聖コロンバン帰天1400年記念ミサ 「王であるキリスト」説教

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    2015年11月22日 千葉寺教会にて

    [聖書朗読箇所]

    説教

    今日は年間最後の主日、「王であるキリスト」の祭日です。

    イエスは言われました。「わたしの国は、この世には属していない。」(ヨハネ18・36)

    イエスが王である、どのような意味でしょうか。イエスはどんな王であるというのでしょうか。

    旧約聖書において王の任務とは、自分の王国において神の掟を実行し、正義と善を行い、悪を退け、搾取するものを懲らしめ、みなしご、やもめ、寄留者などの弱者を保護し、神の慈しみを実行することでした。

    旧約聖書の列王記と歴代誌は歴代の王の事跡を伝え、そして、それぞれの王についての評価を記しています。いわば王の勤務評定のようなものです。

    そして王の評価には二種類の決まり文句が使われています。落第点をつけられた王は「主の目に悪とされることを行った」とされています。及第点をもらった王は「主の目にかなう正しいことを行った」王です。

    どちらが多いかといえば圧倒的に前者、すなわち「主の目に悪とされることを行った」王たちであります。ほとんどの王が「主の目に悪とされることを行った」王でした。

    イスラエル王国、そしてユダ王国もやがて滅亡し、王は姿を消してしまいます。バビロンで捕囚になったころ、民の間には、理想の王ダビデに勝る王である救い主・メシア登場への待望が生まれ、その望みは益々強くなっていきました。

    マタイの福音の冒頭の系図はメシア=キリストが生まれるまでの系図です。イエスは、キリスト・油注がれた王として登場しました。

    イエスの洗礼のときに天から声がし、イエスは「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1・11)とされたのです。

    旧約の預言者エゼキエルは災いである牧者についてのべています。「災いだ。自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。」(エゼキエル34・2)

    よい牧者は羊のために自分の命を捨てます。実際、イエスは自分の羊のために命を捨てました。「よい羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10・11)のです。イエスは羊である人類のために十字架上で命をささげたのです。

    来週から新しい典礼暦年に入り、主日の福音朗読はルカとなります。この一年、わたしたちはマルコの福音を読んできました。マルコの福音は、イエスが十字架の刑に処せられる次第を語っています。イエスは次第に当時の宗教の支配者から排斥されるようになります。

    例えば、イエスが安息日に片手の萎えた人を癒したときのことです。

    ◆手の萎えた人をいやす(マルコ3・1-6)

    イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。

    イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。

    そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。

    ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

    ここではっきりとファリサイ派の人々とヘロデ派の人々が、イエスを殺す相談をし始めているのです。理由はイエスの安息日の掟破りにあります。

    また有名な「宮清め」の場面でも同じような表現が出てきます。

    ◆神殿から商人を追い出す(マルコ11・15-18)

    それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。

    また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしてしまった。」

    祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。

    ここでもはっきりと、祭司長たちと律法学者たちがイエスを殺す陰謀を図っています。

    イエスを死に追いやったのは神を信じない異邦人ではなく、またユダヤに敵対する外国の勢力ではなく、熱心にモーセの律法を守り、教え、また祭儀を執行する、当時の宗教指導者たちだったのです。

    イエスの癒しのわざ、また神殿を清める行為は、イエスが神のみ心に従って行った、「よい牧者」としての行為でした。しかし彼のこのような言動は、ユダヤ人指導者には、冒涜と受け取られたのでした。

    イエスの王国は神の慈しみの支配する王国です。それは本日のミサの叙唱のなかで司祭がとなえる、「真理と生命の国、聖性と恩恵の国、正義と愛と平和の国」です。

    12月8日より「慈しみの特別聖年」が始まります。わたしたちが神の慈しみをより深く悟り、そして神の慈しみを実行することができますよう、ご一緒に祈りましょう。