菊地大司教

    性虐待被害者のための祈りと償いの日の晩の祈り

    2019年04月15日

    毎週日曜日の午後5時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、晩の祈りが捧げられています。3月24日の日曜日夕方5時からは、私が司式して、性虐待被害者のための祈りと償いの日の晩の祈りを捧げました。以下、当日お話しした説教の原稿です。

    この世において聖なる存在、善なる存在であるはずの教会は、残念ながら時にその道からはずれ、悪のささやきに身をゆだねてしまうことすらあります。聖なる存在、善なる存在は、常に宣教を妨げようとする悪のささやきにさらされます。その最前線で防波堤となり、悪への傾きから教会を護らなくてはならない牧者。その牧者たるべき聖職者が、自らが護らなくてはならない人々、とりわけ年齢的にも立場的にも弱い人々へ、性的な虐待をすることで、教会を悪のささやきにゆだねてしまった事例が、全世界であまりにもたくさん報告されております。

    米国での聖職者による性的虐待問題の報告書や枢機卿の辞任、オーストラリアやフランスなど、各地で自らの犯罪行為や事実の隠蔽に関わったとして、聖職者がその責任を問われています。残念ながら、教会が聖なる道から離れ、善なる存在とは全く異なる過ちを犯した問題が次々と明らかになり、日本でも同様の事例があることも、明らかになっています。

    教会において、聖性の模範であるはずの聖職者が、全く反対の行動をとって多くの人の心と体を傷つけ恐怖を与えてきたことを、特に私たち聖職者は真摯に反省しなければなりません。被害を受けられた方々に、また信頼していた存在に裏切られたと感じておられる方々に、心からゆるしをこいねがいます。

    教会が今直面する危機的状況は、単に偶発的に発生している問題ではなく、結局は、これまでの長年にわたる教会の歴史の積み重ねであり、悪のささやきに身を任せて積み重なってきた諸々のつまずきが、あらわになっているのだろうと思います。教皇様を頂点とする教会は、結局のところ、この世における巨大組織体ともなっています。組織が巨大になればなるほど、その随所で権力の乱用と腐敗が生じます。この世の組織としての教会のあり方をも、私たちは今、真摯に反省し、組織を自己実現のためではなく、神の国の実現のために資する共同体へと育てていかなければならない。そういう「とき」に、私たちは生きているのだと感じています。

    そして、虐待の被害に遭われた多くの方が心に抱いている傷の深さに思いを馳せ、ゆるしを願いながら、その心の傷にいやしがもたらされるように、教会はできる限りの努力を積み重ねる決意を新たにしたいと思います。

    同時に、積極的で真摯な対応を怠り、事態の悪化を漠然と看過してきた私たち司教も、その怠りの罪を反省し、真摯に対応していく決意を新たにしたいと思います。

    私たちは、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言うイエスの言葉のうちに、すべての人、とりわけ弱い立場に置かれた人のうちに主がおられると信じているはずです。虐待の加害者は、残念ながら、被害者の方の心に思いを馳せることができなかっただけでなく、そこにおられる主ご自身をも傷つけてしまいました。

    教会は、「キリストの光をもってすべての人を照らそうと切に望む」存在であるはずです。教会は、世界にいつくしみを伝え、それを生きる姿で具体的に表す存在であるはずです。教会は、「神との親密な交わりと全人類一致のしるし、道具で」あるはずです。

    しかし教会は、聖職者自身の犯した罪によって、その輝きを失い、いつくしみを表すことなく、自ら一致ではなく混乱する姿をさらけ出してしまっています。

    現代社会こそ、暗闇に輝く光を必要としています。神が賜物として与えられた人間のいのち、神の似姿として尊厳を与えられた人間のいのちが、社会の様々な現実の中で危機にさらされている様々な現実を目の当たりにするとき、まさしくわたしたちは暗闇の中に生きていると感じさせられます。

    その暗闇の中で、教会こそは、キリストの光を輝かせる存在でなくてはならない。果たしてその役割を真摯に果たしているのだろうか。

    また現代社会の様々な現実を客観的に見るならば、私たちは一致と言うよりも分裂の中に生きていると感じることがあります。教皇様がしばしば指摘されるように、現代社会には排除の論理が横行し、異質な存在を排斥し、時に無視し、自分を中心とした身内だけの一致を護ろうとする傾向が見受けられます。教皇様は、「廃棄の文化」と言う言葉さえ使われます。弱い立場にある人、助けを必要としている人に手を差し伸べるのではなく、そんな人たちは存在しないものとして、社会の枠から追い出されてしまう、捨てられてしまう。

    護るべきいのちの尊厳を、自分中心の考えから、ないがしろにしてしまった聖職者の存在と、その逸脱を許してしまった教会組織が、いのちの尊厳を語る教会から信用と信頼を失わせてしまっています。

    2月21日から24日まで、「教会における未成年者の保護」をテーマに、世界中の司教協議会会長が呼び集められ、バチカンで会議が行われました。その閉幕にあたりささげられたミサで教皇様は、「人々の魂を救いに導くために神から選ばれ、自らを奉献した者が、自分の人間的弱さや病的なものに打ち負かされ、無垢な子どもたちさえ犠牲にしてしまう、この虐待問題に、わたしたちは悪の手を見ることができる」と指摘されました。

    その上で、「人々の正当な怒りの中に、教会は、不正直な奉献者に裏切られた神の怒りを見ている」と厳しく指摘し、この問題に真摯に取り組んでいく姿勢を強調されました。

    教皇フランシスコは、教会の聖職者による性的虐待の問題、特に児童に対する問題に教会が全体として真摯に取り組み、その罪を認め、ゆるしを願い、また被害に遭った方々と教会がともに歩むことを求めておられます。またそのために、特別の祈りの日を設けるように指示されました。日本の司教団は、2016年12月14日にメッセージを発表し、その中で日本における「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を、四旬節・第二金曜日とすることを公表しております。2019年にあっては、3月22日(金)がこの「性虐待被害者のための祈りと償いの日」にあたります。

    聖職者が自らの生き方を顧み、無関心や隠蔽も含め、その罪を真摯に認めなくてはなりません。被害を受けられた方々に、神のいつくしみの手が差し伸べられ、癒やしが与えられるように、祈るだけではなく、教会として具体的な対応をとるように努めたいと思います、被害を受けられた世界中の多くの方々に、心から許しを願います。

    そして、教会のために、また弱い人間である司祭たちのために、祈りをお願いいたします。