東京大司教区

カトリック佐原教会

※新型コロナウイルス感染症防止のため、ミサや各種行事の時間が変更になっている場合があります。教会にお越しの際は、必ず事前にお問い合わせくださるようお願いいたします。

名称

カトリック佐原教会

教会堂名

幼きイエスの聖テレジア

創立年月日

1951年11月

主任司祭

ミカエル 泉 雄生(いずみ ゆう)※成田教会主任兼務

信徒数

51人(2019年12月31日現在)

主日のミサ

日曜日 14:00

宣教協力体

千葉北東部

入門講座

随時対応(司祭にご相談ください)

住所

287-0003 千葉県香取市佐原イ417 [Google地図]

電話

0478-52-4079

身障者設備

スロープ(または、バリア・フリー)、トイレ

交通案内

JR成田線「佐原駅」より、徒歩10分。

歴史

佐原教会の位置・経過

佐原は、東京から東へ100kmのところにあります。
ここにカトリック教会が出来たのは、1951年、聖コロンバン宣教会のフォード神父様が、荒れた澱粉工場の跡地に聖堂を建設した事から始まっています。
そして1955年、2代目のヘイデン神父様が、教会向かい側の隣地に白百合幼稚園を設立し、やがて、その運営をお告げのフランシスコ姉妹会にお任せになりました。その後、聖コロンバン宣教会が佐原を引き揚げてから後、2003年からは、学校法人愛心学園に移管され、現在に至っています。
40年以上の長い間、お告げのフランシスコ姉妹会のシスター方が滞在し、幼稚園を運営されていた事が多くの市民達の印象に残り、後にはカトリック佐原教会という名前よりも白百合幼稚園という名称の方が知名度が高くなって来てしまいました。例えば、タクシーで行く先を告げる時、カトリック教会というよりも白百合幼稚園と言った方が運転手さんの理解が速い、と言う現象も起きています。
当初の聖堂は木造平屋建てでしたが、中央に可動式間仕切りがあって、手前側を会議場に兼用できる様に作られていました。
一方、司祭館は聖堂の南側に、木造2階建てで建っていましたが、老朽化が進み、1994年に聖堂と司祭館を合体した建築物に建替え、現在の姿になっています。

歴代の神父様方

前述のフォード神父様、ヘイデン神父様に次いで、オ・ドワイヤ神父様、ドゥリー神父様、グローガン神父様、ブレスリン神父様、パドノス神父様と宣教会の神父様方が続き、このあと教区の邦人司祭、青木神父様、小沢神父様、杉田神父様、久富神父様 、関神父様、森神父様、福島神父様、真境名神父様、そして現在の泉神父様に代わりました。

信徒数の問題

最初の時代、佐原教会は北部の利根川対岸、茨城県を含む地域人口を事実上対象としており、小さな聖堂が人で一杯になっていました。その後約20km北東にカトリック鹿島教会(浦和教区)が生まれ、また西方約40kmにカトリック成田教会が誕生、大きく佐原教会の信徒人口が流出するところとなりました。

沿革

佐原の土地・雰囲気

佐原は利根川の沖積地帯です。今でも地下を50~70メートル程ボーリングすると、真っ黒く炭化した大昔の葦の茎が出てきます。古代の地図を見ると、佐原市街地の大部分は、「香取が海」の水面下にあり、昔、この辺り、教会のある地帯は背丈以上の葦が密生していたのです。
佐原と言う地名の起源は、砂原、笹原、又はサ皿(酒器の一種)を焼く所があった事から由来する、などと諸説がありますが、流れて来た「砂」が堆積した場所である事は確かなのです。
その佐原も、中世や近世になって市街地の真ん中を通る小野川(利根川の支流)を江戸との舟運に利用した醸造業・米穀集荷業・肥料販売業・小売卸業など、農産物に係わる集散地としての発展があり、今でも往時の面影を残す建物が幾分残っています。

現状

教会の今後の対策

佐原は人口5万を毎年前後し増減の少ない市でしたが、近年周辺の町を吸収して人口9万の香取市と名称が変わりました。しかし田園地帯であることは変わりが無く、信徒数の増加が見込める訳ではないので、どうやったら増加に転ずるか、これが今後の課題です。周辺の各地域・町々も教会としては以前からシェアに含めてあるからです。
勿論、他の教会と同じく、AAやNA等への会合場所提供支援など、行えるものは行なっていますが、現実の問題として、ミサ出席者10人程度のままで良い筈はありません。
佐原では年2回、市内の神社が盛大な祭を挙行しますが、それで氏子が増えたと言う事はありません。この事は、「ひとつの示唆だ」と言う事が出来ます。大きな祭儀も勿論結構な事、否定するものでは有りませんが、その前に信徒一人一人の資質を高める事が必要。教皇様も、信徒の日常生活を通して、宣教を進めよう、と言う意味のことを仰っています。いま在任の久富神父様は専ら地道に個人個人の宗教的資質を高めようと、色々試行されながら努力を続けておられるので、僅かづつですが、受洗者・求道者も増えつつある傾向なのです。
 
(記 世話人)