カトリック大森教会

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名称

カトリック大森教会

教会堂名

主の公現

創立年月日

1922年7月

主任司祭

ビッフィ,マウリツィオ P.I.M.E. (ミラノ外国宣教会)

信徒数

678人 (2016年12月31日現在)

主日のミサ

日曜日 7:00 / 9:30

週日のミサ

6:30 (初金9:30)

宣教協力体

大田

教会学校

  • 教会学校 : 小学1~6年 土曜日 15:00-16:00
  • 中高青年会: 第4日曜日 10:30-11:30

講座

◇ 聖書講座 水曜日 9:45-10:45 、入門講座 金曜日 19:30-20:30

住所

〒143-0016 東京都大田区大森北2-5-11 [Google地図]

電話

03-3761-5047

Fax

03-3761-5048

身障者設備

スロープ(または、バリア・フリー)

交通案内

  • JR京浜東北線「大森駅」より、徒歩10分。
  • 京急本線「大森海岸駅」より、徒歩10分。

※駐車場(日曜日のみ。幼稚園の園庭に10台分程度。)前面道路に 、パーキングメーター付駐車スペースあり。 

歴史

アルベルト・ブルトン師は、アメリカ合衆国在留日本人の宣教にたずさわっていたが、再び日本国内で宣教を行うため、帰朝した。

レイ東京大司教は、品川と横浜間に教会がなかったので、その付近に教会をつくるよう希望した。ブルトン師は大井町に、大阪の事業家の援助で社宅を無料で借り受けた。1921年8月28日、訪問童貞会(後の聖母訪問会)の2名の修道女と共に幼稚園、医院を開設し宣教活動を開始した。小さな聖堂のミサには、近所の信者が集まった。修道会の発展に伴い建物が狭くなったので、省線 (JR)大森駅と京浜電車八幡駅に通じる目抜き通りに面して土地を購入した。

1928年、聖堂と修道院が完成した。2月5日、日本二十六聖人の祝日に、教皇使節ジャルジエー大司教によって、盛大な献堂式が行われた。新聖堂は両角に、高さ17メートルの鐘楼を持つゴシック式の素晴らしい建物で、震災後急激に発展した大森の町中で異彩を放っていた。献堂を機会にもっと町民と接するため、岩下荘一師、カンドウ師を招いて講演会も行った。

1937年、大森教会の司牧が完全に邦人司祭に委託されると、教会管理も聖母訪問会から離れ、聖マリア医院は七里ケ浜に移った。京浜工業地帯に属する大森には軍需工場が多かった兵器増産のため、地方から上京する信者の青少年の増加が著しく、荏原教会と蒲田教会が設立された。しかし戦況が厳しくなるにつれ、教会活動は難しくなった。京浜地帯は疎開区域となり、空襲も激しくなった。

1945年5月29日正午近く、一帯はB29爆撃機の焼夷弾集中攻撃を受け、ゴシック建築の聖掌は、付近の民家と共に焼け落ちた。聖堂は3日間燃え続け、鐘楼の鐘も熱で溶けた。

近くの埋め立て地に捕虜収容所があったが、当時主任司祭であった下山神父は、捕虜たちの救霊のため収容所に通い続けた。終戦後、開放された捕虜たちは本国に帰り、日本の教会復興のため多大の援助をした。大森教会は、戦後復興した東京教区第1番目の教会となった。

戦後の混沌とした中で、青年たちに活動の場を与えるため、レジオ・マリエとJOCが結成された。幼稚園、ボーイ・ガールスカウトも設立され、子供たちの教育にもカが入れられた。

創設50周年を記念して、新聖堂が1972年完成したが、大通りに面するこの教会は、人や車が絶えずその前を行き来し、人目につく。あわただしい生活の中で、今日も教会の存在に気づく人々に、キリストの光を輝かし続けている。
 
教区ニュース98号(1992年11月発行)より
 

聖堂内に置かれている「ルハン聖母像」と「お告げの鐘」について

「ルハン聖母像(アルゼンチン国守護者)」

1948年秋、アルゼンチンの貿易商アメリゴ・ゲラ氏により、ブエノスアイレスの大司教サンチャゴ・ルイス・コペルロ枢機卿から東京大司教に贈られたものを、戦後復興の先駆として新築された大森教会が迎え、同年12月5日献堂式の日に聖母像の奉安式も行われた。

「お告げの鐘」

1930年教皇ピオ11世の厚意により、ジャルディニ大司教に贈られ、シャンボン大司教が祝別し、東京神学校カンドウ校長に贈られた鐘。終戦後、京浜工業地帯の焼跡の工場の一角に積まれた鉄などの金属類の中から、信徒の一人が教会の鐘らしいものを見つけ下山正義師(第6代主任司祭)に報告、それは神学校にあったこの「お告げの鐘」であった。土井辰雄大司教から、戦後の教会再建復興第1号として脚光を浴びていた大森教会で使用する許可をもらい、1948年12月5日、献堂式の日にお告げの鐘の音を響かせることができた。