イエスのカリタス修道女会・誓願式説教


2016年12月8日   イエスのカリタス修道女会 本部修道院聖堂にて 

[聖書朗読箇所]

説教

イエスのカリタス修道女会誓願式に際しまして、ひと言申し上げたいと思います。  
今日は、12月8日、無原罪の聖マリアの祭日でございます。昔は、「無原罪の御宿り」と言っておりました。  
わたしたち人間は、すべて、罪の汚れを負うものでありますが、例外的に、生まれながら、その受胎のときから、罪の汚れを免れていた方がおられました。その方が、聖母マリアであります。  
原罪の教えというのは難しいと、ずっと思ってきました。しかし、自分が、原罪の汚れを持っている者であるという実感は、ずっと持ってきています。  
人間は、本来、なすべきことをするのに、意志が弱くなっている。そして、更に問題なのは、物事が良くわからない。なすべきことがわかって出来ないばかりではなく、なすべきことが良くわからない。「無知」の状態にあるというように、実感します。  

「無明(むみょう)」という言葉がございます。そこで、話は飛ぶのですが、仏教では三つの毒、「三毒(さんどく)」ということを言っているそうで、その三つの毒が、人間の心をむしばんでいる。その三つの毒というのは、難しい漢字ですけれども、「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」と言います。  
「貪(とん)」というのは、貪欲の貪という字でありまして、むさぼる心、欲深い心。  
「瞋(じん)」というのは難しい字ですが、憤るということで、妬む、怒る、そのような人間の心。  
「癡(ち)」というのは、物事がわからない、見えない、人の心がわからない、人の立場に立とうとしない、自分のことばかりを考えていること。  
考えてみれば、程度の差こそあれ、我々は、この三つの毒に、ある程度犯されている。これが、キリスト教で、或いはカトリックで教える、「原罪」のことかという気がいたします。  

さて、すべての人は、「原罪」の中で神のみこころを求め、主イエス・キリストを理想として、歩むようにと召されております。特に、修道者は、神と人の前で、誓願を立てて、神様と約束し、自分の生涯を神様にお献げします。  
「イエス・キリストに従って歩みます」という決意を表明するのであります。三つの誓願、「貞潔・清貧・従順」。この誓願を立て、その誓願を生きることによって、人々に、「あの人たちは違うのだ」。通常の人が生きる、その生き方とは違う生き方、つまり、この世にあって、この世で毎日生きながら、しかし、この世を超えた世界があるということを人々に指し示すという、非常に尊い使命を生きるのであります。  

「修道者はその身分をもって、真福八端の精神なしには世の姿を変えることも、世を神に奉献することもできないことの、あきらかな、そしてすぐれた証明である。」  
これは、教会憲章にある言葉でございます。  

三つの誓願を立てるということは、「この世の中で生きることが嫌だから、煩わしいから、骨が折れるから、それをやめます」という意味では、さらさらないのであります。  
人間の喜び、苦しみは多く、人間関係から生まれていますが、「人間関係の煩わしさを放棄する」ということではありません。それを超えた世界を指し示す、日々の奉献をすることが、修道生活であると思います。  
わたしたちは、自分の生活を支えるために、労働いたします。「修道者になると労働しないで済む」というわけではありません。  
物に支配されない、捕らわれない、清々しい生活を人々に指し示すことによって、神の国が来ているのだということを示すことが、修道者の召命であると思います。  

「従順」。何もかも人に決めてもらうので、何も責任を負わなくて良いという生き方ではありません。  
人間にとって、最も大切なことは、自分の心、自分の意思、自分の決断であります。人間の尊厳の中心にある、人間の最も大切な心、決断、判断、それを、神様の前に、日々新たにし、日々の生活を上長のもとに、改めて神様にお献げするということが、「従順」であります。  
自己決断、自己責任からの逃避ではないということを、改めて噛みしめなければならないのではないかと思います。  

いまのこの日本の社会、大変、生きるのに難しく、また、非常に世俗化された社会であります。  
今日、誓願を立てるみなさん、初誓願、終生誓願の方は、人々の前で、神の国が来ていること、イエス・キリストという方がいらっしゃること、そのイエス・キリストに生涯を献げる生き方があるということを人々に指し示し、人々の希望となるように、日々の生活を祈りとともに、献げていただきたいと思います。

聖書朗読箇所

第一朗読 創世記3・9-15,20
第二朗読 エフェソ1・3-6,11-12
福音朗読 ルカ1・26-38

(福音本文)

〔そのとき〕天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。  
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。  
すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」  
マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」  
マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

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