四旬節第二主日説教

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    潮見教会にて

    [聖書朗読箇所]

    説教

    今日の福音はイエスのご変容です。

    「イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」(マルコ9・2-3)

    わたしたちは神からの神であるイエスを信じていますが、福音書のイエスはわたしたちと同じ人間の姿をとっていました。普段は神であるイエスの栄光は隠れたままでした。しかしこのときは、神であるイエスの栄光が現われたのでした。

    これは、イエスが受難を経て栄光を受けることをあらかじめ指し示した出来事と考えられます。

    イエスの十字架は弟子たちにとって理解し難い出来事であり、大きな躓きでありました。イエスはあらかじめご変容によって弟子たちの心をご自分の受難へ向けて準備し、彼らの信仰を支えるための励ましにしようと考えられた、と思われます。

    「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け。』」(マルコ9・7)

    イエスは父である神の愛する独り子でした。イエスの言動はすべて神の意に適う言動でした。イエスは父のみ心に従って歩み、自分を迫害するもののために祈り、すべての人のあがないのために、十字架の上で命を献げたのでした。そして父である神はその愛する子イエスを「惜しまずに死に渡されました。」(ローマ8・32) 神は愛する子が苦しむことを拒まれなかったのです。ここに神の愛の神秘があります。

    さて今日は第一朗読に注目したいと思います。

    アブラハムが一人イサクをささげる話です。

    神はアブラハムを試して言われました。

    「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」(創世記22・2)

    なんとむごい命令でしょうか。なんと不条理な命令でしょうか。分かりにくい話です。このような命令を神が本当にしたのでしょうか。

    信仰の人アブラハムは神への反論なしにすぐに命令に従います。

    「 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。(22・3) 

    三日目になって、目的地が見えるところまで来ました。アブラハムは若者たちを残し、イサクと二人だけで山に登ります。

    「アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。」(22・6)

    なんということでしょうか、イサクは自分を焼き殺すために薪を背負わされたのです。このときイサク何歳だったのでしょうか。二人は道々何を考えていたのでしょうか。

    イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけ、言いました。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」(22・7)

    このイサクの問い、なんと健気なことでしょうか。イサクは自分が焼き殺されるはずだとは夢にも考えていなかったのでしょうか。

    「アブラハムは答えた。『わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。』二人は一緒に歩いて行った。神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。」(22・8-10)

    このときイサクは何も抵抗しなかったのでしょうか。唯々諾々従容として父に屠られるままに任せていたのでしょうか。

    「そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、『アブラハム、アブラハム』と呼びかけた。彼が、『はい』と答えると、御使いは言った。『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。』」(22・10-12)

    土壇場で神がアブラハムに声をかけてイサクをほふることを止めさせます。

    「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。」(22・13)

    「御使いは言った。『わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。』」(22・16-18)

    この「自分の独り子である息子すら惜しまなかった」と言う表現は、今日の第二朗読の「その御子をさえ惜しまずに死に渡された方」(ローマ8・32)と言う表現と重なります。

    アブラハムはその信仰が賞賛されている人です。その信仰とは不条理の中でもあえて神への信頼を貫くということでしょう。

    信仰とは確かに不条理の中でこそ意味があるのかもしれません。人生には不条理が一杯あります。その現実の中で、どのようにして神を信じることができるかが誰にとっても大きな課題です。アブラハムの受けた試練は確かに信仰とは何かを考えさせる大切な何かを教えています。

    ところで、信仰の模範と言えばイサクの信仰も賞賛されます。従容として薪を背負い、父に殺されそうになったイサクはイエスの先駆者と言えるでしょう。

    今日わたしが深く考えてみたいと思うのは、不条理の中での信仰、ということです。この、イサクの犠牲の話は分かりにくい話です。しかし、新約のイエス・キリストの十字架の犠牲と合わせて読んでみれば復活の光がほのかに見えてくると思います。

    旧約聖書は新約聖書の光に照らして読まなければなりません。

    今日のご変容は福音ですが、わたしたちの日住生活にも「小さなご変容」というべき出来事があるのではないでしょうか。わたしたちは、日常の中にある復活の光によって支えられ励まされていると思います。