東京大司教区・列福感謝ミサ説教

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    2009年2月8日 東京カテドラルにて

    11月24日の列福式の後、長崎市内で行われたレセプションの席で、あるシスターと話をしました。彼女は長崎出身ですが、めずらしく幼児洗礼ではなく成人洗礼の人でした。彼女はこう言いました。「長崎はキリシタンの町だと言いますけど、本当はそうじゃないんです。キリシタンを徹底的に迫害した町なんです」彼女にとって、自分の先祖はキリシタンを迫害した側の人間だという意識が強くあって、でもその自分が神の導きによってキリスト信者になり、修道者として歩んでいる、そのことの不思議さを感じての言葉だと思いました。

    今回列福された188人の中に「江戸の殉教者」が2人います。原主水とペトロ岐部。わたしたちは東京教区から2人の福者が生まれたと誇りを持って言えるでしょうか。原主水は今で言えば千葉県佐倉市の出身で、江戸浅草のハンセン病者の間に潜んでいたところを捕まりましたから、東京教区の福者と言ってもいいと思いますが、ペトロ岐部は大分県国東半島の出身で、岩手県の水沢で捕まり、江戸に連れてこられて殉教しました。東京教区の福者というより、大分教区の福者でしょう。わたしたちはむしろ、この江戸・東京という町が、特別強烈にキリシタンを迫害し、殺していった町だったということをきちんと思い起こしたいと思います。原主水が火あぶりで殺されたのは、1623年でした。このとき一緒に、フランシスコ会のガルベス神父やイエズス会のデ・アンジェリス神父、シモンえんぽ修道士など50人が殉教しています。ペトロかすい岐部は1639年に殉教しました。でも、ある人の数え方によれば、江戸の殉教者は2,000人もいるというのです。その町にわたしたちは生きています。

    きょう集まったわたしたちの中には九州の隠れキリシタンの子孫という方もいらっしゃるでしょうが、わたしを含めて多くの人は、むしろキリシタンを迫害した側の子孫ではないかと思います。

    そんなわたしたちは、今回列福された殉教者たちからどんな呼びかけを受け取ったらよいのでしょうか。キリシタン時代の教会から何を学んだらよいのでしょうか。一言で言えば「共同体として信仰を生きること」だと思います。

    ある人が、「日本の殉教者は孤独なヒーローではなく、共同体の中で信仰を生き、共同体に支えられて信仰を貫いた人だ」と言いました。ほんとうにそうだと思います。キリシタン時代の教会にはすごい共同体がありました。その共同体には3つの特徴がありました。

    第一の特徴

    共同体の中で、支えあいながら、キリストの教えに従っていこうという特徴

    「ドチリナキリシタン」という教えの本がありました。小さな本です。キリシタン時代の信徒はそれをよく学んでいました。司祭が教えるというよりも、信徒同士で学びあい、話し合い、励ましあう、そういうグループがしっかりとありました。特に迫害が激しくなり、司祭がいなくなる時代に信徒同士がひそかに集まり、一緒に学び、支えあい、励ましあっていました。

    それは本当にわたしたちにも必要なことだと思います。わたしたちは、特に東京のような大都会にいると、神様を感じることは難しいです。目に見えるものがすべて、お金の力が圧倒的に強い。神様のことなんか考える余裕がない。とにかく忙しく働いて、必要なものを手に入れなければならない。圧倒的に多くの情報がわたしたちの周りにある。そのほとんどは神様抜きの情報。欲しいものをどうやって手に入れるか、どうしたら競争に勝てるか、そういう情報ばかりです。この現実の中で、どこに神様を見いだすのか。それは信仰の仲間の中だと思います。わたしたちはたった一人で信仰生活をしているのではない。「それでも神様は一緒にいてくださるよね。キリストは今も生きていて、わたしたちとともにいてくださるよね」そう言い合える仲間が絶対に必要だと思います。信仰の仲間と支えあいながら、信仰の道を歩んでいるんだ。ほんとうにそのことを感じられるような共同体を作っていきたい。これはキリシタン時代の教会から学ぶべき第一のことです。

     

    第二の特徴

    互いに大切にし合い、周りの人を大切にする、特に貧しい人・苦しむ人を大切にするという特徴

    「ミゼリコルディアの組」と言われる信徒の団体が、キリシタン時代の初期からありました。長崎のミゼリコルディアは有名です。貧しい人やハンセン病の人のための病院を運営していた。1614年の禁教令が出た後も周囲の人々の理解があったので1620年ごろまでは活動が
    許されていたそうです。次第に公の活動、対外的な活動はできなくなり、自分たちだけでの助け合いになっていきます。でも本当に助け合う精神が生き続けました。今回列福されたミカエル薬屋は長崎ミゼリコルディアの会長でした。1633年に殉教します。原主水が最後にたどりついた浅草のハンセン病者の小屋にも同じ精神が生きていたと思います。

    人を人として、同じ神の子として、ほんとうに兄弟姉妹として大切にする。このことは実は今の時代にこそ問われているのではないでしょうか。一時、「自己責任」という言葉がさかんに言われました。自殺する人間は失敗した人、弱い人間でそれは自己責任。ホームレスの人は怠け者でこれも自己責任。「自己責任」という言葉は、その人がどうなってもそれはその人の問題で、わたしには関係ない、という意味の言葉です。自分とは関係のない人間として見る見方。そうではないでしょう。同じ兄弟姉妹としてみる見方。わたしたちにできることは小さなことかもしれません。でも、本当に同じ人間として尊重すること。これはわたしたちの信仰の核心にあるメッセージであり、生き方です。これを見失わないことも大切です。

    第三の特徴

    秘跡をまともに受け取って生きるという特徴

    「陣中旗」 島原教会ポストカードより 「聖体の組」という信徒の団体がありました。九州各地、特に島原半島の聖体の組は有名です。1637年、島原の乱が起こりました。反乱軍(一揆軍)の多くの人はキリシタンでした。その陣中旗が残っています。反乱軍の旗ですね。その旗に描かれているのは、カリスとホスチアを2人の天使が礼拝している図です(右図参照)。言葉が書いてありますが、ポルトガル語で「いとも尊き秘跡は賛美させられたまえ」という意味の言葉です。これは実は聖体の組の旗でした。司祭がいなくなり、めったにミサにあずかることができなくなる中で、聖体への信心が深められていきました。1632年に島原半島最後の司祭、中浦ジュリアンが捕まった後、もうミサはなかったはずです。でもそれから数年後、島原のキリシタンたちはこの聖体の旗を掲げて、自分たちのいのちと信仰を守る戦いをしたのです。1990年代になって島原の乱の一揆軍が最後にたてこもった原城の発掘調査が行われたそうです。掘るとおびただしい数の人骨が出てきました。その人骨のあごの骨のところに、必ずと言っていいほど、十字架やメダイが挟まっていたのだそうです。3万7千人が原城にいたといわれます。そのうち半数は女性や子どもでした。戦闘が終わった後、全員が殺されていきました。この十字架やメダイは、幕府側の軍が打ち込んだ鉄砲の弾を作り直したものなんです。皆、聖体の代わりにそれを噛みしめながら殺されていきました。戦いの人が平和の人に変えられていく、恨みや憎しみの人が、祈りと愛の人に変えられていく。まさに「過越の神秘」がそこにありました。そのことを聖体の秘跡は祝っているんですよね。キリストとともに苦しみから喜びへ、憎しみから愛へ、死からいのちへと変えられていく。それが秘跡をまともに受け取って生きるということの意味です。キリシタン時代の教会からそのことを学びたいと思います。

    第二朗読でⅠコリント13章が読まれました。こういう言葉があります。

    「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」何を知るんでしょうか。それは神様から見て、何が本当に価値のあることか、を知るのです。信仰と希望と愛が決してむなしくないということを知るのです。それこそが永遠であることを、知るのです。「主が来られるまで」とミサのたびに言いますね。そのキリストとの出会いのときに向かって秘跡はあります。ですから、わたしたちは秘跡をまともに受け取って生きるとき、信仰と希望と愛の人に変えられていくのです。

    本気でその希望をもって秘跡を受け取ること、それもキリシタン時代の教会から学ぶべきことだと思います。

    ついでに一言、きょうの聖体拝領の後、「テ・デウム 賛美の賛歌」を歌います。多くの殉教者たちが最後の祈りとして歌った歌だと伝えられています。当時はラテン語でしょうか。今日は日本語です。その最後の言葉を特に味わいたいと思います。

    「あなたにかけたわたしの希望は、とこしえにゆるがない」

    キリシタン時代の教会は理想的で何も問題のないすばらしい教会だったとは言えません。今のわたしたちの教会もそうです。人間の弱さや醜さ・罪を背負っている教会です。でも「だからダメなんだ」じゃなくて、「だから本当に真剣によいものを目指して歩んでいこう。本物を大切にしていこう」、そうやって歩んだキリシタンたちの姿をわたしたちは列福式にあたって思い起こすことができました。その姿にわたしたちは励まされます。

    列福式のミサの説教の結びに、白柳枢機卿様は「恐れるな」と言いました。その言葉が、今もわたしの中には響いています。「恐れるな」それはきょうのミサの福音の言葉でもあります。イエスはおっしゃいます。

    「人々を恐れてはならない」

    「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」

    「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな」

    恐れずに、信仰と希望と愛の道を歩みましょう。

    神がわたしたちを守り、イエス・キリストがともにいて、聖霊が導いてくださいます。

    一人ではなく、一緒に歩んでいきましょう。

    わたしたちが、本当に信仰と希望と愛を生きる教会として日々新たにされ、力強く歩むことができますように、このミサの中で、決意を新たにしましょう。