教区の歴史

教区の歴史

ネットワークミーティング in 東京 派遣ミサ説教

2017年03月19日

2017年3月19日、藤が丘教会(横浜教区)

[聖書朗読箇所]

みなさん、こんにちは。東京教区の岡田でございます。
昨日から、みなさんは、祈り、学び、分かち合いをして過ごされたのだと思います。
事前にいただいた、ミサの3つの朗読箇所を見まして、この箇所は、「いつくしみの特別聖年」のときに、特に大切な箇所として提示された箇所であったと思い起こしました。
「あなたがたの父がいつくしみ深いように、あなたがたもいつくしみ深い者でありなさい。」(ルカ6・36)。
この主イエスの言葉を、わたしたちはしっかりと受け止め、そして、日々の生活の中で、個人的にも教会としても、社会の中で神のいつくしみを示し、あらわし、伝える者でなければならないということを学んできました。

ところで今日は四旬節第三主日であり、主日の福音としては、サマリヤの女性の話が朗読されました。教皇様が、「いつくしみの特別聖年」中に、祈るようにと示されたお祈りの中に、サマリヤの女性が出てきています。
神のいつくしみは、ナザレのイエスという人において完全にあらわされ、そして、実行されました。地上においてイエスに出会った人は、神のいつくしみに触れ、そして、自分が受け入れられ、愛されているということをしみじみと感じ、そのように受け取ることができた。その中に、有名なこのサマリヤの女性がいます。彼女は、イエスとの出会いによって、自分が愛されている者であるということ、自分が認められ、受け入れられている者であるということを、しみじみと悟ることができたのでした。

イエスの時代から、二千年を経て、わたしたちは、いまここに、同じイエス・キリストを信じる者として集まっています。わたしたちは、だれかのおかげでだれかに出会って、神の存在、イエス・キリストの生涯について学び、そして、使徒ヨハネの手紙で言われているように、「神は愛です」と信じることができました。それは既に、「神は愛である」と信じた人との出会いのおかげです。神の愛を信じ、神の愛を実行してくれている人との出会いがあったので、信じることができたのではないでしょうか。

人生には、非常に過酷で、不条理な面、辛いことがあります。そのような日々の中で、「神様がいる」ということ、「神が愛である」ことを信じ、その信仰を生きる、ということができるためには、絶えざる祈り、絶えざる助け合いが必要です。ひとりで信じ抜くということは容易ではありません。同じ仲間として、信仰を分かち合い、深めることが、本当に大切なことではないかと思います。

今日は、この機会に、たまたま、わたしの念頭にある、2つのことを紹介して、みなさまの参考に供したいと思います。

そのひとつは、「子どもの貧困」ということです。
日本のカトリック司教協議会は、最近、『いのちへのまなざし』という本の、増補新版というものを出しました。
この本の中に「子どもの貧困」という項目があります。
世界中で子どもが貧困の状態にあります。よその国のことではなく、この日本においても、子どもが貧困の状態に置かれている、ということです。
「相対的貧困率」という言葉が出てきます。日本において子どもの相対的貧困率が高い、という状態にある、と言っています。そして、貧困の状態にある家族が直面している、さまざまな問題が指摘されています。
子どもが親によって虐待されたり、あるいは、ネグレクトされたりということが起こっています。どうして、そのようなことになるだろうか。
その親にも、それなりの事情や原因があって、そのようになってしまう、ということです。ここに「悪の連鎖」がみられます。そのような日本の社会の現実の中で、本当にいのちが大切にされるような社会を造っていくために、わたしたちは力を合わせなければならないと思います。
「子どもの貧困」、あるいは、「子ども」と「貧困」ということについて、わたしたちはもっと注目し、その改善のために努力したいと思います。

もうひとつは、「子どもの貧困」とはまったく違うことですが、「宗教改革500年」ということです。ちょうど500年前1517年という年は、マルチン・ルーテルによる宗教改革が始まった年です。わたしたちのキリスト教会は、いくつかの宗派、教団に分かれてしまっています。それなりに、事情、理由があって、そのようになっているのですが、この500年の間に、双方の教会は、お互いに相手の言うことをもっとよく聞こうということになった。特に、わたしたちの方は、1962年から1965年にかけて開催された、「第2ヴァチカン公会議」において、分かれた兄弟との対話を大切にするという姿勢を打ち出した。その結果、相手によく聞き、相手の主張を調べてみると、強調点や、理解の仕方において、細部に違いがあるにせよ、基本的なことにおいては、なんら相違はない、ということがわかってきました。
ルーテルという人は、アウグスチノ会の修道者で、大変熱心にお祈りし、聖書を学びましたが、彼はどんなに祈っても、どんなに勉強しても、自分が神様のみこころに適う者になれないということで悩みました。・・・ところがあるとき、聖書を読んでいて、自分は自分の努力によってではなく、イエス・キリストの贖(あがな)いを信じることによって救われる、ということを発見しました。信仰によって、わたしたちは神からの恵みに与るということを、はっきりと理解しました。実は、それは、わたしたち、カトリック教会の教えでも同じです。わたしたちも、神の愛を信じ、神の愛に与っている者です。神がわたしたちを愛してくれたということを、わたしたちは知り、信じた。そして、神の恵みに与る者となった。この点は、まったく同じ信仰の理解です。
自分と違う者に対する、偏見や誤解というものを、わたしたちは持ってしまいますが、広い心を持って、人の言うことをよく聞き、そして受け入れるという態度を持つことが肝要ではないでしょうか。
「いつくしみの特別聖年」のときに、教皇様が説いたことも、そのようなことであったと思います。日本という国で、キリスト者は、全部合わせても、人口の1パーセントしかいない。そのような現実の中で、同じイエス・キリストを信じるわたしたちが、ともに手を携えて、神の愛を実行する者となり、この社会の中で虐げられ、後回しにされ、苦しんでいる人々に、神のいつくしみをあらわし、伝えることができますよう祈りましょう。