2015年アレルヤ会総会ミサ説教

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2015年5月23日復活節第7土曜日 東京カテドラル地下聖堂にて

[聖書朗読箇所]

説教

明日は聖霊降臨の主日、今日で復活節は終わります。

今日の第一朗読は使徒言行録の最後の部分です。「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、 全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」(28・30-31)

パウロは自費で家を借りていたようです。そういえば、パウロはテント造りの職人で自分の生活費を捻出していました。自分・岡田の現状とのあまりの違いに驚きます。

今日の福音もヨハネの福音の最後の部分です。「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」(21・25)

復活節中の福音朗読はヨハネの福音からとられることが多いのですが、今日は復活節最後の日ですので、ヨハネの福音書から特に心に深く残る箇所を取り上げて、ご一緒に味わってみたいと思います。

「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。」(ヨハネ17・10)

父である神とイエスはそれぞれ別な主体でありながら完全に一致している関係にありました。そして、父である神の愛は、御子の内に完全に現されました。その父の愛とはわたしたち罪人を救おうとする愛です。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3・16-17)

神の愛、それは愛する独り子が人々の救いのために十字架にかかることを忍ばれる愛でした。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15・13)

人を愛するとはその人のために苦しむことです。そして人のために苦しむことの極みにあるのは、友のために命をささげることに他なりません。

「愛する」とは愛する人のために苦しむことです。この愛は既にわたしたちの中で実現しています。たとえば親は自分の子のために苦しみを忍び、ささげます。

私事を申し上げて恐縮ですが、実は5月の連休、故郷の家で過ごしました。家には両親の思い出が一杯です。父母の子と、その場面、言葉が思い出されます。

思えば父も母もわたしのために苦しみをささげました。息子が司祭になったために忍ぶべき苦しみはより多くなったのです。・・・司祭、司教の働きの陰には多くの人々の苦しみ、犠牲があるのです。

誰かを愛するとはその人を大切にすること、それはその人のために苦しみ、そしてその苦しみの代償をその相手に求めないことではないでしょうか。

ヨハネの手紙の言葉も合わせて黙想しましょう。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨハネ4・10)

わたしたちのために誰かが苦しんでくれたのです。そしてわたしたちもそのおかげで人のために苦しむことを知りました。わたしもあなたもそのような愛を知り実行しています。

愛を知り、愛を実行できることを感謝しましょう。