主にささげる24時間・結びのミサ(四旬節第4主日)

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    聖書朗読箇所:歴代誌下36・14-16,19-23、エフェソ2・4-10、ヨハネ3・14-21

     

    今年の四旬節にあたって、フランシスコ教皇が呼びかけていることははっきりしています。それは「無関心のグローバル化を乗り越えよう」ということです。

    この世界にはたくさんの問題があります。毎日毎日ニュースをとおして世界の悲惨な状況、たいへんな問題、多くの人の苦しみをわたしたちは知らされています。しかし、わたしたちはそれらの問題があまりに大きくて、解決不可能に思えて、自分にはどうすることもできないと感じてしまって、いつの間にか何も感じなくなっている。無関心になってしまっている。これが無関心のグローバル化、というものです。

    このような無関心を乗り越えて、苦しむ人々に目を向けよう、心を向けよう、これが今年の四旬節にあたっての教皇の呼びかけです。そのために頑張れ、頑張れでしょうか?

    この四旬節メッセージのはじめのところで教皇は一つの大切なことをおっしゃいます。

    「神は、ご自分がまだお与えになっていないものを、わたしたちに求めることはありません」とにかく頑張って無関心を乗り越えろ、じゃないんです。神がわたしたちを愛してくださった。その神の愛に心を向けよう。すべてはそこから出発するのです。だからこの「主にささげる24時間」のテーマは「あわれみ豊かな神」です。この言葉は今日のミサの第二朗読から採られています。福音も同じく神の愛を強調します。

    「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」

    どうしたら、神の愛に気づくことができるでしょうか?今朝のミサの中で一つのヒントをもらいました。福音は、ファリサイ派の人と徴税人の祈りの話(ルカ18・9-14)でした。

    祈るために神殿にのぼった二人の人がいました。ファリサイ派の人と徴税人です。ファリサイ派の人は、律法を忠実に守ろうと日々努力していました。そこでこう祈ります。「わたしは常々悪を避け、信心深く生活しています。このことを感謝します」彼は自分には何の落ち度もないと思っています。自分に大満足しています。そして神様の前にも自分を誇ろうとしました。一方の徴税人は律法の基準から言えば、どうしようもない罪人でした。彼は聖所から「遠く離れて、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」言いました。「神様、罪人のわたしをあわれんでください」そして、イエスは当時の人の常識をくつがえすような宣言をなさいます。「義とされたのは徴税人のほうであって、ファリサイ派のほうではない。」この「義とされる」というのは人間的な善悪ではなく、神との正しい関係を持つということです。こちらのほうが神の前に正しい態度だとイエスはおっしゃったのです。なぜでしょう。それはこの徴税人のほうが神の愛に気づくことができるからだと言えるのではないでしょうか。ファリサイ派の人は自己満足しています。彼は自分の力でちゃんとやっていけると思っていたのですから、彼には神の愛は必要ないのです。それに対して、徴税人は神の愛なしには生きることができませんでした。イエスをとおして彼が立ち上がることができたとすれば、そのとき彼は神の愛を知ることになります。

    わたしたちは弱い存在です。もともと塵に過ぎず、いつかは塵に帰っていく存在です。自分の力で自分を成り立たせることはできないのです。どうしようもなく神から遠く、罪の中に生きています・・・こういう言い方は、今時、流行らないかもしれません。しかし、これが人間の真実の姿です。四旬節はその自分の姿を見つめる時です。自分の弱さと罪深さを見つめます。それは落ち込んで絶望するためではありません。その自分をそれでも見捨てず、限りなく愛し、生かしてくださる神の愛に気づくためなのです。

    自分の弱さの中から十字架のイエスの無力さを見つめます。自分の苦しみの中から十字架のイエスの苦しみを見つめます。自分の罪深さの中から、十字架のイエスのゆるしを見つめるのです。そこに神の愛の最高の現れがあることに気づくのが四旬節のテーマです。

    そして、神の愛に気づいたとき、わたしたちの人生は変わります。

    本当に神の愛に気づいたら、わたしたちの生きている世界は変わります。

    本当なんです。イエスと共に十字架にかけられた2人の犯罪人のことを思い出しましょう(ルカ23・39-43)。

    イエスに向かって1人はこう言いました。「お前はメシアではないのか。自分自身とわれわれを救ってみろ」しかし、もう1人はこう言いました。「イエスよ、あなたのみ国においでになるときには、わたしを思い出してください」彼に向かってイエスは約束しました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」これは彼の人生が変わった瞬間です。苦しみのどん底にいて、彼はそれでも共にいてくださるイエスを発見しました。彼の人生は神がともにいてくださる人生になったのです。この瞬間、彼の世界は変わりました。ゴルゴタの十字架の上が彼にとって楽園=パラダイスになったのです。回心をとおして、彼は人生の最後の瞬間に神の愛に出会ったのです。そのことは彼の人生と彼の生きていた世界を完全に変えてしまいました。

    わたしたちも神の愛に気づいたら、人生が変わります。自分の周りの世界が変わります。今日の福音の言葉で言えば、「光が世に来る」のです。この世界は、神の注がれる光に満ちた世界だと気づきます。闇がどんなに深くあろうとも、神の愛が、神の光が、神のいのちがわたしの人生を導き、わたしのいる世界を照らしていることに気づくのです。そして、そのとき、わたしたちの人生への関わり方、この世界への関わり方も変わります。絶望やあきらめや無関心ではなく、信頼と希望と愛をもって、自分の人生に、まわりの人々に、この世界に関わっていくことができるようになるのです。

    第二朗読の言葉をもう一度読みます。

    「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」(エフェソ2・4-6) アーメン。