待降節黙想会説教

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2016年12月4日、待降節第二主日、小岩教会

[聖書朗読箇所]

説教

待降節第一主日に引き続き今日の福音にも洗礼者ヨハネが登場してまいります。

このヨハネという人は、どういう格好をしていたかと申しますと、「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」と、今日の福音が告げています(3・4)。そういう格好の人を見たことがありませんけれども、このスタイルは、代表的な旧約聖書の預言者、エリヤという人と同じスタイルであります。エリヤという人は、神のみ心に叶わないことを行う王を激しく非難し、そのために、命を狙われ、逃亡しなければならなかったのでありました。歯に衣を着せない発言をしました。非常に激しい気性の人であったのでしょうか、天から火を降らせて、神に逆らう人を焼き滅ぼすということをしたと、列王記が伝えております。洗礼者ヨハネの発言、姿勢は、このエリヤの姿と重なっていると思われます。「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」(3・7)と言って、ファリサイ派の人々、サドカイ派の人々に、激しく悔い改めを迫っています。

ところで、洗礼者ヨハネは、主イエス・キリストを指し示すために来られました。イエス・キリストの登場を準備するための、いわば、露払いの役をするために来た人であります。

ところが、ヨハネとナザレのイエスを比較しますと、印象的に、ずいぶん違うものがあると思います。二人は非常に対照的な印象を与えています。

次のような言葉が、聖書に出ております。

「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。」(マタイ11・18-19)

これは、マタイの福音書に出て来る言葉ですが、ルカにも出ている言葉であります。(ルカ7・34参照)

洗礼者ヨハネは、非常に厳しい、禁欲的な人であったことについて、聖書が述べていることは、一致しています。ヨハネに対して、ヨハネが指し示した、イエス・キリストは、少し意外な気がしないでもないですが、「大食漢で大酒飲み」、そう言われていたと、福音書に書いてあります。

わたしたちはいま、主イエスのお誕生を準備する待降節を過ごしています。ヨハネも、旧約の最後の人であり、新約の時代へと橋渡しをした人であります。わたしたちは、聖書を新約聖書だけでなく、旧約聖書を正典と受け取っていて、旧約聖書の勉強をするわけです。新約聖書は旧約聖書の歴史の上に成り立っています。そして、新約、つまり、新しい契約を述べる書であります。

どういうところが新しいかということを、わたしたちは、いつも確かめていきたいと思います。新約の新しさは、洗礼者ヨハネから、イエス・キリストへと進展した福音の流れの中にあるのではないでしょうか。洗礼者ヨハネは、自分の身に及ぶ危険を恐れずに、王にはっきりと、いけないことはいけないと言ったために、首を斬られて殉教した人であります。それに対して、イエスは、もちろん、はっきりと、いけないことはいけないと申しましたが、他方、苦しんでいる人、悩んでいる人、迷っている人に対して、非常に優しい方でありました。相手によって、言い方や態度が変わったのだと思います。

みなさん、わたくしどもは、「いつくしみの特別聖年」を過ごしてきました。11月20日で終了いたしましたが、神のいつくしみは、いつまでも絶えることがない、あるいは、いつくしみは、一人の人、ナザレのイエスという人において、完全にあらわされ、そして、伝えられました。神は、いつくしみ深い方であるように、あなたがたも、いつくしみ深い方でありなさいと言われています。

イエスと洗礼者ヨハネの違いは、「神のいつくしみ」というところにあるのかもしれないと思います。

何年か前、「無縁死(むえんし)」という言葉が、伝えられました。「無縁死」、一人で淋しく亡くなるということが、報道されました。

ところで、更に、最近、セルということがネグレクトでありまmた子どもへの虐待です。なすべきことをしない、責任ある人、親や、そういう立場にある人が、自分が保護する立場にある人に対して、しなければならないことをしない、そういうことが、ネグレクトですが、今度出てきた言葉は、「セルフ・ネグレクト」です。自分自身に対して、するべきことをしない、放置する、放任する、自分がどうなってもいいと、そういう生き方に陥ってしまう、ということを指しています。最近、新聞で調べたのですが、ごみ屋敷というのがあるそうで、生きる意欲を失ってしまう、どうなってもいい、それが、近所の人にも迷惑を及ぼすことになる、それから、行政の人も心配して、何とかしたいと働きかける、呼びかけるけれども、放っておいてくださいと、かまわないでください、という答えが返ってくる。そういう人が、最近増えているということであります。

クリスマスを前にして、わたしたちはこの社会の中で、顧みられない人と、弱い立場に置かれている人々、そして更に、自分自身のこともどうでも良いという思いに陥ってしまっている人のことを思い、その人たちが、元気に、希望を持って歩めるようにするにはどうしたら良いか、「いつくしみの特別聖年」で教皇様が言っておられる、「人に対していつくしみ深い者でありなさい。」という教えを、どのように実行したらよいか、しみじみ考え祈り求めるときを迎えています。

ごミサの後のお話の中で、そういうことについて、一緒に考えることができたらいいのではないかと思っております。