めたということは、大変意味深いことではないかと思います。  

いま、読まれました福音は、ヨハネの9章、生まれながらに目の見えない人の話です。  
イエスは、その人の目を開いてあげました。問題は、どうしてその人は、生まれながらに目の見えないという、難しい問題を負わされていたのかということです。わたしたちは、ほとんど誰しも、生まれつき決められている、いろいろな、「欲しくない、思わしくない条件」というものがあります。少なくとも、本人は、「このようなことは嫌だ」と思うことがある。  
今日の福音の箇所では、どうして生まれながらに目の見えないのかということが話しの中心になっています。  
当時、「その人本人が罪を犯したのか」、「生まれる前に罪を犯すということは、よくわからない」、あるいは、「両親が罪を犯して、その報いが子どもに伝わったのか」等々といった具合にいろいろな考えや議論がありました。  
しかし、イエスの答えは、いまお聞きになった通り、「神の業がこの人に現れるためである」と述べるだけです。どうして、そのようになったのか。原因や理由は言われませんでした。「神の業が現れる」。別の言い方をすれば、「神の栄光が現れるため」ということではないでしょうか。  
生まれつき目が見えないということは、「視覚障害」という言葉で言い表すことができるでしょう。しかし、障害とは別に、わたしたちには、さまざまな「疾病」という問題があります。「健康とは何か」というと、大変難しい議論になるようです。  
考えてみれば、全く問題なく、健康な人というのは、そういるものではない。同じ人でも、長い生涯の間に、何かの困難や問題を背負うことになります。  
仏教では、人生の困難を「生病老死(しょうびょうろうし)」と、4つの言葉にまとめているようですが、病気の「病(びょう)」です。  
「生きる」ということは、誰しも、「病気にかかる」、あるいは、「心身の不自由を耐え忍ばなければならない状態になる」ということを、意味しております。人間は、どうしてそのようになるのか。  

「神様がこの世界を造り、人間をお造りになったこと」について、創世記が伝えておりますが、神がお造りになった世界は良かった。極めて良かった。まさに、極めつきで良いと、創世記1章が告げている。  
それなのに、どうしてこのような、さまざまな問題があるのか。この問いは、多くの人を悩ませてきました。戦争は、殺戮、そのような社会的な問題だけではなく、ひとりひとりの人間にとっても、多くの困難をもたらします。そのような状況の中で、カトリック教会は、原罪という言葉で、いろいろな問題を説明しようとしてきました。  

12月8日は、「無原罪の聖マリアの日」、昔、「無原罪の御宿りの日」といったように思いますが、「聖母は原罪を免れていた」という教えを、深く味わう日です。そして、今日は、無原罪の聖母が、ルルドにお現れになったことを記念する日です。  

さて、人間には、「弱さ、もろさ」という問題とともに、「罪」という問題があります。「罪」と「弱さ」は別のことで、弱いこと自体が罪ではありませんが、逆に、元気で健康であっても、分かっていて、「神のみ心に背く」、あるいは、「神のみ心を行わない」ということがあります。そちらの方が、「罪」といわれます。  
わたしたちは、多少とも、罪を犯すものでありますが、更に考えてみれば、人間の「もろさ、弱さ」というものを、痛切に感じないわけにはいきません。この人間の問題は、どのような言葉で言い表したらよいのでしょうか。  

今日の第一朗読は、創世記の3章でしたが、こちらから、いろいろな教会の先人が、原罪の教えを展開しております。「神と人間の間に生じた不調和」、平和が失われた状態は、更に、「人と人との間の不調和」、そして、「人と被造物、この自然界との不調和」へと発展し、更に、ひとりひとりの人が自分自身の中に、「調和が失われている」、あるいは、「調和にひびが入っている」と感じるようになる原因となったと、カトリック教会は説明しています。  

今日、2月11日、ここに集うわたしたちは、主イエス・キリストによって、わたしたちが贖われていることを、その贖いの恵みが、わたしたちの生涯の中に働いていることを、そして、生涯の旅路の終わりに、その贖いの完成に与ることができるという信仰を、新たにしたいと思います。  
わたしたちは、「罪」からの贖いだけではなく、わたしたち自身の、生まれながらに背負わされている、そのいろいろな問題からの解放、そして、完全な解放に与ることができるという信仰を、新たにしたいと思います。  
それは、言い換えれば、イエス・キリストが、わたしたちの罪を背負って、十字架にかかってくださり、そして、復活された。その、イエスの復活の恵みに与ることを意味している訳です。  
わたしたちが背負っている、人間としての「弱さ、罪」、神の完全な解放への「信仰と希望」。それは、主イエス・キリストの復活の恵みに与ることができるという「信仰と希望」と結びついていると言えるのです。  

弱い私たち、そして、同じ罪を繰り返してしまうわたしたちでありますが、そのようなわたしたちを、温かく包み、癒し、贖ってくださる、主イエス・キリストへの信頼を深めて、今日のミサをお献げいたしましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読  創世記3・1-19
福音朗読  ヨハネ9・1-12

(福音本文)

[そのとき]エスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」
こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。
本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

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待降節第二主日・黙想会


2016年12月4日 小岩教会にて

 

先ほどの説教の中では、『いつくしみの特別聖年』は終了したが、神のいつくしみは絶えることなく、いつもわたしたちに注がれており、わたしたちは、日々、神のいつくしみを実行するように召されている」と言うことを申し上げたかったのでありますが、フランシスコ教皇は、「いつくしみの特別聖年」を迎えるときに、大勅書を発表して、「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」と言う文書を、わたしたちにくださいました。それを読みながら、わたしたちはこの一年間を過ごしてきたと思います。

それを、もう一度、読んでみますと、そこに、「いつくしみの行い」、「慈善のわざ」と言うことが出ております。
「わたしたちが人に対していつくしみ深い」と言うことは、どのようにすることか。あるいは、逆に、どのようなことをしないことか、と言うことであります。

ミサの開祭のときに、わたしたちは毎回、「私は、思い、言葉、行い、怠りによって、たびたび罪を犯しました。」と告白の祈りをしますが、この「怠り」と言うことを「いつくしみの特別聖年」の間、特に反省するようにと、大勅書の中で言われております。
そして、古典的な教えなのですが、七つの良い行い、「体を使って行う良い行い」、「身体的な慈善のわざ」と言うことが述べられていて、更に、「精神的な慈善のわざ」が、やはり七つ挙げられています。
両方七つずつ、人間は体と心が一つでありますので、これは体の行い、これは心の行いと言うように、はっきりと分けることはできないでしょうが、「体を使って、心で行う良い行い」と、もっぱら、「心を使って、霊的に行う良い行い」と言うものを分けて、七つずつ挙げております。

どのようなものであるかと言うことを、もう一度思い起こしますと、
「身体的な慈善のわざ」、
「飢えている人に食べさせること」、
「渇いている人に飲み物を与えること」、
「着るものを持たない人に衣服を与えること」、
「宿のない人に宿を提供すること」、
「病者を訪問すること」。
この辺りまでは、わたしたちが言われなくても、通常行っている、行うことが、それほど特別だとは思わない、良い行いだと思います。

「受刑者を訪問すること」。
これは、あまり機会がないかもしれません。「牢にたずねる」と言う箇所が、マタイ福音書の25章に出ております。教誨師(きょうかいし)と言う仕事があって、司祭で教誨師をしている人がいます。

「死者を埋葬すること」。
これは、今はほとんどありませんが、昔はきっと、そのような必要がたくさんあったのでしょう。戦乱に次ぐ戦乱の時代、死体があちらこちらに放棄されていると言うような状況が珍しくなかったときに、葬儀屋さんに頼んで埋葬すると言うことではなかったのでしょう。
日本では、幸い、わたしたちが直接、死体を埋葬すると言うことはありませんが、世界中では、あちらこちらで、そのようなことがあるのだろうと思います。
シリアからの難民の受け入れをどのようにするかと言うことが、問題になっております。中近東、アフリカ大陸で、たくさんの人が命を落とし、その死体が埋葬されないと言う状況が、あるのでしょうか。
これが、七つの「身体的な慈善のわざ」です。

次に、「精神的な慈善のわざ」ですが、これは、しみじみと黙想したい課題であります。なかなか難しいことではあると思います。どのようなことかと申しますと、

「疑いを抱いている人に助言すること」。
人間は疑いを持つものでしょうか。いろいろな場合があるのでしょうけれども、疑いを持っている人に助言すること。

「無知な人を教えること」。
人間は無知なものです。どんなに立派な人でも、無知な部分を持っている。無明(むみょう)、明かりがない。人の欠点は良く分かって、自分のことは良く分からない。イエズス様も指摘しています。
われわれは、人の問題には敏感です。自分のことは棚に上げて、人のことにはすぐに気付きます。人の悪口と言うものは楽しいもので、悪口に花が咲きますが、誰でも、自分の悪口は言われたくないわけです。教皇様は大勅書の中で、誹謗中傷することの害と言うことを言っておられます。
無知な人を教える。無知だと本人は思っていないのですから、これは難しいですね。

もっとも、単純な事実を教えることは簡単です。「小岩教会に行くには、どのように行けば良いでしょうか」。これは、あまり難しくはありませんが、人生のいろいろなことを教えると言うことは、なかなか難しいことであると思います。
自分が信じ、実行していることでないと、人に教えても、あまり効果がない。親が子どもに教えても、親が実行していないと、子どもには響かない。

大体、教えると言うことは難しいと、わたくしは思いますが、みなさんは、そのようにお思いになるでしょうか。

「罪人を戒める」。
これは、更に難しいかもしれません。罪人が、自分は罪人だと思っているときには、より易しい。大体、罪人は、自分が罪人だと思わないことの方が多いわけですから、その人を戒めると言うのは、難しいことであると思います。

「悲嘆に打ちひしがれている人を慰めること」。
これは、わたしたちが、普通にしていることであると思います。悲しんでいる人、落ち込んでいる人を慰める。慰めようがないと言うことも感じますが、寄り添い、話があれば話を聞く。途中で意見しないで、最後まで聞く。「あなたがそんなことだから、そのような目に合うのだ」と言うようなことは言わないで、最後まで聞く。

「諸々の侮辱を許すこと」。
これも、難しいと思います。ロザリオの祈りや十字架の道行で、「主イエスが受けた侮辱を思い、侮辱に耐え忍ぶ恵みを祈り求めましょう」と祈りますが、言葉で言っているときは易しいのですが、現実に侮辱されると、なかなか難しいものがあります。
侮辱と言うほどのことではないにしても、軽んじる、あるいは、馬鹿にする、自分を重んじていないと感じるときに、どのようにするかと言うことが、ありはしないか。親が、「親に向かって、その態度は何だ」と言う気持ちや、司祭、司教が思っているかもしれないが、「俺は何々だぞ」と言う気持ち、言わないけれども、そのような気持ちが湧いてくるのではないかと思います。

次に、「煩わしい人を辛抱強く耐え忍ぶこと」。
これが、どのようなことかと言うことは、わかりますね。しかし、これが、七つの「精神的な慈善のわざ」、スピリチュアルな良い行いの一つに数えられていると言うことは、「いつくしみの特別聖年」のときに知りました。わざわざ七つの中の一つに挙げられていると言うことは、特別な意味があるのだと思います。そして、これも、難しいと思います。
いかかでしょうか。みなさん、折角の黙想会ですから、振り返ってみていただけるとありがたいと思います。
同じことを、何度も何度もくどくどと言う。いつ尽きるかわからない。また同じことを言って愚痴る。あるいは、何をしても満足してもらえない。そうした体験は、誰しもあるのではないかと思います。

される方については、わかりやすい。している方は、自分がそのようにしていると言うようには思わないかもしれません。自分がそのようなつもりではなくても、相手がどのように思っているかはわかりません。人が、どのような思いで生きているかと言うことはわからないと、わたくしは思います。その辺について、みなさんの体験はいかがでしょうか。

最後、七番目、「生者と死者のために神に祈ること」。
祈ることは、誰でも、いつでもできることですが、どれくらい実行できているでしょうか。
十二月になりまして、もう待降節ですが、十一月は死者の月で、特に、死者のために祈るときでありました。亡くなった人は、日々記憶から薄れていきますが、教会は死者のために祈ること、ミサを献げることを勧めております。ご存知のように、ミサの中では、必ず、死者のために祈ります。
他の宗教では、いかかでしょうか。仏教は、亡くなった方のことを大切にする、供養する、お経を上げると言うことがありますが、他のキリスト教の宗派のことは良くわかりません。カトリック、あるいは、東方教会は、「死者のために祈る」と言う、良い習慣、伝統を保持しております。

それから、「生者のために祈る」。
これも、多分、わたしたちが毎日実行していることであると思います。特に、困難な状況にある人、病気の方の快復を願って祈る。朝、晩、あるいは、寝るときに、短い時間であっても、亡くなった人、苦しんでいる人、お世話になっている人のために祈ることは、素晴らしいことではないかと思います。

「いつくしみの特別聖年」が終わって、この一年間、自分はどのように「いつくしみを実行したか」、あるいは、「いつくしみに反することをしなかったか」と言うことを、究明する、反省して、悔い改めをすることをお勧めします。

さて、わたしたちが信じている神様は、どのような方であるのかと言うことを、今日も深く思い、考えたいと思います。
わたしたちは、イエス・キリストを、救い主として、神から来られた、神からの神、光の源である天の御父から来た、光からの光であると信じております。
「いつくしみの特別聖年」で、繰り返し言われたことですが、イエス・キリストは神のいつくしみのみ顔、目に見える顔です。神は霊ですから、目に見えません。しかし、ナザレのイエスと言う人は、わたしたちと同じ人間でした。罪と言うことを除いて、すべてにおいて、わたしたち人間と同じ存在になられました。人間らしいイエスの姿が、福音書で述べられています。

先程の説教でも述べましたが、恐らく、「毎日楽しく過ごす」と言う面もあったのではないでしょうか。良く食べ、良く飲んだ人なのかもしれない。弟子たちの集団は、毎日、どのように暮らしていたのか。食事や寝る所は、どのようにしていたのか。旅から旅への毎日で、その日その日で、どのような所で休んでいたのか。寝られる所で寝て、食事はどのようにしていたのか。

想像するしかありませんが、砂漠で、非常に厳しい生活をし、蜜といなごしか食べなかったと言うヨハネとは違い、人間的な生活をしていたことは事実であると思われるわけです。そして、毎日、人間としての生活をし、弟子たちに神様についてお話になった。
その神様は父であり、父をアッバと呼んでいたそうです。アッバと言うのは、「おとうさん」と呼びかける、親しみと信頼を込めた、呼び方です。
でも、見えませんので、たまり兼ねたのでしょうか、フィリッポと言う弟子が、イエスにお願いしました。「どうか、わたしに父を示してください。見せてください」と言われました。
そして、イエスは答えた。「わたしを見た者は、父を見たのだ。こんなに長い間一緒にいるのに、なぜ、そのようなことを言うのか」。

さて、このイエスが教えられた神は、旧約聖書で自らを現された神であります。アブラハムに現れた神です。イサク、ヤコブに現れた神です。そして、モーセに現れた神です。みな、同じ神です。
そして、イスラエルの民が、エジプトで奴隷とされ、苦しみあえいでいたときに、その叫び声を聞いて、モーセを派遣し、イスラエルの民をエジプトから脱出させて、カナの地に定住させたと言う歴史が、出エジプト記などに述べられています。
「モーセ五書」といって、最初の五つは、非常に大切な書物、「神の啓示の書」とされているわけです。
更に、イスラエルには、預言者と言う人がいて、神の言葉を伝える役を担いました。

旧約聖書と言うのは膨大なもので、とても、一人で楽しく読むと言うわけにはいきませんが、一緒に通読する機会があれば良いと思います。
聖書100週間と言う、上野教会にいた、マルセル・ルドルフ神父様が作り出した、聖書通読の方法ですけれども、聖書を、新約聖書だけではなく、旧約聖書も大切にし、旧約聖書を通読するように進められるわけです。

旧約の民に現れた神は、戒めを授けた神です。「このようなことをしてはいけない。このようにしなさい」と命令され、「それを守り、行います」と、旧約の民は約束した。
約束しましたが、結果的に、彼らは、その約束を守ることができなかった。それだけではなく、他の神々を神として礼拝し、他の神に従うと言う裏切り、背信行為に陥ったわけであります。それで、イスラエルの神は、激しく怒り、憤り、怒りを発する神として描かれています。

神様は目に見えませんし、神様のことがわかるならば、わたしたちが神になるしかありませんが、神と言うのは、人間を高く超えたものでありますので、神様のことは良くはわからないわけです。神はご自分を、いろいろな方法で、いろいろな人を通し、いろいろな機会に現される。それが、「啓示」と言うことなのですが、「激しく怒る神」、このことについては、わかりにくいと感ずる点があるかもしれません。
エゼキエル預言者などが言っていることは、「背信のイスラエル」です。結婚生活でいえば、「姦通すること」。姦淫の罪を犯すイスラエルに対する、神の激しい怒りがつづられております。

他方、神が怒るのですけれども、イスラエルを憐れむと言うことですね。イスラエルの罪を赦そうとする。いつくしもうとする神の姿も、旧約聖書の中で描かれているわけです。ですから、そのような神、つまり、「怒り、憤る神」と「いつくしみ、憐れむ神」、同じ神が、言わば、対立するかのごとく葛藤する神として描かれていると言うことを、わたくしは、特に強く感じます。

ギリシャ人の考える神と言うのは、観念的な神です。人間は、怒ったり、悲しんだり、落ち込んだりしますが、神ですから、そのような人間的な感情に捕らわれないはずだと思うわけです。
神は完全な人ですから、足りないところはありません。足りないから求めるのであれば、それは神ではありません。動くことがない、変わることもない。不動・不変と言いましょうか。怒ることなく、悲しむことなく、憐れむこともない。神が心と言うものを持っていて、心の中で葛藤すると言うようなことは、ギリシャ人の神の考え方にはないと思います。

ところが、イエス・キリストが福音を述べ伝える。イエス・キリストの福音は、旧約聖書の歴史、2000年くらいなのでしょうか、ダビデが紀元前1000年頃の人と言われていますから、更にその前に1000年も、2000年も歴史があるのですけれども、人類の長い歴史の中、宇宙の歴史の中では、本の一瞬でしかない、短い期間です。

ともかく、イエス・キリストの前の時代、ヘブライ人が理解した神が、イエス・キリストによって、更に、高められたといいましょうか、深められたと言いましょうか、今日のミサの説教で言いたかったことは、らくだの毛衣を着て、野蜜といなごを食べている、洗礼者ヨハネと言う人と、弟子たちと、ときには楽しく、食べたり、飲んだりしているイエスの姿と、対照的です。
これは、今のところ、わたくし個人の感想ですが、旧約と新約の違いを表す象徴的な姿なのかもしれません。

つまり、神様と言うのは、わたしたちにはわかりませんので、人はそれぞれ勝手に思うのですが、預言者の中に、神様はこのように思っていると言う人がいて、段々、それが広まっていきます。その体験の出発は、「バビロン捕囚」と言う、非常に厳しい体験で、イスラエルの国は、北のイスラエル、南のユダと言うふうに分かれてしまって、まず、イスラエルが滅ぼされ、ユダも滅ぼされてしまって、ユダの国の王をはじめとする主導者は、バビロンに連れて行かれて、そこで、捕囚の生活をする。そのような深刻な体験の中で、彼らの宗教体験が深められて、旧約聖書の原型が、そのときに作られたと言われています。
旧約聖書の書物は、ずっと後からできた巻物で、その中で神様とはどのような方かと言うことについての理解が深まってきました。

そのような流れの中で、例えば、ホセアと言う預言者がいます。次のような言葉が残されております。これは、みなさんも何度もお読みになり、お聞きになっている、有名な箇所であります。

ああ、エフライムよ
お前を見捨てることができようか。
イスラエルよ
お前を引き渡すことができようか。
アドマのようにお前を見捨て
ツェボイムのようにすることができようか。
わたしは激しく心を動かされ
憐れみに胸を焼かれる。
わたしは、もはや怒りに燃えることなく
エフライムを再び滅ぼすことはしない。
わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。
怒りをもって臨みはしない。(ホセア11・8-9)

「神であって、人間ではないから、怒りに任せて、イスラエルを捨てて、滅ぼし尽くすと言うことをしない」と、あたかも、自分をなだめているようです。人間ならば、そうかもしれないが、神だから、そのようにはしないと、自分に言い聞かせているような表現です。
われわれ人間でも、このようなことはないでしょうか。腹が立って仕様がないけれども、腹立ち紛れに、そのようにはしない。
腹立ち紛れに行動することに、わたしたちはブレーキを掛けます。動機にはいろいろとあるでしょうけれども、その人々をいつくしみ深く思うから、滅ぼすことはしない。滅ぼすことはできない。その人たちの現状を良いと思うわけではない。むしろ、非常に良くないと思う。しかし、だからと言って、その存在をすべて抹消すると言うことはしない。

考えてみると、人間と言うものは、みな不完全なものであります。イエスが洗礼を受けられたときに、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」であると言う声がした。しかし、マリア様は別として、そのような人はいません。わたしたちは、完全に神様のみ心に適ったことを行い、あるいは、み心に適わないことは行っていないと言うものではありません。神様のみ心と言うものは良くわからないわけで、わかったから実行できるかと言うと、わかっても実行することはできません。

人間の心は複雑で、あのようにも、このようにも思う。思っただけで駄目だと言われたら、天使が悪魔にされたように、悪い思いを持っただけで罪だとしたら、だれも神の前で清くあることはできません。
ただ、思っただけでは断罪されるというわけではありません。むしろ、思いにどのように向き合ったかによって、わたしたちの責任は問われるわけで、いろいろな思いが湧いてくると言うことは、人間がこの世にいる限り、避けることはできませんし、そのこと自体を、神のみ心に背く罪であると言うようにはならないのであります。
思うことだけで罪であるとしたら、みな、駄目です。人間は、思わないわけにはいきません。そのような思いが全然ない人も、たまにはいるかもしれませんが、この世にある限り、それは避けられません。

神は、「憐れみに胸を焼かれる。」そして、「葛藤する。」。そのような神であると言うことを、預言者が言います。エレミヤと言う人は、そのような神であると言うことを、詳しく述べています。

更に、イエス・キリストが登場する直前、紀元前1世紀。旧約聖書の中に、「第二正典」とも呼ばれる部分があって、他のキリスト教では、聖書に数えていない、巻物があります。「マカバイ記」、「集会の書」、「知恵の書」などがあります。「知恵の書」は、昨年(C年)の年間第31主日の第一朗読にも出てきました。通常、第一朗読は、旧約聖書からとられます。

その「知恵の書」は、紀元前1世紀の間に、エジプトのアレキサンドリアで成立したもので、そこに、ユダヤ人が多数移住していたとのことです。ユダヤ人の言葉はヘブライ語(後に、アラマイ語とも言いました)でしたが、「知恵の書」は、最初からギリシャ語で書かれたと言う説もあります。

「知恵の書」では、次のような教えが述べられています。

全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、
回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。
あなたは存在するものすべてを愛し、
お造りになったものを何一つ嫌われない。
憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。
あなたがお望みにならないのに存続し、
あなたが呼び出されないのに存在するものが
果たしてあるだろうか。
命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、
あなたはすべてをいとおしまれる。(知恵の書11・11・23-25)

教皇様が、「いつくしみの特別聖年」の大勅書にも引用されている箇所であります。
この世に存在するものはすべて、神のみ心により、神がお造りになった。創世記は、それを述べています。そして、特に、人間は、神の似姿、神に似せて造られた、神の作品。

しかし、その人間が、いろいろな問題を引き起こしています。地上に存在する、いろいろなもの、戦争をはじめ、大量殺りく、環境破壊、飢餓、貧困などは、多くの場合、人間が引き起こしているものです。それを思うと、人間が、自己嫌悪に陥ってしまうのも無理はありません。
ごミサのときに少しお話しましたが、自分の存在に対する絶望的な気持ち。このような自分がこの世にあることに、どのような意味があるのだろうかと、自暴自棄になる。それが、「セルフ・ネグレクト」と言うことになるのだと思います。

人間の大切な課題は、自分が何のために存在して、どのような意味があるのか、どのような価値があるのかと言うことですので、価値があることに疑問を持たない人は、わざわざ問いかけることはしません。
つまり、人は、両親から、家族から、周囲から、大切な存在として、認められ、育てられていれば、わざわざ自分は何のために存在しているのかなどと考えずに済みますが、残念なことに、多くの場合、「なぜ自分は、このような目に合わなければならないのか。」などと思うような体験がある人の方が、はるかに多い。
そのような中で、神様がいる、その神様が、どのような人も、嫌われないどころか、いつくしんでくださる。そのような信仰です。しかし、それでも、なかなか受け入れがたいかもしれない。

イエス・キリストの十字架と言う出来事は、「神のいつくしみのわざ」の頂点です。
わたしたちが、頭でわかっていてもできないのは、「罪を憎んで人を憎まず」といいますか、悪いことは悪いわけで、悪いことを良いとすることはできないわけですが、間違いを犯す人を大切に思い、いつくしみ深く思い、その人を退けないどころか、その人のために良いことをする、その人からひどい目にあっても、仕返ししない。苦しみ、極端な場合、殺されても構わない。

そんなことは冗談じゃないと言うのが、わたしたち、普通の人間の気持ちであると思いますが、イエス・キリストの十字架と言う出来事は、自分を迫害する者のために祈りなさい。挨拶してくれる人に挨拶したところで、どのような手柄になるのでしょうか。それは、誰にでもできることです。
「自分に敵対する人のために祈り、その人のためになることをしなさい。」と言う、この教えは、なかなか実行が困難であると感じると思います。
罪ある人、あるいは、足りないところのある人を受け入れる、あるいは、愛すると言うことは、その人の棘を受けると言うことであり、棘と言うのは人を刺して、人に痛みを覚えさせるわけです。

「いつくしみの特別聖年」ですが、いつくしみのわざを行いなさいと言うことは、楽しくて、何の苦しみもなければ易しいのですが、必ずしもそうではありません。痛みを覚えると言うことであります。
それを、どのようにしたら良いかと言うことですが、聖書をそのような目で見てみると、神は、痛くも痒くもなく、平然と人を愛しているのではなく、神は苦しいのだと言うことです。これは、あまり普段思うことはありません。

わたくしが、学生時代に大変お世話になった神父様方の中に、粕谷甲一神父様とおっしゃる方がいらっしゃいまして、神父様の残されたお話を文字化して、本にして、女子パウロ会から次々に出版しています。最近見た本は、「神よ あなたも苦しまれるか」。変わった題名ですが、神は苦しまないから神だと言う考えはやめなければなりません。苦しむから神だと言うように、逆に考えるべきなのです。
「苦しみ」、あるいは、「悲しみ」と言う言葉に、神は属さないと言う考えは置いておいて、神であると言うことと、苦しむこと、痛みを覚えること、悲しむことは一致する、むしろ、そのようにするからこそ、神様なのだと言うことになります。

それが証拠に、聖人と言う人はそのような人でした。人間の問題が何もわからない、感じなくて、平気なのだと言うわけではありません。人間が生きる上で、つぶさに味わう様々な、悩み、苦しみ、悲しみを知っているわけです。
人となった神であるイエス・キリストは、人間として、善く、それを体験された。ですから、わたしたちの苦しみを、ご存知であります。

「いつくしみの特別聖年」のときに使われた言葉の中に、「深く同情する」と訳される箇所がありますが、人間の体、内臓から来た言葉であるそうで、「スプランクニゾマイ」と言うギリシャ語があります。人の苦しみを見ると、体が痛む。「断腸の思い」と言う言葉がありますが、自分のこととして、深い悲しみ、強い痛みを覚えるという意味であるそうです。
わたしたちの信じる神と言うのは、いつくしみ深い神であると言うことで、それは、全く鈍感で、痛みということには、何の共感もないと言うことではありません。
お話したいこととして、後半に、同じ分量、それ以上の内容がありますが、時間がありませんので、短く要点だけを申し上げたいと思います。

わたしたちは、誰であれ、神の民全員が、そのような神のいつくしみを人々に表し、伝えると言う使命を受けています。それを、「福音宣教」、あるいは、「福音化」と、別の言葉で言うこともできます。
そして、それは、司教、司祭、奉献生活者の人々が、その召命として行うことなのですが、洗礼を受けたすべてのみなさんは、神のいつくしみを生き、伝えると言う務めを受けているのであります。小教区でも、いろいろと役割分担しながら、実行していただいていると思います。
司祭が一人で何もかもはできませんし、信仰講座、入門講座等は、神父様や、シスターがしていらっしゃいますが、みなさんも準備をして、それを行うようにしていただきたい。そのようなことを進める、準備をする方のための準備講座を、開始したいと思っています。そして、入門講座の担当者、協力者を養成するための講座を、開設したいと思っています。

それから、教会に来られる方を、温かく親切に迎えなければなりません。それは、既に、みなさんがしていることなのですが、教会には、いろいろな動機、いろいろな理由で来られます。必ずしも、信者になりたいと思っているわけではありません。
今の時代、精神的な傷を持った人も、少なくはありません。そのような人に、どのように接したら良いか。これは、東京教区の優先課題の一つにもなっています。「心の傷を持った人への対応」です。このことについて、わたしたちは準備をする必要がありますので、担当するチームを、改めて編成することにいたしました。

それから、日本の社会で、「イエス・キリストの教え」と言うものを、どのように伝えていったら良いだろうか。
どのような点が人々にとって、受け入れがたい内容なのか。どのような点が大きな疑問なのか。そのようなことについて、わたしたちの方で研修しなければならないと考えております。そのためのチームが、既にありますが、拡充し、強化したい。
教皇庁の言い方で、あまり良い表現ではないかもしれませんが、「新福音化委員会」と言うものを、拡充したいと思っています。

小岩教会のみなさん、この三つのグループ、入門講座の担当者、教会の訪問者への対応、新福音化委員会、ご協力、ご加入していただければと思います。
よろしければ、お知らせいただいて、具体的な案内を差し上げたいと思っております。




八王子教会堅信式説教・年間第三主日


2017年1月22日 八王子教会

[聖書朗読箇所]

説教

八王子教会のみなさん、高幡教会のみなさん、今日は年間第三主日です。今から、堅信式が行われます。
いま、読まれました、マタイの福音書では、使徒の召命が告げられています。主イエス漁師であったペトロと、その兄弟アンデレを、イエスはお召しになり、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。ペトロとアンデレは、すぐにイエスに従って、イエスの弟子となり、十二使徒に任命されました。
ペトロは十二使徒の頭とされ、後に、ローマで殉教し、最初のローマの司教、そして、わたくしたち、ローマ・カトリック教会の頭となった方です。わたしたちはローマの教会の成立をこのように理解しています。

さて、第二朗読はコリントの教会への手紙でした。コリントの教会は、異邦人の使徒と呼ばれる、パウロが設立した教会であると考えられます。
既に、パウロの時代から、コリントの教会には、いろいろな問題があったことが推察されます。その問題の中で、仲間争い、分派という、困ったことが起こっていたことが、今日の手紙で告げられています。
教会は、同じイエス・キリストを信じる神の民ですが、派閥と言いましょうか、いくつかのグループができて、そのことは悪いことではありませんが、お互いに攻撃したり、排斥したりするということが起こりましたし、いまもある程度、そのようなことが起こっています。

ただいま、わたしたちは「キリスト教一致祈祷週間」を過ごしています。
教会の設立には、使徒ペトロ、使徒パウロたちが創立に大きな役割を果たした。ただ残念なことに、歴史の発展の中で、キリストの教会は、いくつかの教会、教派、教団に、分裂してしまっています。
しかし、そんな中で、イエス・キリストにおいて、一つになろうという運動が、教会一致運動です。

今年は、特に、ルーテルによって始められた宗教改革から、ちょうど、500年の年に当たります。1517年に、ドイツで、ルーテルと言う人が、宗教改革を開始しました。
500年の間、両方の教会は、対立を続けてきましたが、50年程前に開かれた、第二ヴァチカン公会議から、対話する方向に転じました。そして、よく話を聞いてみると、「両方の教えの間に、そんなに大きな違いはない」と言うことがわかってきました。
むしろ、基本的な理解は同じです。ただ、強調点が違うに過ぎない。冷静に聞いてみると、相手の言うことがわからないわけではない。このようになってきました。

そこで、今年は、いろいろな所で、宗教改革500周年を記念する行事があり、更なる対話と一致に向けて、前進するようにと、わたしたちは願っております。
同じ、イエス・キリストを礎として始められた教会ですが、理解の仕方は、少しずつ違います。イエスがおっしゃったことについて、どのように受け取るかと言うことは、少しずつ、場合によっては大きく違うことがあります。その違いを尊重することが、大切ではないでしょうか。

同様に、人と人との間にも、理解と一致と言うことが求められております。わたしたちは、他の人のことを、わかっているつもりかもしれないが、誤解しているかもしれない。現に、わたしたちは、「自分のことをわかってもらえていない」と感じることがあります。
しかし、自分のことが誤解されていると思うのならば、自分も他の人のことを誤解しているかもしれないと、思うべきではないでしょうか。

話は変わりますが、今日、堅信を受けられるみなさん、昨年は、「いつくしみの特別聖年」という年でした。「主イエス・キリストは、いつくしみ深い方です。ですから、キリストの弟子であるあなた方は、いつくしみ深い者でありなさい」。そのような教えを聞きました。
そして、教皇様は、「いつくしみ深くある」ということは、例えば、次のようなことを行うように努力してくださいと、わたしたちに伝えてくださいました。
その、いつくしみの御業は、「体を使う良い行い」と「心を使う良い行い」の、大きく二つに分かれます。
もっとも、人間は、体と心がひとつになっておりますので、結局は同じことになると思いますが。

さて、体を使って行うように勧められている、昔から言われている良い業というのは、
「飢えている人がいたら、食べ物をあげてください。」
「渇いている人がいたら、飲み物をあげましょう。」
「着るものが無い人には、着る物を与えましょう。」
「泊る所が無い人には、宿を用意しましょう。」
「病気の人がいたら、お見舞いに行きましょう。」
「牢につながれている人がいたら、訪ねる。」
「死者を埋葬する。」

この「死者を埋葬する」とは、ある時代、ある場所では、至る所に死体が放置されていたのでしょうか。日本では、そのようなことはあり得ませんが、日本以外の世界では、いま、いろいろな所で、そのようなことがあるのだろうと思います。

次に、精神的な良い行いとは、どのようなことかと言いますと、
「疑いを持っている人に助言する。」
「無知な人を教える。」
「間違いを犯している人を戒める。」
「悲しみに沈んでいる人を慰める。」
「いろいろな侮辱をゆるす。」
「煩わしい人を辛抱強く耐え忍ぶ。」

最後の、「煩わしい人」のことですが、わたしたちは、時として、何度も何度も、うるさく、繰り返し、聞きたくないことを、聞かされたり、頼まれたりすることがあるのではないでしょうか。そして、最後には我慢ができないことがあるかもしれない。
「そのような人たちのことを、温かく、忍耐を持って受け入れましょう」と、人に言うのは簡単ですが、実行するのは簡単ではありません。人間というものは、自分のことを大事にし、人のことは後回しにすると言う、抜難い性質を持っています。

イエス・キリストの教えは、「自分を後にしなさい」と言う教えです。それは、なかなかできない。しかし、人にはできないけれども、神にはできないことはない、と言われました。

堅信を受けられるみなさん、聖霊の賜物をお受けになります。七つの聖霊の賜物、それは、「自分から出て、人のために尽くすことができるようにする賜物」であります。
別な言い方をするならば、「知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し敬う心」を与える秘跡であります。

どうか、毎日、寝る前に一日を振り返り、反省し、明日、更に、聖霊の賜物を生きることができますよう、お祈りをしてください。

聖書朗読箇所

第一朗読  イザヤ書  8:23b-9:3
第二朗読  一コリント 1:10-13、17
福音朗読  マタイ   4:12-23

(福音本文)

イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、
湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、
暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

 

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年始の集い・講話


2017年1月9日、カテドラル

今日は、「主の洗礼」の日です。先ほど、ミサの中で、説教いたしましたが、準備のときに、言おうかと思ったが言い忘れてしまったと言うことがあります。
第一朗読は、イザヤの預言の「主の僕の歌」と呼ばれる箇所のひとつです。「主の僕」と言うのは、イエスが御自身を重ねて、なぞらえて、自分のことをあらかじめ述べた箇所として、ナザレの会堂で人々にお話になった、有名なイザヤの預言の言葉に登場する人物ですが、本日の箇所では、
「傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく」
と言う言葉が、今日、読まれました。

「傷ついた葦」。昔、確か、「傷ついた葦」と言う題名の小説がございまして、わたくしが、まだ、若かったときですが、大変興味深い内容でした。
最近、「心が折れる」と言う言い方を聞きますが、もう少しで折れそうな葦に、葦は人間を指していると思いますが、細心の注意、優しさを持って接する、という「主の僕」の生き方を示しています。

「今にも消えそうな灯心」。こちらも、同じように、細心の注意を払って、命の灯が消えないように接する。そのような表現だと思います。
わたしたちの周りには、その言葉が当てはめられるような方々がいらっしゃると思います。そのような方が、何かにつけて、訴えたり、求めてきたりするわけでありまして、そのような方々に、わたしたちは、どのようにすれば良いだろうか。せめて、ぽっきりと折れてしまうことのないように、火が消えることのないようにしたい。そのように思いますが、なかなか難しいことであると思います。

今日、新しい年を迎えて、東京教区の教会としての歩みを進めるに当たり、いま、わたくしの念頭にありますことを、少しお話して、みなさまのご理解、ご支援をお願いいたしいと思います。

わたしたち教会は、主イエスから、使命を受けました。「全世界に行って福音を述べ伝えなさい。わたしの弟子を作りなさい。」。そのように言われて、キリストの弟子たちは、世界中に赴き、その使命を行いながら、わたしたちの教会を、つくってくださったのであります。
イエスの言葉はまず第一には、使徒たちに告げられたものでありますが、すべての信者、信徒が、このイエスの言葉を受けて、それぞれの立場、場所、環境において、イエスのご命令を実行しなければならないのであります。

さて、わたくしたちは、東京教区の神の民でありますが、東京教区は、東京都、千葉県からなります。そして、わたくしは、千葉県出身で、最近たびたび千葉県に赴きますが、千葉県と言う県が、東京教区に所属していることは、本当に良かったと思います。

かつて、東京教区は大きく、いまの、さいたま教区、新潟教区、仙台教区、札幌教区も一緒だったのですが、教会の発展と共に教区が独立し、いまは、16教区の形態になっております。
この首都東京は、東京教区として残った。東京は、政治、経済の中心でありますが、教会にとっても、非常に重要な拠点であります。
そして、そこには、困難な問題も、たくさん集中している。そのような場所であります。

そこで、みなさんは、洗礼を受けられ、信者になられ、教会の使命を果たすようにと、励ましを受けています。わたくしも、励まされていますが、励ます側であると言うことでもあるのでございます。何よりも、司教はもちろんのこと、司祭は、主イエスから、特別な使命を受けておりますが、更に、修道者、奉献生活者の方も、それぞれの創立の精神に従って、ご自分の役割を果たしていかなければならない。

そのような教会のメンバーの中で、信徒のみなさまに、是非、改めて、みなさまの使命を自覚していただき、みなさまにできる使徒職を、すぐにでも、実行していただきたいのでございます。

福音を述べ伝える、「福音宣教」、あるいは、「福音化」、ラテン語で「evangelizatio」、英語で「evangelization(英語)」と言う、われわれには少し肌触りの良くない言葉もございます。

昨年、10月下旬、カテドラル構内におきまして、司祭集会を行いました。東京教区内で、司祭の仕事をしておられます、司祭のみなさん全員に呼びかけて、集まっていただき、教会の使命の中で、司祭の役割が何であるかと言うことを話し合いました。司祭は、信徒のみなさまにお仕えし、信徒のみなさまが、教会の使命をもっと善く果たすように励ます、そのようにできるように、養成することが司祭の務めであります。

「養成」と言う言葉が適切であるかどうか、少し迷いますが、そうできるように信徒を教育し準備する、ということです。「やりなさい。」と言われても、そのようにできるような準備をしていなければ、実行できません。
そこで、当面、三つの分野を考えております。

第一点は、教会に来て、聖書の勉強をしたい、洗礼を受けたい、教えを学びたいと言う方がいたとします。幸いいらっしゃる訳すが、日曜日などですと、司祭は忙しいので、その方々のお相手をすることが難しい。そこで、司祭ではない方が、代わりに、福音のお話をすると言うことになります。
もちろん、日曜以外の時間でも、信仰講座、入門講座を開いて、希望の方に、わたしたちの信仰をお伝えする。これは、第一に、司祭の役割でありますし、修道者の方にもしていただきますが、実は、信仰の恵みを受けたすべての人は、自分の立場で、自分の言葉で、信仰を求めておられる方に、話をしていただきたい。
小教区などで行う、入門講座、信仰講座のお手伝い、神父様を助けて、あるいは、そのようなチームを作っていただいて、その中で、直接的、間接的に信仰を伝える、そのようなお仕事をしていただきたい。そのような体制を作りたい。

しかし、これは、既に行われていることなのです。みなさまの中には、非常に善く勉強していらっしゃる方がいます。わたしたちよりも、神学や聖書学、その他、哲学など、善く勉強し、専門家になっておられる方も、決して珍しくない昨今でありまして、是非、小教区で、信仰講座、入門講座に協力する、あるいは、担当する、そのような信徒の方が、もっと増えて欲しいと願っております。

第二点は、教会に接触する人の、案内をする準備をして欲しいと言うことです。教会によっては、「よくいらっしゃいました。どうぞ、こちらでお茶でも召し上がってください。」、あるいは、「どのようなことでも、お尋ねください。説明申し上げます。」という受け皿があります。
また、ある教会では、「よく来てくれた、どうぞゆっくりしていってください」と言う意味合の、「ウェルカムテーブル」と言うものがあるそうです。

最初から勉強したいとか、ミサに出たいとか、洗礼を受けたいとか言うわけではないが、何となく、あるいは、他の目的を持って来られることがあります。あるいは、誰かに誘われて来たと言う場合など、最初はそのような場合が多い。

みなさんは、どのようなきっかけで、教会に来られ、洗礼を受けられたのでしょうか。最初の接触が、非常に大事で、ここに、自分の求めているものがあるのではないか、自分のためになる何かがあるのではないか、現代の大都会で、何となく行暮れてしまうと言うか、どうしたら良いかと思ったり、寂しく思ったり、暇だから覗いてみようとか思ってみたり、いろいろな動機の方がいますけれども、そのような方を優しく受け入れる受け皿が必要ではないでしょうか。

わたしたちが、どのように言われているかと言うと、「入りにくい所」、「敷居が高い」と言われています。わたしは中にいるからわかりませんが、昔は外にいたわけで、「何となく行きにくい所」でした。
しかし、いまだに「何をしに来たのだ。」、「何の用があるのだ。」と言われそうな、そのような体質は直っていない。

ナイス(NICE)というものをいたしました。福音宣教推進全国会議。誰にでも開かれている、あなたの場所がありますという、開かれた教会作りです。森一弘司教様などが、一生懸命になさっていました。
「生き暮れている。」、「寂しい。」あるいは「どのような所だろう。」という気持ちの人が、何となく来た場合に、その人たちを温かく受け入れるという教会に、もっと変わりましょう。そして、わたくしが何度も申し上げてきたことですが、教会は、荒れ野のオアシスでありたい。

ずいぶん昔の話ですが、今は引退している、教皇ベネディクト十六世が、就任のミサの説教で言われたことの中に、「現代の荒れ野」という言葉がありました。

「われわれは、荒れ野に呼ばれている。」荒れ野と言うのは、生きることが難しい、厳しい環境。本当に疲れるし、危険でもある。そういう環境の中で、ほっとする所、癒される所、生きる力がまた与えられる所、励ましを受ける所、そのような所が欲しい。そのような人間関係が欲しい。生きるということは大変なことでして、人間の悩み、苦しみの大半は人間関係であって、助けられもすれば、傷つけられもする。教会に行けば、慰められ、励まされるかと思い、教会に行くと、前よりも更にひどい目に合ったと言う訴えが、ないわけではない。

聖体拝領に関することですが、先ほど丁寧に説明がありましたが、外から来た人には、聖体拝領が何なのかが善くわからないのですね。それで、胡散臭く、「あなたがたが来る所ではない。」と言われ、傷つく。人は傷つきやすいですね。
言った人には、全然そのようなつもりがなくても、そのように言われたと思い、我慢ができなかったのか、手紙を書いた。どちらに出すかと言うと、一番目にする名前は「岡田武夫」。わたくしに送られて来るのですね。手紙には、教会の名前まで書いてあります。わざわざ手紙に書かないまでも、嫌な思いをする人は、たくさんいるのだろうと思います。

わたしたちの在り方というものは、現在の社会の中では、かなり違う、わかりにくいわけです。扉から中に入るということは、大変勇気のいることです。誰かが誘ってくれなければ、なかなか行ってみようとは思わない。

ともかく、教会との接点において、わたしたちが、いかに人々を優しく、温かく迎えるかと言うことについて、もっと考えて、提言する。あるいは講座を開く。そのために、教区で委員会を立ち上げました。

以上が、信徒のみなさんによる、信仰講座、教会案内の進め方についてです。

第三点は、ベネディクト十六世というお話が出ましたので、思い出していただきたいのですが、ベネディクト十六世は、第二ヴァチカン公会議開始50年の年に、「信仰年」を宣言されました。第二ヴァチカン公会議は、1962年から1965年まででしたので、2012年がちょうど50年目に当たる年でした。

一昨年から昨年までの「いつくしみの特別聖年」は、閉幕から50年目ということでしたが、「信仰年」、それぞれの人が、自分の信仰を確かめましょう、深めましょう、もっと信仰を確かなものにしましょう、そのために、カトリック教会の教えをもっと学ぶようにしましょう、という説明でした。

日本にキリスト教が伝えられたことは、誰でも知っていますが、1549年、聖フランシスコ・ザビエルによります。それから、400年、500年と、長い迫害の時代がありました。
禁教、迫害の中で、信仰を守り、伝えた人たちがいたと言う、奇跡的な日本の教会を、全世界は、驚嘆をもって、見ていたと思います。ともかく、日本に福音が伝えられてから、そろそろ500年になろうとしています。
キリスト教禁止が解かれて、キリシタン禁制の高札が撤去され、更に、大日本帝国憲法ですが、限定つきながら、信仰の自由、宣教の自由が保障されて、長い年月が経ちました。そのような状況の中で、多くの優れた宣教者、修道者の努力、犠牲があり、いまわたしたちがおります。

宣教は、大変難しいと思います。どこが、難しいのか。400年前の方が栄えていました。
一昨日でしたでしょうか、麹町教会で、東京教区の修道女連盟主催の集会があり、高山右近についてのお話が、長崎教区の古巣馨(ふるすかおる)神父様からありまして、わたくしも聴講しましたが、(キリスト教は)昔の方が本当に栄えました。

比率から言えば、今の10倍、あるいは、それ以上の信者がいたかもしれない。社会の中での存在感と言うのが、圧倒的だった。国の支配者が、「このままにしておいては、危ない。」と脅威を感じていました。
今は、われわれ日本の司教がいろいろと言っても、あまり脅威を感じているようには見えない。当時は、社会の有力者がキリシタンになり、キリスト教は非常に栄えていました。

それでは、同じ日本という国で、いまは、どうして難しいのか。その理由、原因は何だろうか。あるときは、社会全体が禁止する方向にあったわけですね。いまは自由です。
わたしたちの努力は、どのように人々に響いているのか。どのような点が、受け入れがたいのか。

そのあたりについて、もちろん、わたしたちは、研究し、議論を重ねてきましたが、みなさんにも、一緒に考えていただきたいのです。

先日、カトリック東京国際センターCTICで、お話を聞く会がありました。アジアでカトリック信者が多い国と言うと、南の隣のフィリピン、北隣の韓国、挟まれた日本では信者は、外国から来て滞在しておられる方を入れて100万人、登録信者40万人と言われていますが、この日本で信者として、信仰を守っているということは、大変なことです。

日本人のこと、日本の教会のことを、どのように思うかと聞いてみました。なかなかお話になりませんでしたが、少し経って、口がほぐれてきて、正直に感じていることを、いろいろとおっしゃいました。まだ、正確には理解していないのですが、まず、「わたしたちは、どのような存在として見られているのか。」ということを、気にするとか、へつらうということではなく、本当に主イエスから授かった使命を適切に行っているかと言うことを、反省しなくてはなりません。

寂しい思いをしている人、あるいは、後回しにされている人、障害者、そして、最近は、「子どもの貧困」という問題があります。この豊かな日本の社会の中で、なぜ生きづらい人が多いのか。そして、家庭の、子どもを産んで育てるという、人間にとって一番大切なことが、きちんとできない。親による子どもへの虐待、あるいは、虐待を通り越して、子どもを殺してしまうということが起こる。

そのような中で、わたしたちカトリック教会の使命と言うのは何なのか。人々にとって、励まし、助け、安らぎ、わたしたちも、そのような共同体になっているのだろうか。難しいことを教えるよりも、ひとりひとりの人とのつながりを作っていくことが大切なのではないだろうか。そして、「あなたのことを、わたしたちは大切に思っている。」というメッセージを伝えなければならないと思います。

さて、フランシスコ教皇様が、「家庭のことついての回勅」、環境汚染については「ラウダート・シ」という教えを発行されました。そして、信仰の喜びを伝えるように「福音の喜び」という教えも出されました。

そのような教皇様の教えを、敏速、正確にお伝えすることが、わたしたち、司教、司祭の役目であるとは思っておりますが、信徒の方にも、是非、信仰講座、入門講座での協力をお願いしたい。それから、教会に、何かを求めて来る人を、優しく、温かく迎え入れて欲しい。
そして、「福音宣教」、「福音化」に伴う困難な点について、もっと分かち合いをし、そして、人々にわかりやすく、心にしみるような宣教ができる教会の態勢を整えていきたいと思います。

どうぞ、みなさん、それぞれ、ご自分の所属される小教区等で、この課題を話し合い、できることから始めていただけたらと思います。




年間第2主日、成人式のミサ説教


2017年1月15日、関口教会

[聖書朗読箇所]

説教

洗礼者ヨハネが言われた言葉は、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」です。ヨハネは、イエスについて、このように証言しました。 「世の罪を取り除く神の小羊」。この言葉は、思えば、わたしたちは、ミサに与るたびに、唱えている言葉であります。  
先ほど唱えました、「栄光の賛歌」でも「世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ。」、そして、御聖体拝領の前に唱える「平和の賛歌」でも、「神の小羊 世の罪を除きたもう主よ われらをあわれみたまえ」と、わたしたちは唱和しております。  
ヨハネから洗礼を受けたイエスは、同時に、聖霊の充満、聖霊を豊かに受けた方であることが示されました。  
「『これはわたしの愛する子である。わたしの心に適うものである』と言う声が天から聞こえた」という旨の福音の言葉がそのことを表していると言って良いでしょう。  

そのイエスの弟子として、わたしたちは召されております。聖霊の注ぎを受け、洗礼の秘跡、堅信の秘跡を受け、イエス・キリストに倣って、イエス・キリストの使命を遂行するために、わたしたちは選ばれています。  

2017年を迎え、改めて、わたしたちは、自分の召命、召し出しを考えてみたいと思います。個人としても、教区としても、教会としても、わたしたちは、深い反省のもとに、自分たちの歩みを、更に、善く思い定め、聖霊の導きに照らし、助けを願い求めましょう。  

「世の罪」と言う言葉でありますが、「世」そのものを、否定しているのではなくて、神の御心に背く、この世の在り方を指して、「世」と言っていると思います。ヨハネの手紙の中には、「世と世にあるものを愛してはいけない。」と言う言葉が登場し、「肉の欲、目の欲、生活のおごり」と言う言葉がそれに続いています。(ヨハネの手紙一2・15-16)  
わたしたちは、真摯に、自分を顧みてみますと、自分の心の中に、神様の御心にそぐわない、御心に適わない、心の状態があることを、認めざるをえません。  

イエス・キリストという光を受け、光の子として歩むように召されておりますが、わたしたちの心の中には、まだ、闇の部分があると言わなければならないと思います。  
聖書によれば、すべての人は、罪を犯している。大きな罪とは言わないまでも、神の御心に適わない部分があることを、正直に認めなければならないと思います。心から、贖い主、主イエス・キリストの、いつくしみを、憐れみを、願い求めましょう。  

さて、「世の罪」ということで、ひとつふたつ、心にありますことを、お伝えしたいと思います。  
紀元二千年のことですが、カトリック教会は、大聖年を祝いました。そのときの教皇は、先日列聖された、聖ヨハネ・パウロ二世であります。ヨハネ・パウロ二世は、教会の歴史を振り返りながら、教会を構成する人々が犯した、大きな過ちについて、神の前に、ゆるしを願われました。  
その過ちというのは、いろいろありましたが、「基本的人権の侵害」、「暴力の行使、是認(暴力を認めたこと)」、「信教の自由への理解の不足」、「女性に対する差別・人権侵害の過ち」など、その他いろいろなことを挙げて、神の前にゆるしを願われたのであります。  

更に、その前のことですが、日本の司教協議会は、1987年に、第一回福音宣教推進全国会議(NICE1)を開いて、深い反省のもとに、「開かれた教会になること」を決意しました。  
「わたしたちの教会は、閉鎖的である。苦しんでいる人、悩んでいる人、救いを求めている人に対して、開かれていない。近づきにくい。自分たちだけで固まってしまっているのではないか」という反省のもとに、「苦しむ人、悩む人、病み、疲れている人は、誰でもわたしのもとに来なさい。」と言われた、主イエス・キリストに倣い、すべての人、特に、弱い立場に置かれた人々に開かれた教会になることを決意し、そのために、いろいろなことを実行するという決意をしたのであります。  
それから30年、わたしたちは、どのように、その決意を実行してきたのでありましょうか。多くの人が、安らぎ、救い、慰めを、求めております。わたしたち教会は、そのような人々のために何をしてきたのか。自分たちのことだけで精一杯だという点がないわけではない。深い反省のもとに、決意を新たにしたいと思います。  

「世の罪」、それは、人類が蓄積した罪の結果を指しているかもしれません。それは、構造的な罪となり、わたしたちを束縛しております。  
「罪に傷つく現代世界」という、今日の集会祈願の言葉を思い起こしましょう。現代世界は、総体として、罪の影響のもとに、傷つき、歪められています。  
フランシスコ教皇様は、たびたびその点に触れ、その克服のために戦うよう、わたしたちを励ましておられます。  
この世界、言わば、金銭価値を至上の価値としている、金銭を偶像としているような世界になっているのではないか。更に、人間と自然との関係にも、破綻が来ております。  
教皇様の教え、例えば、「ラウダート・シ」という回勅が出されております。そのような教えを学ぶということが、非常に求められていると思います。  

今日は、成人式のお祝いがあります。成人を迎えられるみなさんに、最後にひと言。  わたしたちは、この世にあるさまざまな問題を解決し、そして、その問題を乗り越えるために、キリスト者として召されています。ミサの交わりの儀のときに、わたしたちは祈っています。  
「すべての悪からわたしたちを救ってください。」  
悪の中に、もちろん、罪は入っています。悪との戦い、それは、主イエス・キリストの恵みなしには、遂行できない、実行できないのであります。  
謙虚な心を持って、主イエス・キリストに恵みを願い、少しでも、現代世界が、主なる神様の御心に適う世界となるよう、祈りと努力をお献げいたしましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ書 49:3、5-6
第二朗読 一 コリントの信徒への手紙 1:1-3
神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

福音朗読 ヨハネによる福音書 1:29-34

(福音本文)

〔そのとき、〕ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」  
そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

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2017年年始の集い・ミサ説教


2017年1月9日 主の洗礼 東京カテドラルにて

[聖書朗読箇所]

説教

新しい年を迎え、今日、わたしたちは、主の洗礼のミサを献げます。  
主イエスは、洗礼者ヨハネから、洗礼をお受けになりました。ヨハネは、むしろ、自分こそ、イエスから洗礼を受けるべき者であると思いましたが、イエスの言葉に従って、イエスに洗礼を授けたのでありました。どうして、イエスが洗礼を受けたのか。  
考えてみますと、たしかに、イエスは罪のゆるしを受ける必要はありませんでしたが、わたしたち罪人と連帯し、わたしたちと一緒に、わたしたち人類の罪の赦しのために、洗礼をお受けになったのだと思います。

洗礼を受けられたときに、聖霊が鳩の形をして、イエスの上に降りてきました。そして、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3・17)という声がしたのであります。このときの光景を、いま、思い起こしながら、わたしたち、東京教区の今年の歩みに、思いを馳せたいと思います。  

聖霊は、イエス・キリストご自身の霊でありました。イエスは、いつも、聖霊に生かされ、聖霊の導きに従って、その生涯を、天の父にお献げになりました。イエスのなさったことは、すべて、御父の御心に適うことでありました。  
わたしたち教会は、聖霊を受けて、聖霊の降臨の日に誕生し、今日まで、その使命を継続して来ました。いま、わたしたち東京教区は、改めて、自分の使命、自分の役割を考え、それを忠実に遂行することができるよう、聖霊の助け、聖霊の照らし、聖霊の導きを、願い求めたいと思います。  

わたしたちの生き方の基準は、主イエス・キリストであります。主イエス・キリストが何をおっしゃったか、どのように生きられたかということを、いつも、思いながら、祈り求めながら、いま、ここで、主イエスは、どのように言われ、どのように行われるであろうかということを考えつつ、日々の歩みを、進めていかなければならないと思います。  

イエスの場合、聖霊が、イエスご自身の霊でありまして、イエスと天の御父との間には、完全な一致がありました。わたしたちの場合は、残念ながら、そのようにはいかないのであります。残念なことに、わたしたちの間には、御心に適わない、色々なことがあります。
たしかに、教会は、父と子と聖霊の神様によって、設立されましたし、絶えず、聖霊の注ぎを受けております。しかし、わたしたちの方は、十分に、適切に、忠実に、聖霊の導きに従っていないがゆえに、さまざまな問題、さまざまな不適切なことを引き起こしているのであります。  

この一年の歩みが、少しでもより御心に適う、より清らかな、よりふさわしい歩みとなりますよう、わたくしども、心を合わせて、神に祈り、それだけではなく、わたしたちの間で、助け合い、あるいは、戒め合える、支え合うことが大切であると思います。  
聖霊の働き、それは、天の父である神から来るものでありますが、同時に、聖霊は、他の人々の意見、感想、そして、この社会の中で起こっている、色々な出来事を通し働く、そのような動きの中に、聖霊の働きがあると思います。わたしたちは、個人でも団体でも、自分の思い、自分の考え、思い込みに捉われないで、心を開き、他の人々の思い、意見、忠告を、謙虚に、落ち着いて聞き、神の御心に従って、生きることができますよう、この一年を、特に、主なる神様に、祈りのうちに献げたいと思います。  

「いつくしみの特別聖年」は、昨年の11月20日に終了いたしましたが、この精神は、世の終わりまで続かなければなりません。
「あなたがたの天の父が、いつくしみ深い方であるように、あなたがたもいつくしみ深い者でありなさい。」と言われた、主イエスに従い、この一年、特に、いつくしみ深くあるということを、更に追い求め、祈りながら歩んでいきたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ書 42・1-4
福音朗読 マタイによる福音書 3・13-17

(福音本文)

第一朗読  イザヤ書 42・1-4

 〔主は言われる。〕
見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ
彼は国々の裁きを導き出す。
彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく
暗くなってゆく灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。
暗くなることも、傷つき果てることもない
この地に裁きを置くときまでは。
島々は彼の教えを待ち望む。

主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び
あなたの手を取った。
民の契約、諸国の光として
あなたを形づくり、あなたを立てた。
見ることのできない目を開き
捕らわれ人をその枷から
闇に住む人をその牢獄から救い出すために。

福音朗読  マタイによる福音書 3・13-17
〔そのとき、〕イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」  
しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。  
そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。  
そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

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東京教区修道女連盟・新年研修会ミサ説教


2017年1月7日 降誕節土曜日(主の公現前)麹町教会にて 

[聖書朗読箇所]

説教

2017年を迎え、今年も、みなさまは、新年の研修会を開いておられます。  
「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」と、いま読まれました福音が、告げております。カナの婚宴の話でございます。新春にふさわしい、明るい、希望に満ちた、福音ではないかと感じております。  

2016年は、主に、「神のいつくしみの特別聖年」でございました。フランシスコ教皇様のご意向に従って、わたくしどもは、神のいつくしみを、より深く学び、悟り、そして、人々に神のいつくしみをあらわし、伝えるようにと、祈り、務めてまいりました。  
「神のいつくしみの特別聖年」は終了いたしましたが、教皇様のご意向に従って「神のいつくしみを生きる」ということに、終わりはございません。  
2017年、引き続き、神のいつくしみをより深く生きられますように、ご一緒にお祈りいたしましょう。  

今日の第一朗読が告げているように、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださいます。」(ヨハネ一5・14)  
神の御心に適うこと、それは、疑いもなく、天の御父がいつくしみ深いように、わたくしたちも、いつくしみ深い者であり、そして、いつくしみを実行する者であるということであると思います。  
問題は、わたしたちが、どれだけ深く、神のいつくしみを悟り、それを実行できるのか。日々の生活の中で、自分の召命の実践の中で、どのように、神のいつくしみを生きるということであるのか。司祭や司教はもちろん、奉献生活者や信徒も含む、すべての信者は、この課題を日々、背負って、歩んでいかなければならないのであります。  

今日の第一朗読、使徒ヨハネの手紙の中に、「わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです」(ヨハネ一5・19)という言葉がございました。  
日々、感じることでありますが、神がお造りになったこの世界、イエス・キリストの御血によって贖われた、この世界であるにもかかわらず、依然として、悪の力が働いているということも事実であります。悪の存在する世界の中で、わたしたちは戦いながら、戦いのうちに、神のいつくしみを、より深く知り、行うようにすることが、切に求められているのであります。  
悪の支配、それは、それがこの世にあるということだけではなく、わたくしどもの心の中にもある、心の中にも悪の力が働いているということであると思います。わたしたちは、日々、悪の力に抗して、悪の力を退け、誘惑に陥らないようにと、神の助けを願いながら、それぞれ、自分の使命を忠実に果たしていきたいと思います。  
さて、東京教区の現実は、司教として考えますに、非常に厳しい現実であると思います。わたしたちは、信者全員が、心を一つにし、力を合わせ、連帯して、それぞれ、主イエス・キリストからいただいている、使命、役割を遂行していきたいと思います。  
わたしたちは、神のいつくしみに触れ、イエス・キリストの弟子となりました。この体験を、信仰の喜びを、日々の生活で証し、多くの人に伝えていかなければなりません。  
既に、何度もお願いしていることではありますが、神の民全員が、自分の信仰を、自分の言葉で宣言し、自分の言葉で説明できるような、準備をしなければならないと思います。  

そして、具体的には、各小教区、修道院等で行っております、信仰講座を、信徒の方にも協力していただき、あるいは、担当していただく準備をしなければならないと思います。  
はっきりと、「入信、あるいは、洗礼を望むから、教えてください」という意思表示をしているわけではないが、何かのよりどころを求めて、教会に来る方が多数いらっしゃいます。そのような方を、優しく、親切に受け入れるような態勢をもっと整えていかなければならないと考えております。  

更に、400年、500年の宣教の歴史を持つ、日本でありますが、宣教は、なかなか難しい。どうして、日本における福音化が進展しないのか。その原因、理由は、どこにあるのか。キリスト教の宣教の仕方、プレゼンテーションの方に問題がありはしないか。あるいは、人々の現実を良く見て、そのニーズに応えるように、わたしたちが働いていないからではないかなど、わたしたち自身の反省を行う必要があると考えております。  

今日は、ユスト高山右近の列福についてのお話を伺うことになっております。信徒として、偉大な信仰の証を立てた、高山右近。その生涯に学びながら、わたしたちは、この現代の日本において、人々のために、どのような証をすることができるのか。どのような証をしなければならないのかということを、この機会に、与えられた、この素晴らしいときに、しみじみと考え、祈り求めたいと思うのであります。  

結局、人々は、わたしたちが、何を言っているかということよりも、どのように生きているかということを見ているのであります。  
わたしたちの言葉に、実行が伴わないならば、わたしたちの存在、わたしたちの宣教は、あまり効果をもたらさないのではないでしょうか。  
願わくは、聖霊の力に満たされ、わたしたちが強く、信仰の証を立てることができますよう、そのために、ユスト 高山右近の生涯に、学ぶことができますよう、今日のときを、神様にお献げし、新年の素晴らしい学びのときを過ごしたいと願っております。どうぞ、宜しくお願いいたします。

聖書朗読箇所

第一朗読 第一朗読  一 ヨハネの手紙 5・14-21
福音朗読 ヨハネによる福音書 2・1-11

(福音本文)

第一朗読  一 ヨハネの手紙 5・14-21  
〔愛する皆さん、〕何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。  
死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。  
わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。  
わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。  
わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。  
この方こそ、真実の神、永遠の命です。子たちよ、偶像を避けなさい。

福音朗読  ヨハネによる福音書 2・1-11  
〔そのとき、〕ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。  
ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。  
そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。  
イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。  
このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」  
イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

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2016年12月26日 聖職者の集い


本日、私共はテ・デウム(年末の聖職者の集い)を開いております。

この一年を振り返りますと、何といってもまず、私たちは教皇フランシスコのご意向に従って「神のいつくしみの特別聖年」を祝い、そして神のいつくしみを深く味わうように努めてきた一年でございました。2015年12月8日、このカテドラルの献堂記念日でありましたが、「無原罪の聖マリア」の祭日から、先月11月20日の「王であるキリスト」の日曜日まで、集中的に「神のいつくしみ」を味わい実行するよう努力してきたのであります。私たちはこれからもさらに神のいつくしみを、より深く学び、そして多くの人々に神の愛を告げ知らせるために、力を合わせたいと思っております。

先月13日のことでありましたが、聖ヨハネ・パウロ2世教皇と聖ファウスティナ・コヴァルスカの聖遺物を、この大聖堂に頂戴し、安置することができました。この大聖堂は、神のいつくしみにささげられた東京教区の巡礼所として永久に記念されることになりました。より多くの人がこの聖堂を訪れ、神のいつくしみに触れ、この社会の中で様々な困難、問題に直面した時に、多くの慰め、安らぎ、支えをいただけますようにと心から願っております。
なおさらに、この一年を振り返りますと、3月6日にケルン教区からヴェルキ枢機卿一行を迎え、三賢王の聖遺物を頂戴し、安置式を行いました。このカテドラルは今年、多くの聖遺物を頂戴し、安置して、多くの人に神の恵みを伝える聖堂と定められた年であったと思います。

さて10月24日から3日間、司祭集会を開催し、私たち司祭のつとめについて、学びと話し合いを行いました。この司祭集会を受けての私のまとめとお願いは、11月28日の司祭月例集会の折に文書にして、皆さまにお渡ししましたので、ご覧いただけたと思います。

すでに何度も話し合ってまいりましたが、私たちの使命は、主イエス・キリストのご命令に従い、福音を宣べ伝え、イエス・キリストの弟子を作ることであります。この使命は、神の民全員に与えられたものであります。私たち司祭は、信徒が自分の務めを果たすことができるよう、助け、励まさなければなりません。具体的には、各小教区等で行われております信仰の入門講座において、司祭を助ける協力者、場合によっては司祭より依頼を受けて講座を担当することのできる信徒を養成しなければならないと考えております。そのための具体的な準備、そしてプログラムを教区の生涯養成委員会が作成し、早急に実行に移す所存であります。

また、はっきりと信仰の学びをしたいという意思を表現しているわけではないが、何かを求めて教会を訪れる方が多数いらっしゃいます。私たちは、東京教区という神の民の共同体が、人々のためにいやしと潤いとなる、あたかも荒れ野における泉、オアシスとならなければならないと念願しております。すでにその役割、荒れ野におけるオアシスとなっている部分もありますが、とても足りないとも思います。

私たちの現実を振り返ってみれば、そこに人々が慰めや安らぎを見いだしてくれるだろうかと思う部分もないわけではありません。しかしながら私たちは、私たちの共同体が入りやすい所、近づきやすい共同体となるように努めなければならないと思います。さらに教会では、外から来られた方を受け入れ、歓迎するための工夫がなされておりますが、この努力を前進させ、拡充させるための委員会を設置いたしました。

また、日本における福音宣教の根本的問題を今一度見直すために、新福音化委員会を設置し、私たちの福音宣教の問題、つまり私たちのほうにどういう問題があるのかということを検討しながら、日本の社会と人々がキリスト教について抱いている考え方を真摯に受け止め、私たちがどんな努力をすることができるだろうかということを、共に考えるための材料を準備し、提供する委員会(新福音化委員会)を設置いたしました。教皇庁の新福音化委員会に対応する組織であります。どうぞ皆様のご理解、ご協力をお願い申し上げます。

日本の司教協議会は、「今こそ原発の廃止を ― 日本のカトリック教会の問いかけ」という本を10月に出版しました。さらに11月11日に、司教全員によるメッセージ「原子力発電の撤廃を-福島原子力発電所事故から5年半後の日本カトリック教会からの提言-」を発表しました。このメッセージの根拠、背景となる原子力発電の問題点を解説した本が「今こそ原発の廃止を ― 日本のカトリック教会の問いかけ」です。ぜひご覧いただき、信徒の方と学習していただきたいと思います。

また紀元2000年に発表しました司教団の生命倫理についての共同教書「いのちへのまなざし」を大幅に増補した新版を作成しました。まもなく出版される運びです。現代の問題に直接向き合う、様々な困難な問題についてのカトリック教会の考えを明らかにしようと努めている、大変良い内容だと思います。これも信徒の方とご一緒に読み合わせなどをしていただけたら、大変有用なことであります。

2017年、信徒の方に進んで福音宣教の役割を担っていただけますよう、神父さま方の理解、そして信徒へのご指導を切に願います。




主の降誕・夜半のミサ


2016年12月24日   関口教会にて 

[聖書朗読箇所]

説教

今日は、12月24日、主キリストのご降誕の前日であります。今から主の降誕の夜半のミサを献げます。
主のご降誕はキリスト教徒にとって、非常に大切な日であります。英語で、「Christmas(クリスマス)」というところから、多くの人に、クリスマスという言葉が知られるようになりました。「クリスマス」とは、「キリスト」と「ミサ」を一つにつなげた言葉でありまして、「キリストのミサ」という意味になります。
クリスマスのミサだけが、キリストのミサであるのではなくて、すべてのミサは、キリストのミサであり、教会は毎日、ミサをお献げしている訳です。

さて、今日、このように多くの方が、クリスマスのミサに参加いただいておりますことを、大変ありがたく、嬉しく感じております。
「ミサ」というものは、どのようなものだろうか。あまりご存知ない方も、多数いらっしゃるかもしれないと思い、少しお話ししたいと思います。
「ミサ」は、「感謝の祭儀」とも呼ばれており、前半と後半の部分に分けることができます。今、前半の部分を行っております。
前半において、わたしたちは、聖書の言葉、キリストの言葉を聞き、分かち合い、一緒に味わうことになります。今、わたくしが行っているお話は、聖書の言葉、イエス・キリストの言葉を分かち合い、そして、生きるための助けとなる話でなければならないのであります。

わたくしの話が終わりますと、後半の部分に入ります。後半は、「感謝の典礼」と呼ばれます。パンとぶどう酒を神様にお献げし、感謝の祈りを献げ、最後の部分で、「コムニオ(communio)」、カトリック教会では、「聖体拝領」と呼ばれる儀式が行われます。
わたしたちは、二つの食卓で、神の恵みを受けると言われています。前半と後半、前半は「神の言葉」という食卓に参加する、後半は、「キリストの体」の食卓に、参加するいうことになります。
また、この「キリストの体」のことを、カトリック教会では、「ご聖体」と呼んでおります。
キリスト信者として、心の準備ができた人は、一人ずつ、司祭の前に進み出て、「ご聖体」をいただくことができます。
その際、司祭は、「キリストの御体(おんからだ)」と言いますので、「はい、そのように信じます。その通りです」という意味を込めて、「アーメン」と答えることになっております。「アーメン」と言う人は、「イエス・キリストを信じています。救い主であると信じます。そして、このパンとぶどう酒の中に、イエス・キリストが本当におられることを信じます」というような信仰を告白することになります。

そこで、毎年のことであり、今日もそうですが、このように多数の方が、ミサに参加してくださった。
そのミサの全体を通して、参加していただけると、大変嬉しいのでありますが、「感謝の典礼」の最後の部分においては、「イエス・キリストを信じます」という人だけが、「ご聖体」と言われる、パンの形をしたキリストの体を、受けることになります。
そのことについて、説明がありますが、これが何のことなのか、なかなかお分かりになることができない。それは、無理もないことであります。そのために、今、少しだけ説明しましたが、お分かりいただけたかどうかは、分かりません。

ところで、この「ミサ」という言葉は、今、世界中で一番良く通じている言葉なのですが、実は、随分、後の時代になって登場してきた言葉なのです。
本来は、「聖体祭儀」、「感謝の祭儀」、「主の晩餐(ばんさん)」、「聖餐式(せいさんしき)」、いろいろな言い方で、この「ミサ」を呼んできていました。
「ミサ(missa)」という言葉の起源は、「ミッシオ(missio)・派遣する」という言葉から、派生した言葉であると言われています。
イエス・キリストの受難と復活の記念である、お祈り、礼拝に参加した人は、最後に司祭から、「派遣の祝福」を受けます。
「派遣の祝福」は、どなたでも受けることができるものでありますが、「この世の中に、また帰って行って、この世の中をより良いものにするために働きます。そのために、どうぞ、力をください。どうか、頑張ってください。」というような意味を込めて、司祭の祝福が行われるのであります。

カトリック教会では、毎年、1月1日、元旦が、聖母マリアに献げられた日であるとともに、世界平和を祈る日になっております。
既に、来年の1月1日のための、教皇フランシスコのメッセージが届けられております。そのメッセージの内容をひと言で言いますと、「非暴力によって、世界の平和を建設しましょう。暴力によらないで、非暴力によって、平和を建設しましょう。すべての人に、非暴力で平和を建設しましょう」と呼びかけているのであります。
今日、ミサに来てくださったみなさま、心を合わせて、暴力を使わない、平和の実現のために、ご一緒に力を合わせていただけるように、お願いいたします。

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ9・1-3,5-6
第二朗読 テトス2・11-14
福音朗読 ルカ・1-14

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」

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待降節第4主日・アレルヤ会のクリスマス会ミサ説教


2016年12月18日、本郷教会

[聖書朗読箇所]

説教

待降節第4主日の福音の、今日の福音の主人公はヨセフではないでしょうか。聖ヨセフに対する崇敬は近年とみに高まりました。前教皇ベネディクト16世は辞任する前に、聖ヨセフの名をミサ奉献文に挿入するよう命じる教令を公布しました。
ヨセフは誠に寡黙な人で、福音書を通してヨセフの言葉は記されておりません。実に不言実行の人でありました。
今日の福音によりますと、許嫁のマリアが同居する前に妊娠していることをヨセフは知りました。ヨセフには身に覚えがありません。さだめしヨセフは思い悩んだことでしょう。それは聖霊による結果でしたがヨセフはそれを知る由もなかったと思います。
ヨセフは「正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(マタイ1・19)と今日の福音は述べています。離縁すればマリアの姦通の罪は見逃されるのでしょうか。父がわからない子を宿したおとめには厳しい刑罰である石殺しの刑が待っていたはずです。
いずれにせよ、マリアの運命は風前の灯の状態にありました。ヨセフの苦悩は深かったはずです。
そのヨセフがマリアの妊娠は聖霊によるのだということを、夢に現れた天使の告げによって知らされたのでした。

実にヨセフは夢によるお告げを受け、それを信じて、すぐに実行に移す人でした。
イエスの誕生の後、占星術の学者たちが贈り物をささげて帰っていった後、主の天使が夢に現れて、「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい」とヨセフに告げると、ヨセフは起きて、その命令をすぐに実行し、夜のうちに子供と母親を連れてエジプトへ避難します。(マタイ2・13-14参照)
エジプトに頼りになる親戚がいたのでしょうか。それは危険な夜の旅でした。エジプトでどのように暮らしたのでしょうか。エジプトから帰国する時も、ヨセフは「起きて、子供とその母親を連れイスラエルの地に行きなさい」という命令を受けてすぐに実行しました。(マタイ2・19-21参照)
さらに、夢のお告げを受けて、ガリラヤのナザレに居を定めたのでした。(マタイ2・23参照)
ヨセフは人生における重要な決定を実に夢にあらわれた天使の告げによって行った人でした。
ナザレでの生活では、12歳の少年イエスが神殿で発見された事件のときに登場していますが、その後のヨセフのことについては、聖書は何も述べておりません。イエスが成人した後亡くなったのではないかと思われます。ヨセフは自分の役割を終えると静かに人生の舞台から退場したのでしょう。

ヨセフはイエスとマリアの保護者であり養育者でありました。ヨセフの存在なくしてマリアとイエスの、地上での生涯は成り立たなかったのです。
現代の人々に求められるのはヨセフのような人ではないでしょうか。ヨセフは日々の地味な生活の中で神のみ心を求め誠実に自分の務めを果たす人でした。ヨセフが現代社会に生きていたらどのような生き方をしたでしょうか。
夢を通して示され神のみ心に従順に生きた一人の男がいた、その名はヨセフ。ヨセフの生涯を感慨深く思わされる日、それが今日の待降節第4主日です。

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ書 7:10-14
第二朗読 ローマの信徒への手紙 1:1-7
福音朗読 マタイによる福音書 1:18-24

(福音本文)

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。
「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ(た。)

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