教区「こころのセミナー」最終回ミサ説教

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    2009年11月7日 麹町教会にて

    年間第32主日(マルコ12・38-44)

    エルサレムの神殿でイエスはさまざまな人に出会いました。商売をしている人、金持ち、サドカイ派の人や祭司長、ファリサイの人や律法学者。富や権威を持っている人たちが神殿で幅を利かせていたのです。しかし、イエスの心を動かしたのは、最後に出会ったこのやもめの姿だけでした。必死の思いで神に向かっていったこのやもめの姿にイエスは感動します。そして弟子たちに彼女の姿に目を留めるように促します。イエスは「やもめ」がかわいそうな人だから、彼女に目を注ぐようにと言っているのではありません。だれよりも真剣に神に向かう姿勢を特別に評価しているのです。しかしここで、イエスとこのやもめの間には、それ以上の出会いはありませんでした。それは受難の時が迫っていたからでしょうか。この「やもめ」というテーマは初代教会に受け継がれていくことになります。

    旧約聖書でも「やもめ」は孤児や寄留者と並んで弱者の代表であり、心にかけるべき存在と見なされていました(申命記24・19-22参照)。初代教会では、もっと積極的に、教会の大切なメンバーとして受け入れる姿勢が見られます。

    使徒言行録6章にこういう箇所があります。「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである」(使6・1)。この分配のために立てられたのが最初の助祭といわれるステファノやフィリポたちでした。「やもめ」と呼ばれる人々が教会共同体の中で特別に保護されていたことが分かります。

    Ⅰテモテ5・3以下にはこうあります。「3身寄りのないやもめを大事にしなさい。4身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けます。・・・9やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、10善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません」

    「やもめ」の役目は特に清い心で祈りに専念するということでした。3世紀のローマの教会でヒッポリトという司祭が書いた『使徒伝承』という本がありますが、そこにも「やもめ」が出てきます。そこでも「やもめ」には祈るという役割が与えられ、同時に教会が彼女たちの生活の世話をしていました。他の信者には、やもめを食事に招く務めがあると考えられていたようです。弱い立場のやもめたちをただ一方的に保護するというのではなく、彼女たちには共同体の中での大切な役割があるというのが古代の教会の見方でした。このような見方、かかわり方の根底には、きょうの福音のイエスの、やもめに注がれた眼差しが大きく影響していたはずです。

    ところで、わたしは教会で働いていたときに、DV被害者の女性や、虐待を受けた子どもたちと出会い、トラウマのことを自分なりに勉強するようになりました。彼らはまさに、聖書に出てくるやもめや孤児のように孤立無縁の人たちでした。そして、現代の「孤児」とは、まさに虐待を受けた子どもたちであり、現代の「やもめ」とは、DV被害女性だと思うようになりました。よく知られていることだと思いますが、今、養護施設にいる子どもたちの多くは孤児(親のいない子ども)ではなく、親から虐待を受けた子どもたちです。古代社会の「孤児」は自分を守ってくれる親のいない子どもなので、非常に弱い立場ですが、現代の被虐待児童は、その自分を守ってくれるはずの親から虐待を受けているのです。同じように、聖書の中で、自分を守ってくれる夫のいない女性がやもめであるなら、現代のDV被害女性はその夫によって危険にさらされているのですからもっと悲惨かもしれません。

    暴力の話は聞くのはつらいことです。まともに聞いてしまうと、聞く側にとっても大きなダメージになります。だからついつい「そんなひどいことあるはずがない」「たいしたことじゃないよ」「気にしすぎないで早く忘れればいいのに」・・・そういう思いが生まれます。でもそれはトラウマを負った人をさらに孤立無援に追いやっていくことでもあります。

    また、苦しんでいる人に同情するあまり、「どうせあなたは弱くて、傷ついていて、何もできないから」と言って、いろいろ世話をしすぎる、とんでもないお節介をしてしまうことも、実は結構あります。これはその人の持っている最後の力まで取り去ってしまうことにもなります。

    わたしたちはトラウマを負った人々にどうかかわるべきでしょうか?古代の教会共同体の人々が、孤児や「やもめ」に手を差し伸べたように、何かできることがあるのではないでしょうか。もちろん現代では、生活を保障するのは国や行政の役割でしょう。しかし、先ほどの講義で井貫(正彦)先生がおっしゃったように、「よりそう、つきそう、気にかける、手伝う、話を聞く」ということは、まさにわたしたち教会共同体のテーマなのではないでしょうか。

    きょうの福音のイエスの、やもめに対するまなざしを思い出しましょう。古代の教会の、やもめに対する関わりを思い起こしましょう。イエスや古代教会の人々が、やもめを「ただかわいそうな人」と見るのではなく、その人たちの中にほんとうに素晴らしいものを見ていたことを思い起こしましょう。そして今、暴力や虐待によって傷ついている人々に対して、あるいは、他のさまざまな理由で心の傷を負った人々に対して、わたしたちができることを少しずつでも見つけ、実行していくことができますように、その勇気と力が与えられるように、このミサの中で祈りたいと思います。