タルチシオ 菊地功大司教着座式朗読個所・説教

2017年12月16日、東京カテドラル聖マリア大聖堂

[聖書朗読箇所]

 

説教

ヨハネの福音の冒頭の部分が読み上げられました。

「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は光ではなく、光について証しするために来た。」(ヨハネ1・6-7)

洗礼者ヨハネ自身は、光ではなく、光を証しする人でした。いまのわたしたち日本の教会の使命も。この洗礼者ヨハネの使命を遂行することではないか、と思います。わたしたち自身は光ではありません。光を受けて光をあかしすべきものなのです。

今あらためてこれからの日本の教会の宣教mission・福音化evangelizationの使命に思いを馳せます。

1549年、聖フランシスコ・ザビエルが日本に福音を伝えてから今年で468年が経過しました。多くの立派な優れた福音宣教者が日本の宣教mission・福音化evangelizationのために献身してきました。

しかしながら今の日本の状況はまだまだ遠い道のりを歩んで行かなければならないと感じています。まだ旧約聖書から新訳聖書に移行する期間に留まっているように感じます。まさに今こそ、丁寧に、誠実に、洗礼者ヨハネの役割を果たしながら、喜びの福音であるイエスの姿を現し伝えていかなければならないのではないでしょうか。

1987年、日本のカトリック教会は、第一回福音宣教推進全国会議(The National Incentive Convention for Evangelization)いわゆる「NICE-1」を開催し、「開かれた教会づくり」を目標に掲げました。

誰に対して開かれなければならないのか、と言えば、それは、貧しい人々、弱い立場の人人々へ開かれていなければならない、ということです。

主イエスは罪人とされて、蔑まれている人々、病気・障害に苦しむ人々、差別されている人々の友となりその仲間となりました。わたしたちは主イエスにならい、自分の弱さ、罪深さを知る者に優しい教会でありたいと願います。心身の病気、不自由に苦しみ悩む人々のよりどころ、安らぎとなる共同体でありたいと願います。行き暮れ迷い、生きがいを失っている人々の友となり励ましとなりたいと願います。

多くの人が孤独であり生きる意味を見失っています。誰でもその人として大切にされ尊敬される交わりを築き広げていきたいと願っています。

教会は敷居が高い、行きづらい、入りにくい、行ってみたがだれも相手にしてくれなかった、などの声を聞くのは辛いことです。どなたもどうか来てください、歓迎します、という様子と態度が見える、そういう教会共同体になりたいものです。

実にいろいろな人が救いを求めています。それは具体的な統計、自殺者の統計に現れています。ここにわたしたちが心して受け取るべき日本の社会の事実があります。それは若い人の死因に付いてです。なんとその第一位が自死(自殺)であるということです。15歳から39歳の世代の死因の第一は自殺という統計があるのです。

これは非常に残念で悲しい報告です。わたしたち宗教者はこの問題にどう答えたらよいでしょうか。この事実を改善するために日本のカトリック教会は全力を尽くし、そのために祈りをささげなければなりません。

さてわたしたち教会の使命は、キリストの光を受けたキリストを指し示すしるし、また聖霊を受けたキリストの体となる、ということです。キリストの体にはいろいろな部分がありいろいろは働きがあります。すべてはキリストおいて一つの働きにまとめられるのです。今日の聖書朗読で使徒パウロは驚くべき言葉をわたしたちに残しました。

12:10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。(ローマ12・10)

わたしたちの間でこのパウロのことばはどのように実行されているでしょか。お互いに仲間の欠点を指摘し、貶しあっている、ということはないでしょうか。もっと互いに相手の長所・美点を評価し合い、その人の役割と使命を認め、互いに尊敬し合うようにしたいものです。

実際、この言葉の実行は容易ではありません。既に新約聖書のコリントの信徒の手紙一が告げているように、コリントの教会の中に、分裂と対立がありました。(一コリント1・10-17)

また福音書が告げているように12人の弟子たちすら、自分たちの中で誰が一番偉いのか、ということが彼らの大きな関心事でした。(マルコ9・33-37、マタイ13・1-5、ルカ9・45-48参照)

他方、教会の外の人が、初代教会の信者たちを見て「なんと彼らは互いに愛し合っていることか」と感嘆の声を上げていた、とも伝えられているのです。まさにこれは次の使徒ヨハネの言葉が実行されていたことをも想起させます。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13・34-359

教会はキリスト信者の愛の証しによって成長し発展してきました。

いわば現代の荒れのような現代の日本の社会の中で、生きづらさに苦しむ人々の目に、わたしたちが互いに助け合い愛し合い赦しあって仲良く生きている様子が伝わるならば、これにまさる宣教・福音化はない、とも言えるでしょう。

慈しみ主イエスよ、聖霊の注ぎを通して、あなたにならって神の慈しみを日々実行する恵みを、どうかここに集うわたしたちにお与えください。アーメン。

第一朗読 ローマ12・2―10

(12:1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。)

12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

12:3 わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。

12:4 というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、

12:5 わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。

12:6 わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、

12:7 奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、

12:8 勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。

12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、

12:10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。

 

 

福音朗読 ヨハネ1・1-181:1

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

1:2 この言は、初めに神と共にあった。

1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。

1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。

1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。

1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。

1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。

1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。

1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

1:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」

1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。

1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。

1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

 

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岡田武夫大司教送別ミサ

2017年12月10日、待降節第二主日、関口教会

[聖書朗読箇所]

説教

待降節第2主日を迎え、今日の聖書朗読、福音朗読を共に味わいながら、わたくしが、東京大司教として、このカテドラルで主司式する、最後のミサをお献げします。

第一朗読は、イザヤ書、40章です。イザヤ書は、わたくしにとりましても、大変大切な、心に深く響く、聖書の巻物であると、心から、ずっと、そのように思っておりました。

今日の箇所の中で、わたくしの心に強く迫ってくる言葉は、どれであるかと言いますと、

「見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ」という箇所です。イザヤの40章は、バビロン捕囚という、イスラエルの民にとって、非常に、信仰から経験をしていたときに、告げられた言葉であると言われております。イスラエルの民に、ユダヤの民が滅ぼされ、そして、ユダヤの指導者たちは強制移住させられ、そこで、毎日、辛い経験をしておりました。そのときに、彼らの信仰は、清められ、強められ、そして、メシア、キリストへの信仰癡希望が、強く、彼らの心に刻まれてきたと言われております。「どうして、わたしたちは、このような目にあっているのだろうか」という、彼らの日々の反省の中で、主なる神への信仰が清められ、希望が強められていきました。

わたくしが司教になりましたときに、日々の心構えとして、イザヤの40章の終わりの部分を選びました。今日の朗読箇所の後の部分ですが、その言葉は、「主に望みをおく人」という部分の言葉です。その前後を、もう一度読み上げて、みなさまに、最後の言葉として、お伝えしたいと思います。

「ヤコブよ、なぜ言うのか

イスラエルよ、なぜ断言するのか

わたしの道は主に隠されている、と

わたしの裁きは神に忘れられた、と。

あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。

主は、とこしえにいます神

地の果てに及ぶすべてのものの造り主。

倦(う)むことなく、疲れることなく

その英知は究めがたい。

疲れた者に力を与え

勢いを失っている者に大きな力を与えられる。

若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが

主に望みをおく人は新たな力を得

鷲(わし)のように翼を張って上る。

走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザタ40・28-31)

「主に望みをおく人は新たな力を得る。」(イザヤ40・31)。

わたしたちは、厳しい現実の中で、力を落とし、失望するという経験を持つことがありますが、どのようなことがあっても、神への信頼、信仰、希望を新たにし、あくまでも、いつも「主に望みをおく人」として、神様からの力をお願いする。そのような者として歩みたいと、望みました。

今日は、待降節第2主日であり、主イエス・キリストのご降誕を、喜び、祝う準備のときですが、同時に、わたしたちは、主の再臨、「主イエス・キリストが、世の終わりに、ご自分の計画を、完全に成就し、父なる神の創造の働きが完成するために再びわたしたちの所に来てくださる」という、わたしたちの信仰を新たにし、希望を強めていただき、日々、愛の務めに励むことを、改めて確認する、大切なときです。

第二朗読を、ご一緒に見てまいりたいと思います。

わたしたちが生きている、この世界の現実の中には、混乱、不条理、矛盾という現実があります。そして、人間と自然界との関係も、うまくいっていない。

教皇フランシスコの「ラウダート・シ」という教えを、みなさん、ご存知ですね。神様のお造りになった、この世界、自然が、本来の姿を傷つけられ、自然界と人間との関係に破たんが生じているということを、教皇様は指摘しております。

神の救いの働き、贖(あがな)いの働きは、人間はもちろんのことですが、この世界の、神様がお造りになったすべてのものを、神のお望みになる、新しい天と、新しい地に、造り変えてくださる。そのような、神様の計画を、わたしたちは、改めて信じ、神様のみ心に希望を持って、日々を歩んでいかなければならないと、今日の福音朗読が告げていると思います。

「その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」(ニペトロ3・12-13)

わたしたちは、毎日、いろいろなことをしなければならない。いろいろなものに囲まれ、捉われて、そして、神様のみ心を見失いがちです。

本当に大切なことを第一にして、生きていくことから、逸れてしまっている日々を、わたしたちは送っているのではないか。いろいろなことがあり、いろいろなものがあるが、そのようなものは、すべて、いつかはなくなる。過ぎ去ってしまう。神のみ心に従って生きる。わたしたちの、愛の行いだけが、永遠のいのちを持っているのであると、聖書は謳っているのではないかと思います。

さて、日本の教会の、これからの歩みを、改めてご一緒に考えてみたいと思います。

ご承知のように、1549年、聖フランシスコ・ザビエルが、日本に福音を伝えてくださいました。それから、400年、500年が経過しています。

日本のカトリック教会は、第二ヴァチカン公会議の教えを受けて、主イエス・キリストの福音をのべ伝え、日本の社会の福音に適ったものに変えていくために、力を尽くしたいと考え、日本の司教協議会が主催して、福音宣教推進全国会議という、画期的な会議を開催しました。今から30年前、1987年のことです。わたくしは、それから13年後、大聖年の年ですが、2000年9月3日、こちらで、東京大司教に就任し、着座式が行われました。いま、東京大司教の任務を終了するにあたり、17年前の9月3日に、みなさまにお伝えしたことを、もう一度、思い起こし、そのときに、みなさまにお願いしたことを、改めて、お伝えしたいと思います。

第1回福音宣教推進全国会議、NICE-1では、「開かれた教会づくり」を目標に掲げました。誰に開かれた教会であるかというと、もちろん、すべての人に開かれているという意味ですが、わたしたちの教会は、非常に近づきにくい、苦しんでいる人、悩んでいる人、あるいは、自分のような者は、とても、キリスト教の教えには縁がないと思う人、病気の人、体だけではなく、心に問題を感じている人、周りの人からも変わっていると思われている人、そのような人が温かく受け入れられ、大切な人として扱われ、自分の居場所がある、安らぎがある、慰めがある、生きる意味を見いだすことができる、そのような教会になりたい。もちろん、そのようになっている部分もありますから、みなさまは、教会に来られているのだと思いますが、多くの人にとって、わたしたちの教会は、自分にとって、安らぐことができる、そういうものになっていないというのが、現実です。

わたしたち自身の間にも、なかなかうまくいかない、いろいろなことがあると思います。どうか、聖なる助けによって、そのような現実の中で、互いに受け入れ合い、ゆるし合い、そして、不完全な人間、弱い人間、道から外れてしまう人間同士が、支え合い、助け合う、そのような教会が、成長し、広がって行きますよう、心から願い、祈ります。弱い人間が、そのようにできるためには、神の助け、聖霊の導きが必要です。わたしたちは、父と子と聖霊を信じています。特に、人間としてのナザレのイエスが去ったときに、わたしたちに聖霊を注いでくださった。聖霊は、いまも、いつも、わたしたちとともにいてくださいます。聖霊の導きを信じ、そして、このような自分も、神から赦され、受け入れられている者であるという信仰を、より強くしていただき、お互いに、ゆるし合い、助け合う、そのような、キリスト教会の姿を、人々に表し、伝えていきたい。教会に行ったけれども、冷たかった。だれも、わたしのことを認めてくれない。もう、そのようなところには行きたくない。そのような言葉を、聞かないわけではない。わたしたちには、そのようなつもりはありませんが、外から見ると、わたしたちの教会は、そのように見えることがあるようです。

わたしのような者でも、そちらに行けば、ほっとする。そのような交わりを、わたしたちの教会は、もっとしっかりとしたものに押し広げていきたい。

教皇ベネディクトは、即位されたときに、「現代の荒れ野」ということを言われました。本当に、生きることが難しい、この社会、この時代、わたしたちのつながりのなかで、生きる力、生きる希望を、日々見出すことができるよう、そのような教会でありたいと思います。

洗礼者ヨハネにならい、主の降誕を祝う準備をするとともに、この最後の説教において、これからの日本の宣教と福音化を皆さんとご一緒に考えそのために祈りたいと切に望み、以上のように申し上げました。

長くなりましたが、ヨハネの福音の次のみ言葉をもって、結びといたします。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13・34)

第一朗読 イザヤ40・1-5、9-11
第二朗読 ニペトロ3・8-14
福音朗読 マルコ1・1-8

 

(本文)

神の子イエス・キリストの福音の初め。

預言者イザヤの書にこう書いてある。

「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。

 荒れ野で叫ぶ者の声がする。

 『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

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2017年東京カテドラル献堂記念ミサ

[聖書朗読箇所]

説教

今日の第一朗読と第二朗読、及び、福音から、ご一緒に、神様のみことばと主の福音のみことばを味わってみたいと思います。

第二朗読は、エフェソ書です。この中で、わたくしが、改めて、強く心に感じました言葉は、次の箇所です。

「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ1・4)

天地創造の前から、神はわたしたちをすでに知っていて、わたしたちをお選びになった、と言っています。人間は、誰しも、「わたしは、どうして、この世に来たのか。何のために生きているのか。そして、どこに行くのか」という、非常に大切な問いを持ちます。

天地万物を造られる前に、神はわたしたちを、すでにお選びになったという言葉は、驚くべきみことばなのですが、わたしたちは、そのような驚くべき信仰をしっかりと持っているでしょうか。神はわたしたちを聖なる者、汚れのない者にしようと、お望みになったのであります。

自分の今の状態はどうでしょうか。聖なる者、汚れのない者と言うことができるでしょうか。とても、そうであると言うことはできません。

わたしたちは日々「主の祈り」を唱え、「わたしたちを誘惑におちいらせず 悪からお救いください」と祈っています。

悪、あるいは罪から免れますように、罪に染まらないようにと、わたしたちは願い、祈っています。

神の創った人間とこの世界はすべてはなはだよい世界であるはずなのに、どうして、罪、あるいは悪というものが、人間と世界のなかにあるのか。あるいは、この世界にあるのでしょうか。それは、深い謎であり神秘であると思います。

創世記は、大変大切な教えであり、興味深い教えです。

創世記は、いつごろ、どのようにして、編さんされたのでしょうか。すでに、イスラエルの民は、さまざまな現実、胸を引き裂くような、辛い、悲しい、酷い悪の現実を、十分に見聞きしていたのでしょう。創世記の中ですでに人が人を殺したり、人を傷つけたりします。

男性と女性の関係も、必ずしも、うまくいかない。男性と女性を造られたときに、お互いの存在を、大変大きな喜びであり恵みであると思った。しかし、途中で関係がよじれてしまう。

この世界、この自然も同じで、神の恵み、人間を養い、育てるために、本当に、優しく、温かい環境であったはずなのに、人間を苦しめ、痛めつける環境となってしまった。どうしてだろうか。

彼らはこの謎を解こうと考えたのかもしれません。

そこで、今日、改めて、耳に入った言葉、創世記3章14節の「呪われるものとなった」という言葉に注目したいと思います。

何が、誰が呪われる者となったかというと、蛇です。そして、呪われた蛇と関連して、わたしたち、人間も、その子孫も、そして、この大自然も、調和が失われた状態になってしまった、と創世記は述べています。

あわれみ深い、主なる神は、この自然と人間をあがない、元のような状態に復旧させようと、あるいは、それ以上に善い、聖なる状態、神の幸福に与る状態にしようと、お望みになり、主イエス・キリストをお遣わしになりました。そこに、わたしたちの信仰の中心があります。

その、主イエス・キリストに、最もよく協力した女性として、聖母マリア、今日の福音では、ナザレに住んでいた、ひとりのおとめ、マリアという人であったと、ルカの福音が告げています。

ガブリエルという天使から、「救い主の母となる」というお告げを受けて、「そのようなことがありえるだろうか。それは、とんでもないことではないか」と思ったが、「神にできないことは何一つない」と言われて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1・38)とお答えになった。

最初の女性、エバの不信仰を帳消しにし、神と人間とのふさわしい関係を再構築し、もっと素晴らしいものにするために、イエス・キリストは来られましたが、イエスの誕生に協力したおとめが、マリアであったと、聖書は告げています。

神がわたしたちを大切に思い、わたしたちをご自分のもとに招いておられるということを、信じるということは、どのようなことだろうか。わたしたちも心のどこかで、疑いと不安が忍び寄ってこないだろうか。「どうして、このようなことがあるのだろうか。わたしたちを、どうして、このようなひどい目に合わせるのか」というような思いが兆すことはないだろうか。

現在、この世界には、さまざまな矛盾、不条理が存在し、暴力がまん延しております。今日、無原罪の聖マリアの日を迎え、神が、すべての人を救い、すべての人を聖なる者、けがれのない者にしようと望んでおられるという、聖書の言葉を、改めて、深く心に刻みましょう。

わたしたちは現代の荒れ野のような状態にあるこの大都市とその周囲に住んでいます。カトリック東京教区は、信仰、希望のうちに、神からの愛を深く受け止めることで、神への愛、隣人への愛を育み、強めていただけますよう、聖母に祈りをお献げいたしましょう。

第一朗読  創世記 3:9-15、20
第二朗読  エフェソ1:3-6、11-12
福音朗読  ルカによる福音書 1:26-38

 

(そのとき、)天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。

天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」

天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」

マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。今日は、東京カテドラル聖マリア大聖堂の献堂の日、そして、無原罪の聖マリアの祭日です。

 

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イエスのカリタス修道女会初誓願式説教

2017年12月8日、無原罪の聖マリアの祭日、待降節第1金曜日
イエスのカリタス修道女会日本管区本部聖堂にて

[聖書朗読箇所]

主司式
ペトロ 岡田武夫大司教

初誓願宣立者
シスターマリア・ドロレス 島本 京子
シスターピア 池田 さやか
シスター マリア・ファウスティナ 佐藤 まゆ
シスター ヴィットリア レティ キム ホアン
シシターマリア・ゴレッティ マイ ティ ラン

日本管区長
シスター アニエス 大水 恵子

 

説教

これから行われます誓願式にあたり一言申し上げたいと存じます。

いつくしみ深い主なる神様はわたしたちをお造りになり、わたしたち一人ひとりが聖なるもの、汚れのないものとなるようにお望みになり、主イエス・キリストの兄弟としてくださいました。わたしたちは洗礼を受け神の子となり、そして日々神の子にふさわしく在ろうと勤めて歩んでおります。しかしながらわたしたちは自分が弱いものであり、欠点のあるもの、罪深い者であるということを強く自覚するものです。

今日は無原罪の聖マリアの祭日です。あらためて聖母マリアに倣いわたしたちは自分の生涯を汚れのない聖なるものとすることができますよう、お恵みをお祈りいたしましょう。

わたしたち人間は神様から与えられた人間という存在、判断し決断し選択するという自由を与えられて被造物です。自分の責任をもって生涯を神に仕え、自分自身を、神に献げられる、聖い、汚れのない献げものとするように求められております。

わたしたちには自分で判断し自分で決断するという責任が与えられています。神様のみ心を求め、神様のみ心に従うことがわたしたちの日々の生活であり、そして主イエス・キリスト、聖母マリア、諸聖人の模範に倣い日々神様が自分に何を求めていらっしゃるかを祈り求め、それに従うようにと求められています。

わたしたち人間は生活するために色々なものが必要で、また色々なものを持っています。それを使って自分のためだけでなく、多くの人のために活かしていかなければならないのです。しかしながら、人間の中には欲深い傾向があり、色々な物を持っても更に欲しくなり、それらに振り回され、かえって物に支配されてしまうという問題も感じるのであります。

神はわたしたち人間を男性と女性にお造りになりました。人は男性・女性という自分の性を生きるものであります。男性と女性のふさわしい関係、そして自分の身体を神様のみ心にかなう聖い献げものとして献げするようにと神はわたしたちに望んでおられます。

すべてはそのように神様から求められておりますが、特に何人かの方々は神様からの特別な呼びかけを受け、その呼びかけに応えて修道誓願をお立てになるのであります。

修道者は、従順・清貧・貞潔 というこの誓願を皆様の前で誓立し、日々この誓願を生きることによって神の国がこの世に来ているのであり、神の国はどのようなものであるかということを、日々の生活と使徒職、日々の愛の実行によって人々に表し伝えるのであります。

今日誓願を立てる五人のシスター方、今の日本の社会でそういう生き方があるということを多くの人にはっきりと示すように努めてください。今の日本の社会は非常に世俗化された社会で、多くの人が管理と競争という社会のあり方の中で苦しみ、悩み、孤独に陥っています。修道生活という共同生活の中で互いに愛し合い、大切にし合い、自分のわがままを捨てて神様のみ心を中心に生きるという、そのような素晴らしい生活を多くの人に示すこと自体が、宣教・福音化という教会の使命を実行することになるのであります。

このシスター方の模範をわたしたちはいつも讃嘆の目で見ながら、わたしたち修道者でないキリスト者も誓願の精神を自分の立場、自分の生活の中でより良く実行できますよう、ご一緒にお祈りをお献げいたしましょう。

第一朗読  創世記 3:9-15、20
第二朗読  エフェソ1:3-6、11-12
福音朗読  ルカ1:26-38

(そのとき、)天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

 

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司祭月例集会追悼ミサ説教

2017年11月27日、カテドラル

[聖書朗読箇所]

説教

11月、死者の月を迎え、わたしども、東京教区で働く司祭は、亡くなられた先輩の司教、神父様方を思いながら、今日、ご一緒に、合同の追悼ミサをお献げします。
特に、この1年間、主のもとに召された、神父様方の生涯を思い起こしましょう。
東京教区の教区司祭、修道会、宣教会の司祭のみなさん、それぞれ神様のお召しを受け、司祭としての生涯を、主なる神様にお献げになりました。
この司祭方の生涯に、いつくしみ深い神様が、豊かな報いを与えてくださるよう、お祈りいたしましょう。

教区司祭として、わたしの心に浮かんできます、おふたりは、ディオニジオ 内山賢次郎神父様、ペトロ 小川拓郎神父様です。
わたしたちと、親しく生活し、そして、宣教司牧の任務を果たされた、このおふたりのことを思い起こし、おふたりの霊に、心からの感謝を申し上げるとともに、永遠の安らぎが与えられますよう、重ねてお祈り申し上げましょう。

さて、今日の第1朗読は、ローマ書8章から採られています。
「すべての被造物は虚無に服していますが、主イエス・キリストが現れるとき、その再臨のとき、隷属から解放され、贖(あがな)いの恵みを受けて、神の子の栄光にあずかることができる。その日が来る」とパウロは教えています。そして、わたしたちは、この信仰、この希望によって、既に救われているのであると断言しています。

11月、個人としても、人類としても、その最後のときを、特に思うときです。わたしたち、ひとりひとりが、死という最後のときを迎えるだけではなく、この世界も、やがて、神の創造の計画の完成のときを迎え、すべての悪から解放されるときが来るという、使徒パウロの教えを、今日、改めて、深く、心に刻みたいと思います。

福音朗読は、去年と同じ箇所、ヨハネの14章です。この箇所は、葬儀のときなどに、よく選ばれる箇所です。毎回読んで、よく分からないと思うところがありますが、みなさまは、いかがでしょうか。

「わたしは、道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。
この言葉は、わたしたちの宣教の主題の、いわば、根幹と言うべきものであって、わたしたちは、いつも、この言葉に基づいて、イエス・キリストを宣言しています。

その前のところですが、
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある」。これは、その通りなのだと思います。

問題は、その次です。
「もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」。

これが、どのような意味であるのか。毎回、戸惑いを覚えます。
「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」。
あまり、いろいろと考える必要はないのかもしれませんが、これから、イエスが主のもとに行って、わたしたちが入ることができるように場所をつくっておくという意味だと、いままで思っておりました。普通は、そのように考えられています。
しかし、「わたしの父の家には住む所がたくさんある」。これは、既にあるという意味だと思います。
そして、「用意しに行くと言ったであろうか」の「か」が、分かりません。専門家がどのように言っているのか、じっくりと腰を落ち着けて調べる余裕はありませんが、見てみると、いろいろな説があるということが分かりまして、ほっとしました。

「か」は、必ずしも、疑問文になっているという訳ではありません。解釈によって、「か」を付ける人と付けない人がいるのだそうです。
今日の司祭の集まりでは、司祭の研修会の部門で、説教についてのお話を聞くので、このような説教は良くないのでしょうが、わたしが信じますに、イエスがおっしゃった、「父の家には、誰でもが、受け入れられる場所がある」という言葉は、「既にあって、わたしは、そちらに、すべての人を案内します。わたしが案内人です。わたしを信じて、わたしと一緒に行きましょう」というメッセージではないでしょうか。
わたしたちは、主イエス・キリストを宣言し、宣教する道を選んで、司祭として歩んでいます。その生涯、いつかは終わりになりますが、この地上において、この使命を、できる限り、精一杯務めたい。そして、もう、あまり時間がありませんので、大切なこと、どうしても、これを伝えるべきだということを、精選して、そこに、心と力を込めて、わたしたちの仕事を行わなければならないのではないかと思います。

今年、2017年は、NICE―1、福音宣教推進全国会議が開かれてから30周年でして、30年前の、ちょうど、いまごろ、京都で、この会議が行われました。「開かれた教会づくり」という目標を掲げて、すべての人が、主イエス・キリストの福音にあずかることができるような、そのような教会の姿をつくろうと決心しました。
わたしと東京教区も、特に、この大都会で、生きづらさを感じている人々のために、いつも開かれていて、そこに行くと自分の場所があり、温かく迎えられ、何らかの喜び、安らぎが得られるという、教会共同体でありたいと願い、努力しています。
ぜひ、このイエスの言葉に基づく、教会のあり方を、さらに、一生懸命追求していきたい、追求していただきたいと願います。

結びとして、昨年も唱えました、司祭のための祈りをお献げいたします。

司祭のための祈り

おお、イエスよ!
あなたに選ばれた司祭たちのために祈ります。
忠実で熱心なあなたの司祭のため
生ぬるく不忠実なあなたの司祭のため
宣教地で働くあなたの司祭のため
誘惑に苦しんでいるあなたの司祭のため
孤独と寂しさで苦しんでいるあなたの司祭のため
若いあなたの司祭のため
病気になったあなたの司祭のため
臨終の床にあるあなたの司祭のために祈ります。
しかし何よりも
私たちにとって身近な司祭たちを委ねます。
私たちに洗礼を授けた司祭
私たちの罪をゆるした司祭
あなたのミサの中で、私たちにあなたの御体と御血を授けた司祭
私たちに教え、助言を与えた司祭
私たちが感謝しなければならないすべての司祭を
この世においても、永遠の世界にあっても
あなたの祝福で豊かに満たしてください。
アーメン。
(幼きイエスの聖テレジアの祈り)

聖書朗読箇所

第一朗読 ローマ8・18-25
福音朗読 ヨハネ14・1-6

(福音本文)

〔そのときイエスは弟子たちに仰せになった。〕「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

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豊島教会堅信式説教

2017年11月26日、王であるキリスト

[聖書朗読箇所]

説教

今日は、「王であるキリスト」の祭日でして、ミサの中で堅信式が行われます。

主イエス・キリストは、その人類の歴史の最後の日、王として、わたしたちに対して最後の審判を行う、という教えが、今日語られています。
わたしたちは、それぞれ、自分の生涯の行いについて、王であるキリストから、裁きを受けなければなりません。その裁きの基準というのは何であるかと言いますと、4度も繰り返し言われていますが、「困っている人を助けたかどうか」ということが、裁きの基準になっています。
「飢えている人に食べものを与える」、「渇いている人に飲みものを与える」、「着るものがない人に衣服を与える」、「病者を訪問する」、「寝るところがない人に宿をお貸しする」、「牢(ろう)につながれている人を訪問する」。この6つの善い行いをしたかどうかということが、最後の審判のときの裁きの基準になります。

一年前の王であるキリストの祭日は11月20日であり、その日は、「いつくしみの特別聖年」が終了する日でした。

フランシスコ教皇様は、いつくしみの特別聖年という特別な期間を設けられて、「わたしたちの神様は、いつくしみ深いかたですから、「たしたちも、主イエス・キリストに倣い、いつくしみ深い者でありなさい」とお教えになりました。そして、「いつくしみ深い行いとは何であるか」ということを、具体的にお話しになりました。
そのいつくしみのみわざには、7カ条ありました。もっとも、正確に言うと、14カ条になりますが、14をふたつに分けて7つずつ、身体で行う善いわざ、精神で行う善いわざとに分けました。身体で行う善いわざは、いま申し上げた6カ条と、7つ目に「死者を埋葬する」ことが加えられています。

そして、精神的ないつくしみのわざは、次の7カ条です。
「疑いを抱いている人に助言すること。」
「無知な人に教えること。」
「罪人を戒めること。」
「悲しんでいる人を慰めること。」
「人から侮辱されたときにゆるすこと。」
「煩わしい人を忍耐強く耐え忍ぶこと。」
「生者と死者のために祈ること。」 このようになっています。

「この14カ条を実行してください」と教皇様が言われたのです。

神様が、わたしたちにお望みになっていること、それは、いつくしみ深い者であるということです。そして、いつくしみ深い者であるかどうかということは、人間、心と体から成り立っているものでして、心と体は、はっきりと分けることができませんが、「心と体の両方を使って、毎日、いつくしみ深い者であるように努めなさい」という教えです。

最後の日、人類の歴史で言えば、主イエス・キリストの再臨の日、個人の歴史で言えば、人生の最後のとき、死ぬとき、わたしたちは審判をうけなければならない。「どれだけ、神様のいつくしみを実行したか」ということが、基準になります。そして、「飢えている人に食物を与えるということは、主イエス・キリストにして差し上げることと同じですよ」と言われました。少し考えてみますと、どうしてそうなのかという気がしないわけでもありませんが、はっきりとそのように言っておられます。

神様自身は、飢えたり、渇いたりすることはありません。着るものがないから困るということはない。しかし、わたしたち人間は、世界中の現実を見れば、多くの人が、毎日、食べるものをきちんと与えられていない。着るものもない。今夜、寝るところもない。
そのような方がたくさんいらっしゃる。そのような人のためにするということは、主イエス・キリストにして差し上げることと同じですよ、と言われた。実に、胸に迫るようなお言葉です。

さて、わたくしは、2000年9月3日に、東京大司教に就任いたしました。そして、間もなく、12月16日に、次の大司教さんと交代いたします。
就任したときに、決意表明を行いました。それは、どのようなことであったかと申しますと、この東京教区という信者の共同体は、人々に開かれた、温かい、潤いのある、そのような教会になりたい。困っている人、苦しんでいる人、悩んでいる人、迷っている人、傷ついている人、落ち込んでいる人、人生の意味に戸惑っている人、寂しい人などが、自分の場所を見いだす、ほっとする、安らぎを与えられる、慰め、喜びを見いだす、そのような教会、そのような人々の交わりとなるように努めたいという内容です。
もちろん、既にそうなっているから、みなさんは信者になった。しかし、多くの人は、心の飢えを持っています。そのような人々に応える、そのような教会になりたい。そのために、わたしたち自身の間で、お互いに受け入れ合い、愛し合い、助け合う、そのような交わりが出来ていなければならない。もちろん、出来ていますが、非常に足りないと思う。
あのような人々のようになりたい。あちらに行けば、わたしは何か助けられる。そのように思っていただけるような教会になりたい。そのために、力を尽くしますから、みなさまも、どうぞ、助けてください。神様、この願いを実行できるように、わたしに力をお与えください。そのような祈りを献げました。

教皇様に辞任をお願いして、許可されましたので、わたしは東京教区の仕事から離れます。
この5年間、隣のさいたま教区の責任者も兼務していますので、両方は大変だろうから、より負担の重いところは終わってもよいが、あなたは残った方を、しっかりしなさい、ということだろうと思っています。
それから、東京教区に所属する引退司祭、名誉司教であることには変わりありませんので、みなさまとまったく関係のない存在になるわけではありません。

われわれは、すべて、いつか神様の前に出て、裁きを受けなければならない。お前はよくやったと言っていただけるような、自分でありたい。
大変微力であり、罪深い者でありますが、それでも、神様のいつくしみに信頼し、少しでも神様のいつくしみを実行する者として、歩んで行きたいし、皆さまも、そうしていただきたいと、心から願っています。

日本の教会は、400年、500年と長い歴史を持っています。なかなか、わたしたちの信仰が、人々に伝わっていかない。他方、自分がキリスト信者であると自覚していない人であっても、主イエスが教えているような善いこと、困っている人を助けるということを、多くの人々が実行しています。教会に来ない人の方が、かえって、よくそのようなことをしているかもしれない。人間の価値はどこにあるのかというと、どれだけ、神のいつくしみを実行したかどうかというところにあります。
ですから、わたしたちは、もっと心して、神のいつくしみを実行する者となりますよう、聖霊の助けを願いましょう。

今日、堅信を受けられるみなさん、堅信を受けるということは、主イエス・キリストの教えを実行する者となるということです。
イエス・キリストという名前を使わなくても、イエス・キリストがおっしゃっているいつくしみのわざを、どうか、日々実行するように心掛けていただきたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読  エゼキエル34:11-12、15-17
第二朗読  一コリント5:20-26、28
福音朗読  マタイによる福音書 25:31-46

(福音本文)

〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

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志村教会献堂50周年記念ミサ

2017年11月12日、志村教会

[聖書朗読箇所]

説教

いま読みました、ヨハネの福音で、主イエスは言われました。
「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」。
わたしたちは、エルサレムから遠く離れ、2千年のときを経過して、東京の、ここ、志村の教会で、神への礼拝を献げています。

イエス・キリストという土台の上に建てられた、わたしたちの神の民、そして、聖霊がお住みになる、神の神殿を、私たちは造り、そして、教会としての歩みを続けております。
わたしたちは、ナザレのイエスという、地上の生涯を送られた人と、その弟子たちの造られた教会、聖霊降臨のときに、聖霊の注ぎを受けて造られた教会を継続させ、発展させています。教会は、イエス・キリストに倣い、イエス・キリストの霊に倣って歩む、神の民です。
とは言うものの、人間の集まりである、教会は、いつも、過ちを犯し、罪に陥ってきましたし、不適切な状態に陥ることも、しばしばありました。しかし、わたしたちの教会は、いつも、新しく生まれ変わるという、努力も繰り返してきました。

50年前、第2ヴァチカン公会議が開かれました。東京教区でも、教区大会という、特別な刷新のときを持ちました。日本のカトリック教会は、福音宣教推進全国会議を開催し、イエス・キリストの望まれる教会に、少しでも近づこうという努力を繰り返してきました。

イエスは、当時の宗教指導者、具体的には、祭司、律法学者、ファリサイ派の人々と呼ばれる人々鋭く対立した人です。「歯に衣を着せない」という言い方がありますが、正に、痛烈に、彼らを批判したために、彼らの憎しみを買い、そして、最後、十字架上で処刑されるという一生を終えた人です。
彼らの言うことは、守り、行いなさい。しかし、彼らの言動に見習ってはならない。言うだけで、実行しないのだ。彼らは、白く塗った墓のようなものだ。外側は綺麗だが、中身は醜いものでいっぱいだ。そのようなことを、堂々と、本人たちの前で言った。

いまのわれわれはどうでしょうか。イエス・キリストの教えを頂いていますが、その教えを、どれだけ実行できているでしょうか。教会は、ひとつの組織になりましたので、組織を維持したり、管理したりという仕事が、必要となります。わたしは、そのような仕事をしてきました。
イエス・キリストが教えたように生き、教えたことを実行する。それが、わたしたちの、生涯かけての使命です。

教皇フランシスコは、特に貧しい人に心を向けるようにと言われました。貧しい人のための祈りの日というものを定められました。来週の日曜日が、その日に当たると思います。
貧しい人は、たくさんいる。経済的に貧しい人、この日本にも、そのような方がいます。精神的に貧しい人は、もっと多いです。迷っている人、生きがいを失っている人、どうすれば良いか、分からない人、そして、孤独に苦しむ人がたくさんいます。
日本という国は、非常に驚くことですが、自殺する若い人が、非常に多いです。どうして、若い身空で、毎日楽しく過ごせば良いのに、どうして、死ななければならないのでしょうか。追い詰められた、精神的に行き詰まったという状況があるのではないでしょうか。

イエス・キリストが、今ここにいたら、その人たちに向かって、何を言い、何をしたのでしょうか。その、イエスの役割を、わたしたちは、担わなければなりません。自分たちのことは置いて、そのような人々の声に、耳を傾けなければならないと思います。

1987年に、第1回福音宣教推進全国会議が開かれました。その時わたしたち教会は、開かれた教会、困っている人、悩んでいる人、迷っている人に、開かれた教会でなければならないと考えたのです。どのような人も、自分の場所を見いだすことができるような、そのような教会になろうという決意をしました。
また、思い起こせば、ベネディクト16世が即位されたときに、現代の荒れ野ということを言われて、「本当に、この世界は、人々にとって、生きづらい世界になっている。わたしたちは、荒れ野にあるオアシス、泉のような教会になっていこう。もっと、もっとそうなろう」ということを呼び掛けられました。

この東京というところは、どのようなところでしょうか。わたしは、いまの住所に17年間住んで、本当にこちらは生きづらいところだと思いました。生まれて、一番長く住んだところは故郷であって、そちらには、高校を卒業するまでの18年間、後は転々として、何回転居したのかを数えてみましたら、20回でした。
人々の安らぎ、救い、そして、自分のいる場所が見いだせる、そのような、わたしたちの教会でありたい。ところが、教会に行っても、何をしに来たのだという顔をされる、そのような声があります。

どうか、志村の教会は、これからも、誰でも歓迎される、そのような教会として、成長していただきたいと、心から願っております。今日は、おめでとうございます。 

聖書朗読箇所

第一朗読 列王記上8・22-23.27-30
第二朗読 一コリント3・9-11、16-17
福音朗読 ヨハネ4・19-24

(福音本文)

〔その時、〕サマリアの女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」

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2017年アクション同志会「ファチマの聖母ご出現百周年記念・ラテン語ミサ」説教

2017年11月11日、東京カテドラル聖マリア大聖堂

[聖書朗読箇所]

説教

今年、2017年5月13日は、ファチマの聖母ご出現100周年を祝う日でした。
教皇フランシスコは、この日、ファチマへの巡礼を行い、ご出現に接したふたりの牧童、フランシスコとジャシンタの列聖式を行いました。

近年、聖母のご出現の奇跡は、たびたび起こっています。有名なご出現を数えてみますと、1581年12月9日、メキシコ近郊のグアダルペで、ファンディエゴというひとりのインディオへの、聖母のご出現があり、教会の権威は、その真実性を認めました。
さらに有名な、ルルドの聖母のご出現。1858年2月11日。南フランス、ルルドで、貧しい少女、ベルナデッタ・スビルーにご出現。教会は、このご出現の真実さを認定しています。
そして、1917年5月13日。ちょうど、第一次世界大戦の最中、ポルトガルのファチマで、聖母がお現れになりました。

その他、聖母マリアのご出現の告は多々ありますが、以上、申し上げたご出現に共通している特色があると思います。
ご出現に接した者は、それぞれ、「貧しく」、「素朴で」、「純心な」信徒であるということです。

グアダルペでご出現を受けた者は、素朴な少年少女、9歳のフランシスコ、7歳のジャシンタ、10歳のルチア・ドス・サントスという人でした。彼らは、親の仕事を手伝う、貧しい田舎の児童でした。また、言うまでもなく、ベルナデッタは14歳であったと報告されています。ファンディエゴは、メキシコのインディオの、素朴な農民でした。

ここで、わたくしの心に浮かぶ、主イエスの言葉があります。
「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る」。

彼らが見たのは、主イエスではなく、聖母マリアですが、「素朴で」、「敬虔」、「純心」な人々には、聖母のお姿が見えた。他の人には見えませんでした。この人たちだけが見ました。

さて、今日のミサの福音の朗読は、みなさま、よくご存知の、ルカの福音、おとめマリアのエリザベ訪問のくだりです。おとめマリアは、天使のお告げを受け、「お言葉どおり、この身に成りますように」とお答えしましたが、その後、すぐに、「急いで山里に向かい、ユダの町に行った」と、ルカの福音が言っております。
何気なく、この箇所を読んできましたが、あるとき、つらつらと考えることがありました。
ナザレというところですが、ザカリアの家というのは、どちらでしょうか。エルサレムから、さらに先の方であると思われます。大変遠いです。
そして、マリアは、誰かと一緒に行ったのでしょうか。それとも、ひとりで行ったのでしょうか。どのようにして行ったのでしょうか。歩いて行ったのでしょうか。まさか、馬に乗って行ったわけでもなく、馬車にでも乗ったのか、よく分かりません。馬に乗っているという絵もあります。
ナザレからザカリアの家までの距離が、どのくらいかと思いまして測ってみますと、約100キロメートルはあります。約100キロメートル移動するのに、何日くらいかかるでしょうか。
ご承知のように、イエスの一家は、毎年、過越しの祭りのために、エルサレムまで巡礼していました。そして、その巡礼のときに、少年イエスが行方不明になったという出来事を、ルカが告げています。両親は、3日の後、イエスがいないので、エルサレムの神殿まで戻ったと書いてあります。かなりの距離です。

わたしたちは、聖母マリアという人が、どのような人であるかということを、毎日思いますが、おとめマリア、少女マリアの姿は、わたしたちが思う、聖母のイメージとは、ずいぶん違います。とにかく、すぐに、100キロメートル離れたところに移動する。非常に判断が速い。果敢な、思い切った行動をする人でした。ルカの告げるマリアは、そのような姿です。

さらに、いま読まれました、「マリアの賛歌」、こちらは、わたしたち教会が、毎日、晩の祈りで唱える賛歌でして、通常、「マグニフィカート」と呼ばれています。
この中で、何が言われているのかと、改めて考えてみますと、そこには、福音的というよりも、むしろ、革新的と言いましょうか、大変な内容が告げられています。
「思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」。

いまの、この世界がそうであるように、当時の社会は、もっとそうであったのでしょうか。格差のある社会、支配者と非支配者が、画然と分かれている社会、富の分配の不公正さ、権力者と圧迫された人の間の、歴然とした立場の違いなど、とても、神様がお喜びになるような状態ではありませんでした。

この「マリアの賛歌」によれば、「人々を押さえ付け、締め付け、そして、搾取している、支配階級の人たち、そのような人たちは、引きずり降ろされなければならない。
貧しい人、飢えた人が大切にされ、そして、権力ある人、富んでいる人は、その力を失い、低くされなければならないのだ。それが、神様のみ心である」、と言っているように読み取ることができるのではないでしょうか。
おとめマリアを通して、神様が告げられた、この祈り、それは、当時の社会の状態が、神様のみ心に適っていないということを、はっきりとうたっているのであり、そして、いまもなお、さらにその状態は悪くなっていると言うことができるかもしれないと思います。

聖母のご出現に接した、心の清い人たち。わたしたちは、そのような恵みに与っていませんが、心の清い者でありたい。そして、いろいろなことで迷ったり、ためらったりするのではなく、きちんと判断し、決断し、行動できる者でありたい。
そして、この社会の状況を、神の国の到来のしるしとなるような、状態に変えるために、力を尽くしたい。

今日、わたくしは、そのような意味を、今日のミサの朗読で受け取り、そして、みなさまにお伝えしたいと考えました。

聖書朗読箇所

第一朗読 創世記3・9-15,20
第二朗読 ローマ5・12,17-19
福音朗読 ルカ1・39-56
 
(福音本文)
 
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
そこで、マリアは言った。
「わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも
目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も
わたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、
わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、
その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、
憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

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諸聖人の祭日ミサ説教

2017年11月1日午前7時、関口教会

[聖書朗読箇所]

説教

今日、11月1日は、すべての聖人を祝う日、諸聖人の祭日です。  
毎年、この日には、幸い八カ条、いわゆる、真福八端の福音が読まれます。  
イエスの周りには、多くの群衆が集まっておりました。その人々は、貧しい人々、病気の人、障がいを持つ人、生きるのに困難をおぼえている人々、非常に、生きづらさを感じている人々、生きる手立てがない、あるいは、乏しい、社会的に、大変惨めな状態に置かれている人々、・・・そのような人々が、イエスのもとに集まってきました。  
「心の貧しい人々は、幸いである」。  
イエスは、まず口を開いて、そう言われた。  
マタイの福音による、真福八端の第一条ですが、同じ内容を告げる、他の福音書、ルカでは、  
「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6・20)  
となっております。  

貧しい人は、本当に幸いでしょうか。  
「清貧」という言葉があります。清い貧しさ。修道誓願に、「清貧」という誓願が、必ず入りますが、この場合は「清貧」ということではありません。単純に貧しい、ということです。  
貧しい人々とは、生きることが難しい、生きる意欲をそがれている、苦しみ、悩んでいる人々です。  
そのような人が、幸せでしょうか。  

重度の障害を患っている人々がおりまして、その人が、「あなたは、そのような病気を持って、幸せだ」と言われて、大変怒っておりました。「何が幸せだ。わたしのようになってみろ」と、激しい怒りを表していました。  
貧しいということは、決して幸せではない。「貧困」という言葉に言い換えればわかります、わたしたちの教会も、「貧困」を消滅させるために、努力しています。  

さらに、「心の貧しい」という言葉は、何を意味するのだろうか。日本語で「心が貧しい」というと、決して良い意味ではありません。「さもしい、意地汚い、狭い、卑しい」など、悪い意味ばかりが連想されます。  
普通、この箇所は、「ひたすら、神に依り頼む人々、物に執着しない離脱心、つまり、心が、神以外の物から離れ、そのような物に、依り頼んで生きるということから、解放されている心の人々」というように、言われています。  

「心」と訳されている言葉の原文は、「霊」です。ギリシャ語で「プネウマ」という言葉です。ラテン語では「spiritus(スピリトゥス)」、英語では「spirit(スピリット)」、ヘブライ語では「ルーアハ」と言いますが、これは「霊」です。  
「息」、人間の生きている証拠、日本では「息を引き取る」ということは、「死ぬ」ということですが、「息」ということは、創世記には、「神様が人間に息を吹き込まれて、生きる者になった」とあります。(創世記2・7参照)  

「息」とは、元気の「気」だと思います。人は、神とのつながりの中で、健やかに、元気に生き、生きる力を受けます。神とのつながり、あるいは、人々とのつながりの中で、「気力のある人」、「霊において、元気な人」となります。  
ところが、「霊において貧しい人」とは、その反対で、生きる力、生きる動機において、非常に弱い人々ではないかと思います。「生きていることが嫌になった。生きる甲斐がない」と感じている人々が、それでも、イエスの評判を聞いて、集まってきた。ここに、教会の原型があるのではないかと思います。  

教会とは、この世的に、恵まれた人々、見るからに、健やかで、顔色も良く、元気いっぱい、そのような人々の集まりではなく、見るからに、打ちひしがれ、しおれ、悩み果てている、そのような人々が、イエスのもとに集まってできた団体、もともとは、そのような団体ではないか、と思うのです。  
そのような人々に向かって、「あなたがたは幸い」と言われた。この世的に言えば、正直に言えば、全然幸いではないと思う。でも、「幸い」と言われた。  
「天の国はその人たちのものである」。  
「幸いである」と言われたのは、神様が、その人たちとともにいる。「神様の力、神様の助けが、みなさんとともにありますよ」という意味ではないかと思います。  

イエスは、貧しい人々の友となりました。人々から嫌悪され、弾き飛ばされている、そのような人々の仲間になった。そして、聖書の重要な掟、十戒を平気で破った。そのような冒涜者であり、汚れた人たちの仲間となった者として嫌悪され、最後に十字架に追い詰められ、亡くなりました。  

わたしたちの宗教は、そのような人のもとで、成立した宗教であります。その原点に戻らなければならないと思います。生きるということは、大変なことです。毎日、わたしたちは、試練のもとに置かれています。  
その試練を、別の言葉で言えば、「煉獄」と言うことができるかもしれない。「煉獄」は、清めを受けるということであり、わたしたちが地上を去った後、清めを受ける機会があるという教えですが、地上が「煉獄の始まりでもある」と言うことができるのかもしれません。  まだ、神を目の当たりにすることはありませんが、そのとき、わたしたちは御子に似た者になるという希望持っています。そのとき、わたしたちは、今日の第一朗読にありますように、天の御父、そして、わたしたちの贖い主(あがないぬし)、主イエス・キリストとともに、神の救いを喜び、賛美することができると信じ、希望しております。  

ところで、個人的なことですが、10月24日がわたくしの誕生日でして、先日、みなさまからお祝いの祈りの花束をいただきまして、本当にありがとうございました。  
その翌日の25日に、わたくしの辞職願の受理が発表されましたので、わたくしは、東京大司教の職を去ることになりました。もう、法律上、教区管理者、次の大司教様が就任されるまでは、責任者ですが、東京大司教の任務を終了いたします。  
みなさまの、お祈り、そして、このミサにときどき参加して、ご一緒にお祈りできたことを、大変嬉しく思っております。  

これからは、新しい人生、もう一度、キリスト者の生き方をやり直す、そのような人生、いまの仕事は、非常に管理的な、行政的な部分が多いのですが、そのようなものから解放されて、ひとりのキリスト者として、誠実に生きたいと、心から願っております。  
どうぞ、また、みなさま、わたくしのために、お祈り、支援をくださるように、お願いいたします。ありがとうございました。

聖書朗読箇所

第一朗読 第一朗読  黙示録7・2-4、9-14
第二朗読 一ヨハネ3・1-3
福音朗読 マタイ5・1-12a

(福音本文)

わたしはまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、こう言った。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。  
この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。  
「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」  
また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。  
「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。」  
すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。

御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。  
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。   
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。   
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。   
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。   
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。   
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。   
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。   
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。   
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。   
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

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世田谷南宣教協力体合同堅信式説教

2017年10月29日、碑文谷教会

[聖書朗読箇所]

世田谷南宣教協力体合同堅信式にあたって、今日の聖書朗読から、わたくしが、特に、思い、感じていることを、申し上げたいと思います。
旧約聖書には、神様が、イスラエルの民に与えた掟(おきて)が記されております。神の掟は、いろいろな律法に、細かく分かれていました。
そこで律法の専門家がイエスに、「どの掟がもっとも大切か」という質問をしたところ、イエスはお答えになりました。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。
さらにイエスは続けて言われました。
「第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」。
「神を愛すること」、そして、「隣人を愛すること」。このふたつには、切っても切れないつながりがあります。
そこで、わたくしの心に浮かんでくる、新約聖書の教えがあります。
「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」。
「目に見える兄弟を愛さない、憎む者がいれば、それは、偽り者である」と、ヨハネの手紙が述べています。
「神を愛すること」と「隣人を愛すること」、「兄弟を愛する」ということは、ひとつに結びついています。神様のお望み、それは、わたしたちが、互いに愛し合うということです。
主イエスは、弟子たちにお命じになりました。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。

「愛」という言葉は、非常に多義的であり、その意味は曖昧です。
わたくしは、この「愛」という言葉から、使徒パウロの教えを思い出します。
それは、「愛の賛歌」と呼ばれています、コリントの教会への手紙、第一の手紙の13章、大変有名な教えです。
「愛は忍耐強く」という言葉から始まっています。
数えてみると、15カ条が述べられています。
「愛」という言葉のギリシャ語の元の言葉は「アガペー」という言葉です。この「アガペー」には、15のことが含まれていると、使徒パウロが教えています。この15のことを見てみますと、「忍耐」ということに関する教えが、非常に目立つ。最初に出てくる教えが、「愛は忍耐強く」という言葉です。
さらに、ずっと見ていきますと、「(愛は)いらだたず、恨みを抱かない。すべてを忍び、すべてに耐える」とあります。
愛という言葉は、忍耐という言葉に深く関わっているようです。言い換えれば、恨んだり、怒ったり、憎んだりするという、人間の心の状態から解放されていることではないだろうか、と思います。
自分のことを振り返ってみますと、いろいろなことで、いらいらしたり、不快に感じたり、場合によっては、人を攻撃する、ということになります。あるいはそこまでは行かないまでも、陰で人の悪口を言う。そのようなわたしたちではないだろうか。
生きるということは大変なことで、人生とは、困難なものであります。
仏教では「四苦八苦」と言います。4つの苦しみ、8つの苦しみ、非常に、生きるということは大変なことです。苦しみが伴う。現代の言葉で言えば、「ストレスが多い」。この「ストレス」に、どのように立ち向かうか、あるいは、どのように発散するか、が課題です。ストレスを発散するために、近くにいる人に矛先を向けて、自分の不満や怒りを向けてしまうということが、ありはしないだろうか。
みな、欠点のある人間です。こちらが望むように、相手がしてくれるわけではない。「こうして欲しい。こうであるはずだ」と思っても、ほとんどの場合、そうは行きません。
家族関係、あるいは、仕事関係、あるいは、われわれの教会の中でもそうです。お互いに、多少とも、傷付けてしまう。あるいは、相手のことがよく分からない。分からないから、その人を温かく、赦し、受け入れるということが、なかなかできない現実が、あるのではないでしょうか。
分からなくとも、自分が望むようなことをしてくれなくとも、その人を大切にするということが、聖書の教える「愛」、「アガペー」です。
「(愛は)すべてに耐える」。

勇敢に、静かに、試練の中で、しっかりと、神の愛に留まること。神がわたしを愛してくれている。イエス・キリストは、わたしのために、十字架に架かってくださった。神は、すべての人を愛し、そして、わたくしを大切な人と認めてくれている。いま、自分を不快にしている、この人も、神様が愛している人なのだ。自分の心に起こる、いらだち、怒り、そのようなものを、静かに見つめて、そして、神の愛を深く思う。それが、わたしたち、キリスト者の生き方ではないかと思います。

わたくしが、非常に心に響いて、良い言葉だと思う聖書の言葉はたくさんありますが、その中のひとつが、旧約聖書の続編にある、「知恵の書」にあります。
「あなたは存在するものすべてを愛し、
お造りになったものを何一つ嫌われない。
憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。
あなたがお望みにならないのに存続し
あなたが呼び出されないのに存在するものが
果たしてあるだろうか。
命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、
あなたはすべてをいとおしまれる」。(知恵11・24-26)

「わたしがこの世に存在するのは、神様のお望みによるのである。自分が、人と比べて、どんなに劣っていても、どんなに問題があっても、神様は、このわたしという存在を、愛おしく思ってくださる」。この信仰が大切ではないでしょうか。

日本は、非常に自殺者の多い国です。カトリック教会では、最近、自死という言葉を使っておりますが、自死する人が多い。毎年、年間3万人を超える人が自殺していましたが、最近、3万人を下回った。政府も一生懸命対策を立てて、努力した結果、自殺者は減っている。
しかし、青年の自殺は、相変わらず多い。15歳から34歳までの、若い世代の人の死因の第1位は自殺です。病気でも、事故でもない。先進7カ国の中で、日本は1番、若者の自殺が多い国であると言われています。
自分の存在の意味が見いだせない、あるいは、よく分からない。現実の困難の中で、生きていくための動機が、非常に弱くなってしまう。そのような現実があるのではないでしょうか。

神は、あなたを大切な存在として造り、そして、いまも恵みをくださっています。それは、人間関係の中で培われます。まずは、家庭で、そして、友達の中で、大切であるということを、お互いに教え合い、そして、そのように行動することによって、人は、自分が大切な存在であると実感することができる。
「愛する」ということは、「神を愛すること」、「隣人を愛すること」、そして、「自分を大切にすること」と結びついていないといけない。世界中にひとりしかいない、このわたしを、神様は造ってくださった。そして、わたしに使命を与えてくださっている。失敗したり、嫌なことがあったりしても、自分自身をもう一度見て、そして、自分は大切な存在なのだという信仰を、新たにしたいものです。

堅信を受けられるみなさん、「神は愛であるということ」、「お互いに掛け替えのない存在として、大切にするということ」が、結局のところ、福音宣教することになるのだと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読  出エジプト記 22・20-26
第二朗読  一 テサロニケの信徒への手紙 1・5c-10
福音朗読  マタイによる福音書 22・34-40

(福音本文)
〔そのとき、〕ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

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司祭集会のまとめの言葉

2017年10月25日

 

 

みなさん、おはようございます。  
2017年の司祭集会、本日、無事に、終了の運びとなりました。  
司祭集会の準備、運営に携わってくださいました神父様方に、まず、心から御礼申し上げます。  
そして、この集会に参加くださった神父様方、お忙しい中、本当にありがとうございます。ご苦労様でした。  
3日間の集会の中で、特に2日目に話し合われましたことについて、いま、わたくしが思いますことを、簡単にお伝えし、以後のさらなる検討に委ねたいと思います。  

まずは、入門講座担当者養成講座の開始についてです。  
養成委員会が作った原稿を、わたくしが見まして、案内文については、わたくしが、かなり直しました。そして、募集要項について話し合いましたが、なかなか話が難しいと思いました。  
募集要項、カリキュラムの内容については、さらに、丁寧に検討したいと思います。さらに、「拠点教会」という構成について、共通理解が必要ではないかと思います。  
しかしながら、今度の提案は、いままでになかった、画期的な内容を含んでおります。小教区の枠組みを中心にして、その上に教区がありますが、横の連絡を付けながら、小教区を越えて、新しい宣教のありかたを樹立したい。  

これから、司祭、奉献生活者、信徒が、それぞれの役割を果たしながら、みなで宣教しましょう。信徒のかたがたに、もっともっと役割を担っていただきましょう。そのために、わたくしたちの間の共通理解、準備が必要だと思います。  

できるところから、できることを始めたい。そして、とりあえず、決めたことも、いろいろな問題にぶつかるたびに、柔軟に対応し、修正して行きたい。  
教区全体が一斉に始めることはできないと思います。ですから、どちらから始めることができるかなどを、もっと検討したいと思います。  

なお、ご存知だとは思いますが、わたくしは昨日76歳になりまして、75歳が定年ですから、わたくしの任務がいつまで続くかは、分かりません。恐らく、そう長くはないと思います。  

先ほど選ばれた司祭評議員のみなさま、どうぞ、今回の司祭集会の話し合いを、さらに検討していただいて、東京教区のより良いあり方を考え、進めていただきたいと、心から願っております。  
次に、ウェルカムテーブルを考える会からの提言についてです。  
この内容について、違和感があまりなかったのか、おおかたの共感、賛成をいただいていると、わたくしは思いました。  
もし、さらに必要な修正があるならば、直したものを、教区の中で、みなさんに配布したい。しかし、このまますぐに、という訳ではなく、さらによく検討をして行きたいと考えております。  

次に、新福音化委員会についてです。  
「新福音化」という言葉に、違和感を覚えるかたがいらっしゃいます。日本のようなところで、新も旧もありませんが、カトリック国では行き詰まっている。  
ですから、新しい熱意で、新しい決意で、新しい方法で、新しい表現で、何でも新しくやり直そうというように思われたと、わたくしは解釈しております。  

聖フランシスコ・ザビエルが、来日して、宣教して、もう400年、500年になります。  
最初の日にも申し上げましたが、再宣教150年、非常に熱心な、優秀な福音宣教者、宣教会、修道会のかたが日本に送られて、努力していただいております。  
日本の教会は、みながよくやっている。その中で、人数は少ないが、信者になるかたがいる。この事実だけでも、大変なことだと思っております。  
そこで、さらに、いま、日本に住んでいるひとびとのニーズは何であるか。心からの願いというのは、何であるか。それに、われわれは、どのように応えているか。このようなことを、さらに検討する必要があるのではないでしょうか。  

そして、精神的な問題を抱えている人が目立つ、昨今です。  
東京教区の優先課題のひとつは、「心の問題」です。われわれは、精神科医ではないので、精神科の仕事はできませんが。しかし、司祭として、いろいろな精神の問題、あるいは、病気と健康の境目はわからないとは言え、だれでも、行暮れたり、悩んだり、迷ったりすることがあるわけですから、そのようなかたの心を、どのように受け取るかは課題かと思います。  
相手が何も考えていないのに、難しいことを、こちらが一方的に提供しても、それは全く実りの望めないことでして、日々接するひとびとの、求めていることに触れることが第一なのでしょう。そのためには、よく聞くことが大切だと思います。  
「傾聴」ということが、よく言われておりますが、「よく見、よく聞く。そして、わたくしたちの、どのようなところがつまずきなのだろうか。どのようなところが難しいのだろうか」という姿勢が求められていると思います。  
わたくしたちは、イエス・キリストを伝えるわけでして、2千年の間にできた、いろいろな教義は、必要があれば説明するけれども、それは後回しで、イエス・キリストに触れる、分かち合うことが、第一に必要なのではないかと思います。

まもなく、東京教区の新福音化委員会が開かれますので、そちらで、また話し合いたいと思います。それから、司教協議会が行った、この間、報告した、集いの様子も、そちらで分かち合って、さらに、何らかの形で、司祭団に、改めて、連絡するなり、提案するなり、するようにしたいと思っております。  

この3日間参加して、わたくしが、いま思っておりますことをまとめますと、以上の4点、みなさまへの感謝、入門講座担当者養成講座の再検討、どちらかで、いままでのやり方を越えていかなくてはならないので、できることを、できるところからやりたいというのが、わたくしの決心です。  
しかし、いろいろな課題、問題があることも承知しているつもりです。すでに、委員会の中でも話し合い、そして、それは、当然出てくる問題、疑問であるとは思っております。易しいことではないと思っております。  

ウェルカムテーブルを考える会の提言、新福音化委員会の新しい企画、こちらを進めていきたいと願っておりますので、どうぞ、みなさまの、ご理解をお願いするとともに、ご意見は、いろいろな場所で、遠慮なく出していただきたいと、思っております。  

どうぞ、みなさま、これからも、よろしくお願いいたします。参加、ありがとうございました。




司祭集会ミサ説教

2017年10月25日 箱根

[聖書朗読箇所]

説教

今日の福音朗読から、次の言葉、「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」という「みことば」が、わたくしの心に、強く迫ってきます。  
わたくしは、多く与えられた者でしょうか。だれにでも、神は、それぞれの人に、使命を授ける。その使命を遂行するために、必要な恵みを与えてくださいます。  
わたくしは、自分の役割を、どのように果たしてきただろうかと、考えざるを得ません。 そして、まだ、これからの人生がありますので、残りの人生、本当に自分が、特に求められていることに、力を注ぎたいと考えております。  

朗読は、ローマの教会への手紙が、ここのところ連続して読まれております。 「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」。  

この言葉を選んで、黙想したいと思います。わたくしの心に浮かんでくるのは、無理があるかもしれませんが、「ルターの宗教改革500年である」ということです。  

11月23日に、長崎の浦上教会、司教座聖堂で記念行事があります。  
ルターという人は、アウグスチノ会の修道者、修道司祭でした。そして、非常に熱心で真面目な修道者でした。よく祈り、苦行し、聖書を学び、聖書を教えていた。  
どんなに修行しても、どんなに努めても、自分が神の前に罪びとであるという思いをぬぐい去ることができなかった。「神からの赦しをいただいている」という安心を得ることができなかったそうです。  
彼は、詩編を講義にするという役割をいただいた。そして、あるときに、詩編の次の言葉に強く心を打たれた。  
「神よ あなたの義によって わたしを解放してください」。  
これは、ヴルガータ訳の直訳ですが、ルターにとって、「神の義」というのは、自分を裁く、神の厳しい態度、自分は、とても神に満足していただけるような人間ではないと、いつも罪の意識におびえていた。  

しかし、「あなたの義」というのは、神がわれわれを罰する義ではなく、わたしたちを義とする義であると、話が複雑ですが、わたしたちを、赦しあがなう神の恵みであると、あるいは、「あなたの義」は、イエス・キリストのことであるという解釈に達したそうです。そこで、一点突破の道が開けた。  

ちなみに、旧約聖書の原文は、「ツェデク、ツェダカー」という言葉で、これは、神があがなう、赦すという意味が強い言葉で、「神が人間を、その行いに応じて、厳しく裁き、罰する」という意味よりも、「神はわたしたちをあがない、救う」という意味であるそうです。ルターのこの解釈は、彼を新しい道に導いた。  

カトリック教会とルーテル教会の対話が進行し、基本的に「義認」の理解について、強調点の違いはあるが、基本的に一致しているという結論に至り、共同宣言が出されています。  

さらに、いろいろな点が、まだ、一致していませんが、一番大切な、「救い」ということに関しては、基本的な理解は同じです。「要望」の理解は違います。「罪」という言葉の理解も、少し違うようですが、よく聞いてみると、基本的に同じ理解をすることができるということになったそうです。  

さて、わたしたちは、いま、日本のこの地で、イエス・キリストを宣べ伝える、そのようなときに、どのような言葉で、どのように伝えたら良いのでしょうか。  
同じことを繰り返しますが、悩み、苦しみ、生きがいを失っているひとびとに、安らぎ、救いを伝えるために、どのようにしたら良いかということを、これからもご一緒に求めていきたい。  
人間は、自分の努力で自分をどうかする部分もありますが、どうにもならない部分も多い。むしろ、そのほうが多いかもしれない。そのような一人ひとりを、神がどのように包んでくださるのかということを、伝えて行かなければならないのではないかと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 ローマの信徒への手紙 6:12-18
福音朗読 ルカによる福音書 12:39-48

(福音本文)

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。) 「このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」  
そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」 

 

 

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港品川宣教協力体合同堅信式説教

2017年10月15日、年間第28主日、麻布教会

[聖書朗読箇所]

主イエスは、神の国の福音を、いろいろなたとえ話によって、説明されました。
最近の主日の福音は、3回ほど続けて、『ぶどう園』に関するたとえ話です。
『ぶどう園の主人と農夫のたとえ話』が先週(年間第27主日)、その前は、『ぶどう園に招かれたふたりの息子のたとえ話』(年間第26主日)、さらに、3週間前は、『ぶどう園で働く労働者のたとえ話』(年間第25主日)でした。

ぶどう園というのは、神様が、わたしたちを派遣して、働く場所、人々を招いて、神様のみ心を行わせるための世界を表していると思われます。
わたしたちは、この世界、ぶどう園に遣わされ、そちらで、神様のみ旨に従って、良い実を結ぶようにと、期待されています。

今日は、「王が王子のために催す婚宴のたとえ話」です。
今日の話に出てくる王は、父である神様、御子イエス・キリストのために、婚宴を催すということを伝えている話であると思われます。
『婚宴』、あるいは、『宴会』という主題は、聖書を通して、たびたび登場します。
今日の第一朗読、イザヤ書では、万軍の主が、すべての民を招く祝宴が述べられています。
「万軍の主はこの山で祝宴を開き
すべての民に良い肉と古い酒を供される。
それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
主はこの山で・・・(省略)・・・
死を永久に滅ぼしてくださる。
主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい
御自分の民の恥を 地上からぬぐい去ってくださる」(イザヤ25・6-8)。

神様が、わたしたちを、その喜びの宴会に、招いてくださるという、喜ばしい福音が、すでにイザヤ書で、述べられています。

さらに、黙示録の中では、次のように言われています。
「子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」(黙示19・9)。

神の国が完成したときのイメージを持って、神様は、すべての人を、ご自分の宴会に招いてくださるという、喜びの便りを告げています。この言葉をわたしたちは、聖体拝領の前に唱える祈り、「神の子羊の食卓に招かれた者は幸い」として唱えています。

さて、今日のたとえ話の後半です。
礼服を着ていない者は、外の闇に放り出されてしまう、と言うのです。
王は、家来を遣わして、いろいろな人を王子の婚宴に招きましたが、人々はいろいろな理由をつけて、招きを断ります。
そこで、王は、良い人であっても、悪い人であっても、誰でも良いから、呼んできなさいと命じます。そして、部屋がいっぱいになるほどの人が、婚宴の席に連なることになった。急に呼ばれて、身なりを整える余裕もないままに連れてこられた人に対して、礼服を着けていないことをとがめられるということであるならば、それは、よく分からない話であるということになりはしないでしょうか。

この、「礼服」は、何を意味しているのでしょうか。
人生には、いろいろと重要な場面、例えば「死」という場面がありますが、いつ、どのようにして、その場面が自分に訪れるのかということを、わたしたちは、よく知ることはできない。
たぶん、そのことを教えているのかもしれない。いつでも準備していなければならない。いつでも、そのときが来たら、そのときを、よく迎えることができるように、心を整え、生活を整えていなければならない。わたしたちは、そのようにしなければならないのだと思います。

恐らく、この礼服というのは、文字通りの、立派な、婚宴のときに着ていく服というよりも、王の招きに、いつでも応えることができるような、準備のことを指しているのではないかと思います。準備とは、心の準備、生活の準備のことではないかと思います。
ふさわしい心、それは、神の招きに、いつでも応えようとする信仰、そして、自分が至らないものであるということを、よくわきまえる、謙遜さ、神の恵みへの感謝、そして、神の国の完成へと、自分が連なることができるという希望を表しており、そして、そのような心構えで、日々誠実に生きる、日々の愛の実行ではないかと思います。

今日、ご一緒に献げている、このミサは、神の国の完成の宴会の前触れ、かたどりであると言われます。
ミサというのは、主として、『ことば』の食卓と、父である神との親しい交わりを示す『感謝』の食卓から成り立っていますが、ご聖体をいただくときに、ふさわしい準備をして、主の御からだをいただきます。
それは、ちょうど、神の国に最終的に入るときのことを、あらかじめ、表していると考えることができます。

さて、今日、堅信を受けられるみなさんは、『福音を宣教する』という使命を授かります。福音宣教とは、すべての人を、神の国の宴会へ招くということであると、言い換えることができます。

「神様は、すべての人を、ご自分の幸せ、ご自分の喜びの集いに招いてくださっています。ですから、いつもふさわしい心で準備していなさい。生活も整えなさい。」
そのようなことを、人々に教え、伝えることが、福音宣教ではないかと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読  イザヤ書25・6-10a
万軍の主はこの山で祝宴を開き
すべての民に良い肉と古い酒を供される。
それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた布と
すべての国を覆っていた布を滅ぼし
死を永久に滅ぼしてくださる。
主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい
御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる。
これは主が語られたことである。
その日には、人は言う。
見よ、この方こそわたしたちの神。
わたしたちは待ち望んでいた。
この方がわたしたちを救ってくださる。
この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。
その救いを祝って喜び躍ろう。
主の御手はこの山の上にとどまる。

第二朗読  フィリピの信徒への手紙4・12-14, 19-20
〔皆さん、わたしは、〕貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。
それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

福音朗読  マタイによる福音書22・1-14
〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに〕たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』
しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』
そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」

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子どもの家エラン開所式説教

2017年10月11日

[聖書朗読箇所]

今日の開所式、そして、祝別式にあたり、みなさまに、ひと言申し上げます。

こちら家は、カトリックの女子修道院の家でしたが、わたくしどもが譲り受けまして、このたび、『子どもの家エラン』として、再出発することになりました。今日、こちらに集まって、わたくしたちは喜びを分かち合いながら、希望を新たにし、励まし合って、歩んでゆきたいと思います。

わたくしどもの団体、公益財団法人東京カリタスの家は、財団法人ですが、もともとはカトリック教会の活動として、出発いたしました。われわれの歩みの中で、多くの方のご指導、ご理解をいただき、今日、改めて、公益財団法人の活動として、みなさまに、より一層のご理解、ご指導を願うことになりました。

いま、わたくしが読みました聖書の箇所は、イエス・キリストの復活に関わる箇所です。わたしたちの宗教は、ナザレのイエスといわれるひとりの人の生涯、特に、その《死と復活》という出来事に基づいて成立し、発展してきました。
それは、ナザレのイエスという人の物語です。エルサレムで、惨めな最後を遂げた、ひとりの男、イエスは、ナザレというところの出身なので、ナザレのイエスと呼ばれる男の物語です。

そのイエスは、たしかに、十字架の上で処刑されて、地上の生活を終えたけれども、そのイエスが、いまも生きている、三日目に復活されたという信仰が生まれました。
その信仰を分かち合った人々が、ひとつの団体となり、そして、世界中に広がって、今日、キリスト教の団体がたくさんあります。

いま読まれました箇所は、悲惨な出来事の直後、その出来事を目の当たりにした二人の弟子が、どのような理由でしょうか、エルサレムから、ずっと西の方にあったと言われている、エマオというところを歩いていたときのことです。
一人の旅人が近づいてきて、一緒に歩きはじめた。そして、道々、いろいろな話をした。その話の中心は、エルサレムで起こった、大変大きな、悲しい、ひどい出来事のことです。その旅人は、その出来事に関して、聖書の説明をしながら、弟子たちに、その出来事の意味を話してくれた。そのような物語です。
行き先は、エマオという場所であったそうです。エルサレムの西の方角にある村のようでして、およそ、10キロメートルから12キロメートルくらいでしょうか、歩くのには、少し遠い場所でしたが、当時の人々にとっては、そんなに難しくない歩行距離でした。
そこで、彼らは、日が暮れたので、夕食をともにした。そのときに、その旅人が、実はイエスであったということに、ふたりの弟子は、最初は気が付かなかった。
イエスがパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、お渡しになったときに、二人の目が開け、イエスだと分かったのですが、その瞬間、イエスの姿は見えなくなりました。
弟子たちは、何時間か、イエスとともに過ごし、「イエスが死と罪を乗り越えて、その姿を弟子たちに現された」という体験をしました。
不思議なことですが、それ以外の箇所でも、復活のイエスと出会ったという話があります。そして、その体験は、イエスが、いつもそばにいて、それだと分かるというような現れかたではなくて、現れては消えてしまうという、そのような出現の出来事であったと、聖書が伝えています。
「東京カリタスの家」はキリスト教の活動として出発しました。キリスト教徒はイエス・キリストの《復活》という出来事にも続いて成立した信者の集まりである、ということを今日お集りの皆様にご理解いただければ幸いです。わたしたちは、《キリストの復活の証人》となることができますよう、努めております。

さて、今日、子どもの家エランの開所式にあたり、こちら家に集まり、ともに過ごす人々、職員、利用してくださる子どもたち、その保護者、ご家族の方、そのような方々にとって、こちらで過ごす時間が、本当に力となり、励ましとなり、心を明るくするような、いわば「復活のキリストとの出会い」のような体験をする家となって欲しいし、またそのようにできると信じます。
それは、誰が見ても、それだと分かるような、そのような明白な体験ではないかもしれません。「しるし」のような体験かもしれません。
この家で、お互いに心を開き、信頼して、そちらに働いてくださる、何かの力、信仰している者にとっては、神の力を認め、そして、感謝しながら、誰にとっても、日々体験する、様々な問題、困難があるという現実の中で、喜んで、希望を持って、日々の生活を送ることができますように、今日は、そのための恵みを、神様に願い、求めたいと思います。

子どもの家エランを利用する人々に、恵みと平和がありますように。
こちらの祈りを心からお献げしたいと思います。

聖書朗読箇所

福音朗読  ルカによる福音書24・28-32
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

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武蔵野北宣教協力体合同堅信式説教

2017年10月9日、清瀬教会

[聖書朗読箇所]

武蔵野北宣教協力体の合同堅信式を、清瀬教会で行う今日、わたくしは、大変嬉しく感じております。

いま、読まれました、ヨハネの福音ですが、復活した、主イエスが、弟子たちにお現れになった様子を告げています。
弟子たちは、イエスの十字架の死という、出来事に出会い、非常な驚き、おそれ、不安、悲しみをおぼえていたと思います。
どうして良いか、分からない。どちらかの家に引きこもって、固く戸を閉め、鍵を掛けて、誰も入ってこないようにしていたと思われます。そちらに、イエスが入ってこられた。
「あなたがたに平和があるように」と言われた。そのとき、弟子たちは、非常に喜びました。毎回、この箇所を読むときに、「喜んだ」ということが、非常に大切なのではないかと思います。イエスがよみがえられたことを喜びましたが、同時に、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださったことを、喜んだのではないでしょうか。

ペトロをはじめとする弟子たちは、どのようなことがあっても、あなたに従いますと、大見得を切ったにも関わらず、みな、イエスを見捨て、逃げてしまった。先生を裏切ってしまったという悔恨、申し訳ないという気持ちがあったと思います。そして、ユダヤ人のことも恐ろしかった。
その弟子たちに、イエスが、「あなたがたに平和があるように」と言われた。弟子たちは、自分たちがしたこと、過ちを、イエスが赦してくださったのだということを、実感することができました。この喜びの体験が、教会の誕生となったのだと思います。
イエスは弟子たちに、聖霊を授ける。そして、聖霊によって、罪の赦しをすることができる力をお授けになりました。

第一朗読は、使徒言行録の2章、弟子たちの上に、聖霊が降りてきたという出来事を告げている聖霊降臨の場面です。
多くの国から集まってきた人々は、聖霊の恵みによって、お互いに、言葉の違い、文化の違いを越えて、言葉を理解する、特別な恵みを受けたと、聖書は伝えています。
わたしたちの教会は、このようにして誕生しました。教会というのは、言葉、民族、国家、文化、習慣、いろいろな違いがあるが、その違いを大切にしながら、同じ神様を信じ、同じイエス・キリストを救い主と信じ、聖霊を受け、神様の福音を宣べ伝え、証する共同体、同じ神の民です。
そして、教会は、このときから、イエス・キリストを宣べ伝える、宣教する共同体になりました。
堅信を受けるみなさんは、聖霊降臨のときの恵みと同じ恵みをお受けになります。聖霊降臨のときに降った聖霊と同じ聖霊が、みなさんに与えられて、聖霊の7つの賜物が授けられます。
福音を宣べ伝えるという使命は、教会が授かったもの、全員が受けた使命です。司祭、司教にとっては、当然の仕事ですが、全員が洗礼を受け、特に、堅信を受けるみなさんは、全員、自分の信仰を人々に表し、伝えなければなりません。
自分が信者になったのはなぜか。自分にとって、イエス・キリストは誰であるか。どのようにして、自分は信仰を生きているのか。なぜ、信仰が自分にとって必要であるか。
そのようなことを、自分の言葉で話してください。自分の体験を話してください。

日曜日、司祭は忙しいので、教会に来る人、ひとりひとりの話を丁寧に聞いたり、聖書のお話をしたりする余裕が、なかなかありません。そのようなときに、教会では、司祭を助けて、自分の信仰を、あるいは、カトリック教会の教えを、自分の言葉で伝える人が必要です。
そのような人を、東京教区は、しっかりと準備したい。そのような計画を、いま、作っています。

また、はっきりと勉強したいという気持ちはないようだが、教会に来たという人に、「こちらに来て良かった。自分の場所がある。自分の問題を話すことができそうだ」と思っていただけるような、そのような教会でありたい。
既にそのようにしていると思いますが、もっと、苦しんでいる人、悩んでいる人、迷っている人が近づきやすい、安らぎを見出すことができるような共同体になるように、お互いに努力したいと思います。

いまから30年程前、1987年11月でしたが、日本のカトリック教会は、福音宣教のための、非常に大がかりな会議を開きました。
福音宣教推進全国会議、『NICE(ナイス)』と言っておりますが、開かれた教会作りをスローガンに掲げました。人々が近づきやすい、入りやすい、自分の場所を見つけやすい、そのような教会になろうという目標を掲げました。

キリスト教はなじみにくい、敷居が高いと思われている。どうしてなのでしょうか。
わたしたちが、あまり人を歓迎するような態度を持っていないからでしょうか。あるいは、信仰は自分の心の問題であるから、他の人には関係ないと思っているからでしょうか。あるいは、わたしたちの日々の生活を見て、躓くとは言わないまでも、この人たちがしていることは、あまり自分には響かない、言っていることとしていることが合っていないと思っているからでしょうか。あるいは、キリスト教の教え自体が難しいのでしょうか。

教えを、みなが分かりやすい教えに変えるということはできません。イエズス様がおっしゃったことを、こちらの都合の良いように捻じ曲げるということはできませんが、説明の仕方が難しいのかもしれません。
よく、プレゼンテーションという言葉を聞きますが、相手が分かるように、受け入れやすいように、提出しないといけない。相手が、どのような必要を持っているのか、どのような人であるのかをよく見ながら、接触しないといけません。
その点、カトリック教会は落第であったと思います。東京教区は、全員、イエス・キリストの福音を宣べ伝え、教えを実行する教会として、成長していきたいと思います。

今日、堅信を受けられるみなさん、みなさんにできることをしてください。できるようになるためには、お祈りが大切です。神様の恵みがないと、できません。ひとりのときも、朝起きたとき、夜寝るとき、昼間も、「どうか、神様、わたしを助けてください」と祈りましょう。
聖母マリアの助けを願い、聖人の模範を、もっとよく学ぶようにしたいと思います。
どうぞ、堅信を受けられるみなさん、2017年の、この良い日、いつまでも大切に思い起こしていただきたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読  使徒言行録2・1-11
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

福音朗読  ヨハネによる福音書20・19-23
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

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2017年こどものミサ説教

2017年10月8日、東京カテドラル聖マリア大聖堂

[聖書朗読箇所]

2017年の『こどものミサ』は、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という、ルカによる福音書の言葉から採られ、副題は「今日 愛と優しさをもって」となっております。今日、ご一緒に、この福音書の言葉を学び、分かち合いをしたいと思います。

イエスの一行は、町や村を巡り歩きながら、エルサレムに向かって進んでいました。
すると、誰かが、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(ルカ13・23)と聞いたとあります。
「救われる者が、多いか、少ないか」という問題に、主イエスは、直接お答えにならなかったような印象があります。そして、次のように言われました。
「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。(ルカ13・24-25)

もし、わたしたちが、「お前たちがどこの者か知らない」と言われたら、困ってしまいます。どのような場面なのでしょうか。
もしかしたら、もう、神様に向かう旅路が終わるとき、つまり、わたしたちが、この地上の生涯を終えて、神様の前に立つというときのことなのかもしれません。

わたしたち人間は、神様のみ心に従って、この世に送られてきました。そして、また、神様のところに戻る旅、長い旅、人によっては短い旅、途中、いろいろなことがある、危ないことがある、難しいことがある、よく分からないことがある、その旅を歩んで、神様のところへ向かう。そして、わたしたち人間は、いつか、死ななければならない。死ななければならないというよりは、死ぬことができると言った方が良いのかもしれない。
でも、もし、その最後の時に、神様から、「お前のことなど知らない」と言われたら、これは、非常に困ります。「よく来たね。よく頑張ったね。さあ、いらっしゃい。大歓迎だよ」と言ってもらいたいわけです。

どうでしょう。わたしたちは、そのように言ってもらえるでしょうか。
わたしたちが、毎日、神様がお喜びになるようなことをし、何も悪いことはせず、問題になることがなければ、胸を張って、「さあ、到着しました。わたしは立派に生きてきました」と言うことができるのですが、なかなか、そのような人はいません。もし、そのように言うとしたら、正直ではないと思います。

旧約聖書は、神様がお教えになった色々な掟、とくに大切な10のおきてである十戒を教えています。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われました。そこで、わたしたちは、そのようにしようと頑張っている。しかし、そうであるとは言っても、みなさんがどうであるかは、わたくしには分かりませんが、わたくしなどは、とても、胸を張って、「わたくしは問題ありません。真っ白です」と言うことができない。いつも、「申し訳ありません。もう少し頑張ってみます」という気持ちでいます。

人間は、自分の力で、神様のお望みになることを、完全に果たすことはできないと思います。
では、どうすれば良いのか。わたしたちの救い主、イエス・キリストがおられます。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14・6)
逆に言うと、「わたしが一緒だから、あなたがたを、天の御父のところを連れて行ってあげるよ。わたしと一緒に来なさい。わたしに信頼しなさい。あなたが弱い者であり、罪を犯す者であるということを、わたしは知っている。それでも、わたしに信頼する限り、わたしに打ち明けて、一生懸命やりますと言う限り、あなたは、毎日、新しく生まれることができる」と言っていただく。
ですから、やっと、神の国を完成する日、あるいは、天の御父がお住みになっている家に来て、門をたたいて、「開けてください」と言うときに、御子イエス・キリストが、いつも一緒にいてくださること、御子がとりなしてくださることを信じる人、何か問題があっても、「ごめんなさい。わたしにはこのような問題があります。でも、そのようなわたしを、神様は、赦し、大切にしてくださっています。それを信じます。神の愛を信じます。どうか、宜しくお願いします」という気持ちでいる人、そのような人が、「よく来たね。どうぞ、どうぞ」と言って、中に入れてもらえるのだと思います。

この、『狭い戸口』は、狭いからなかなか入ることができないと、よく言います。これは、イエズス様を知らない人にとっては、難しい。それは、狭いとか、広いとかという問題ではありません。
人間は、どんなに努力しても、神様のお望みになることを、全部果たすことはできません。できないということを分かっている人は、イエズス様の導き、イエズス様からいただく赦しを信じます。

わたしたちの教皇フランシスコは、『いつくしみの特別聖年』を行いました。
「『神様はいつくしみ深いかたである』ということを、もっと深く、信じることができるように、毎日を過ごしましょう」という話がありました。そのことを、思い起こしましょう。
人生には、危険なこと、困難なことがあります。失望したり、絶望したりすることがあるかもしれない。そのようなときにでも、復活したイエスが、いつも一緒にいてくださるように、イエスの霊、聖霊は、わたしたちと、いつも一緒にいてくださると、そして、いろいろな聖人の模範があり、聖人もいろいろな困難の中で、信仰を守り、主イエスとともに神さまのもとにたどり着きました。

いま、もしかしたら、大変困難な時代であるかもしれない。この日本において、イエス・キリストを信じ、神様を信じ、そして、生涯を信者として生きるということは、易しいことではありません。それを、みなさんはしている。大変立派なことだと思います。
お互いに助け合わないといけません。信仰というのは、その人と神様の関係ですが、神様を信じる者同士が、励まし合うことによって、わたしたちの信仰は、より確かな、より強いものになっていきます。

年に1回の『こどものミサ』は、そのために、非常に大切な、素晴らしい機会であると、わたくしは思います。今日、カテドラルに集まってくださったことを、本当に嬉しく、感謝しております。

聖書朗読箇所

第一朗読  テモテの信徒への手紙Ⅱ1・6-14
〔愛するテモテへ〕 わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。
キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。
というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。
キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。

福音朗読  ルカによる福音書13・22-30
イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。
あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

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2017年こどものミサ挨拶

2017年10月8日、カテドラル

ごあいさつ

「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(ルカ13・23)  

-今日 愛と優しさをもって-

ことしのこどもミサのテーマは
「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(ルカ13・23)
-今日 愛と優しさをもって- です。
昨年のテーマは「いつくしみの特別聖年」を祝って、
「何回赦すべきでしょうか。七回までですか」(マタイ18・21)
-神さまのいつくしみは永遠-
でした。この二つのテーマの間にはどんなつながりがあるでしょうか、一緒に考えてみたいものです。
そこでこのテーマを頂いていま心に浮んでくる「想い」を自分の予習のための覚書として書いてみます。
イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」(ルカ13・24)
このお言葉はどういう意味だろう。マタイ福音書では「門」となっています。
(マタイ7・13-14)・・・どこに行くための戸口だろうか。・・・またイエスは言われました。「わたしは羊の門である。」(ヨハネ10・7)さらにまた言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14・6)
このように考えてみると、この「戸口」「門」とはイエスご自身のことではないかと思われます。
「いつくしみの特別聖年」でわたしたちは、主イエスのいつくしみについて学びました。イエスという「戸口」を通るとは、イエスのいつくしみを受けること、知ること、そして実行することではないか、と思います。そしてそれはまさに「今日、愛と優しさをもって」人々に仕えることでありましょう。
その際、次の聖書の言葉が大きな慰めになります。
「(主よ)あなたは存在するものすべてを愛し、造られたものは何一つ忌み嫌われない」(知恵の書11・24)のです。
そしてイエスはこの言葉〈主よ、救われる者は少ないのでしょうか〉を、イエスはエルサレムに上る道の途中で述べられまた。エルサレムでイエスを待っているのは、受難、十字架、そして復活という出来事です。イエスは弟子たちに「自分の十字架を背負ってついて来るものでなければ、誰であれ、わたしの弟子ではありえない」(ルカ14・25)ともいわれました。「狭い戸口」から入るということは自分の十字架を背負うということでもあると考えます。




調布教会創立50周年ミサ説教

2017年10月1日、年間第26主日

[聖書朗読箇所]

調布教会創立50周年を祝う、今日、年間第26主日のミサで、ただいま、読まれました福音、そして、朗読をご一緒に味わってまいりたいと思います。
今日の福音は、お聞きになられたように、2人の息子についての、たとえ話です。
先週の日曜日の話もたとえ話で、ぶどう園で働く労働者のことでした。今日も、ぶどう園で働きなさいという話です。
この話は、わたしたちに、何を告げてくださっているのでしょうか。わたくしの心に強く残る、イエズス様のお言葉は、次の箇所です。
「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」。
(マタイ21・31)

徴税人、あるいは、娼婦と呼ばれる人たちは、代表的な罪人とされていました。罪人というのは、神様のおきてを守らない、あるいは、守ることができない人々です。蔑(さげす)まれ、嫌われ、見たくもないとされるような、汚れた人々とされていました。

この、徴税人や娼婦に対して、立派に神様のおきてを守り、そして、教えている人々、聖書では、しばしば、ファリサイ人、あるいは、律法の専門家と呼ばれている人々を指しているようですが、今日は、祭司長、民の長老という人たちに向かって、イエスは言われております。

いずれにせよ、この人たちは、洗礼者ヨハネの言葉を受け入れなかった。受け入れる必要を認めなかった。自分たちは、きちんと、神様の言葉を守り、人々に教え、そして、立派に民の指導をしていると、指導を受け入れない、哀れな困った人たちが、徴税人や娼婦と呼ばれる人たちでした。

祭司長、民の長老、あるいは、たぶん、律法学士、ファリサイ派の人々は、自分たちは、立派に神様のおきてを守っているし、神様のみ心に適う者であるという自覚を持っていた。自負していたと思います。
それに対して、徴税人、娼婦の方は、日頃から、自分たちのしていることは良くないことだと思い、さらに、自分たちが、人々からどのように思われているかということも分かっていました。

ここに、対照的な2つのグループがある。「自分は神様のみ心を行っている者である」という人たちと、「神様の定めから大きく外れている者である」というように自覚する人たち。
わたしたちは、どちらでしょうか。あるいは、両方でしょうか。

さて、このイエスの言葉、「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」というお言葉は、どのような意味でしょうか。
『徴税人、娼婦たちは、自分たちが罪人であり、そして、罪の赦しを受けなければならない者であるという自覚を持っていた』ということに注目したいと思います。

また、この2人の息子の話ですが、「ぶどう園に行って働きなさい」という呼びかけは、どのような意味でしょうか。
わたくしは、次のように考えています。『ぶどう園に行って働く』ということは、イエス・キリストによって示された、神の愛、神のいつくしみ、罪深い人間を受け入れ、赦してくださる、神の愛を信じ、その神の愛に応えて生きる決意を新たにすることだろうと思います。

わたしたちは、洗礼を受けたとき、「信じます。悪霊とそのわざを捨てます」というような約束をしました。まして、修道誓願を立て、あるいは、司祭の叙階を受けた者は、もっと、何重にも、そのような決意を新たにしました。

では、その通りにしているか、100パーセント大丈夫かと言いますと、他のかたは存じませんが、わたくしは、本当に恥ずかしい。内面、「忸怩(じくじ)たる思いがする」のであります。きちんと、約束したことを守り切ってはいない。
でも、そうしなければならないと思い、いつも祈ります。「あなたは、わたしのことをすべてご存知です。わたしが、どのような状態にあるか、わたしの心がどのようなものであるかをご存知です。どうか、それを承知の上でも、このわたしを赦し、務めを果たすことができるよう、励まし、導いてください」。そのように祈ります。

この祭司長、あるいは、民の長老、律法学士、ファイサイ派の人の心の中に、そのような思いがあったかどうかは、知ることができませんが、イエスが、別の箇所で、彼らに向かって、
「あなたがたは、白く塗った墓のようなものである。外側は綺麗だけれども、中は醜い。人間の死骸で一杯だ」
というような、大変な強い非難の声をぶつけているところからしますと、自分たちは、外側だけではなく、内側も問題なく綺麗だと思っていたのかもしれない。
しかし、いかに立派な人間であっても、わたしたちは、100パーセント、すべて神様に満足いただけるような人間にはなり切れないと思います。

さて、そのように思いながら、今日の朗読で、大変心に響く、あるいは、気になる言葉を、お伝えしたいと思います。
それは、第二朗読にある言葉です。
「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」。

わたしたちは、毎日、いろいろな人と一緒に生活し、いろいろな人のおかげで生きています。考えてみれば、ひとりで何もすることはできない。本当に、いろいろな人に、教えられ、助けられ、そして、許されて、自分の生活をし、自分の務めを果たしている。
そうなのですが、相手を自分より優れた者と考えなさいと言われても、優れている点はあるけれども、この点については、この人は自分よりできると思っても、この言葉が、『その人を自分よりも優れた者と、心の底からそのように考えて、尊敬するということ』を意味しているとすれば、できていない。これは、どのような意味なのだろうか。どうして、今日の第二朗読に、今日の箇所が取り上げられているのだろうか。こじつけかもしれませんが、立派に神様のおきてを守っていると思っている人にとって、罪人である、徴税人、取税人は、とんでもない人たちです。

わたしたちは、そこまでは思わないとしても、自分はこうしているのに、相手はこうではないか、という思いを持つことがないだろうか。そのことについても、わたくしの個人の心の問題ですが、極端なことを言いますと、毎日、これはこうではないかと思うが、こうしてくれない、という思いが湧いてきます。
まして、こちらで言われている通り、「利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、ひとりひとりの人を、自分を助けてくれる、大切な人と考えなさい」というパウロの言葉を、もっと、しっかりと心に留めて、実行していきたいと思います。

今日は、調布教会創立50周年、これからの新しい歩み、100周年、200周年に向かって、さらに、ずっと先まで歩みますが、みなさんに送りたい言葉は、次の通りです。
これは難しいことかもしれませんが、「互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」という十分意味のある大切な言葉です。
毎日、この言葉をどれだけ実行できたかを反省するだけで、素晴らしい進歩ができるのではないでしょうか。わたくしも、人に言うからには、もっと自分で、実行するようにしたいと思います。

遅ればせながら、今日、50周年、心からお祝い申し上げます。

聖書朗読箇所

第一朗読  エゼキエル書 18:25-28
〔主は言われる。〕「お前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。」

第二朗読  フィリピの信徒への手紙 2:1-11
〔皆さん、〕あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
《キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。》

福音朗読  マタイによる福音書 21:28-32
〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。〕「あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」
彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

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年間第25主日徳田教会堅信式説教

2017年9月24日

[聖書朗読箇所]

今日、年間第25主日の福音は、ぶどう園で働く労働者の話です。
このミサの中で、堅信式が行われますが、今日の主イエスのみことばが、堅信を受けるかたがたのために、どのような意味を持っているのかということを、ここに集うわたしたち一同で、分かち合いたいと思います。

主イエスの教えは、しばしば、わたしたちにとっても、分かりにくいと感じることが、あるのではないでしょうか。
今日の、天の国のたとえ話も、そのようなもののひとつであると思います。
天の国、あるいは、神の国は、わたしたち人間の思いを、はるかに超えた世界であり、神様の定められる道は、わたしたち人間が、こうではないかと思う、いわば、常識とは、大変かけ離れたものであるということを、今日のミサの第一朗読、イザヤ書が言っております。

朝早く、世が明けるときから働き始めた人と、夕方5時ごろ、やっと仕事に有り付いて、1時間だけ働いた人がいた。朝9時、12時、3時、それぞれの時刻に雇われた人がいましたが、全員同じ報酬、1デナリオンを受け取った。当然、報酬を受け取った人の間には、分からないとか、変だとかという思いが生じたことでしょう。
わたしたちも、この話を読んで、これは何を言っているのだろうかと思います。
もし、わたしたちが、朝早くから働き始めた人の立場にあるとすると、1時間しか働かなかった人と、同じ報酬しかもらえなかったということに対して、大変不満を感じる。しかし、夕方5時になって、働き始めた人の立場になると、これはありがたい、嬉しいことだと思うのではないでしょうか。

考えてみれば、この社会とわたしたちの人生は、このぶどう園のようではないかと思います。
格差のある社会ということが言われて久しい。わたしたちは、自分の努力で変えることのできない、格差、あるいは、あえて言えば、差別のある社会の中に生まれ、生きなければならない。
かつては、人間、努力をすれば、それなりの成果を得られるという、希望のある時代もあったと思います。
いまの日本の社会では、人々はどのように感じているのでしょうか。
努力しても、努力しても、その実りを味わうことが難しいと感じる人が、多いのではないかと思います。

さらに、わたしたちは、すでに、この世に生を受けたときから、格差のある状態にあると言っても、良いのではないでしょうか。
自分の力ではどうにもならないこと、もちろん、自分の意志、自分の決断、努力で変えることができることはたくさんあるし、人生というものは、ひとりひとりが自分で判断し、自分で決断し、努力して築いていくものです。
しかしながら、どうしても、どんなに頑張っても、どうにもならないという現実を、否定することはできません。

それでは、そのようなわたしたちの状態を見て、神様は、どのように思っていらっしゃるのか。そして、あえて言うならば、どのようにしてくださるのか。
ナザレのイエスという人は、そのような問題に対して、鋭い切込みをした人ではないかとも思われます。

こちらに集う、わたしたち、ひとりひとりは、社会の中で、いろいろな関わりを持って生きています。
その関わりというものは、非常に大切であって、それぞれ、その社会、その環境の中で守るべき、あるいは、期待されるべき、習慣、規則、法律などがあります。
利益を追求する会社は、当然、利益を優先しますが、公益を求める、いろいろな団体、公益財団法人、あるいは、社会福祉法人、そのような法人があります。
このような法人が、自分の法人のありかたや、運営について、それぞれ、自分たちの守るべき、基本的な心構えを定めていると思います。

そして、さまざまな必要と、事情の中で、弱い立場に置かれている人々、困っている人々、あるいは、差別されている人々、病気、障がいに悩む人々のために、よかれと思って、わたしたちは努力しています。
このイエスの教えを、どのように受け止め、それぞれの場所で実行したら良いのでしょうか。わたくし自身も、しばしば、いわば、管理的な立場にありますので、悩むところです。

このようなときに、しばしば、思い出す、聖書の言葉を、今日、改めて、紹介したいと思います。
「あなたは存在するものすべてを愛し、
お造りになったものを何一つ嫌われない。
憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。
あなたがお望みにならないのに存続し、
あなたが呼び出されないのに存在するものが
果たしてあるだろうか。
命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、
あなたはすべてをいとおしまれる」。
知恵の書からとられた言葉です。(知恵11・24-26)
すべてのもの、特に、わたしたち人間の存在をお望みになり、そして、すべての人を、かけがえのない、大切な存在とされ、いとおしく思ってくださる、主なる神様がいらっしゃる。
そして、神様は、そのように思うだけではなく、その思いを実現するために、わたしたちの人生を導いてくださっている。そのように、わたしたちは信じます。
そして、お互いに、そのような神様の思いを信じる者同士、互いにゆるし合い、受け入れ合い、助け合って、わたしたちが置かれている、ぶどう園の中で、一緒に働き、神様の愛を、より深く味わい、実行することができるよう、今日、特に、お祈りを献げたい。

堅信を受けられるみなさん、みなさんは、聖霊の賜物、7つの賜物を受け、そして、このような神のいつくしみを、より深く知り、伝え、そして、行うことができるように、励まされます。

どうか、この堅信の恵みを、いつも思い起こし、困難な中にも、神様の、このいつくしみ、そして、ぶどう園で働く労働者の話の中で示されている、神のいつくしみを、忘れずに思い起こし、祈るようにしていただきたいとお願いいたします。

聖書朗読箇所

第一朗読  イザヤ書 55:6-9
主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。
呼び求めよ、近くにいますうちに。
神に逆らう者はその道を離れ
悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。
主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。
わたしたちの神に立ち帰るならば豊かに赦してくださる。

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。
天が地を高く超えているように
わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。

第二朗読  フィリピの信徒への手紙 1:20c-24、27a
(皆さん、)生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。
ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。

福音朗読  マタイによる福音書 20:1-16
(そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。)「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

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イエズス会司祭叙階式説教

2017年9月23日

[聖書朗読箇所]

受階者
アロイジオ  大西 崇生(たかお)
ヨセフ    グエン・タン・ニャー
洗礼者ヨハネ ファン・デュック・ディン

説教

今日は、大変嬉しい、喜ばしい日です。
3人にとっては、その人生の中で、もっとも晴れがましい、もっとも喜びに満ちた、もっとも多くの人から祝福を受ける日になっているのではないかと思います。

さて、いま読まれました、叙階式のための福音は、主イエスのご変容の場面です。
ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子は、高い山の上で、主イエスが光り輝く、栄光の姿に変わる場面を目撃し、非常に感動いたしました。
この出来事は、イエスが受難に向かう、すぐ前のことであったと、福音書は伝えております。

主のご変容にあずかったのは、3人の弟子、今日叙階される人も3人。
なぜ、この場面が、今日の叙階式の福音朗読に選ばれたのか、3人に聞いたのですが、思い出せませんが、いわば、主の変容の栄光にあずかる日であると言っても良いのではないでしょうか。

さて、このご変容というのは、弟子たちに向けて、イエスが、これから、自分が受けるべき受難、十字架上の死、そして、復活という、神秘に満ちた出来事に、弟子たちが備えるように、あらかじめ、お示しになった出来事であり、変容の栄光は、主イエスの復活の出来事の前触れであると思われます。

3人は、今日、いわば、主の復活の栄光にあずかりますが、これは、ほんのしばらくの間のことで、しばらくは、お祝いの日々が続くのでしょうけれども、やがて、司祭としての任務を、忠実に遂行する日々、それは、日々祈り、日々黙想し、そして、日々、人々の声に耳を傾ける。毎日献げる、ミサのいけにえに、人々の献げ物と一緒に、自分自身の日々の犠牲、苦しみを献げるという日々が、毎日待っています。

司祭は、日々、人々と苦しみをともにし、悲しみを分かち合いながら、自分自身の問題と向き合い、そして、ときには、悩み、苦しみながら、自分の司祭の生涯を全うできるよう、多くの人に祈りを求め、そして、何よりもともにいてくださる、主イエス・キリストへの信仰を深める、そのような日々を過ごします。

「あなたがたは、キリストにおいて、人々を聖なる者とする務めを果たす者となります。
キリストの奉献はあなたがたの手を通して信者と共に祭壇の上で秘跡として祭儀のうちに献げられるのです。ですから自分の行うことをよくわきまえ、それを生活の中で生かし、主の死と復活の神秘を祝う者として、自分自身があらゆる悪に対して死んだ者となり、新しいいのちのうちに歩むように努めてください」。(叙階式儀式書より)

今日の第一朗読で、使徒パウロが、次のように教えています。
「キリストはすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分のために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。あなたがたは、日々肉において死に、霊において新たに生まれる、という生き方を、日々生き、そして、その生き方を、人々の前にあらわしていかなければなりません」。

「仕えられるためではなく、仕えるために来られ、失われていたものを探し求めて救いに導くために来られた、よい牧者キリストにならって、日々の生活を献げてください。人々に、謙遜に仕え、しかし、牧者としての務めである、教えるべき時に教え、糺(ただ)すべき時には糺すという務めを、どうか、立派に果たしてください。決して、「自分自身を養う牧者」のようであってはなりません。あなたがたは「弱い者を強め、病める者・傷ついた者を癒し、失われた者を尋ね求め、追われた者を連れ戻す牧者(エゼキエル34章参照)、主イエスにならって羊のためにすべてを献げるよい牧者となってください」。

みなさん、そのように、今日叙階される3人が歩むことができますようご一緒にお祈りいたしましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読  コリントの信徒への手紙 二 5・14-20
なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。

 

福音朗読  マルコによる福音書 9・2-10
六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。

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小川拓郎神父葬儀説教

2017年9月6日13時、東京カテドラル聖マリア大聖堂

[聖書朗読箇所]

ペトロ 小川拓郎(おがわひろお)神父様は、9月2日午前0時9分、天の御父のもとへと旅立たれました。
6月頃から、のどに異常を感じておられたようですが、病院で検査した結果、かなり進行している食道がんであるということが分かりました。
わたくしは、7月13日にお見舞いし、病者の塗油をお授けしました。
そのとき、小川神父様は、わたくしに、「司教さん、わたしはこれから神様のもとに行きますが、どのような準備をすれば良いでしょうか」と言われました。

豊四季教会主任司祭の立花昌和神父様をはじめ、豊四季教会のみなさまが、小川神父様のお世話を、本当によくしてくださり、そして、小川神父様ご本人も、天の御父のもとに旅立つための、非常に良い準備をされて、最後のときを迎えられたと、わたくしは思いました。
昨日は、豊四季教会でお通夜がありましたが、本当に多くの人から慕われ、惜しまれて、地上の生涯を終えたことを、しみじみと感じました。

神父様は、豊四季教会の現役の協力司祭として司祭の生涯を全うされました。
豊四季教会には14年おられましたが、着任した2003年から主任司祭、その7年後に協力司祭となられました。

神父様の、信者としての、そして、司祭としての生涯を振り返ってみますと、1947年に洗礼を受けておられます。神父さんは1931年生まれですから、16歳で洗礼を受けたことになります。日本が戦争に負けて、やっと復興に向かうというときであったでしょうか、日本全体が貧しいとき、16歳の少年であった、小川神父さんは、昼間は働きながら、夜は定時制高校に通って、家計を助けておられたそうです。
大森教会で洗礼を受けられ、そして、司祭になる決心をし、神学校に入り、司祭に叙階されたのは、1962年、31歳の時です。それ以来、助任司祭として、JOC全国指導司祭、主任司祭として、奉仕されました。
このように神父様は、若いときに、イエス・キリストに出会い、召命をいただいて、司祭となられました。

今日の福音朗読では、弟子のフィリポが、主イエスに向かって、
「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」(ヨハネ14・8)と言ったと伝えておりますが、そのフィリポに対して、イエスは言われました。
「わたしを見た者は、父を見たのだ。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。」(ヨハネ14・14・9-10参照)
イエスが地上の生涯を終えて、天の父のもとに戻られたときに、わたしたち、教会をつくられました。そして、聖霊を派遣し、聖霊の働きを通して、ご自身の働きを継続し、発展させ、進展させてこられました。

不肖わたしたちは罪人であり、不完全な人間ですが、そのわたしたちを通して、聖霊が働いておられることを信じ、わたしたちを通して、多くの人が、復活した主イエス・キリストに出会うことができると信じております。
特に司祭は、自分の存在、自分の働きを通し、多くの人を、キリストの復活へと招き、そして、キリストへの信仰を促すという、大切な使命を受けております。

小川神父様の、長い司祭の生涯の中で、JOC全国指導司祭というお仕事がありました。1970年から76年、この6年間に、全国の青年労働者のために働かれているのですが、その間、非常に深く、強い体験をされたとのことで、神父さから話を聞いた際、司祭としての、牧者としての豊かさを、ますます備えられた時期ではないかと感じました。

わたしたちは、主イエスのように、「わたしを見る者は、父を見るのである」と、胸を張って言うことができるわけではありませんが、このわたしを通して、復活した主イエス・キリストが働いてくださるということを深く信じ、そして、この弱い、罪を犯す自分であっても、復活のキリストが、わたしたちを通して、人々を救い、導いてくださるということを、人々にあらわし、伝えていく役割を担っています。
わたしたち、キリスト者にとって、「死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活が終わった後も、天に永遠の住み家が備えられている」と信じ、この信仰を、これからも人々に宣べ伝えていきたいと思います。

今日、みなさまのお手元に配られました、記念のカードの裏をご覧いただくと、神父様の略歴が出ておりますが、その一番上のところに、詩編33章5節の言葉が記されております。
「地は父の慈しみに満ちている」。

主イエス・キリストが、十字架の上で、その血をもって、あがなわれたわたしたちに、神のいつくしみが注がれている。それだけではなく、神の造られた、この世界は、本来、神のいつくしみで満ちている場所です。

どうか、わたしたちが、毎日の生活の中で、神への感謝を新たにし、そして、神のいつくしみが、人々の前にあらわれているということを、わたしたち自身が、更によく悟り、示すことができますよう、お祈りをしたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 ローマ 5・5-11
福音朗読 ヨハネ 14・1-11

(本文)
〔そのときイエスは言われた。〕「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」

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2017年大司教着座記念ミサ

2017年9月3日10時、カテドラル聖マリア大聖堂

[聖書朗読箇所]

「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マタイ16・23)
イエスはペトロに、このように強く叱責をいたしました。これは、どのような意味でしょうか。
その直前の場面で、ちょうど一週間前の福音ですが、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタイ16・18)とイエスは言われたばかりです。
同じイエスの口から、このような、一見、矛盾するような言葉が発せられたのは、いかなる理由によるものでしょうか。
「あなたが考えているのは人間のことで、神様のことではない。」(マタイ16・23参照)
そのように、イエスは言われました。
折しも、イエスはエルサレムに上り、受難のときを迎えようとしていました。

さて、この問題を、わたしたちは自分に向けられた問いとして深く考え、これからの日々、黙想していきたいと思います。

紀元2千年という年は、ちょうど17年前にあたりますが、カトリック教会では大聖年の年でした。
列聖された教皇、ヨハネ・パウロ2世が、紀元2千年を大聖年であると宣言し、教会を挙げて、この聖年を祝うようにと命じられました。
その準備のために必要なことは、反省、悔い改めということです。第三の千年期を迎える、ということは、千年単位で人類の歴史を見るという大きな視野の中でのことです。
そのときに、第三の千年期を迎えるにあたり、教皇様は、『紀元2千年の到来』という特別書簡を発せられましたが、わたしたち、教会のメンバーは、心から反省しなければ、第三の千年期に入る敷居をまたぐことはできないのだと言われました。
そして、第三の千年期をお迎えになったときに、何度もわたしたちの教会が行った、強く反省すべき事柄に触れておられます。
その中には、「基本的人権の侵害ということ」、「真理に名を借りて、暴力を行使したこと」、「女性の尊厳を犯したこと」などが含まれておりました。
それぞれのことは、具体的にどのようなことが入っていたのでしょうか。

ある、カトリック教会でない教会の聖職者が、あるとき、わたしのところに来られて、「わたしはカトリックに変りたい」と言われました。
「自分の教会は、間違いや腐敗が多くて、とても留まっていられない」と言われたので、「そのようにおっしゃっていただくと嬉しいのですが、われわれのところも、いろいろな問題がございまして、がっかりなさいませんでしょうか」と言ったら、「いや、まだましです。あなたがたには自浄能力がある」。「自浄」とは自ら浄めるという意味です。

そうかもしれません。
「陰府の力も、これに対抗できない」(マタイ16・18)と言われた、イエスのお言葉に信頼し、教会はよろめきながら、間違いながら、自らを正す努力を繰り返してきました。

1962年から1965年で第二ヴァチカン公会議、そして、日本の教会は、その精神を充分に咀嚼した後、福音宣教推進全国会議(NICE-1)を開きました。1987年のことです。

そして、わたしたちは、心から反省して、「主イエス・キリストの教えに従う教会に変わりたい。開かれた教会になります。わたしたちの教会は、苦しんでいる人、病んでいる人、困っている人に、優しく、開かれているだろうか。その人たちが、そこに安らぎ、喜び、支えを見出す、そのような共同体であろうか。深く反省し、誰でもが、自分の場所を見出すことができるような、そのような共同体に変わります」という宣言をしました。(参加者一同の宣言より)

東京教区をはじめ、日本の教会は、この決意に基づき、努力を重ねてきました。
この決意が、どのように実行されたでしょうか。
ちょうど、紀元2千年の9月3日、わたくしは、こちらで、東京大司教に就任いたしまして、この決意、NICE-1の決意を自分自身の決意として、実行したいと申し上げました。

今日の第二朗読ですが、パウロは言っています。
「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12・2)
神様が、わたしたちに望んでいることは何でしょうか。何が神様のみ心に適うことでしょうか。わたしたちは、これが正しい、これが良いと思っても、果たして、神様がそれを望んでいるでしょうか。

深い反省のもとに、本当に自分の日々を振り返り、そして、教会のあり方を見ながら、苦しんでいる人、悩んでいる人、自分の場所が見つからない、いろいろと困難な状況にある人に対して、わたしたちは、どのような態度を取っているかということを、深く反省しなければならないと思います。

聖霊の導きを祈りましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読 エレミヤ20:7-9
第二朗読 ローマ12:1-2
福音朗読 マタイ16:21-27

(福音本文)
〔そのとき、〕イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。

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年間第21主日・本郷教会説教

2017年8月27日、本郷教会

[聖書朗読箇所]

今日、8月27日の日曜日を迎え、子どもたちの夏休みの終わりも近づいてきました。9月1日から2学期に入るのでしょうか。わたしも夏休みをいただいて、自分のふるさと、千葉県市原市鶴舞という房総半島の山の奥、そこでしばらくゆっくり過ごしまして、24日(木)の夕方、帰宅しました。

自分で車を運転して帰る途中、ラジオを聴いていますと、2学期の始まる9月1日という日は、子どもたちにとっては問題のある日だそうです。なぜ問題のある日かというと、やっと学校に行って皆と会える日、待ち遠しい日ではなく、むしろ逆で、9月は亡くなる(自殺する)子どもたちの数が多く、特に2学期の始まる日が一番多いという内容の話でありました。教育の専門家、自殺未遂の経験を持つ当事者などが出演して、話をしていました。その番組を聴きながら運転してきましたが、大司教館に到着しても番組が続いていたので、自室で最後まで聴いたわけです。いじめ、不登校に陥る子どもたちが少なくないということでありました。何も死ななくても良いと思うのですが、自分の場所がない、学校にも場所がないという子どもたちの思い。では家庭には?といっても、家庭でもそういう話はできない、聞いてくれる人もいないなど、深刻な状況があるということであります。

平和旬間が終わったので、休みをいただいて、自分の個人的なことを集中的にしたわけですが、今年の平和旬間は何を主題にしようかと相談いたしまして、「子どもと貧困」ということになったのであります。「子どもの貧困」という表現の方が、内容的に直接触れているのかもしれませんが、わたしの中で「子どもの貧困」というのはしっくりこなかったので、「子どもと貧困」というテーマに無理やり、ねじまげたのであります。日本の子どもは貧困の状態にある、経済的に貧困である子どもも少なくないが、精神的に、人間として貧しい状態、苦しい状態にある、そういうことをしっかり学びましょうという趣旨で主題設定したということです。
子どもの貧困の中に、子ども・青少年の自殺ということがあるのですね。16歳から34歳の青少年の死因の第1位が自殺であるということを知りまして、大変衝撃を受けました。先進7か国の中で日本が第1位であるという自慢にならない第1位で、しかも死因の中の第1位が自殺であるということです。
日本の司教協議会は『いのちへのまなざし 増補新版』という教書を発行し、「いのち」という問題を多方面から考察しながら、大切にすることを学びましょうと呼びかけています。平和旬間でも「『いのちへのまなざし 増補新版』を学びましょう」と繰り返し呼びかけました。

さて今日、年間第21主日を迎えております。ペトロはイエス・キリストへの信仰告白をいたしました。はっきりとイエスに向かって「イエスが誰であるか」ということを告白した最初の人として福音書の中にペトロは描かれています。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタイ16:15)というイエスの問いかけに対して「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と答えたのであります。
わたちたちもイエス・キリストを信じる者であります。この信仰をどのように人々に表し、伝えたら良いのかというが、わたしたちにとっての大きな課題であります。わたしたちのなすべきこと、それはもちろん自分の信仰を自分の言葉で言い表すことでありますが、現代の日本において何を一番伝えなければならないのか、先のラジオ番組を聴いて考えさせられました。深刻な体験の末に死を選んだということではなく、生きていることに意味がない、生きていることに疲れたという青少年、本来一番輝いているはずの時期に「疲れた」と感じていることに皮肉な面があります。生きていくための張り合いがない、何気なくこのまま死んだ方が楽だと思って、駅のプラットホームから線路に降りそうになったとか、睡眠薬を服用するなどということが特別なことではないということです。

わたしたち宗教を信じる者は、そのような人たちに何をなすべきか、どうしたら良いのでしょうか。今年2017年は、日本の教会が「福音宣教推進全国会議(NICE)」を行って、ちょうど30年になります。ナイスNICEは「開かれた教会づくり」を目標に掲げました。教会が、苦しんでいる人、迷っている人、困っている人、孤独な状態にある人にとって、近づきやすい、慰め、安らぎ、励ましになるような、そのような共同体になろう、という目標です。わたくしも、東京教区もこの目標に向かってこの30年、歩んできました。2000年9月に大司教に就任した時には、着座式のミサ説教でその決意を申し上げました。その成果はどうだったでしょうか。依然として教会はこの目標実現のためには種々の困難に遭遇しています。
困難とは、わたしたちの弱さということであり、また「悪の存在」ということでもあります。わたしたちは主の祈りで「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください」と祈っています。ミサの交わりの儀、聖体拝領の前、司祭は「いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、現代に平和をお与えください。あなたのあわれみに支えら、すべての罪から解放されて、すべての困難に打ち勝つことができますように」という言葉で祈ります。
今日の福音ではイエスはペトロに言われました。
「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイ16・18)
「陰府」(よみ)の力とは悪の力を指していると思います。ペトロは「岩」と呼ばれましたが、普通の人間、いや主イエスを三度「知らない」と否んでしまった弱い人間にすぎませんでした。そのペトロを最初の礎として建てられた教会共同体は、果たして大丈夫か、と思わないわけではありませんが、イエスの約束「陰府の力もこれに対抗できない」を信じ、それを支えてして、聖霊の導きに信頼して歩んで行かなければなりません。
世の終わりまでわたしたちと共にいてくださる主イエスの支え、導き、励ましを受けて、今日も、明日も共に歩んで参りましょう。

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ22・19-23
第二朗読 ローマ11・33-36
福音朗読 マタイ16・13-20

(福音本文)
イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

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2017年年間第20主日茂原教会説教

2017年8月20日、茂原教会

[聖書朗読箇所]

茂原教会のみなさん、今日は、年間第20主日です。
今日は、今日の3つの朗読を分かち合いながら、ミサにおける聖書の朗読について、ご一緒に学んで行きたいと思いました。

ご承知のように、わたしたちは、1年かけて、主イエスのご生涯の神秘を、分かち合っております。
聖書の朗読配分は、福音書につきましては、主イエスのご降誕にかかわる季節、即ち待降節、降誕節、そしてご復活にかかわる季節である四旬節、復活節と呼ばれる季節を、わたしたちは守っております。それ以外の、非常に長い部分は、年間と呼ばれています。
年間というのは、主イエスが公生活、宣教活動をしたときの、言葉、行動を、わたしたちに告げる箇所です。

今日の福音は、イエスの公生活の一端を告げており、カナンの女性にイエスが出会ったときの話です。
イエスは、カナンの女性がしきりに懇願し一生懸命頼むけれども、冷たい反応しかしなかったのでした。この女性の娘は、悪霊にひどく苦しめられていると、述べられています。
どのような状態だったのでしょうか。本当に、母親として、見るに見かねる、何とかしてあげたい、とても自分にはできない。ナザレのイエスという先生にすがれば、何とかしていただけるのではないかという強い思いが、この母親にはあったのだと思います。
イエスは、この女性に対して、一見、不適当、あえて言うならば、差別的と思われるような返事をしました。
「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」。
「子どもたち」というのは、イスラエルの民のことでしょう。「小犬」というのは、外にいる人たち、イスラエルから見たら、異邦人を指しているようです。
そのようなことを言われて、むっとして、もう頼まないと言うかというと、この女性はたいしたものでして、めげずに、それでもお願いした。
「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
これは、見事な応答です。そこで、イエスは言われた。
「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」。
イエスに、このような言葉を言わせた女性は、本当に、大した深い信仰の持ち主であったと思われます。

福音書には、何回か、イエスが、信仰を称賛する場面があります。
「あなたの信仰があなたを救った」という言葉が、他の箇所にも出てきます。このように立派な信仰の持ち主は、イスラエルの民の中でも見たことがないというお言葉もあったと思います。
わたしたちは、このカナンの女性のような信仰を持っているだろうかと、この機会に、自らを振り返ってみたいと思います。

さて、年間という、わたしたちのカトリック教会の典礼暦の期間は、主イエスが、人々にどのようなことをしたか、何をおっしゃったかということを、わたしたちに伝える期間です。そして、イエスの言葉と行いは、他の聖書の箇所とつながっています。

多くの場合は、第一朗読は、旧約聖書です。旧約聖書のメッセージが発展し、完成して、新約聖書となり、イエス・キリストの登場となったと初代教会のキリスト者は理解しました。
イザヤの預言、イザヤ書56章、イザヤ書の結びの部分に近い箇所ですが、聖書と典礼の脚注では、イスラエルの民は、バビロン捕囚という、非常に深刻な体験をした後、イザヤの預言を受け取りました。
「彼らには、新しい希望が与えられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」。
それまでは、イスラエルの人たちは、自分たちのことだけを、もっぱら考えていました。「神は、イスラエルの民の神」、そのような信仰の理解をしていましたが、次第に信仰の枠、あるいは、深さが変わってきました。より広い、より深い、信仰理解に変わってきたのです。
「全ての民の祈りの家となる」とイザヤが預言しています。

次に、第二朗読はローマ書、使徒パウロのローマの教会へ宛てた手紙ですが、ご存知のように、パウロはサウロと呼ばれていたときに、熱心なユダヤ教徒でした。ファリサイ派の熱心な信徒であって、キリスト教徒を迫害していましたが、復活したイエスに出会い、電撃的な回心を遂げたと伝えられています。
そして、ローマの信徒への手紙というのは、神の救いの歴史を述べる、非常に壮大な、また、非常に深淵な教えです。
使徒パウロの説明によれば、最初にイスラエルの民が選ばれたが、イスラエルの民は、最後に来た預言者である、ナザレのイエスを受け入れなかったので、神の救いの福音は、異邦人に宣べ伝えられることになりました。
しかし、それで終わりかと言うと、そうではありません。最後には、また、イスラエルの民に、救いが宣べ伝えられて、そして、イスラエルの民は、最終的には救われるのであるということを、パウロは説明しています。

さて、日本の国で、東京教区で、この千葉県で、わたしたちは、福音を受け取り、そして、更に、その福音を、自分の日々の生活の中で、福音に従って生き、周りの人々に、イエス・キリストの福音を宣べ伝える者とされています。
そのために、主日のミサは、非常に大切であって、神は、今日、何を言われるか、主イエス・キリストは、何を語られるかということを、本当に、一生懸命聞かなければなりません。

ミサのときに読まれる聖書、聖書の趣旨内容は、ずいぶん昔、いろいろな言葉で書かれたもので、しかも、新約聖書はギリシャ語、旧約聖書は主にヘブライ語という言葉です。そればかりか、わたしたちのいまの日本の現実からは、遠い背景を持っていますが、この聖書が言っていることを、いまのわたくしたちの生活に合わせて、どのような意味を持っているのかということを、一緒に分かち合う、それが、わたしたちの務めであり、そして、特に、主日のミサの説教は、みなさんが、生活の中で、神の言葉、主の言葉を生きるための、助け、ヒントになるようにと願って行われる解説です。

ですから、わたしの説教が今日のミサをより深く味わえるための助けとなり、今日のミサが、少しでもみなさんの、生活の光となることを願っております。

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ書56:1、6-7
主はこう言われる。
「正義を守り、恵みの業を行え。
わたしの救いが実現し
わたしの恵みの業が現れるのは間近い。
主のもとに集って来た異邦人が
主に仕え、主の名を愛し、その僕となり
安息日を守り、それを汚すことなく
わたしの契約を固く守るなら
わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き
わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。
彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら
わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。
わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。

第二朗読 ローマの信徒への手紙11:13-15、29-32
(皆さん、)では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。
神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。
神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。

福音朗読 マタイによる福音書15:21-28
〔そのとき〕イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。
しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」
イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。
イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

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2017年関口教会聖母の被昇天ミサ、洗礼・堅信式の説教

2017年8月15日、カテドラル大聖堂

[聖書朗読箇所]

聖母の被昇天の祭日を迎えました。
聖母の被昇天という教えは、わたしたちの教会が、初代教会以来、今日まで大切にしてきた聖母についての大切な信仰理解の一つであり、1950年、教皇ピオ12世によって教義であると宣言されました。
神は、主イエス・キリストの母、汚れのない、おとめマリア、体も魂も、ともに天の栄光にあげられました。このことを記念する祭日が、聖母の被昇天の日です。
わたしたちは、聖母にならい、聖母とともに、永遠の喜び、そして、復活の栄光に入ることができるという信仰を、今日、改めて、新たにし、そして、希望を強く持ちたいと思います。

今日の福音は、ルカの1章、何度もわたしたちは、この福音を聞いて、読んできました。今日、わたくしは、このルカの福音から、2つのことを、みなさまと一緒に味わいたいと思います。

「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。」(ルカ1・39)
「そのころ」というのが、いつなのかと言いますと、ルカの福音によると、マリアは天使のお告げを受けて、救い主の母になるということになりました。
少女マリアは、「お言葉のとおり、この身に成りますように」(ルカ1・38)とお答えになりました。そのときに、彼女は神の母になったと、わたしたちは信じています。
そして、「そのころ」とは、そのすぐ後に起こった出来事のように、読むことができます。
「出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」。
5月31日が、毎年、聖母の訪問の日となっていて、この箇所が読まれていますが、何か、唐突な感じがします。

エリサベトの家は、どちらにあるのか。ナザレからエルサレムの方向というと、ずっと南に下って、エルサレムから、さらに先になる。何というところなのかが、よく分かりませんが、フランシスコ会の聖書を見ると、アイン・カレムという地名が出ていて、クエスチョンマーク?が付いています。いずれにせよ、その辺まで行ったということになります。
大変な距離でして、100キロメートル、150キロメートルかもしれません。いまでも大変な距離ですが、当時、交通の不便な時代に、ひとりの少女、うら若い女性が、どうやって、そちらまで行ったのでしょうか。
「歩いて行ったのか、あるいは、馬車のようなものがあったのか」という疑問を、わたくしが漏らしたところ、「少女マリアが、馬に乗って、ナザレからアイン・カレムに行く場面を描いた絵が、ある修道院付の聖堂の壁に描いてある」と、ある人が教えてくれました。
その絵を送っていただいたので見ましたが、そこにはおとめマリアの勇ましい騎馬の姿が出ています。従者がひとりいるみたいです。
当時はそのようにして遠い距離を移動したのでしょうか。それとも、やはり歩いて行ったのでしょうか。あるいは、既に、交通が、ある程度発展していて、駅から駅へと人を乗せてくれる場所のような制度があったのかどうか、よく分かりません。
どのように行ったのかを、全く考えたことがありませんでしたが、あるときから、気になるようになりました。

そのような重大な出来事、ガブリエルからのお告げに、「はい」と承諾し、すぐに、ひとりで、そのように遠いところへ行くだろうか。家族と相談したのだろうか。何よりも、ヨセフ自身とそのような話をしたのだろうか。
何も書いておらず、分かりませんが、非常に身軽に、果断にと言うか、すぐに決心して、ぱっと実行したことだけは確かでしょう。
わたしたちが、何となく抱いている、聖母マリアのイメージというものは、そのようなものではないように思いますが、決断力、実行力のある果断で活動的な女性の姿をうかがうことができます。

それから、エリサベトと会ったときの、有名なマリアの賛歌は、教会が、毎日、晩の祈りで唱えている、大切な祈りで、マグニフィカートと呼ばれる祈りですが、この祈りも、旧約聖書の伝統の中で、おのずから生まれてきた、少女マリアの口を衝いて出てきた祈りなのかもしれません。

この内容を、改めて読んでみると、かなり、驚くべきことが言われています。
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。

どの時代も権力者がいて、金持ちがいて、貧しい人、弱い人を圧迫し、苦しめている。そのような状況があります。
今年の東京教区の平和旬間は、『こどもと貧困』というテーマを取り上げましたが、貧困という問題が、日本の社会にも、厳然として存在しているのです。
まして、2千年前の、パレスチナの社会、神様はそのような状況を、決して「よし」とはされないはずです。
「良くないという状況を、変えなければならない。ひっくり返さなければならない」という理解は、秩序の転倒という、恐るべき、革命的な考えかもしれませんが、そのようなことを、神様は望んでおられるという意味に取ることができないこともないです。

マリア様について、無原罪の聖母、被昇天の聖母という、信仰理解は大切な伝統ですが、その背景となる、一人のおとめマリアの姿に注目することも大切だと思います。天使のお告げを受けた直後のナザレの少女マリアの姿、その心のうちを、わたしたちは、今日、新たな思いを抱き、これからの教会のあるべき姿を学ぶことができるのではないかと思います。
「わたしたちの社会は、力による支配の社会、その力、権力、財力、その他のいろいろな力によって、支配されている。しかし、それではいけないのだ」という思いが、わたしたちのうちにあり、少女マリアの思いを、わたしたちも自分の思いとし、日々の生活の中で、平和の実現のために、力を尽くしたいと思います。

なお、今日は、この後、洗礼式と堅信式が行われます。みなさんと一緒に、洗礼の恵み、堅信の恵みをお受けになり、洗礼を受けたわたしたちも、その恵みを思い起こし、決心を新たにし、そして、洗礼のときの決心、堅信のときの決心を、もう一度思い起こして、信仰者の生涯、わたしたちの生涯が、平和を実現する者の生涯となるよう、神の恵みを祈り求めたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 ヨハネの黙示録 11:19a、12:1-6、10ab
第二朗読 コリントの信徒への手紙 Ⅰ 15:20-27a
福音朗読 ルカによる福音書 1:39-56
(本文)
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。
エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
そこで、マリアは言った。
「わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、
その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、
憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

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