日本カトリック神学院福岡キャンパス2015年度「月の静修」中ミサ説教

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    2016年1月20日 日本カトリック神学院福岡キャンパスにて

    [聖書朗読箇所]

    説教

    今日の福音はイエスが安息日に会堂で片手の萎えた人をいやしたことを告げる箇所です。

    「人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた」(マルコ3・2)とありますので、人々にはすでにイエスが安息日にいやしを行うという予想があったのかもしれません。

    十戒の第三の掟が安息日の掟です。安息日に仕事をすることは厳しく禁じられていまいた。」(1)
    ところがイエスは人々の見ている前で公然と片手の萎えた人をいやしました、さらにその上、いやしを行うときに
    「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」
    という、いわば挑戦的な言葉を口にしているのです。人々はこの問いに答えることができませんでした。そこには、重い沈黙がありました。
    そこで「イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった」(マルコ3・5、6)のです。
    このときイエスの心には「怒り」、そしてまた同時に「悲しみ」がありました。
    これはどういうことでしょうか。ナザレのイエスは人となった神です。人として彼はあるときは怒り、また悲しみ、心に痛みをもちました。それは当然です。
    しかしこの個所の、イエスの「怒り」と「悲しみ」については、それだけでは説明できないように思います。

    わたしたちは今日の静修で、「いつくしみの特別聖年」の教えを分かち合いました。
    教皇フランシスコは、『イエス・キリスト。父のいつくしみのみ顔』(いつくしみの特別聖年公布の大勅書)の中で、たびたびイエスのあわれみといつくしみについて述べています。(特に8項目)
    福音書の「あわれむ」という言葉の原語は、ギリシャ語の「内臓」という名詞の言葉にゆらいする「splanchnizomai(スプランクニゾマイ)」という動詞です。このイエスの心の動きは天の父の心をそのまま伝えるものでした。
    神は忍耐強くいつくしみ深い神です。
    神のいつくしみとは抽象的な概念ではなく、我が子のことでからだの奥からわき起こる親の愛のように、神がご自分の愛を明かす具体的な現実であり、実に「はらわたがちぎれるほど」の愛です。(大勅書6項目参照)
    聖書の神は苦しむことのない神ではなく、苦しみ痛み、悶える神であります。
    ホセア書では次のように言われています。

    ああ、エフライムよ
    お前を見捨てることができようか。
    イスラエルよ
    お前を引き渡すことができようか。
    アドマのようにお前を見捨て
    ツェボイムのようにすることができようか。
    わたしは激しく心を動かされ
    憐れみに胸を焼かれる。
    わたしは、もはや怒りに燃えることなく
    エフライムを再び滅ぼすことはしない。
    わたしは神であり、人間ではない。
    お前たちのうちにあって聖なる者。
    怒りをもって臨みはしない。(ホセア11・8-9)

    イエスが片手の萎えた人をいやしたのは天の父のいつくしみの愛を実行した、ということでした。しかしファリサイ派の人々、律法学者たちは神のいつくしみの心を理解しませんでした。
    彼らにとって、安息日の掟を破っていやしを行うイエスは神と神殿に対して冒涜を行う者であり、その存在は抹殺されなければならなかったのでした。(2)
    イエスを処刑するよう告発したのは、皮肉なことですが、神殿で神に仕える祭司、聖書の専門家の律法学者や律法を遵守するファリサイ派、という人々でもあったのです。

    いつくしみ特別聖年にあたり、イエスを通して示された神のいつくしみをふさわしく、また深く知る恵みを祈りましょう。(3)

    (1) 安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目には、あなたの神、主の安息であるから、いかなる仕事をもしてはならない。(出エジプト記20・8)
    (2) 以下も参照。マタイ12・9-14、ルカ5・6-11
    またイエスが神殿から商人を追い出す場面も参照。
    マルコ11・15-18、マタイ21・12-17、ヨハネ2・13-22
    (3) 以上は当日の説教の要約を再現したものです。