キリスト教一致祈祷週間東京集会・説教

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    2012年1月22日 日本福音ルーテル東京教会にて

     

    聖書朗読

    ハバクク書3章17-19節

    コリントの信徒への手紙一15章51-58節

    ヨハネによる福音書12章23-26節

     

    今年のキリスト教一致祈祷週間のテーマは「わたしたちは皆、主イエス・キリストの勝利によって変えられます」(一コリント15・51-58参照)であります。

    選ばれました福音書のヨハネの12章、よく知られた「一粒の麦」の箇所です。

    「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)

    昨年の夏にわたくしは故郷の畑で種まきをし、秋にはもう野菜を収穫できました。この体験は静かな驚きと喜びをわたくしにもたらしました。

    しかし今日イエスが言っておられることは野菜の収穫では説明できない大きな神秘であります。

    「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハネ12:25)

    「自分の命を憎む。」厳しいお言葉です。この世にあって命ほど大切なものはありません。わたしたちはどんなには自分の命のことで心を労していることでしょうか。健康を保つよう一生懸命に努めます。いやわたしたちは自分の健康のことだけでなく、自分の評価、名誉、地位、収入などを大いに気にしています。自分が可愛い。自分のことを第一にしてします。自己中心のわたしがここにいます。

    しかし主イエスは、「自分への執着を捨てなさい、自分の命すら惜しんではならない」と言われます。

    この命はギリシャ語原文ではプシュケーです。他方、「永遠の命」というときの命はゾーエーという言葉です。

    ヨハネの福音のメッセージの中心には「永遠の命」があります。

    神はわたしたちに永遠の命を与えるために主イエスをこの世に遣わされました。

    「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3・16-17)

    永遠の命への道は主イエスであり、主イエスを信じ、イエスの復活の命をうけることであります。永遠の命にはいるためにはイエスを信じなければなりません。

    イエスは言われました。

    「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。(ヨハネ6・47)

    また言われました。

    「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(ヨハネ17・2-3)

    「イエス・キリストを知る」とは深い意味を持っています。イエスを信じ、イエスの生涯に倣い、プシュケーの命すら憎む生き方をとる、ということだと思います。

    考えてみればわたしたちは何と自分勝手な生き方をしていることでしょうか。自分の思い通りにならないとすぐに気分を悪くしたり人の悪口を言ったりしてしまいます。自分の欲求を制御するという「小さな死」を日々ささげなければイエスの弟子にはなれない、と言っておられるのではないでしょうか。

    昨年3月11日の東日本大震災による原子力発電所の事故は、はわたしたちに大きな反省を促しています。わたしたち人間は被造物でありながらその限界を超えて、神の領域に侵入するような過ちを犯したのではないでしょうか。

    わたしたちは神様を忘れて自己の世界に埋没し、ひたすら便利で快適な生活を求めて邁進してきました。今改めて、謙虚に反省し、単純質素な生活に立ち戻りたいと思います。

    日本カトリック司教協議会は2011年11月8日、「いますぐ原発の廃止を ~福島第1原発事故という悲劇的な災害を前にして~ 」というメッセージを発表し、次にように述べました。

    「わたしたちキリスト者には、何よりも神から求められる生き方、つまり『単純質素な生活、祈りの精神、すべての人々に対する愛、とくに小さく貧しい人々への愛、従順、謙遜、離脱、自己犠牲』(注1)などによって、福音の真正なあかしを立てる務めがあります。」

     

    さて、使徒パウロはコリントの信徒への手紙一の15章で「復活の体」について述べます。わたしたちの自然の命であるプシュケーはいつか死に絶えてしまいますが、わたしたちは天上の体、霊の体として復活します。主イエス・キリストの復活の命に与ることができるのです。

    まさにパウロの次の言葉の実現であります。

    「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』」(一コリント15・54-55)

    この信仰と希望を強くしていただけるように、祈りましょう。

     

    (注1) 教皇パウロ6世『福音宣教』(1975年) 76「生活の真正なあかし」(中央協議会 ペトロ文庫)