ジョゼ・サライヴァ枢機卿(Cardinal Josė Saraiva Martins) ペトロ岐部と187殉教者の列福に対するメッセージ

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2008年11月24日 長崎県営野球場(ビッグN)で

 

ジョゼ・サライヴァ枢機卿

1.愛すべき日本の地の皆様、ペトロ・カスイ岐部と187人の殉教者の列福式を主宰する名誉をいただいたこのミサ聖祭の終わりに、参列しておられる皆様と、また教会の存在意義を深く感じるこの瞬間を遠くで分かち合っておられる皆様と、喜びを共にしたいと思います。ベネディクト十六世教皇聖下が、代理として赴くことを委ねたこの意義深い出来事を、私は幸せに思い、皆様に教皇聖下からの使徒としての、また父としての祝福をお届けします。

2.ヨハネ・パウロ2世教皇聖下は1981年2月26日、ここ長崎において、次のように語りました。「きょう、私はこの長崎の殉教者の丘、多くのキリスト信者が生命をいけにえとしてささげ、キリストに対する忠実のあかしをたてたこの丘を訪れる、数多くの巡礼者の一人になりたいと望んでいます。1597年2月5日、西坂で26人の聖殉教者が十字架のもつ大きな力の証しとなりました。実際、彼らは多くの殉教者の初穂となったのであり、彼らの後に続いた数多くの殉教者は、自分たちの苦しみと死によってこの土地を更に聖なる土地としたのでした。きょう、私は26聖殉教者とそのあとに続いた多くの殉教者に感謝をささげるためここに参りました。」

本日の列福式をもって、教皇聖下の預言者的なこのことばは、ほぼ実現を見たということができます。4世紀を経て、188人もの偉大な信者に光が当てられました。その人びとはすべて、キリストへの信仰を、いのちをかけてあかしする賜物を受けたのです。「命の書」(フィリピの信徒への手紙 4章3節)にひそかに記されていたその名前は、今日、福者の列に加えられました。

3.年齢と環境が異なり、場所と時間が違っても、多くの殉教者が示している忠実さは、いのちをかけて信仰をあかしすることが、人間が持つ自由の最高の表現、最大の愛の行いであり、それは教会の教えが生きていることのしるしです。聖アウグスティヌスは「迫害や拷問が殉教を生むのではなく、キリストこそが、あかしの理由であり動機なのである」(詩編注解34、2、13;68,19;説教275、1;手紙204、4;185,9)と書き残しています。

ベネディクト16世教皇聖下は「キリスト教における、神と人々への、迫害する者たちも含めた人びとに向かう愛以外の何物でもないという、この殉教者の大きな特徴を、常に明らかにする必要がある」と語ります。(2007年12月26日 お告げの祈り)

未来に向かって不安を感じている私たちの世界において、「その衣を小羊の血で洗って白くした」(ヨハネの黙示録 7章14節)人びとの模範は、信頼に足る出発点であり、信仰の公のあかしです。それは私たちが理想としていることを証言し、神の子となった人びとの間の、親しい交わりを深めるものだからです。

4.主イエスの「これを私の記念として行いなさい」ということばによって毎日新たにされている教会は、同時に、「行って人びとに福音を伝えなさい」というキリストを宣教する教会でもあり、それはまた、血が流されてできる殉教の教会でもあります。それゆえ、私たちの本日の集いは、信仰と教会の交わりを味わう喜ばしい体験のひとときです。それは、たくさんの男性と女性の信仰、若者と子供の、独身者と家族の、その多くが信徒であった、キリストへの信仰を血を流してでも言い表そうとした人びとの信仰によって築かれた教会です。こうした理由から、回勅『真理の輝き』は「殉教は教会の聖性のきわだったしるし」であり、それは信仰の「荘厳な宣言であり、宣教者としての自己表明」(93項参照)であることを強調したのです。

殉教者の一団によってこのように養われ、教会の祭壇で栄誉を称えられた、日本における神の民の優れた証言は、それゆえ、長い期間にわたって働き続ける原動力であり、日本の教会共同体のこれからと、日本全体の未来のための希望の泉となるものです。

5.ペトロ岐部と187人の殉教者の列福の式典に当たり、殉教者の女王である聖母マリアが、その取次ぎに信頼し、愛をもって、いつの日にも、福音のために生涯を捧げ、死んで復活したキリストを証する恵みを願う人びとを、すべて守ってくださいますように。