お知らせ

    教会学校リーダーの皆さんへ「東京教区こどものミサのお知らせ」

    2015年09月02日

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    2015.8.15
    東京教区教会学校委員会

    2015年度東京教区「こどものミサ」

    【日  時】  2015年10月11日(日) 午後2時半~5時
    【場  所】  東京カテドラル関口教会「聖マリア大聖堂」&前庭 
    【テーマ】  「だれがいちばん偉いのか」(マルコ9・34)
                        -すべての人に仕える者になりなさい-

    komisa2015a今年も東京教区主催の「こどものミサ」が、10月11日(日)午後2時半から、東京カテドラルにて、岡田大司教様の主司式でおこなわれます。「こどものミサ」では、毎年参加される小教区ごとに、テーマに基づいた奉納物を準備していただき、当日のミサで奉納するという形をとっています。
    そこで、今年のテーマについて、テーマに関するカテケージス(教え)、奉納物など、教会学校リーダーの皆さんに、当日までに子どもたちと共に準備していただきたい事についてお知らせします。

     

    お知らせの内容

    1.テーマについて
    テーマとなっている聖書の箇所についての説明です。子どもたちとより豊かな準備が出来る様に、 リーダーの皆さんもテーマとなっている聖書の箇所を深く味わってみてください。

    2.当日までに行なっていただきたいカテケージス(教え)
    「1.テーマについて」および「2.当日までに行なっていただきたいカテケージス(教え)」を参考にしながら、当日までに子どもたちにカテケージス(教え)を行ってください。

    3.当日持参していただきたいもの(奉納物の製作)の説明
    製作していただく奉納物についての説明と注意点、製作時のヒントなどをまとめました。製作した奉納物は、こどものミサ当日に持参してください。 ミサ中に奉納して頂きます。

    4.ミサで歌う曲・申し込みハガキの控え

     

    1.テーマについて

    「だれがいちばん偉いのか」(マルコ9・34)
    -すべての人に仕える者になりなさい-

    今年のテーマとなっている聖書の言葉は、マルコによる福音書の9章から取られたものですが、登場人物の「誰かが言った言葉」ではありません。「弟子たちのした行動」を説明する表現の中にその言葉があり、そこから選びました。
    ある時のこと、イエスさまの一行が家に着いた時、イエスさまは弟子たちに「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになりました。その時、弟子たちは黙っていました。途中で「だれがいちばん偉いか」と議論し合っていたからでした。
    そこで今年のテーマは、弟子たちの一番の関心事であった「だれがいちばん偉いのか」としました。弟子たちの考える「偉さ」と、イエスさまのお教えになる「偉さ」は違っていました。弟子たちは「いちばん先」になることを「偉い」(原意は「大きい」)と考えましたが、イエスさまは「いちばん後になること」そして、「仕える者になること」を「偉い(大きい)」と教えられました。
    イエスさまこそまさに仕える者。だから弟子たちにも「仕える者になりなさい」と言われたのです。そして、「仕える者になること」こそ、「イエスさまに従うということ」なのでした。
    しかしながら、わたしたちはすぐに弟子たちと同じように、「自分がいちばん先になりたい」という「勘違い」と「的外れ」に陥ってしまいます。それで、ご一緒に今年のこどものミサの中で、イエスさまの「仕える者になりなさい」という福音をしっかりと受取らせていただきたいと思います。
    まず、マルコ9章33~37節を一度お読みいただきたいと思います。

    その時、イエスさまと弟子たちの一行はカファルナウムに来ました。家に着いてから、イエスさまは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになりました。
    彼らは黙っていました。
    途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからです。
    イエスさまが座り、十二人を呼び寄せて言われました。

    「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われました。

    「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

    (マルコ9章33~37節参照)

    この箇所は「いちばん偉い者」という小見出しがついているところで、小見出しの通り、弟子たちは、だれがいちばん偉い者であるかを、議論し合います。しかしイエスさまは、彼らの議論が全くの的外れであることをわからせるために、十二人を呼び寄せて教えられました。

    今回の「こどものミサ」では、テーマとして「だれがいちばん偉いのか」という言葉を選び、また、サブテーマとして、イエスさまが言われた言葉をもとに-すべての人に仕える者になりなさい-という言葉をもうけました。本当はサブテーマの内容の方が、テーマに相応しいのですが、すぐに「だれがいちばん偉いのか」と考えてしまうわたしたちの現実により身近な、弟子たちの思いを表した言葉を、テーマの文言として取り上げました。

    教皇フランシスコは、今年(2014年11月30日~2016年2月2日)を、「奉献生活の年」と定められました。これは「仕えて生きる」ことを呼びかけるものです。この呼びかけは、まず修道者を初めとする、すべての奉献生活者に向けて呼びかけられています。しかし、同時にすべてのキリスト信者に向けて呼びかけられているものです。そのメッセージの中心は、「感謝をもって過去を見る」こと、「熱意をもって現在を生きる」こと、そして「希望をもって未来に向かう」ことです。

    わたしたち一人ひとりが「仕える者となる」ことの真の意味を認め、深めていくことができますように、今年のテーマに沿ってご一緒に学んでいきたいと思います。
    ここでは福音書の言葉に解説を加えながら、テーマについて説明していきたいと思います。

    「その時、イエスと弟子たちの一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに『途中で何を議論していたのか』とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。」

    「その時」・・・がどんな時であるのかを、まず確認しておきましょう。

    今日読んでいる箇所は9章33節からですが、この時点で弟子たちは、既に2度、イエスさまから「死と復活の予告」を受けています。弟子たちへの「死と復活の予告」は極めて重要な出来事ですので、そのことを少し丁寧に確認しておきましょう。

    8章29節で、イエスさまは弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われました。弟子を代表してペトロが「あなたは、メシア(救い主)です」と答えました。イエスさまは「このことを誰にも話してはならない」と戒められた後、弟子たちに教え始められました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と教え始められました。しかも、そのことをはっきりとお話しになりました。このことが初めての「死と復活の予告」です。

    するとペトロはイエスさまをわきへお連れして、諫め(いさめ)はじめました。おそらく(イエスさま、そんなことがあってはなりません!)というような言葉でイエスさまをお諫めしたのでしょう。しかしそれに対してイエスさまは「サタン、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」とお叱りになられます。

    そして弟子たちを呼び寄せて言われました。

    「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者はそれを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」

    ・・・そう教えられたのです。イエスさまの思いと弟子たちの思いがかけ離れていたからです。

    その後、更にもう一度、イエスさまは弟子たちに「死と復活の予告」をなさいます。イエスさまは

    「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」

    と言われました。これは二度目の「死と復活の予告」でした。弟子たちはこの言葉が分かりませんでしたが、怖くて尋ねられませんでした。

    このような出来事の後に、今日の福音の「その時」があります。

     

    そんな時、一行がカファルナウムに来て、家(ペトロの家:一行はそこを拠点にして活動していたと考えられています)に着いてから、イエスさまは弟子たちに「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになったのです。弟子たちがきまり悪そうに黙っていたのは、自分たちが議論していたことが、イエスさまがお喜びになることではない・・・と、直観的に気付いていたからではないでしょうか。イエスさまは「自分を捨てること」を教えられたのに、自分たちは「だれがいちばん偉いのか」を議論していたからです。

    ここで「偉い」と訳されている箇所に使われている元々の単語は、ギリシャ語の「メガス」で、「大きい」という意味です。つまり弟子たちは、自分たちの中で、「だれがいちばん大きいか」・・・、だれがいちばん「ビッグ」であるかを議論していたという訳です。

    おそらくイエスさまは、彼らが「だれがいちばん大きいか」を議論していたことを知っておられたと思います。ご存じの上で、イエスさまが弟子たちにお尋ねになったのは、彼らに「本当に大きい者とはだれか」をお教えになろうとしたからだと思います。

    「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。』」

    問われても黙っていた弟子たちに、イエスさまは働きかけられました。「座る」とは、イエスさまの時代には、「先生が弟子たちにものを教える時の姿勢」です。イエスさまは弟子たちを呼び寄せ、しっかりとお教えになられたのです。

    「いちばん先」はギリシャ語の「プロトス」。これは、第一の(時間・場所)、最高の、最重要の(地位)、という意味です。一方、すべての人の「後」はギリシャ語の「エスカトス」。これは、最後の(場所)、最も価値の低い(等級・序列)、最も遅い、最終の(時)という意味です。

    イエスさまは、「自分が一番先でなければがまんできない弟子たち」に対して、「すべての人の後になるように」と言われました。そしてイエスさまはその言葉の意味を、更に具体的に「すべての人に仕える者になりなさい」という、行動目標を通してお教えになったのです。

    ここに、弟子たち(人間)の眼差しと、イエスさま(神さま)の眼差しの違いが、明確に現れています。普通の人間の考える「大きさ」とは、どれだけ多くの人に「仕えてもらうか」です。たくさんの人に「仕えられている者」がVIPであり、「ビッグな者」です。しかしイエスさまの言われる「大きさ」とは、どれだけ多くの人に「仕えるか」です。イエスさまは、たくさんの人に「仕える者」を「大きい」と言われるのです。

    なぜなら、最大のお方である父である神さまは、「仕える方」だからです。神さまはすべてのものを創り、すべてのものにご自分のいのちを注ぎ、すべてのものを永遠のいのちで生かすという仕方で、すべてのものに「仕えておられるお方」です。父である神さまこそが、最も大きいお方。このようにイエスさまは「仕える者」を「大きい」と言われるのです。
    更にイエスさまは「仕える」ということの本当の意味を教えるために、続けられました。

    「そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。『わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。』」 

    現代の日本においては、「大人も子どもも、等しく大切な人間として尊重されなくてはならない」という考えが一般的な社会通念となっています。ですから「子どもを受け入れる」ことは特別なことではありません。しかし、イエスさまの時代はそうではありませんでした。

    古代社会においては、子どもは「価値のない」、「取るに足らない」者と考えられていました。それは、独り立ちできず、お金を稼ぐこともできず、他の人から助けられなければ生きられないので、「まだ人間になりきっていない者」と考えられたということです。

    イエスさまは、そのように考えられていた一人の子どもの手を取って、弟子たちの真ん中に立たせ、抱き上げて言われました。つまり弟子たちの目の前で、「取るに足りないと思われていた者」「いちばん後ろと思われていた者」をいちばん高く挙げたのです。そうすることによって、イエスさまの眼差しが、何に向かっているのかを、弟子たちにはっきりと示されたのです。

    イエスさまは、一人の子どもを、ご自分と同じものと見ておられます。つまり、この子の内に神のいのちがあり、この子が神さまに愛された子、「神の子」であることを見ておられたのです。それこそがイエスさまの眼差しでした。そのように人を御覧になるのが「イエスさまというお方」であり、それが「イエスさまの人格」であり、そしてそれが「イエスさまの名」なのです。

    その「イエスさまの名において」、人を神の子として受け入れるなら、イエスさまを受け入れるのだと、おっしゃられるのです。

    そしてまた、イエスさまを受け入れる人は、イエスさまを受け入れるのでなくて、イエスさまをお遣わしになった、父である神さまを受け入れるのだと、おっしゃるのです。

    イエスさまを受け入れるとは、イエスさまの眼差しに入ること。「イエスさまの名」という真実の中に入って、イエスさまと一緒の向きで生きることだと思います。その時、天の父である神さまの真実の中に入り、天の父である神さまと一緒の向きで生きるいのちとなるのだと思います。

    その時わたしたちは、人の中に神のいのちがあることを見る者となり、人を神の子として受け入れる者になります。それはすなわち、「人を愛する者になる」ということだと思います。そして、それこそが、「仕える者となる」ということの、具体的な意味なのだと思います。

    すべての人を神の子として受け入れた「イエスさまの名において」、人を神の子として受け入れ、「人を愛する者となる」こと。イエスさまと一緒に生きる者となり、父である神さまと一緒に生きる者となり「人を愛する者となる」こと。これが「すべての人に仕える者となる」ということの、究極的な意味なのだと思います。

    まとめてみます。

    「だれが一番偉いのか」・・・「いちばん先になりたい」。・・・これは、わたしたちもすぐ陥る的外れです。しかし、イエスさまは「すべての人の後になりなさい」「すべての人に仕える者になりなさい」と言われました。「仕える」とは、人を「神の子」として受け入れること、その人の中に、神さまが共におられる「神の子の真実」を認めることです。それはすなわち「人を愛すること」です。

    イエスさまは、すべての人の中にその真実を見出してくださいました。イエスさまはまさに「仕える方」でありました。すべての人を「愛する方」でありました。そしてわたしたちは、イエスさまに倣うように命じられているのです。

    そして最後に、付け足しになりますが、今日の福音の少し後の箇所でイエスさまが、

    「人の子は仕えられるためではなく仕えるために来た」(マルコ10・45)

    と言われたことを覚えておきたいと思います。これは言い換えれば、イエスさまというお方は「人から、『あなたは神の子だ』と言われるために来た」のではなく、「人に『あなたは神の子だ』と言うために来た」方だ、ということです。「人から愛されるために」ではなく、「人を愛するために」来た方だということです。

    「だれがいちばん偉いのか」・・・、わたしたちはすぐ、「人から『あなたは神の子だ』と言われたい」あるいは「人から『あなたは神の子だ』と思われたい」、「人に仕えられたい」「人から愛されたい」と思ってしまうかもしれません。しかし、それは的外れです。

    イエスさまはすべての人間に、「あなたは神さまの子だ」「神さまに愛された人だ」と、告げるために来られました。そして十字架に挙げられ、死と復活を通して、人間の中には、死を超えて生きる神のいのちがあること、人間が神に愛されていること、を証ししてくださいました。

    イエスさまは、ご自分のいのちを捧げて、すべての人間に仕えてくださったお方、愛してくださったお方です。そのお方にならって、わたしたちも「仕える者になるように」呼びかけを受けています。

     

    2.当日までに行なっていただきたいカテケージス(教え)

    今年のテーマ「だれがいちばん偉いのか」(マルコ9・34)を受けて、当日のミサの福音の箇所はマルコ9・33~37としました。事前に福音の内容に親しんでおいていただくために、リーダーの皆さんに子どもたちといっしょにやっていただきたいことがあります。簡単に以下のようにまとめてみました。

    1.当日の福音 マルコ9・33~37を子どもたちに読んで聞かせる。
    イエスさまが弟子たちに「途中で何を議論していたのか」と言われる箇所です。リーダーのみなさんが、一度子どもたちの前で声を出して、読んで聞かせてほしいと思います。
     
    2.言葉の説明をする。(必要に応じて、内容を調整なさってください)

    「家に着いてから」

    • →「家」は、カファルナウムにあった「ペトロとアンデレの家」のこと。イエスさまと弟子たちは、そこを住まいとして活動しておられたと考えられています。

    「途中で何を議論していたのか」

    • →弟子たちは「だれがいちばん偉いのか」と議論していました。おそらくイエスさまは、弟子たちが「だれがいちばん偉いのか」と議論していたことを知っておられました。それなのにお尋ねになったのは、弟子たちに「本当に偉いとは何か」を考えさせたかったからだと思います。
    • この出来事が起こる前に、イエスさまは弟子たちに、「皆の救いのためにご自分が十字架にかけられる」と話していました。それなのに弟子たちは、「だれがいちばん偉いのか」と議論していました。「偉い」という言葉の元々の意味は「大きい」です。弟子たちは、だれが一番「ビッグ」であるかを議論していたということです。

    「弟子たちは黙っていた」

    • →イエスさまに聞かれても、弟子たちは「だれが一番偉いのか」と議論していたとは、言いませんでした。黙っていました。

    「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。』」

    • →「座る」とは、先生が弟子に教える時の姿勢です。イエスさまは「自分がいちばん先頭でなければ我慢できない」弟子たちに、わたしに付いて来たいなら、「いちばん最後になりなさい」「すべての人に仕える人になりなさい」と教えられたのです。

    「そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。」

    • →イエスさまは、一人の子どもを、弟子たちの真ん中で抱き上げました。いちばん高く上げたのです。当時子どもは、「人間になりきっていない者」「価値のない者」と考えられていました。いちばん後の者を、いちばん高く上げたのです。

    「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

    • →イエスさまが子どもを抱き上げて受け入れたように、子どもを受け入れる人は、イエスさまを受け入れるのだと、イエスさまはおっしゃっています。
      そして、イエスさまを受け入れる人は、父である神さまを受け入れるのだと、イエスさまはおっしゃいます。

    3.こどもたちに質問する。
    イエスさまは弟子たちに、「途中で何を議論して(話し合って)いたのか」と尋ねられました。それなのに、弟子たちは黙っていました。

    「どうして、弟子たちは黙っていたのだろうか」(補助質問)

    • →だれが一番偉いかと言い合っていて、恥ずかしかったから。 →イエスさまに叱られるかもしれないと思ったから。 →わからない。

    こどもたちはすぐ、上のような答えをするかもしれませんし、全くわからない・・かもしれません。
    いつものことですが、無理に答えを出そうとしなくてよいと思います。
    まず、どんな意見も「そうかもしれないね」と、答えてくれたことを大切していただいたらいいと思います。

    おそらく、意見の中心は、
    「自分たちがしていたことが、イエスさまからは褒められない、喜ばれないことだと、薄々感じていたから」といったところではないかと思います。

    一度リーダーの皆さんが、
    「(弟子たちが黙っていたのは)、自分たちがしていたことが、なんとなくイエスさまに喜ばれない、もしかしたら叱られるかもしれないと思ったから・・・、かもしれないね」
    と、まとめていただければと思います。

    そして、更に問いかけていただきたいと思います。(これが主質問です)

    (弟子たちは、『だれがいちばん偉いのか』と議論していて、黙っていたけれど)

    「もし、イエスさまに『だれがいちばん偉いのですか』と尋ねたら、イエスさまは何とおっしゃるだろうか?」(主質問)

    • →人を助ける人
    • →仕える人
    • →子ども? 
    • →神さま 

    この問いについても、こどもたちはすぐ、上のような答えをするかもしれませんし、全くわからない・・・かもしれません。
    ここでも、無理に答えを出そうとしなくてよいと思います。
    まず、どんな意見も「そうかもしれないね」と、答えてくれたことを大切していただいたらいいと思います。

    4.リーダーが子どもたちに、教える・伝える・一緒に考える
    最後に、子どもたちに次のようなことを話していただければ幸いです。
    「弟子たちは『だれがいちばん偉いのか』と議論していました。きっと「いちばん力がある人」、「いちばん正しい人」、「いちばん頭がいい人」・・・、そんな人を『偉い』と思ったのだと思います。」

    「でも、イエスさまと弟子たちでは『偉い』ということについて、考えが違っていました。
    弟子たちは、『たくさんの人から、仕えてもらう人』を偉いと考えました。

    でも、イエスさまは『たくさんの人に、仕える人』を『偉い』つまり『大きい』と考えておられるのです。」
    「いちばん偉いのは、『仕える人』、イエスさまはそう言われるのだとおもいます」

    「イエスさまも『人に仕える人』でした。人から罪人と呼ばれていた人のことを、神さまに愛された『神の子』であると言って助けました。人から罪人と呼ばれていた人のことを愛しました。そして、それが原因で十字架にかけられました。」
    「仕える」とは「愛すること」と言ってもいいのではないかな?

    「みなさんの回りの、『人に仕える人』は、どんな人がいるかな?」
    「また、みなさんができる『人に仕えること』が、なにかあるかな?」(発展課題)

    *「仕える」ということは、子どもたちには難しい概念だと思いますが、「仕えて、相手を本当に大切にする人」、「人を愛する人」が、いちばん大きい人です。自分の身の回りの「仕える人」を、子どもたちと一緒に探してみていただきたいと思います。お父さん、お母さん、先生・・・。また自分たちができる「仕えること」が何かも、考えてみていただきたいと思います。

    5.イエスさま(神さま)に手紙を書く
    今日の福音を受けて、子どもたちに手紙に書かせていただきたいと思います。 

    ◆「イエスさまに(神さまに)、お手紙を書こう」

    子どもたちに伝えやすいように「仕えること」は「人を大切にすること」「人を愛すること」とシンプルにとらえました。

    • イエスさまに(神さまに)お手紙を書いてみましょう。
      自分が出来る「人を大切にすること」、自分が出来る「人を愛すること」を、イエスさま(神さま)に書いてみましょう。どんなことがあるかな?
    • それ以外の内容でも、イエスさま(神さま)に聞きたいこと、話したいことがあったら、自由に書いてください。  
    • イエスさま(神さま)は、皆さんが真剣に書いたことには、真剣に答えてくださいます。だから、真剣に、誰にも内緒で、書いてみましょう。
    • 名前は書かなくていいです。

     

    *この手紙が、奉納物「ハートの木」(後で詳述します)の一部になっていきます。ハート形の紙など、奉納物の作り方に応じて、手紙を書かせる紙(その他)の形状を工夫なさってください。

    *できればリーダーも一緒に書いていただくと、子どもたちもより一生懸命に取り組めると思います。

     

    3.当日持参していただきたいもの(奉納物の製作)の説明

    今回の奉納は、小教区(聖堂共同体)ごとに、「ハートの木」(後で詳述します)を奉納していただきます。一人の子どもが運べるような物にお作りください。(当日持って来てください)

    製作していただく奉納物については、当日のスムーズな進行のため、ある程度の制約をこちらで決めさせていただきました。ご協力のほどよろしくお願いします。

    「ハートの木」
    今回は、「だれがいちばん偉いのか」と議論していた弟子たちに対して、「仕える者になりなさい」と言われた」イエスさまへの答えを、形に表したいと考えました。
    こどもたちにも伝えやすいように、「仕えること」は、「人を大切にすること」、「人を愛すること」とシンプルにとらえました。
    自分たちの出来る「仕えること」をハートの形の中に書き、皆の分を集めて「ハートの木」を作り、奉納していただきたいと思います。
    以下の要領で、各小教区で「ハートの木」をお作りください。

    komisa2015_h◇ 個数:小教区毎に1個
    ◇ 機能:「ハートの木」は、カテドラルの祭壇の前の階段に置きます。倒れてしまうと、見えなくなってしまうので、自立するもの、にしてください。
    ◇ 大きさ:高さは、30センチはあるものにしてください。(その程度の大きさがないと、皆から見えないため)「ハートの木」の台座の幅は、38センチ以下(祭壇の前の階段に置くため:38センチは階段の踏み台の幅です)でお作りください。  (ただし子ども一人で持って奉納できる大きさ・重さ以下(厳守))
    ◇ 材質:可燃物でお願いします。

    特に、当日持ち帰りを希望されない教会の奉納物は、教会学校委員会で適切に後処理を行いますので、金属、粘土などではないもので作って頂きますようお願いします。

    作り方について

    ・特にありませんが、前述したように、全体の高さが、30センチはあるものにお作りください。
    ・こどもたちがしようと考えた「仕えること」を「ハートの形のもの」に書いて、一つの木にまとめていただきます。
    ・自立する形にお作りください。
    ・手紙の内容については、「2.ミサまでに行なっていただきたいカテケージス(教え)」を参照してください)

    奉納物(ハートの木)の奉納
    ◇「奉納物(ハートの木)」はミサの中で奉納します。
    ・ 各教会1名の代表者(厳守)が、中央通路を通り、祭壇まで進みます。そして司教様に手渡します。その後、係が奉納物を並べていきます。(※例年奉納の行列が長くなってしまうので、代表者は必ず1名でお願いします。)
    ・ 「奉納物」を持ち帰りたい教会は、ミサ当日に会場の受付で申し出て下さい。

     

    4.ミサで歌う曲・申し込みハガキの控え

    入祭   「愛されている子供らしく」
    アレルヤ  「神の国と神の義を」
    奉納   「私をお使いください」、「マリアの賛歌」
    感謝   「感謝の賛歌」上村さん 
    平和   「キリストの平和」
    拝領   「主は水辺に立った」、「主の恵みの水」、「あなたに愛されて」
    閉祭   「アーメンハレルヤ」

    ——————-(申込みハガキ内容)——————————–
    1.「こどものミサ」参加の有無
    10月11日(日)の「こどものミサ」への参加の有無をお知らせください。
    教会名 教会
    参加する  参加しない      (○をつけてください)
    *おおよそ      人 (リーダー    人、子ども    人)
    *代表者名 
    *連絡先 Tel:          e-mail:

    2.子ども侍者団・参加の有無
    前項で「参加する」に○をつけた教会の方へ。ミサの中で子ども侍者団を形成する予定ですが、同侍者団への参加の有無をお知らせください。

    参加する  参加しない (○をつけてください)
     *各教会から1~2名でお願いします。
     *自教会で使用している侍者服を着用ください。
     *当日は午後2時00分迄に集合ください。

    3.リーダー準備会への出席の可否
    9月27日(日)夕方こどものミサに参加する教会のリーダーのための準備会があります。当日についての説明と、当日の朗読、共同祈願などの担当を決めます。
     出席する  出席しない 
     *各教会から代表で1名ご参加ください。出席者名(           )

    日時:9月27日(日)午後4時~6時
    場所:東京カテドラル・関口会館2階 教区スペース。

    *準備会に出られなくても、当日の係(会場設営,案内,etc)のお手伝いをして下さる方はご連絡ください。Keizo.ina@nifty.com 稲川圭三神父 迄
    お手数ですが 9/14 (月)までにご返送下さい。
    ———————————————————————

    以上、説明が大変長くなりましたが、

    よろしくお願いいたします。ご質問等ございましたら、下記のお問い合わせ先までご連絡ください。

     

    問い合わせ先:

    東京教区 教会学校委員会 担当司祭
    稲川圭三神父(カトリック麻布教会 主任司祭)

    電話: 03-3408-1500
    fax:   03-3408-2575
    e-mail: keizo.ina@nifty.com