2017年こどものミサ挨拶

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    2017年10月8日、カテドラル

    ごあいさつ

    「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(ルカ13・23)  

    -今日 愛と優しさをもって-

    ことしのこどもミサのテーマは
    「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(ルカ13・23)
    -今日 愛と優しさをもって- です。
    昨年のテーマは「いつくしみの特別聖年」を祝って、
    「何回赦すべきでしょうか。七回までですか」(マタイ18・21)
    -神さまのいつくしみは永遠-
    でした。この二つのテーマの間にはどんなつながりがあるでしょうか、一緒に考えてみたいものです。
    そこでこのテーマを頂いていま心に浮んでくる「想い」を自分の予習のための覚書として書いてみます。
    イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」(ルカ13・24)
    このお言葉はどういう意味だろう。マタイ福音書では「門」となっています。
    (マタイ7・13-14)・・・どこに行くための戸口だろうか。・・・またイエスは言われました。「わたしは羊の門である。」(ヨハネ10・7)さらにまた言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14・6)
    このように考えてみると、この「戸口」「門」とはイエスご自身のことではないかと思われます。
    「いつくしみの特別聖年」でわたしたちは、主イエスのいつくしみについて学びました。イエスという「戸口」を通るとは、イエスのいつくしみを受けること、知ること、そして実行することではないか、と思います。そしてそれはまさに「今日、愛と優しさをもって」人々に仕えることでありましょう。
    その際、次の聖書の言葉が大きな慰めになります。
    「(主よ)あなたは存在するものすべてを愛し、造られたものは何一つ忌み嫌われない」(知恵の書11・24)のです。
    そしてイエスはこの言葉〈主よ、救われる者は少ないのでしょうか〉を、イエスはエルサレムに上る道の途中で述べられまた。エルサレムでイエスを待っているのは、受難、十字架、そして復活という出来事です。イエスは弟子たちに「自分の十字架を背負ってついて来るものでなければ、誰であれ、わたしの弟子ではありえない」(ルカ14・25)ともいわれました。「狭い戸口」から入るということは自分の十字架を背負うということでもあると考えます。