パウロ年閉年のミサ説教

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    2009年6月29日 東京カテドラルにて

    キリスト者になる前のパウロ(サウロ)はファリサイ派でした。ファリサイ派は、よく知られているように、律法を重んじていた信仰熱心なグループであり、特に何世代もの間、律法学者たちが積み上げてきた律法解釈(口伝律法、律法についての細かい規定)を忠実に実行しようとしていたグループでした。彼らの考えは、神の意思は律法という掟に表れていて、それを守ることが神に従う道だという考えでした。もちろん、彼らの熱心さの究極の目的は、ほんとうに神を大切にして生きることであり、ほんとうに人を大切にして生きることでした。そのために律法を厳密に守ろうとしたのです。サウロはファリサイ派として、熱心にその道を歩んでいました。

    だからこそ、サウロは、キリスト者をゆるせなかったのでしょう。細かい律法の規定を守ることよりも、イエスを信じることが救いの道である、イエスの生涯をとおして示された父である神の恵みといつくしみに信頼することによって人は救われる、そんな教えはとても認めることができませんでした。だからサウロはキリスト者を迫害していたのでしょう。使徒言行録で最初にサウロが登場するのは、ステファノの殉教の場面です。そこには「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた」(使8・1)と書かれています。

    そのサウロが、さらにキリスト者を迫害するために、ダマスコに向かっていた途中、突然、光に打たれ、イエスの声を聞いて回心したというのが有名な使徒言行録9章の物語です。それは確かに「突然」だったでしょう。でもそれはほんとうに「突然」のことで何の準備もなかったのでしょうか?わたしは実はそうではなかったのでは?と思っています。

    そのとき聞こえた声はこうでした。「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」サウロは答えます。「主よ、あなたはどなたですか?」サウロはたくさんのキリスト者を迫害してきたので、その中のだれだろうか、と疑問に思ったのかもしれません。しかし、声はこう言いました。「わたしはあなたが迫害しているイエスである」。サウロにしてみれば、自分が迫害していたのはキリスト者だったはずです。でも、イエスのほうは「あなたはわたしを迫害している」というのです。イエスは迫害を受けているキリスト者とご自分を同一視しています。迫害されているキリスト者はイエスご自身だというのです。パウロは後に、キリスト者の集まりである教会のことを「キリストの体」と呼びました。それはこのダマスコ途上での出会いの体験に基づいているのではないかという人もいます。キリスト者はキリストの体として、キリストと一体なのです。

    ステファノの最期の姿も思い出されます。ステファノは、サウロの目の前で殺されていくとき、こう叫びました。「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」。それはルカが伝える十字架のイエスの祈りと同じ意味内容の言葉です。十字架上のイエスの言葉はこうでした。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」

    まさに殉教者ステファノの姿は十字架のイエスの姿の生き写しでした。ステファノの中にイエスは生きていたのです。だとしたら、実はサウロは、ステファノたち、迫害されているキリスト者をとおしてもう以前からイエスに出会っていたのではないでしょうか。サウロはもちろん気づいていませんでした。でも最後まで神に信頼し、自分を迫害する人を恨みもせず、その人々のゆるしを祈りながら死んでいく、そのキリスト教殉教者の姿に接して、それはボディーブローのようにサウロの心に効いていった、響いていったのではないでしょうか。

    「神を大切にし、人を大切にして生きる」それはファリサイ派としてのサウロが深いところで求めていたことでした。しかし、いつの間にか、落とし穴に陥っていたのです。律法に熱心なあまり、律法を知らない人、守れない人を見下し、人を大切にするよりも優越感を持って人の上に立っている。さらに律法を守っている自分を神の前に誇らしく思う。これは神との関係から言えば最悪の状態です。生きた神とのつながり、生きた人とのつながりを見失って、律法の文字ばかり気にしている。自分のことばかり気にしている。

    キリスト者は違いました。単純に最後まで神の愛に信頼すること。単純に最後まですべての人に対して愛を貫くこと。サウロがほんとうに求めていた生き方がキリスト者の中にありました。そのことに劇的に気づいたのが、ダマスコ途上での体験だったのではないでしょうか。

    今のわたしたちの時代、人々はほんとうに深いところで何を求めているのでしょうか。一つには、「人と人とのつながり」だと思います。それを見失ってみんな孤立して、悲惨なことがたくさん起こっていますけれど、やはり人と人とが愛し合い、支えあって生きることを求めていると思います。わたしたちはそのような人と人との愛のつながりが神様のもとでこそ実現すると信じています。そのことを証しするのが現代の教会の使命ではないでしょうか。

    もう一つ現代の人が求めていること、それは「人が人として尊重されること」だと感じています。市場原理、競争原理がはびこり、格差が広がり、人間が切り捨てられていく。人間のレベルだけで見ていたら仕方ないということになるのかもしれません。しかし、神を信じるからこそ、わたしたちは誰一人例外なく、人は皆、神の子であり、どんな人もかけがえのない存在なのだと確信します。そして、すべての人の尊厳を尊重して生きようとするのです。

    この社会には、神様なんか信じないという人もおおぜいいます。でも逆に、ほんとうに大きな何かがこの世界を支えてくれている、すべての人を愛で包んでいる、その中で人と人とはほんとうにつながっている、そう信じたいと思っている人は決して少なくないと思います。それでいながら、現実には、そんなことよりも自分が社会から脱落しないように、必死に競争している。人と自分との比較ばかり気にしている。それはまさにファイリサイ派サウロのような状態ではないでしょうか。

    だから、きょうは、わたしたちが、偉大な使徒パウロのようになりましょう、とは呼びかけません。むしろ、サウロ(パウロ)のように多くの人が自分のほんとうの望みに気づくように祈りたいと思います。そして、多くのサウロがパウロになるために、わたしたちはむしろステファノになりたいと思います。信頼という神とのつながり、人と人との愛のつながりを自分の生き方をとおして表すこと、それを生き抜くこと。単純に信じ、単純に愛し、単純にゆるすこと。きっとそういう生き方こそ、本当に多くの人が心の深いところで求めている生き方なのです。わたしたちがキリシタン時代の殉教者たちから学んだ生き方もまさにそういう生き方でした。そして、司祭の年にあたり、わたしたちの教会共同体全体が、司祭も信徒も、呼びかけられているのもそのような生き方なのではないでしょうか。